2017年1月31日火曜日

アメリカ: 『申酉騒ぐ』の酉の震源地

この週末は卒業生による最終発表会の2回目、それから入試関係と連チャンであった。齢からくるヘルニアが気になる小生としては、乗り越えるべき高い壁であったが、無事過ぎていったのは冥加に尽きる。明日はまた担当科目で最終プレゼンがある。とにもかくにも2月第1週であらかたケリはつく。

◆ ◆ ◆

昨年は『申酉騒ぐ』の申(サル)だった。一つは英国のEU離脱、もう一つはトランプ候補の当選。酉年の今年も騒ぎは続くはずだ。何か騒動になりそうなことが直ぐにあるかな、と。景気は上向きのはずだがと思っていたところ、昨年の申(サル)が年を越して酉(トリ)に化けたようだ。「アメリカの新大統領がここまで世間を騒がせるとは想定外であった」というのが世間の最大公約数だろう。

やはり酉の元凶は米国の大統領であったな、と。いやあ、さえずる、さえずる・・・

ここまでやっちまったら、今更方向転換は難しいし、何もしなければ国際的政治不安・統治不安で株式市場も暴落するだろうー実態は変わらないので投資には好機と言えるかもしれない。

長官人事が議会で承認されない限り、政権は稼働しない。与党である共和党が見限れば、選挙で票を投じた支持基盤もあからさまに支援もできず、多分2年は愚か、1年たたずに実質レイムダック化するというアメリカ政治史上稀に見る、というより新記録となる失敗に至る可能性も出てきた。

100年前のアメリカではウッドロー・ウィルソンという実に人格高潔な人物が大統領に在職していた。民主党政権である。そのウィルソン大統領が創設しようとした国際連盟への加入が議会で認められず同氏は失意のまま職を去った。その後をついだのが共和党のハーディングである。この政権はスキャンダルが相次ぎ、ハーディング大統領本人も2年余りののち病死してしまった。歴代大統領の中では、常にワースト1を争っている人物という --- 近年は再評価の声もあるらしいが。なんとなく歴史は繰り返すような錯覚に陥るではないか。

まあ、ブッシュ政権をハイジャックしたかのようであった”ネオ・コン”とは違って、独断独走、いきなりドンパチやるよりは、余程平和なお人じゃあござんせんか、ともいえそうだ。

今はまだまだ世間の目も余裕があるが、これからはどうだろう。

それにしても、日本の安倍政権はトランプ新政権(?)との距離のとり方にはいま頭を悩ませているに違いない。何度もあって話をして大丈夫なんでござんしょうか。

2017年1月25日水曜日

公私の公と育休との関係

幾人かの知人の宅にこの春出産の慶事が続く見込みである。生まれると忙しくなるからと、カミさんと友人たちは今のうちにランチなど、やりたいことはやっておこうと相談している様子だ。

ところが、忙しくなるねと話を向けると、お祖母ちゃんになるはずの知人は「旦那さんが育休をとってくれるから、案外、行かなくてもいいのよ」と話しているよし。と同時に、育休を一週間申請したのだけれど、中々認めてくれなかったのよ、それで4日間とるの、と。そんな話をしたそうな。

ずっと昔になるが、小生のカミさんが上の息子を出産した時は、ちょうど小生が異動した直後にあたっていたのだが、前任者がすでに早い夏休みをとってしまったからということで、小生は休みをとれず、カミさんは一人で産み、一人で官舎に戻る、そんな夏を過ごしたものである。今思い出しても、酷い話だと思う。カミさんは両親を早くに亡くし、誰も手伝ってくれる人がいなかったのだ。

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多忙な時に育児休暇をとるのは日本人は苦手である。今でもそうではないだろうか。

囁かれる言葉は同じだろう。
出産といっても所詮は私事じゃないか、私ごとを職場に持ち込むとはなあ・・・
よく聞いたものだ。この言葉は。

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いま政府が旗をふっている「働き方改革」。この辺の意識を根本的に逆転させることが目的なら、小生も大賛成である。

小生の職業経験を総括して思うこと。
公私の「公」などというものは、本来、存在しない。あるとすれば、それは公私の公を自称している特定の人間集団がいるだけである。存在しているのは、公私の私だけである。
「働き方改革」を進める上で仮想敵を置くとすれば、公私の公は私ごとの上にある、こんな無意識にある支配関係であるに違いない。

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明治以前においては、多分に日本社会は家門や一族が「公」よりも優先される社会であった。公私の「公」とは、社会を構成する私的集団の利益を守るためのツールであり、私的利害の調整システムが、すなわち「公」と呼ばれる仕組みであった。

明治になって徴兵制が始まり、国民皆兵となり、陸海軍が組織され、利益よりは国防、個人よりは国家、こんな風に私ごとよりも「公」が優先される社会になり、それが意識としても共有されるようになった --- これこそが「軍国主義」であると誰かから批判されれば、そうですねと言ってしまうかもしれない。

「育休」、というか「忌引き」、「法事」などなど、類似の公休制度を迷惑視する企業文化は、明治以後の中央集権文化の名残りなのだろう。

2017年1月22日日曜日

組織と仕事、働き方

昨日は卒業年次生による発表会で審査員(とある時間帯の司会)を務めるため朝から夕刻まで缶詰状態になった。

それでも昼がくれば昼休みはとる。小生は、同僚と連れ立って隣のビルの地階にある行きつけのカフェに移動し、日替わり定食を注文した。昨日の献立は生姜焼きだ。腹にもたれそうだが、まあ、いいだろう。

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こないだ後輩から年賀状が届いたのですけどネ、その後輩は何十年か前には英気溌剌、文字通り青雲の志が外からもアリアリと見えるような、ある意味で野心のある人物でもありましたが、年賀状にはね、退職してから3年、毎日毎日が淡々として過ぎていきます、と。 
なんだか暗いですねえ・・・ 
まあ、不幸というわけではないのでしょうが、その人だけではなくて、私と一緒に仕事を始めた人は、みんな「ああ、この仕事を続けていけばいいんだ、この道を歩いていくのが自分の人生なんだとね」、△△先生も会社に入った時、そんな風に思いませんでしたか? 
尊敬する先輩が一人いましてね、仕事に没頭して家庭を顧みなかったんですね、お子さんの一人が自閉症というんですかね、で奥さんが大変苦労されて、そのうち「別れたい」という状態になって実家のお父さんに相談したんですよ。それで義父からその先輩に話したそうです。人生で一番幸せなことは何だと思う、と。それは自分のベターハーフと出会うことだ、と。人生で一番高いコストにつくことはなんだと思う、と。それは離婚することだ、と。その先輩は、ハッと気がついたそうなんです。 
そう、人の話をきいてハッと気がつくのは知性の証拠なんですよ。凡人は、そこで反発します。 
その先輩は、理解して、自分のライフスタイルを変えることから始めたんですよ。まず会社をやめて、別の仕事を始めたんです。働き方を変えて、家庭を二人で育てるために仕事をするんだという方向に自分を変えたんですよね。 
いやあ、いい話ですねえ。理解し、その理解に基づいて自分自身を変えて、そして実際に行動にうつす。これが出来るというのは、その方は本来的な意味で知性をお持ちだ。私が仕事を始めてから、漫談じゃありませんが「あれから40年」、いまや死屍累々ですよ。後輩で若死にした人もいます、先輩で自殺をした方もいます、海外へ赴任したあと奥さんが現地で自殺した方もいます、鬱病で一生を台無しにした方もいます。 
それ、母数はいくらなんですか? 
それほど大所帯でもありませんでしたから、そうですね同じクラスの先輩、後輩を合わせても、せいぜいが100人、まあ100人ちょっとというくらいでしょう。どうです、かなりの確率でしょう? 
先生は、幸福そうですよ、少なくともそう見えますが・・・ 
長い歳月の果てに明暗が別れてくる、そういう意味ではそうなんでしょうが、まあ私はタンポポのようなものですよ、独りだけ離れて風に吹かれてきてそこで自生してきたわけですからね。ただ、ハッキリ間違っているのは「仕事が生きがい」とか、「仕事にかける」という目標感ですね。仕事の場には幸福はない。これだけは真実です。職場というのは、というか組織になれば尚更ですが、目的というのがあって、その目的を追求するのが組織ですよ。組織の幸福なんてありません。その中で働いている人の幸福をもたらすための会社などありませんよ。激烈に勝負をかける組織には勝てませんから。原理に忠実な組織のほうが強いんですよ。幸福は個人に訪れるもので、パートナーである家庭で実現するべきものですよ。それは職場では決してありません。 
仕事が生きがいだっていうのは、確かにビジネススクールに通う面々はよく言いますよねえ・・・私、思うんですけど、幸福の条件って何だろうと。病に悩んでなく健康である、良きパートナーと人生をともに歩んでいること、そして安定した収入があること。この三つがあれば・・・
それは「幸せの姿」そのものですね。私のカミさんはミュージカルの「キャッツ」が好きなんですが、聴かせどころがグリザベラという零落した娼婦猫の歌う「メモリー」でしょ、独り月明かりの小道をたどっていくと、思い出が蘇る、それは幸せの姿だ、と。
孟子も『恒産あって、恒心あり』っていうじゃないですか。
落語にもあります『食う寝るところ、住むところ』ってね。国家レベルでもそうですよ。確かに、経済政策は大事です、しかし安全保障はもっと大事でしょ。個人レベルからみても、確かに収入を増やすことが出来るのは大事です、でも生活保障はもっと大事なんですよね。 未来に幸福が見えなければ人は生きていけませんよ。その場は職場でなく、家庭なんですが、最近の制度は方向がずれてきていると思いますね。

残念ながら、ここまで話した時に昼休みはそろそろ終わりになったので、茶飲み話はそこそこに店を出て、元の発表会場に戻っていった。


2017年1月16日月曜日

豪雪の入試センター試験: これはマスト(MUST)なのか

入試センター試験は監督者にとってもハードワークである。それでも10分間の休憩時間には色々な雑談をして気を紛らわせる。

ずっと昔は「共通一次試験」と言ってましたナ。懐かしいですよ、あの頃はもっとホンワカした雰囲気でやってました。 
これががいいんだという確信がありましたね。 励みがありました。
センター試験に名前が変わってからも暫くはそんな雰囲気でしたよ。何人かが入るんですが、交代で休憩時間をとって研究室で体を伸ばしたりね、そんなこともありました。 
だいたい、その頃の監督要領、薄かったですよね・・・いまの半分くらいじゃなかったですかね。 
(若い人が)それ、ホントですか? 
何かあるたびに、分厚くなって、監督者は休憩してはいかん、書いてある文言のとおり一字一句そのとおりに読めとかね、・・・ 
いまのようなセンター試験を続けたいと思っている人は、どこにいますかね?少なくとも大学関係者でいまのまま続けたいと思っている人はいないでしょう。 
高校でやるって話がありましたが・・・ 
高校も断っているんでしょ・・・
受験生も、いまのようなやり方がいいとは感じてないと思いますよ。だいたい、インフルエンザは流行る、寒い、豪雪になるかもしれない、行けなくなるかもしれない、時期も時期だ。
 そもそも最初の「共通一次試験」。フランスの大学入学資格試験(バカロレア)、ドイツのアビトゥーアを模範にしていたことは歴然としている。

確かに、個々の大学が独自の試験問題を課し、大学ごとに難問珍問を競い合うように出していたとすれば、何とかしたいという問題意識は出てくるものだ。なんとなくそんな記憶は残っている。

しかし、理想と現実はあまりにかけ離れてしまった。

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大体からしてフランスのバカロレアは、毎年6月中旬の一年でもっとも気候のよい時期に行われる。ドイツのアビトゥーアも厳冬期は避けて実施されている。

なにより欧州の大学入学資格試験と日本の入試センター試験が質的に異なるのは、試験合格によって若者にいかなる資格を与えるかという、その社会的役割である。

日本のセンター試験は、せいぜいが国公立大学の(その年の)二次試験受験資格を得るくらいのものである。しかも、一流大学の合否はその大学が実施する二次試験の得点でほぼ決まってしまうのである。

いやあ、この程度のことをするなら、歯を食いしばって根性でやらずとも、もっと合理的な方法があるだろうにねえ・・・

これもまた、「惰性」の一例じゃないか、そんな雑談をして、「まあ、いまは仕方がないですよね」と。

受験生も「仕方がないよね」と言いながらやっている。

仕方がないとぼやきつつも、マアつきあってくれるので、文部科学省は「分かっているが、もう少し頑張ってくれ」と。この辺りが本音ではないかと推測している(裏はとっていない)。

とにかくも、この悪しき共生システムは、もはや持続可能ではないと見るべきだろう。


2017年1月15日日曜日

「イバショ(居場所)」の話から共生関係、更には公私の公について

昨日は1年ぶりの(当たり前だ)センター試験監督をやって疲労困憊した。あれは受けるのも若者、監督をするのも若者、どちらにしても若者が取り組むべき、というか取り組める課題である。体がついていかない。

今回から壇上でシナリオを語る主任からは解放された。それでも一人また一人と手が挙がり、細かいトラブルが何度かある。そのたびごとに事務から参加したKさんに助けられた。Kさんは、まだ若い女性職員だが、対応準則に精通していて(=事前によく勉強していて)テキパキと応じることができた。感謝にあまりある。


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これが契機になった、というわけではないが、人が生きる上で最も必要とするものはなにか?椅子に腰を下ろして、そんな瞑想にふける・・・・・・



カネか?経済学者なら労働報酬と余暇の最適な組み合わせを分析するに違いない。それともモラルか?哲学者なら幸福に至る道としてのモラルを議論するだろう。

「やはり自分の居場所ではないかなあ・・・相手が自分に感謝し、自分も相手に感謝するような人間関係、単に雇ってもらいカネを毎月支給してくれる、それだけでは人間、やっていることを続ける気にはなれないものさ・・・」、と。まずこんな風に「居場所」が見つかったのかどうかが大事だと考える。


「居場所か、そういえば女性の人生というのも現代社会ではかなりリスキーになっているねえ、結婚をすると、子供ができると、それで仕事をやめて専業主婦になるとする。夫となる男性が自分のために生きてくれるか、自分は夫となる男性のために生きることができるか?この点がリスキーであればあるほど、自分のカネを確保しておきたいと、そう考えるかもなあ、・・・で、仕事が大事だ、仕事が大事となれば、自己表現になっているかと、議論は広がるねえ・・・」、まあ、確かに男性は働いて自分の食い扶持は自分で稼ぐことを当然だと考えている(人が多い)。女性は、そこが選択肢になっているのではないか。

これは「男女間の意思決定非対称性」かもしれないねえ(こんな用語はないと思う)。


「どちらも相手を必要としている、そんな共生関係が確立されているとすれば、というか家庭というのは本来はそういうものだったのだろう、夫のカネは夫のカネとは限らない、自分のカネも自分のものとは限らない、こういう共生の場が法制度に織り込まれていた時代も確かにあったのだけどねえ・・・この20年間、社会は進化してきたと言えるのかねええ・・・」

こんな風に思案をめぐらしていると、また一人、受験者の手が挙がる・・・ヤレヤレ


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徳川幕府は、自らを「公儀」などと名乗っていたが、本質的には単に「巨大な私的存在」でしかなかった。私的な存在が公的な存在であると自称することができたのは、それ以外の民(=国民)にとって平和をもたらす幕府という存在が望ましかったからだ。幕府は私的な勢力にすぎないが、収入源となる民が必要であった。

幕府は、競合し敵対的な勢力と競争をして勝った私的な勢力にすぎなかったが、一度、無数の民との共生関係ができてしまうと、他の私的存在にとっても幕府を「公儀」として受け入れるほうが得であり、こうして日本社会全体が共生システムとして完成されることになった。

要するに、大小さまざまな私的存在がそれぞれの居場所を得たわけである、な。だから、平和が続いた。

ゲーム論的には「ナッシュ均衡」に該当するが、これもまた「公なるものの本質暴露」であろう、といえば社会学になってくるか。


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本来的には私的な存在であった幕府を倒したのも、私的勢力であった薩摩・長州といった反幕勢力であった。その勢力が、天皇を中心とする明治維新という名で「公」を名乗った。

本来的には「巨大な私的勢力」である存在が、大多数の国民との共生関係を築こうとするとき、必ずモラル的な根拠を模索する。「正しい」という根拠だな。それが天皇という存在であった。

ここで、すべてが居場所を見つけたことになる。

明治政権は、本当は私的な勢力そのものであったが、それが公的な政府になりえたのは、その時代の日本人全体にとって明治政権を認めることが利益にかなっていたからだ。共生関係が(短期間であるにもせよ)再構築されたわけだ。

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その時の「政府」も本質的には私的存在である。

国民にとって本来の公的存在とは、互いに必要としている共有の資産でなければならない。これがコモンウェルス(common wealth)だ。具体的には、文化や慣習、伝統、家族制度、祭事、宗教、その他もろもろの要素がある。

政府や法制度も、国民の側からみれば本当はコモンウェルスであるはずだが、権力とは本当は「巨大な私的存在」であって、実際には他国(と国内の他勢力)と競争しているネーション(nation)として機能しているのであって、「国」といっても、本質的には私的な存在であるとみるのが真相だと、最近思うようになった。

本質的には国民の利益とは別の自己利益を自由に求める私的な存在であるのが「国」である。本当はこうだろう。そう思うようになった。まあ、そうは言っても私たち国民との共生を国は認識している、と。その仕掛けが民主主義である、と。確かに、理屈は通っているが、理屈は理屈である。マスメディアがよくご高説として述べる「民意=国家」など、欺瞞である。これはフィクションである。日本人なら誰でも知っている。

この点では、サッチャー元英首相の次の名言にますます与する者である。

 ... there is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families
Source:  http://briandeer.com/social/thatcher-society.htm


よくいう「国益」とは、安定した共生関係が形成されていれば「国民の利益」だが、単に私的勢力としての「国の利益」でしかないケースは無数にあったし、これからもあるだろう。

本当は私的な存在である「政府」が、公私の「公」を名乗るのは、幕府が公儀と自称し、明治政権が国家を名乗ったのと同じであるとみるべきだろう。

とはいえ、政府や国が本質的には「巨大な私的存在」であるとは、特に民主主義社会では、憲法、法律、さらには「民意」と呼ばれるものに隠蔽されて、見えなくなっているものだ。共産主義社会であれば、もっと露わであるのだが。

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日本人が生きていくときに、人生そのものは私的なものである。

公私混同がよく社会的に批判されるが、公私混同を批判する社会的な勢力もまた本来的には巨大な私的勢力にすぎないことは、普段からよく見ておかねばならない。

真の意味での「公」、つまりコモンウェルスなり、真にパブリックなものの実体といってもいいのだが、それは厳密に私的な存在である一人ひとりの日本人の感性によるものだ。



・・・まあ、昨日はこんなことを瞑想させうる程度まで、じっと忍耐の丸一日であったわけだ。もう二度としないとなれば、それでも少しは寂しいかもしれないが。

2017年1月12日木曜日

「もういいかな」という時機は確かに転機になる

「そろそろ潮目か」という言葉は、命をかけて戦った侍たちにとっては慣れた言葉であったそうだ。

何事も好機というのがある。正しいことなら常に正しいのであるという理屈は現実には機能しないのだな。「潮をみる」、イメージの悪い言葉を使えば「風を読む」というのは、実際の問題を解決する職業人集団であった武士という階層の経験知・集合知であったのだろう。「結果責任」とはそういうことを言うのだろう。

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カミさんにいつもいうことがある。『必要最小限の親孝行ってなんだと思う?』と先に聞いておいて『それは親より先に死なないことさ。俺のオヤジはすごかったけれど、親より先に逝っちまった。最小限の親孝行ができなかった』、こんな風に語っておいて『次はなんだと思う?』ときく。「??」、で続けるのだ。『還暦まで大病をせず、一度も入院せず、曲がりなりにも無事是名馬を貫くことさ』と、そう締めくくる。

オヤジができなかったことを長い時間をかけてやり遂げたってのは褒めてくれてもいいんじゃないのかなあ

言いたいことはこれなのだ、な。

もういいんじゃないのかな。最近になって、色々、体のパーツの耐用年数がきている。手術を受けてメンテしたり、入院したりするのは、もう「親不孝」には当たらんだろう。

それで市内の総合病院の外科で診察を受けたら「やっぱり鼠蹊部ヘルニアですね、手術をしないといけませんが、急ぐことはありません。いま忙しいのであれば、2月にこられた時に予定について相談しましょう」。

吉田松陰が言ったように人生四時あり。生涯は、春・夏・秋・冬という四つの季節に分かたれる。
十歳ニシテ死スル者ハ、 十歳中自ラ四時アリ
二十ハ、 自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ、 自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ、 自ラ五十 百ノ四時アリ
春には春の過ごし方があり、冬になれば冬の過ごし方をすればよい。齢をとってから出来ることは齢をいかにしてとればいいかという姿を後継世代に見せることだろう。

まあ、やりがいのあることでもある。だから、もういいかな。そう思うことにした。ヘルニアくらいでこう書くのなら、癌になったら何を書こうか。そちらが難しいか、と。そんな気もする。

2017年1月8日日曜日

これもへそ曲がりの「暴露戦術」か

へそ曲がりとは、イコール偏屈という意味である。

そういえば、永井荷風は何度かの転居のあと、麻布区市兵衛町に洋風の寓居を建て、昭和20年の東京大空襲で焼け出され、岡山に疎開するまではそこで暮らした。場所は、市兵衛町一丁目六番地というから、いまの町割りで言えば六本木界隈になる。その家の名は「偏奇館」と呼ばれた。ペンキ塗りであったからと説明されているが、字の当て方に永井荷風の人柄がよく表れている。

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小生も偏屈である。そんな捻じ曲がった目から見た感想を二つ。

ワイドショーでは芸能人の結婚話し、離婚話しが今年も話題だ。

思うのだが、あれは芸能人のマーケティングではないだろうか。世の注目を集めるには、それなりの戦略がいる。ビジネススクールでは、そんな専門用語は使っていないが、芸能業界という市場では「結婚戦略」とか、「離婚戦略」という行動には明らかに利益効果がある。巧みなプロモーションとシンクロさせれば、立派な戦略的行動である。

まあ、いくらなんでも「不倫戦略」というのはない(と思う)。観察していると、やはりイメージ悪化によるマイナスが歴然としているからだ。関係者には愛嬌をふりまくソフトコミットメントをしつつ、実は戦略効果がマイナスであるような行動をとることを「ヤセ犬戦略」と呼んでいるが、ひょっとするとこんなカテゴリーに分類されるかもしれない。

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個人的に不思議に思っていること。

韓国で流行している「少女像(=いわゆる従軍慰安婦像)」。あれはレプリカであろう(と推測している)。

なんと言う名の彫刻家が制作したものか、うかつなことに名を思い出せない。まだ知らないのかもしれない。

が、一つ言えることは韓国内で、さらに世界の各地で、同じ(マスター作品から複製されたとしか見えない)彫像レプリカが設置されるとすれば、製造している芸術家(?)、というよりメーカーかもしれぬが、相当の売上増加効果を享受できる。

あれは「反日」という共有意識に名を借りたマーケティングと観るなら、カネが絡んでいるだけに掛け声だけでは沈静化しないであろう。

メディアは韓国の国内政治になっていると解説している向きが多いが、もう一つ「従軍慰安婦はもはやビジネスになりつつある」と。これも無視できんなあ。

もし従軍慰安婦像が韓国内の反日感情の表われと見るなら、同じ彫像が毎回登場するのはあまりにも不自然であり、他にも多くの彫刻家が同じテーマで作品を発表するはずである。また彫刻ばかりではなく、絵画や壁画という別の形式でもやはり同じテーマの作品が続々と出て来ているはずである。

同じ彫像のレプリカが毎回出てくるのは、なんらかの理由で参入が妨げられているか、あるいは「ビジネス」としてはリスクが高すぎる。そんな思惑が韓国側にあるためではないか。

小生は興味津々でそんな風にみている。

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いやはや、身もふたもない話だ。

「身も蓋もない」というのは、結局はカネですよね、という観点から(一見)高尚な理念を相対化してしまう議論であり、ディベートではこの戦術を「暴露戦術」というようだ。

2017-1-9加筆:
作者は確かめた。やはり知らなかった -- 見たことはあったのかもしれないが。また、他の作者による像も出てきているとのことだ。とはいえ、TV画面を通して見る画像はレプリカに見える。

美術を通して政治的主張を行ってはいけないという理屈はない。ピカソの「ゲルニカ」は有名な一例だ。真の美術作品は人を立場によらず感動させるものだ。

いわゆる「少女像」がどう受け止められていくか、観られていくのか。それは世界の多数の人たちが自ら決めていくことである。普遍的価値がもしそこにあれば、(歴史や事実はともかくとして)日本もその理念を尊重するべきだろう。これも戦略の一つの類型である。

それにしても、古代ギリシアやルネサンスの古典、はたまた阿修羅や十一面観世音像とまではいかないにしても、同じ具象的作品であれば大悲とも言えるような愛と許しを表現している見事な塑像をつくれなかったのか、と。そうすれば、右翼を代表する現政権を飲み込む津波のような謝罪が日本の側から湧き起こっていたはずだ。故に、あくまで政治ではなく、美術的力量の問題なのである。(ここに書いても仕方がないが)残念な心持ちを個人的に感じる。

2017年1月5日木曜日

『世の中の役に立てればと思います』への深い疑問

若い人の抱負が(いつ誰がとまでは思い出せないが)よく新聞、TVなどのマスメディアで語られることがある。『人の役にたつことをしたい』と言う。よく知られた著名人でなくとも、普通の若い人が『だれかの役に立てる人になれれば」というのを聞いたこともある。

小生、相当のへそ曲がりであることは何度も断っている。

深い疑問をもつ。

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別に自慢することではないが、小生の両親は『たくさんの人の役にたつ人になりなさい』という風な意味のことを小生に云ったことは一度もない(と記憶している)。

何度も聞いて耳にタコができてしまったのは『いい人が早くみつかるといいわね』とか、『何になりたいのかね』とか、要するに一言で言えば『幸福ならそれでいいんだ』ということが趣旨ではなかったのかな、と。そう思っている。

結局、人は「いい人」を見つけて、「やりたいこと」をやって、子供を「いい人間」に育てれば、生まれた時に負っていた義務は100パーセント果したと言えるのだ、というのがいまの考えだ。それ以外に何がありますかね・・・あったらご高説をきいてみたいものでござんす。まさか「仕事が」なんておっしゃるんじゃござんせんよね。

親になった立場から顧みてもまず絶対にそうであって、何を子供に願うかといって『人の役に立ってほしい』とか、『社会に貢献できる人になってほしい』とか、そんなことを考えたことはない。あえていえば『人に迷惑をかけるような人にはなってほしくない』。これは普通の人の最大公約数的な共通意識だろう。

富国強兵、軍国主義ではあるまいし『国家有意の人材』であれなど、本気でそんなことを語る人が今時まだいるとは考えられないのだな。

それでも、よくそういうセリフを口にする。

★ ★ ★

それほど昔ではないある一時期、『楽しんで来たいと思います』という風な発言が流行したことがある。

(不思議なことに)決して評判のよい言い方ではなかったと記憶している。

まあ、確かに(たとえば)税金で世界大会に派遣されておきながら、「楽しんできます」と選手当人がいえば、「お前の楽しみのためにカネを出しているわけじゃない」と、そんなクレームをつける人もいるのだろう。だから(というわけじゃないと思うが)「楽しんできます」というのは下火になって来た。

小生も下の愚息に『お前の仕事は楽しんでやる仕事ではないだろ』と話したことはある。が、だからといって滅私奉公が第一だというつもりは毛頭ない。最高に善なるものは「幸福であること」。これはソクラテス、プラトン以来の西欧哲学の源流で、この出発点から幸福へ至る道としてのモラルが議論されるわけなのだがj、日本では人の役に立てることが幸福で、無用の人であるのは最大の不幸である。これが実際に多い見方ではないだろうか。

逆である(と思う)。

人の役にたつかどうかなどは結果論ではないだろうか。人の役にたてなくとも良いではないか(貧乏ではあると思うが)。足るをしれば心は平穏になり、人にも優しくなれるものだ。いまやっていることに満足すれば、幸福への第一歩をきざめる。そして、これはそう難しいことではないのだ。

真の意味で人の役にたつことこそ難しい。「役にたつ」というのは、「役にたつ=カネをもらう」であるから、限りなく「金持ちになりたい」という意味にもなるのが資本主義社会であると云ってしまうと、身も蓋もないか・・・。それとも、実際「役にたつ仕事をどんどんやって、どんどんカネをもらいたいです」と。これが趣旨なのだろうか。

人の役にたつことを目標にすれば、イライラし、疲れ果て、蔓延するのは偽善ばかりになるものだ。そこに幸福はないのではないか、と。そう思う今日この頃である。

またまたへそ曲がりの感想を書いてしまったなあ・・・

2017年1月4日水曜日

断想 ー 正月三が日にしては重い話ではないか

昨晩、どこの局かは知らないが、いかにも正月風のバラエティにカミさんがチャンネルを合わせているので何気に見ていると、いじめの加害者の実名を公開するべきかどうかという話をしていた。

いちいち、ここで話の内容を紹介する必要はないと思う。実際、TV画面でも喧々諤々、丁々発止であって、大体からして結論の出る話ではない。

一つの疑問:

ある出演者が「加害者が更生するためには実名報道は障害になる」、「実名が公開されると、加害者の人生はもう終わってしまう」と、こんな意見を述べていた。

ふ〜〜〜む、なるほどネ、合理的な意見だと思った。戦後日本の常識にも適っている。

と同時に、何気にこの意見をきいた瞬間に感じたのが、以下の疑問だ。それは「更生」という日常生活では使われていない(はずの)用語の意味である。

被害者の生命を奪った加害者は、「更生する(≒ やり直す)権利」を持っているのか、それとも「更生する(≒ 社会に貢献できる人間になること?)義務」を負ったのか?

どちらの観点に基づいて現代社会の法なるものはあるのかという点だ。

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別に「いじめ」に限る話ではない。

『加害者も更生しなければならないので・・・』とよく言われるが、この「・・・なければならない」というのは、いかなる意味でそう言っているのか。なぜ更生しなければならないのか。人間にはそもそも生まれ持った宿命や業というのはないのか。ありのままではいけないのか。更生しなければならないのかどうか決して自明ではないと小生には思われる。

更生する必要はない。その時の事実とその時の状況に応じ、社会がなすべきことを道理に基づいて決めるのが加害者に対する正しい姿勢である。こんな意見をいう人がいるとすれば、これまた自然だと(小生には)思われる。

加害者が更生するための措置、環境づくりをなぜ社会はとらなければならないのか。それは社会の義務なのか。であれば、加害者は「更生する権利」をもつわけだ。本当にそうなのか。そういうことにしているだけではないか。これまた決して自明ではないだろう。

そもそも「更生する」とはどう定義されるのか。

あらゆる罪は、「償う」ことで加害者は「更生可能」なのか。いかなる犯罪もその後の社会的貢献により埋め合わせることができるのか。

埋め合わせるとはどういうことか。一人の人間の命の喪失とその後の社会的貢献の度合いをそれぞれ量的に比較して、「埋め合わせた」と判定できる瞬間がやってくるのか。これに回答できなければ「更生」という言葉は使えまい。これもやはり自明ではあるまい。

自明ではない大前提にたって現代社会の法は構築されている。

★ ★ ★

自明ではないことを前提するには、社会的な合意が要る。議論が紛糾し、判断が分かれるなら、それは合意が困難であることを示唆する。

法には理念が込められるのが常だが、これにも自ずから限界がある。合意困難な理念は法の前提とするべきではない。法に納得できない人が多数発生するからだ。

・・・

こんな考察を述べたレポートがもし提出されたなら、ロジカルである点を高く評価しようと思うが、(小生なら)「秀」にはしないなあ。

この議論には大事な要素が抜け落ちている(ような気がする)。


2017年1月2日月曜日

雑話: 宗教としてのイスラム教、その存在感について

謹賀新年。

歳末は猛吹雪に毎週三連発で見舞われたが、年があけると文字通りの雪晴れ。今日は気温も上がり実に過ごしやすい。ただ、10日間予報をみると当面は雪が降らないとのことだ。そうなると、14、15日の入試センター当日頃に暴風雪がくるのではないかと、また心配になる。

どちらにしても、厳冬期に大学入試をやるなどと、北海道型天候を標準にすればありえない制度だ。

大体、新学期といえば9月が世界の主流だ。欧米もそうであるし、中国、台湾もそうだという。フィリピンは確か6月だ。

政府の会計年度とは関係ない。米国の会計年度は1月から12月だ(もっとも連邦政府は10月から9月まで)。中国、韓国もそうである、な。

もし世界の大勢に沿って9月新学期をとれば、センター試験は初夏の頃、各大学の二次試験は盆明けになろう。いいではないか。正月明けの厳冬期にセンター試験をするよりよほどいい。日本の各地とも最適の季節になるのではないだろうか。

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トルコ、モロッコなどイスラム文化圏ではどうなのだろう・・・と思って調べてみたが、やはり9月新学期であるようだ。

そのイスラム教国はどこも政治的混乱のさなかにある。

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20世紀の初め第一次世界大戦停戦までは中近東全域はオスマントルコ帝国が支配していた。トルコ帝国は、15世紀にギリシア人による最後の帝国であるビザンチン帝国を滅亡させ、16世紀にはスレイマン一世の治下、(ペルシア全体を支配することはなかったが)輝かしい黄金時代を迎えた。その後、ロシア帝国の南下から圧迫を受けたものの、スルタンカリフ制の下でイスラム教徒はほぼ統一的に支配され、ヨーロッパの列国とも十分に張り合えるだけの力と文化を有していたものである。イスラム教は一つの世界宗教であったわけだ。

その当時、一体、21世紀の現代という時代の到来を予想できただろうか。あまりにも違う。経済は愚か、文化的発信力の衰えが酷い。文化的膨らみを失った宗教的原理はもはや精神的な骸骨にしか映らぬ。

今日の中東、というかイスラム教圏の混迷と没落は、トルコ帝国の消滅に端を発する民族レベルの構造変化プロセスであるのだろう。

100年後にイスラム教という宗教がまだ「宗教」として実存しているかどうか定かではない。

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そんなことを言えば、宗教としてのキリスト教はどうだ?今日なお「宗教」として機能していると言えるのだろうか?こんな疑問もある。まあ、カトリックには確かにバチカンという存在がある。

確かにバチカンは存在し、教会はあり、人々は集まり、積極的活動もしている。しかし、エネルギーの噴出である宗教的対立、さらには宗教戦争がキリスト教社会から消え去って久しい。

アジアにおける仏教もそうである。いま浮世の世話をする儀式以上の意味を仏教はもっているだろうか。

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思いついたのは、「時間」という単純な数字である。

イエスキリストの死後、既に概ね2000年が経っているのに対し、マホメットの没後はまだ1400年弱である。釈迦に至っては2500年以上が経過している。

かつては、キリスト教国でも「魔女狩り」があったし、30年戦争もあった。宗教的エネルギーというのは、血で血をあらうような抗争をもたらすものなのだ。

シリア内戦などをみるとなるほど外国勢力の介入という要素がある。しかし、内部で対立しているから内戦状態が継続すると見るべきだ。信徒が統一されていれば、内戦ではなく、抵抗戦争なり、独立戦争になる。

宗教的エネルギーが宗派の対立を生み、外国勢力が拡大戦略をとる余地をもたらし、それがイスラム側に聖戦を宣言させる動機をつくると見るならば、それはそれだけ宗教としてのイスラム教がまだ「若い」せいかもしれない。

なので、平和が訪れるまであと幾世代かは必要かもしれず、その混乱に一般信徒が耐えきれず宗教的勢力としては消え去ってしまう可能性もある。そんな風に感じたりもするのだ。

どうもフリードマンの「100年予測』に感化されたらしい。