2017年4月9日日曜日

「未来志向」は過去とは無関係になるのか?

"Korea Fatigue"(韓国疲れ)という言葉がアメリカで頻用されているかと思いきや、最近は日本でも使われるようになったという。

過去にばかりこだわり、サッパリ未来に向けての協議を受け付けてくれない、そんな苛立ちがあってのことだろう。

それはそれで(実務担当者の立場に身をおけば)理解できる。仕事が捗らない、これはやはり困る。仕事というのは「これからどうする」が基本姿勢であるからだ。

仕事には、確かに時間軸というものがあり、過去・現在・未来という順序で管理されている。

しかし、それは物理的な見方だろう。

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「未来志向」という言葉には過去への目線は含まれないのだろうか?

そうではない。

未来志向の未来を検討するというのは、どんな未来を望むかという問題である。

未来志向だからといって、実際の役には立たない親の墓は廃棄して、毎日の暮らしのためだけに資金を使いたいとは、多くの人は望まないだろう。未来志向とは、未来をどうするかであり、過去をどう見るかと裏腹の関係にある。これがロジックだ。

過去をブランクと前提して、純粋の未来だけを考えれば、過去は一切なく、それ故にその時生存している世代が自己利益だけを考えて最適なプランを実行すればよい。しかし、親や祖父母の世代を現実には記憶している以上、過去をブランクであると仮定するのは不可能である。歴史をすべて忘れ去るような未来を語るのは実際にはできないのだ。

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というより、過去の記憶が存在するのは現在という時点であり、未来を意識するのも同じ現在である。

記憶の中には、失われた町や世を去った人たちが変わることなく呼吸している。そもそも人間の意識に時間軸というものはない。意識されている世界は時間なき世界だ。

人間が外部世界を理解する能力をもっているのは生存に有利だったからだ。ただそれだけである。カントは、時間と空間という枠組みの中で外部世界を人間が理解するのは、そうすることしか出来ない、つまり時間も空間も人間が元々もっている理解の仕方(先験的範疇)でしかない。現実に時間や空間というものが外部世界に存在していることにはならない、と。そう考えた。

確かに意識の中に時間はない。過去と未来の間にどんな本質的な違いがあるのだろうか。

こちらが「未来志向でいきましょう」と言ったところで、異なった記憶をもった人間は、異なった未来を望むものだ。どんな未来を求めるか。異なった過去の記憶をもつ人間が同じ現在に立つことで理解しあうしかないだろう。

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