2017年5月31日水曜日

「流行」に30年遅れでついていくのはアリなのか

今年の終盤国会は、相変わらず加計学園(と、出来れば森友も?)騒動と前文科次官の暴露戦術にかかりっきりという状況に近い。

対北朝鮮外交を問い直すことはせず、統合幕僚長による憲法への自衛隊明記は有難いとの発言の政治性を検証することもせず、米国抜きのTPP維持路線が日本の国益につながるのかどうかも全くとりあげない。

ゴシップ戦略を採用したからといえば仕方がないのだが、与党も与党、野党も野党。内閣支持率が下がるのとシンクロして、民進党支持率も下がるのは、ごく自然な結果である。というか、民主党を政権に押し上げたリベラルな保守層は既に同党を見限り、もはや残された支持層は社民党や共産党を支持してきた階層と重なりつつある。逃げた支持層の一部は自民党支持のリベラル層を分厚くしつつある。ポスト安倍の自民党は少なからず変化するだろう。民進党の歴史的役割はもう終わったかもしれない。政党としての運命は、そろそろ極まりつつあると言えそうだ。

こんな事情もあるので、スキャンダルをいくら暴露しても、与党の支持基盤が対立勢力に侵食されるという社会的メカニズムが働かなくなりつつある。日本では小選挙区制が二大政党をもたらすことはなかった。こんなところだろうなあ。

下らないので、仕事か本のことを作業日誌として書いておく。

***

村上春樹の本を最近になって初めて何冊か手にとった。デビュー後、40年遅れでやっと偏屈な小生も世の中に追いついてきたか・・・。

書店の棚で『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を見つけて、こんなものも書くのかと買って読んでみた。「ああ、こんな文章を書くのか」と快い印象を受けた。これを知らなんだら、読もうという気にはまだなっていなかったろう。

『東京奇譚集』で「ああ、ムラカミとはこんな世界なのか」と見直した。

少し長いものを読んでみようとチャンドラーの新訳『大いなる眠り』を読んでみると、息切れすることなく、一貫した流れが作られていた。

で、最新作の『騎士団長殺し』を読み終えようとしているところだ。小説として最上の味わいだと思う。他の作品との比較をするには知識が不十分だが。

随分以前になるが入ゼミ面接のとき、志願者に何か好きな本はあるかと聞いたところ、村上春樹が好きだと答えた学生がいて、『ノルウェイの森』はなんども読んだというのを覚えている。森村誠一や赤川次郎ばりのミステリーではないのだろうがブレイク中の人気作家だろうと軽く聞き流したのは、結果として大きな損失だった。そういえば尾崎豊を初めて聴いたのも、当人が死んでから以後、それからは10年遅れの愛聴者になった。

やはり若い人たちのいうことには真剣に耳を傾ける方がよい。

ただ、ノーベル文学賞。どうだろうか。ま、こんなことは、本当のところ、どうでもよいのだろう。前にも投稿したことがあるが、新しい何ものかがそこに創られている、というか提案されているかどうか。選ぶ側はそんな価値観を持っているのではないかと書いたことがある。つまりロジカルにいうと、独創的であるかどうかだが、その点では安部公房の作品を読んだ時のショックには比べようもない(その安部公房もカフカが世に登場した時の衝撃には及ばないだろう)。安部公房の世界は面白いというより怖いものであり、それは世の中の怖さに対応するものでもあったと今は思う。ムラカミ的世界には、(いいにしろ、悪いにしろ)読者を楽しませる要素が多く含まれている。

いろいろあるが、確かに読まないでいたのは損だった。
この齢になって少し世界が広がった気がする。

2017年5月25日木曜日

「乱」は「らん」でも、ちょっとなあ・・・です

歴史は繰り返す。一度目は悲劇として二度目は喜劇として。

文科省の前事務次官が在職中の内幕を暴露するという戦術で現政権に公然と反旗を翻すに至った。「乱」である。

一昔も二昔も前にあの界隈の一隅で多忙な毎日を送っていた身としては、こんなこともあるのかと慄然とせざるを得ない。

もしもクダンの「怪文書」が本当に文科省にあったもので、多分それは担当課の書き捨て前提のメモであったのだろう、その時の事務次官がその書付を元に部内会議を仕切っていたとして、いまの時点でその文書は本物だと言えば、それが本物であるという正にそのことにより、在職中の内部事情を漏洩したという判定になるのではないか。

もし無いものを「あった」と言っているだけであるなら、単なる虚言で終わる理屈だ。

内部機密に関する<真の>情報を新聞記者に漏らしたからこそ外務省職員は処分されたという(これも大昔の)前例を待つまでもない。

国家公務員法違反になるのではないか。そもそも行政の方針は政治家、つまり内閣にゆだねることになっている。1990年代の惨憺たる失敗を踏まえ、中央省庁は再編成され、高級官僚の人事システムも改革され、政治主導の原則は益々強化されてきた。部下である公務員が『正義』やら『公益』やらを持ち出し始めれば、そもそも利害が対立する制度改革も国際交渉もまったく出来なくなる可能性が高い。民間であっても、退任した副社長が記者会見を開いて現経営陣を非難するなど、そんな事件が勃発すれば、そんな会社はどこからも相手にされなくなる。

実に危険なギャンブルだ。
それとも有力な政治家の陰謀が背後で進行しつつあるのか・・・。それにしては、筋が悪い。そもそも内閣府の規制緩和政策に対して抵抗していた(いまも、いる?)のが文科省であるのは「教育」にタッチする人には周知のことで、この点は事実というしかない。大きな流れをみればマスメディアが文科省前次官を最後まで支援するとは考えにくいのだ、な。まあ、「放送業界」もまた規制に保護された「既得権益層」とみれば、業界丸ごと案外に文科省官僚集団に与するのかもしれないのだが・・・。

必敗の乱である ー ま、乱というのはいつでも必敗なのではあるが。

思い出すのは有名な「加藤の乱」である。野党が提出した森内閣不信任案に賛成票を投じるため本会議場に入ろうとする加藤紘一議員を抱え込むように阻止する谷垣前幹事長の映像は何度も放送されている。

あれも「乱」であった、な。一週間程度の間に当時の野中幹事長に鎮圧されてしまったが。2000年のことであった。・・・そうか、もう17年もたったか。うたた凄然の心持ちである。

それに比べると、今回の乱は部下が政権に反旗を翻すという点では、江戸時代・大坂町奉行所の大塩平八郎の乱のようなものだろうか。

マスメディアは面白がって「判官贔屓」というものか、この2月までは非難・バッシングのターゲットにしていた同じ文科省次官をバックアップする気になっているようだ。そうすればそうするほど、教育行政の中枢である文部科学省自体の組織的危機が進行するのは確実なのだが、そんな感覚はメディア企業には求めても最初からないのだろう。そういえば、文科省の天下り斡旋を摘発したのは、国家戦略特区を担当するのと同じ内閣府の再就職等監視委員会であった。同じ霞が関住人ではあるが、恨み骨髄というのはこの事であったのだろうなあ。『武士の情けも知らぬのか』、『掟を破っておいて言い訳か』、『この恨み、忘れるなよ』・・・と、こんな感じであるのだろうか。

嗚呼、悲し、無惨の涙に耐えかねて・・・であるなあ。

(31日追加)「官僚」は「国民のために」とか、「公益のために」とか、独善に流れやすい妄想は捨てて、内閣のために仕事をする。つまり選挙で選ばれた政治家の要請を実行する。そのための方策を提案する。21世紀になって入った若手の官僚はこの大きな流れはとっくに分かっているのではないだろうか。


2017年5月24日水曜日

ほんのメモ: 未来の「皇族」、というか「皇位継承問題」

こんなことを書けば、戦前期なら不敬罪になるだろう。

が、ミーハー的興味は抑えがたく昨日もカミさんとこんな話をした。

「女性宮家、日本会議っていう極右系の団体があるんだけど、猛反対しているらしいね・・・」
「真子様や愛子内親王は結婚後に皇族にはしないってこと?」
「そうだろうね。というか、娘だけじゃなくて、娘の息子も女系だからダメって理屈だね」
「でもさあ、もしもだよ、悠仁親王が天皇か皇太子になってさあ、娘しか生まれない可能性はあるよね、その時に愛子さんに息子が生まれたらどうなるの?」
「愛子さんは、その時は民間人だから、その息子も皇族じゃない。そうなるね」
「でも悠仁様の娘は後を継げないよね」
「男子がいなくなったら、敗戦時に連合軍から追放(?)された旧皇族を迎えたらいい。そんな考え方なんだろうね」
「娘の息子がいるのに、そんな遠縁の人が跡継ぎになるの?」
「確かに誰も納得しないかもね。だから、そうなる前にルールを作っておくのが大事なんじゃない?」

もし内親王が結婚後も皇族であるとして、宮家をつくるとすれば「▲▲殿下」と呼ばれるのだろう。その時は、夫の民間人も「▲▲殿下」になるのだろうか?う~む、それは難しいだろうなあ。殿下であるのは夫人の方で、旦那はそうではないからだ。これまでは殿下は全て宮家の当主である夫の方であり、その妻は「▲▲宮妃殿下」と呼んでいればよかった。逆のケースをどうするかだ。イギリスではエジンバラ公という呼び名があり、その名前も「公」という実質を伴っているからいいのだが、日本ではそれもできないだろう。ただまあ、先日の道新のコラム記事によれば(それも経済学者の宇沢弘文先生のケンブリッジ時代の思い出を引用して、という話だが)、ケ大の大食堂で食事前の乾杯を女王陛下に捧げるとき、たとえご夫妻臨席の場合であっても、夫君のエジンバラ公には捧げなかったという。隣の同僚にその理由を聞いたら「子孫を残すためだけの男に誰も忠誠心など持たないヨ」と言われたとのこと。それで宇沢先生はケンブリッジに長くいるつもりがなくなったという話だ。そんな話もあるから、この問題は微妙で難しい。

5代将軍・徳川綱吉は、娘・鶴姫の婿である紀州藩主・徳川綱教に後を継がせようとした。娘の息子どころか、単なる娘婿である。実の兄の息子、つまり甥の綱豊がいるにもかかわらずである。これに「筋が通らぬ」と反対したのが徳川光圀である。しかし、水戸黄門・光圀も、後継者が娘婿ではなく、娘の息子であったら強硬に反対できただろうか。

いやはや、下世話な話でござる・・・。

2017年5月23日火曜日

断想: China Dream? vs American Dream?

中国の習近平国家主席の現在の夢は終身国家主席の地位に就くことだと噂されている(明言は、当然ながら、できないことだろう)。

ひょっとすると、それは可能かもしれない。
では、終身国家主席が終着駅かといえば、息子(娘がいるそうだから、娘婿、それとも娘本人)が後継者として同じ地位を世襲することが認められるかどうかも夢になりうるだろう。

もしそうなれば、中国は別の国となる。国名を変更するだろうし、名実ともに新たな王朝国家として復活することになるわけだが、ひょっとすると実はこうなるのが"China Dream"かもしれない。

思うのだが、こうなったとしても必然的に非民主主義国家であるとは、小生どうしても思われないのだ。

戦前期・日本は天皇が国家元首であった。しかし、天皇が自分で決められる事柄はほとんどなかったのだ。軍国主義は、庶民出身の職業軍人集団が天皇を(文字通り)「神聖化≒傀儡化」することで実現された。成立の背景をみれば、日本の軍国主義がデモクラシーに反するものとは言えないだろう。軍国主義イコール国民総動員なのだから。

その事情は江戸時代の将軍も同じだったろう。江戸時代の各藩には殿様がいたが、殿様がやりたいことをできていたとはとても思われない。家老だって事情は同じだろう。

非民主主義的国家が必ず非民主的に運営されるとは限らない。そこには(いるはずの)独裁者もいないし、(いるはずの)権力者もいないかもしれない。収奪によって黒字のはずの財政は赤字で破綻しているかもしれない。支配されているはずの国民に多額の債務を負っているかもしれない。権力は形式だけにとどまっているかもしれないのだ。

逆に、民主主義的に法制化された国家で、権力が集中する状況も頻繁にやってくる。特に普通選挙で選ばれた政治家は正当性をもつ。強権的な税制改革を実行しうるのは、独裁者もそうだが、同じことは国民から支持されている民主的政治家もできる。同じことができるなら、独裁者と強力な民主的政治家でどこが違うのだろう。

★ ★ ★

ピケティの『21世紀の資本』は確かに面白い経済書だ。そもそも所得分配論は経済学の中で地味で人気のない分野だった。その面白さの大半は、確かに$r > g$が(理屈はともかく)歴史的に成り立ってきた。この点にあって、実はそれ以外にはないとも言えるのだが、具体的に記述されている事実は文句なく面白い。結論しているのは、結局『不平等は続く可能性が高い』ということと、国際的資本課税が必要だという2点に過ぎないのだが、地味なテーマでここまで読ませる筆力は侮れないものがある。

とはいうものの、内容本位で言えば、ピケティの師匠にあたるアトキンソン(Anthony Atkinson)による『21世紀の不平等』がはるかに充実している。この本の第1部は、歴史的事実でピケティを補足しているような所があるが、確かに「読ませる力」は弟子のピケティに軍配があがる。が、白眉は第2部だ。特に第6章の『資本の共有』は、経済政策に関心があるなら<必読>に値する。


アトキンソンが当たり前のように淡々と指摘しているように、ロボットは誰が所有するか。これが今後将来の最大の経済問題になるのは確実だ。人工知能の知的財産権、ビッグデータの著作権(?)・・・、すべて扱いは同じである。21世紀の不平等は、21世紀の所有権の再設計へと至らざるを得ない。それを正面から提案している。財産権の不可侵が近代市民社会の土台だとすれば、時代は大きな曲がり角にさしかかろうとしている。この歴史的洞察力には凄みがある。

以前の投稿でも書いたが、ロボットが人間のやるべき仕事を全て奪ってしまったとする。ロボットの管理もロボットが担当するとする。その時、人間は雇用されることはなくなる。もしロボットが資本財であれば、資本分配率は100パーセントになる理屈だ。

もしロボットで代替する方が生産性があがるのであれば、そうした方が社会は豊かになり、人間はより多くの余暇を楽しむことができる。故に、そうした方がよい。しかし、分配問題をその前に解決する必要がある。このような社会では、資本に帰属する(はずの)営業余剰をいかに分配するかが、その時の最大の政治問題にもなるはずだ。新しい所有権と新しい受益権、新しい決定権を議論する必要がある。

アトキンソンが提案するように、全ての国民に成年定額資本受給権を認めることで問題が解決できるのかどうか、小生には定かではないが。

いずれにせよ、こんな時代が本当にくるとすれば、いわゆるAmerican Dreamは歴史的役割を終え、文字通り一つの時代が終わることになるのだろう。


2017年5月18日木曜日

メモ: 貧すれば鈍するの野党の惨状

今は北海道に暮らしているが、両親は元々愛媛県の人である。小生も小学校までは父が勤務していた某大手合繊企業の工場がある四国松山近郊の小さな町にある工場の傍にあった社宅で育った。父はそこでナイロンの生産管理を担当する技術者をやっていたのだが、その工場は今は炭素繊維を生産しているというのだから、小生が過ごしたのも遠い昔になった。

松山の隣町(というには隔たりがあるが)今治市に国家戦略特区が指定され、四国で初めての獣医学部開設が(総理大臣のバックアップが本当にあったのだろうか)認められることになったのは暫く前である。

一地域が大学・学部開設許認可の権限を独占する文部科学省の岩盤を打ち砕いた末の悲願達成であったのだろう。

ところが、その話が国会の政争の具になってきている。

実に情けないことだ。

国家戦略特区は内閣府所管の業務である。官房長官や特命担当大臣がいるとはいえ、内閣府は内閣総理大臣の監督下にある。組織の長たる大臣の指導に従って官僚が他省庁と折衝したとしても、上司の命に従ってそうするのは当たり前である。折衝の中で「うちの大臣が直々に通せと言ってますのでね」と言うとしても、話して当然の科白である。必要なら大臣折衝に持ち込んでやる。

これを何を血迷ったか「不祥事」であるかのようにマスメディアは報じている。

関係者の努力に泥をかけるとはなあ・・・。京都産業大学の申請は却下されたと報道されているが、同一地域に重複開設することはできないと言われていただろうが・・・。

貧すれば鈍す。文字通り「情けなきこと 涙こぼるる」だ。
野党の政略はもはや戦略の名には値しない水準になりつつある。現地で仕事に取り組んでいる人たちの立場から見れば、国会の場を借りた野党議員の言動は、もはや「国政調査」を超えて「公務執行妨害」にあたると感じているに違いない。



・・・イヤハヤ、今日はさすがに憤懣に耐えかねて書きたいように書いてしまったなあ。冷静になろう。

2017年5月17日水曜日

原資は「税金」だからというフレーズの裏の意味合い

上のフレーズはよく聞く言葉だ。何か不祥事があるとメディアもよく使っている。江戸時代のご印籠と同じ力をもつ。

「公人」たる者、常に「天知る、地知る、我知る、人知る」を忘れてはならない。

なるほどよく分かる言葉だ。

ネットを見ていると、次のような下りがある。先ごろ不適切な言動が原因で経済産業政務官を辞めた某二世政治家のことだ。

▲▲氏の不祥事を縷々紹介したのは、ゲスな話に興味があるわけではない。中川氏は政務官辞任後に開かれた4月18日、21日、28日、5月9日、11日の衆院本会議を全て欠席している。議員の務めを放棄したわけだ。衆院議員の歳費は、期末手当や文書通信交通滞在費を含め年間約3200万円にのぼる。もちろん原資は税金だ。中川氏は議員の仕事をしていない。これでは税金泥棒と言われても仕方あるまい。

(出所)産経新聞、5月14日(Yahoo!ニュースより)

確かに男女の交際は「個人の自由」だが、議員の活動に影響があったとすれば、税金の無駄になる。理屈は分かる。

★ ★ ★

しかし、上の論法に沿っていけば色々な話になっていくのではないか。

たとえば義務教育には税金が投入されている。

授業中にやかましく私語をして、授業を妨害する行為は税金で運営している業務を妨害する行為、つまり公務執行妨害である、と。

そもそも「ズル休み」を認める親の行為も税金の無駄にあたる。というより、教育を受けさせる義務があるという憲法の規定に違反している。

あるいは、引退後のサラリーマンは年金生活に入る。過去の積立金も原資だが、基礎年金には税金が投入されている。高齢者は、原則、税金からお金をもらっている。税金を使う人を「公人」だというなら、高齢者はすべて公人だ。然るに、暴力や暴言を抑えられない高齢者が増えている。トラブルメーカーになることも多い。自動車保険料も上がった。何ということであろう、税金のお世話になりながらその資格を疑わせる行為をする老人がいるとは。

まだある。国立大学の学生には税金が投入されている(国立大学ほどではないが私立大学にも助成金が入っている)。ところが某国立大学医学部在籍者が凶悪な事件をひき起こしても「税金泥棒」という非難はされていない。が、明らかに税金泥棒にあたるだろう。

これらの反社会的行動にはより厳しい姿勢で接するべきだ、すぐにこんな話しになるのではないか。

・・・実に、器の小さい、コセコセした言葉だと日頃から思っている。

★ ★ ★

「原資は税金」という点が、それほど重要なのであれば、より多くの税金を納めた国民はより多くの貢献を日本国にしていることになるのではないか。

より多くの貢献をしているのであれば、より多くの権利を持っても不思議はないのではないか。

投票権だって納めた税金額に比例するようにしたほうが良いのではないか。理屈が通るのではないか。実際、株式会社はそうしている。税金を納めていないのであれば、参政権もなくて仕方がないのではないか。そもそも多額納税者が真っ先に参政権を得たのだ。

カネに話しを戻すなら、必ず上のような話になる。格調が低いことおびただしい。

非課税証明の対象になっている人は、「原資は税金だから」という言葉を(自称)ジャーナリストから聞くたびに、肩身の狭い思いをしなければならないということか・・・。いやいや、税金を一切納めていない人はいない。消費税は必ず納めているはずだから。しかしねえ・・・。

どちらにしても、よく聞く「これも税金なんですから」という表現、実にデリカシーのない言い方だと思う。

★ ★ ★

払った税金の金額によらず全ての日本人が参政権をもつという普通選挙。大正時代にそれを可能にしたのは徴兵制度だと思われる。つまりすべての日本人に兵役の義務があったからだ。カネよりは命。命をかけて国を守る義務を引き受けている以上、税金は関係ないだろう、と。そういうことである。

ただ、上の議論はあくまで戦前期の日本に通用した話しだ。だから、カネを納めているという次元に話が戻る。カネの話しに戻るなら、払っている金額が最も大事になるのじゃないか。

たとえ議員の報酬がゼロであり、税金などは投入せず、議員活動がボランティアであるとしても選挙で選ばれ、有権者の信頼を受けている以上は、信頼を裏切らないことが信義というものだ。こんな議論をすれば格調が高くなるというものだ。戦前であれば「承詔必勤」。報酬をもらっているからやれという思想はそこにはなかった。

まあ、もちろん上の考え方にも副作用はある。信義、つまり自分を支持してくれた人たちの方を向き、その信頼に報いる、その人たちのためにこそ行動する。・・・いけないだろうか?

2017年5月16日火曜日

初の憲法改正は「公布」に劣らず情けない「改正」になるかも

首相が憲法改正の必要性を訴え、そればかりではなく日程まで提案するという状態になって、曲がりなりにも憲法が茶の間の話題にもなることが増えてきた。

いわゆる「改憲派」は、日本国憲法の制定過程がいかにも情けなく、敗戦後の占領時代に押し付けられたものというこだわりがある。

しかし、このままの状況で行くと、初めての憲法改正が首相の提案どおり、2020年に施行されるとしても、それはそれで実に情けない憲法改正に終わる。そんな可能性も無視できないと思う。

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憲法の勉強は小学校の授業でもある(はずだ)。中でも戦争放棄については、特に重要性が高い事柄だと思う。

小生の中学校時代であったか、高校時代であったか、それは忘れたのだが、いまでいう「公民」、当時の科目名なら「政治経済」の授業であったと思うが、たまたま第9条の話になった。社会科担当の教諭が『・・ですから、日本は戦争を放棄しているわけですね。で、戦力は持たない。そうなっています。つまり、自衛隊は戦力ではないという話しです・・・』と、そんな話があったように覚えている。その時、10代であった小生は、『ということは、自衛隊が持っている武器は使わない、使わないから武器ではないってことだよな』と、周囲のクラスメートとひそひそ話をしたような記憶があいまいなまま残っている。

戦後日本を支えてきた「正統派憲法解釈」であると言ってもいいだろう。

が、この憲法解釈が日本社会の「本音と建前」を学ぶ事始めにもなっているとすれば、やはり情けないわけであり、きちんと筋を通すとすれば「自衛隊を解散する」か、「戦力をもつと書く」か、この二つのいずれかになる。

潔癖なティーンエイジャーの感覚からみて憲法の授業は非常にキレが悪いのは仕方がないのである。「現実には」という議論は憲法学でできればするべきではないだろう。

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漫談ではないが、あれから50年。

憲法学者は、自衛隊の存在、自衛隊が保有しているハイレベルの武器、武装。持たないはずの「戦力」とどう整合させて行くのか、この半世紀の間、自分の専門分野についてほとんど何の学問的進展をも示せず、何の草案も提案もなしえなかった(と、専門外ではあるのだが、そう見ている)。

安保関連法が成立したあと、今後の進展について予想したことがある。2年前の投稿に書いている。そこでは集団的自衛権の容認と安保関連法の制定がショック療法になって、これまでとはレベルの違う新しい法理論が専門家から提案され、新立憲主義のような考え方が立ち上がってくる、と。そんな風に予想していた。それでも、議論の収束には時間がかかり、安倍現首相の任期中には改憲は難しいだろうと、そう書いていた。

ところが、今のままではまるで住所変更届でも出すような感覚で、「行政の一環」として、日程どおりに安倍現首相の任期中に憲法改正となってしまうかもしれない。

ちょっと憲法のこの条文、困るんですよね、なおしましょうかネ(→修正:なおしてもらいましょうか)。

そんな感覚である、な。

そうなったら、そうなったで、今度は『この改正は当時の安倍内閣に押し付けられた条文です、実に情けない』と。

まあ、少数派からみれば憲法は「押し付けられたもの」といつでも見えるのだろうが、もっと情けないとすれば憲法学界から何の学問的議論もおこってこないことだ。

2017年5月14日日曜日

今年の"Sell in May"は不発だった?

『申酉騒ぐ』が日本の格言なら、"Sell in May"はアメリカ株式市場の格言だ。これには続きがあって『5月に売って、9月まで戻るな』となっている。

要するに、秋口に株を買い値上がりをまち、5月には売れという投資ルールが当たることが多い、そんな経験則を伝えている。

そういえば、昨年の4月、5月は底値を探るような展開だった。が、1年毎の季節変動というより、夏のブレグジット(Brexit)をどう見るかで不安が先立っているという説明が多かった。その前の2015年の5月も冴えない動きだったが、これも株価の季節性というより国際商品市況の暴落と景気後退が心配されているような説明であった。すると案の上、15年には上海市場が大暴落を演じた。5月に売れという格言はまさに的中したのだが、マクロ経済の変動とたまたまマッチしただけだという人が多かったろう。

今年はどうか。


やはり冴えない動きだ。

しかし、WSJの見方はかなり強気である。

 足元の景気拡大ペースが遅いという懸念は過去のものとなった。目下の注目は次のリセッション(景気後退)にどう備えるかだ。(中略) 5日に発表された4月の米雇用統計が堅調だったことを受け、米経済は正しい道筋をたどっており、FRBはこれまでやってきたことを今後もただ続けていくべきだという見方が一段と強まった。金融情勢は「安定期」にあるようだ。

(出所)WSJ、2017年5月9日

頭打ちのNY株価には、現在のアメリカ経済やFRB当局の見方が織り込まれているはずだ。とすれば、6月から9月まで今年のNY市場はプラスのサプライズが続き上げ基調を辿るのではないか。

理屈で考えると、株式市場に特定の格言が当てはまることはない。その裏をかいて利益を期待する投資家が必ず出てくるはずだからだ ー 市場が十分に効率的なら。故に、単純に過去の経験が繰り返されることはない。

しかし、毎年の年中行事は固定されていて、会計制度や決算の時期も固定されている。同じ時期に、投資家が同じような行動をとりたくなる。そんな反復性があるならば、株価にも現れるはずだ。だから『5月に売れ』。下がるべくして下がるなら、予想通り横ばいになるのと実質は同じである。

たとえ株価が停滞してもアメリカの金融情勢は「安定期」にあるとは、そんな意味だろう。

とすれば、『申酉騒ぐ』が文字通り東京市場で演じられたとしても、それほど驚くことではないことになる。北朝鮮リスクで東京市場は4月から5月にかけて低迷したという人が多かったが、その低迷は本当に北朝鮮リスクでもたらされたものなのか?怪しいものだ。そうなるべくしてそうなった。予想通りであったのかもしれない。予想と外れたトランプ大統領のシリア空爆はあまり関係なかった、その後の心配もあまり関係なかった、実はそうだったかもしれない。

2017年5月7日日曜日

メモ: これって現代の「統帥権干犯」論ではないか

先日、安倍首相が2020年改憲方針を提唱するや、いわゆる護憲派が猛反発しているそうである。

反対自体はその通りだと思うが、その理由の中に気になる、というか面白いものがある。

曰く
安倍総理は憲法改正については国会の熟議に任せると言ったはずだ。そもそも首相が憲法改正を提唱するのは筋が違う。
確かに、憲法改正は立法行為というより、国会が発議し、国民投票で決着するものであるから、行政府の長である総理大臣が提唱するのは筋が違うと言えば、違うのだろう。

ただ、どうなのだろうなあ?

自衛隊が違憲とされる余地を残している現状は、行政を担う長からみれば最大の問題点の一つだと考えても、それほど奇妙には感じられないのだが。

また、議員内閣制である以上は議員の1人として、また政権与党の総裁として、発議に向けて一言あるとしても、それほどおかしなことをしたわけではない(と感じる)。

むしろ、『内閣はこの件に口をはさむ権利はない、違憲である』と意見表明を封殺するかのような護憲派の言い分は、『内閣が軍事の問題に口を挟むのは統帥権干犯である』という言い分とそれほど大きな違いはないと思う。

もしもある1人の国会議員が憲法改正に関する自己の見解を新聞や雑誌に発表して、それが世論に影響を与えれば、『国会は国会として発議する権限があるだけであり、憲法改正は国民が決める。発議してもないのに、一議員の立場で具体的な案を提唱するのは筋が違う』と、そんな『口を出すな』という風な言い方を護憲派はするのではないかと推測する。

誰でも憲法については意見を表明する権利はある。「口を挟むな」と言うのは戦前期の軍部が発明した「統帥権干犯」の発想に通じるものがある。

デモクラシーとは、結局のところは、50%以上の日本人がよしとする方向を国として認めるという原理だ。政治はこの原理に沿って、そのプロセスの中で発生してくる色々な問題を解決していく活動である。

政治家が(政党が)議論をして、勝敗がつけば、勝った側の志が通る。数で勝った結果にせよ、デモクラシーとはそもそもそういうものではないだろうか。その昔、勤務していた役所の大臣が言ったことが理解できず、反発した自分を思い出す。

曰く
理にかなった政策を提案したとして、それが理由で選挙に負けたとすれば、有権者の方が正しいんだ。たとえ理にかなった政策であっても、それは実行してはいけないんだ。
反発した自分が間違っておった。今ではそう考えるようになった。まあ「成長」したのだろう。

戦前期の「神聖なる玉座」のように、多数の勢いを防ぐ防壁のようなものは、今の日本にはないのである。あるのは、日本国民の意識だけである。




2017年5月6日土曜日

「高等」教育無償化の前にやるべきこと

先日、安倍首相が憲法改正に向けた方針を語り、2020年にはいよいよ改正憲法かというので、この話題がにわかに盛り上がっている − とはいえ、まだ現実感がないのか、TVのワイドショーではスルーしている。

改正のポイントとしては、第9条はそのまま残して、自衛隊を保有することを明記し根拠規定を整えるというのが一つ、さらに教育無償化を実現する規定を設ける。具体的なことはまだ未定なのだろうし、そもそも財源があるのかどうかも分からないが、意外と前向きの印象を与えたようである。

ただ、思うのだが「教育無償化」は既に維新の会が提唱していることで、その趣旨は高等教育無償化である。大体からして、高等学校までは義務教育化せよという声が以前からある位だから、いまさら高校は無償にしますからと力説しても、ちっともインパクトがないのは確実だ。趣旨は大学(さらには大学院?)無償化でなければなるまい。

しかしこれを実現するには、以前にも投稿したように色々な難問がある。さらに言えば、それらの難問がないとしても、高等教育無償化の前にやることがあるのも事実だ。

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こんな記事が人気を集めているらしい。

 米国での寿司・和食ブームはとどまるところを知らない。米調査機関ピュー・リサーチセンターの2015年の調査では、米国人が日本と聞いて最初に思いつくものの首位は寿司・和食だった。日本貿易振興機構(ジェトロ)の13年の調査では、米国人が好きな海外料理で和食・寿司はインド料理を上回り、首位・中華料理とほぼ並ぶ2位だった。農林水産省の調査では北米の日本食レストランは13年からわずか2年間で1.5倍の約2万5千店に急増している。
(中略) 
 昨年、日本で「スシポリス(寿司査察官)」という短編動画作品が放送された。邪道な寿司を出す店を取り締まる捜査官を主人公にした作品だ。06年に日本政府が導入しようとした海外の和食レストラン認証制度に着想を得て、皮肉をきかせたものだ。海外からの激しい反発で導入は見送られたが、農水省は諦めていない。昨年には海外の料理人の和食調理技能を認定するガイドラインをつくっている。「適切な」知識・技能を習得した海外料理人の育成と情報発信をうたう。 
 だが、寿司の世界は急激に広がり、もはや日本政府が統制できる範囲をはるかに超えている。その規模と市場原理によってスシポリスが活躍するまでもなく、人気が定着する中で自然に自浄作用も働いている。 
 寿司のおきて破りの現地化と並行して、米国の都市部では築地からネタを空輸するような本格派の寿司屋も増えている。サンフランシスコでもミシュランの星を取る本格的な寿司屋が増えた。日本食ブームが長期間続き、日本で本格的な寿司を食べる経験をした人が増えたのが背景にある。 
 それを象徴するのが有名寿司店「すきやばし次郎」の職人、小野二郎氏の人気だ。ドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢を見る」は米国の料理好きの間でカルト的な人気を誇り、和食の話が出れば「ジローに行ったことがあるか」としょっちゅう聞かれる。14年のオバマ前米大統領の訪日時の会食場所に選ばれたのもこうした理由からだった。


こんな風なので寿司職人は引く手数多という。たとえ寿司職人になったとしても、世間はそう甘くはない。こんなデータもネットにはある。

平均年収:400万円でした。(口コミ調べ)
平均給料:22万円~34万円

すし職人の平均年収の範囲はおよそ300~500万円
一流すし職人の年収:700~1000万円
※九兵衛の年収を売上客数などから予測してみたところ1500万円以上になると予測されます。

海外すし職人(ニューヨーク)の年収:700万~1056万円(求人より)
海外すし職人(上海)の年収:400万~600万円(求人より)

(出所)平均年収.jp

確かに職人修行で期待できる生活もそれほど楽なものではない。

とはいうものの・・・、

そもそも大学新卒者が正規社員として採用されるのは60%〜70%程度という。
参照:https://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/today/rt150126.pdf

非正規社員の年収は7割が200万円に届いていないというデータがある。昇給もほとんどない。
参照:https://mainichi.jp/articles/20160120/k00/00e/040/231000c

大学新卒者の平均年収も200万円程度である。
参照:https://careerpark.jp/4882

現状がこんな惨憺たるものである時、大学教育の根本を改革せずに「高等教育」だからという理由で無償で大学に進学できるようにすれば、どんな状況になるだろうか。

授業料がゼロになるなら大学(大学院にも?)に進学する動機を刺激する。しかし、独立して生活できるスキルを身につけるには、日本国内の大学(大学院も?)はほぼ全て役には立たない(もちろん学部による)。そして、本来は「もっと儲かる」はずの職人修行は、外国から日本に来た外国人に占められる。そんな実に情けない状態がもたらされるだけではあるまいか。

寿司職人だけではない。大工ほか建具職人、畳職人、表具師、染物屋、織物屋、仏壇職人、石材職人などなど、手に職をもった職人層の最近の収入傾向を調べて見るとよい。

現代という時代は、「和の文化」が金になる時代なのだ。日本の中で旧来の大学教育を受けても金にならない。そんな時代になりつつある。このことをもっと真剣に考えて見るべきだ。

政策的に無償にするというなら、確かにそれが日本人の公益となり、支援するだけの価値がある。まず先に、そういう状態にしておくには、役に立たない教育を続けているだけの大学の多さに目を向けなくてはダメだろう。




2017年5月5日金曜日

断想: 無常ということ

北海道の港町にも桜前線が到達した、と思っているうちにもう桜吹雪である。

明治の正岡子規以来、俳句の極意は写生であり、叙景であると言う人は多い。しかし、目の前にある物をそのまま言葉にしても、中々いい俳句にはならないものだ。やはり作る人の心情が伝わったところで、傑作は傑作になるというものだ。写生だけではダメであるし、美しく作っただけでも感動はしない。
夏草や 兵どもが 夢の跡
むざんやな 甲の下の きりぎりす
憂き節や 竹の子となる 人の果て 
旧里や 臍の緒に泣く 年の暮
どれも芭蕉の名句である。が、このように並べて見ると、まったく違ったところで、違った言葉で出来ている俳句ではあるが、伝えようとしている思いはたった一つであることがよく分かる。

それは何より「人の世は儚く、人生は短い」ということだ(と思う)。目に見えている全ての外界は仮の姿であるとする「無常観」とも言える。世界は無常であるが故に、過去と現在が時間軸に順序付けされず、そのまま同じものの重なりとして認識されているという哲学もそこにはある。先日来、本ブログでも投稿しているが、「存在」を時間の中にのみ見るという立場も同じである。

人は過ぎ行くが故に人でありうるのだ、と考えるとすれば人間はなんと言う孤独で、さびしい「存在」だろう。いや「存在」という名称で呼べるかどうかも分からないのが人だ(と思う)。

存在、それはつまり流転と見る立場は、仏教思想の影響下にある日本文化ならではのものと思いがちだが、そうと限ったことではない。

たとえば12世紀に生きたペルシアの詩人オマール・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』の中の一句:
地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面、星の額であったろう。
袖の上の埃を払うにも静かにしよう、それとても花の乙女の変え姿よ。
芭蕉が俳句に込めた世界観と、ここに歌われている儚き世界と、どこが違うだろう。


2017年5月2日火曜日

ワイドショーと並んで増えてきた番組

ずっと以前になるが、その時代時代のヒット曲、ヒット曲の歌詞には、その時代の雰囲気や景気の良し悪し、さらには社会的に信んじられていた理念までもが映し出されるものだという先生がいて、ちょうどその頃、勤務先の広報誌の編集をまかされていたこともあって、その先生にエッセーを依頼したことを覚えている。

もう一昔も二昔の前のことだ。

原稿を書いてくださったその先生もとっくに鬼籍に入った。


そのことを思い出して、気がついたのだが、ヒットナンバーばかりでなく、たとえばどんなタイプのテレビ番組が相対的に増えてきているか(減ってきているか)という番組傾向にも、その時代が表れるものではないだろうか。

そんな目で最近の(出版業界はさておき)テレビ番組の編成傾向を振り返ると、目に見えて増えてきた分野が三つある。一つは、言うまでもなく報道と素人コメンテーターを混合したワイドショー。小生が「若い頃」(いやだねえ、こう言う齢になったとは)は、ニュース番組やニュース解説はあったが、井戸端会議風ワイドショーは一つもなかった(と思う)。

残り二つは、クイズ番組とミステリー番組(というよりテレ朝風・警察ドラマ)だ。

ミステリー番組は、また別に語るとして、最近よく見るのは特にクイズ番組に東大や京大など日本国内(ばかりには多分したくないのだろうが)エリート大学の現役学生が、回答者や出題者になってよく出演していることである。小生が若い時代にもクイズ番組はもちろんあったが、東大生や京大生、慶大生などが(たまに偶然で出場することはあったが)、番組の中心要素として出るなどという演出はなかった(ように思う)。

小生、最近のこの現象を「東大生=芸能人化現象」と名付けているのだが、要するに(何を勉強しているかどうかとは関係なく)東大生であること自体に芸能ビジネス上の価値が認められてきている。そこにマスメディア産業が番組素材として注目していると。そういうことだと考えているわけだが、そこで登場するクイズは暗記している知識を問うのが多いのは当たり前として、知識が役に立たない「頓知クイズ」もまた大変多いのだな。ナゾナゾが高級化したような問題だ。もちろん正解がある。

公務員試験にも頓知クイズが出題されていたくらいだから(今でもそうなのだと憶測するが)、「下らない」と却下するつもりは全くない。子供がナゾナゾを喜ぶのは全然下らなくないのだが、ただ 「優秀」とされるはずの大学の現役学生がこのような暗記クイズや頓知クイズに強いことで場が盛り上がっているのを見ているよりは、やはりプロの歌い手が情感タップリに熱唱するのを聴く方がずっと”プロフェッショナリズム”というか、”職人の冴え”というか、ずっと高密度の実質を感じるのだなあ。

思えば、こんな歌番組もずいぶん減ってしまった。

まあ、小生以上にヘソが曲がっている人間は少ないと自負している。こんな感想を持つこと自体、偏屈そのものだと言われればそうなのだろう。


ただ思うのだが、着想鋭くまるであっと言う間に知恵の輪をとくような感じで、難し気な頓知クイズに正解を出せるというのは、どんな状況で役に立つ能力なのだろうか、と。

だって「正解」などは現実にはないことが多いし、「正解」があれば複数人が相談すれば、まずは正解に到達するものだからである。

ずっと前に小役人をしている頃、暗礁に乗り上げて関係部署すべてが降りる気配がないときに、ハッと灯がともるような感覚で「こうしてはどうですかね!」と提案することが何度もあった。誰もが着想しないような方向から、無駄な努力を続けずにすむような、見事なショートカットのような解を見つけたように思ったものだ。

その幾つかは、当時、ずっと年長の上司に採用され、そんな時には小生も自分が評価されたことを嬉しく思ったものであったが、今から思うとそれらの「解決策」はほとんどが屁理屈やトンチ、言いくるめに類するものであり、そうでなければ裏道や抜け穴を使った奇襲のような策だった。

自分と関係者がとにかくその場をしのぐには役立ったが、難航している問題を解決するような大技ではとてもなく、故に真の意味での信頼を得るには何の役にも立たない知恵だったと今では猛省している。ましてや、「これ以外に方法はありません!」と声を大にして主張したその時の自分を思い出すと、周囲を振り回し、迷惑をかけ、結局は回り道を強いてしまったという後悔が今になって針のように心を刺すことがある。

歴史上の人物と比較するのは傲慢だが、帝国陸軍の参謀・石原莞爾が満州事変の基本作戦を立案した時に『こうするしか問題は解決できません!』と、浅掘りの「知恵働き」で提案したのでなかったなら幸いだ。

・・・「エリート」というのは問題を解く才能を評価されてきた人材なのであり、常に正解があるものと前提して、正解を探してばかりいる、そんな人間たちなのである、特に日本的教育システムにおいては。


カミソリで切れるのはせいぜいが髭や皮膚である。木を切り倒すには重い斧が必要であり、岩を砕くには大砲と砲弾がいる。

「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱は、将軍が通る道に巨石があって難儀している人たちをみて、穴をほって埋めればよいと即座に提案して感心されたそうだ。

将軍家光の時代、知恵伊豆は名臣ではあったが、その知恵が歴史を通して輝いているかといえば、実はそうではなく、知恵や才覚というのは案外、到達距離が短く、賞味期限も短いものだと思ってしまうのだ。

ゲーテは『つねに努力をする者は迷うものだ』と天才・ファウストのことを評しているが、だとすれば99回の失敗のあと、最後の1回で正解をみつける。そんな「無駄な努力」を敢えて続けてしまう。本当に驚嘆するべきことがあるとすれば、信じられないほどの時間を自分の目的のために現に使ってしまうことなのだろう。

そんな努力のプロセスは、当然ながら「番組」になるはずもない。一見難問と思われる問題に、瞬時のうちに正解を出す頓知クイズのほうが絵になるわけである。「これ、正解ないですよね」ではダメなわけである。

「絵になる」ことは価値の一つではあるが、「絵になる」才能が求められている才能だと誤解され、そのような活動に資金が投入されるとすれば、やはり日本の科学の未来は危ない。見ていると、そう思ってしまいますネエ・・・。

ワイドショーだけではなく、ここにも民間ビジネスである現代マスメディア産業の外部不経済があるかもしれない。言葉やエンターテインメントは世間を映し出しているとともに、映している世間を支えることによって、社会の進展に影響を与えもするものだ。これが「外部経済効果」でなくしてなんだろう。

モノにせよ、サービスにせよ、提供者の能力レベルを超えて提供されることは決してない。

最近、気に入っている経験則である。「報道」は情報自体に含まれる価値で評価されるべきものだが、そこに作り手の意図が混じれば、もはや「報道」ではなく、情報としても疑うべきものになるのだ。

2017年5月1日月曜日

小人閑居から申酉騒ぐになってきたが・・・

以前の投稿を見ていたのだが、これは我ながら卓見だと感じたのが一つ。
本日は、WBC決勝、大相撲大阪場所、それから降ってわいたような森友騒動にかかわる籠池理事長の国会証人喚問の三つが重なり、どれもTV中継で視聴率が見込めるとあってマスコミ「現場」は「嬉しい悲鳴」をあげているという噂だ。
(中略)
小生の上の愚息は熱烈な相撲ファンである。
NHKは証人喚問を終わりまで、Eテレは高校野球、その余波で大相撲が5時からの中継開始になってしまったと、嘆いていた。
国会・予算委員会という劇場で上演されているドタバタ劇よりは、ここ最近の大相撲の方がもっと緊迫感があり、かつ幅広い視聴者から希望されている番組であったのではなかろうか。少なくとも、小生は甚だバカバカしく、とても最後まで観る気にはならない内容であった。
もしも森友事件の登場人物に首相夫人の名前がなければ、大相撲を押しのけて中継されるようなイベントにはならなかったはずだ。
(中略)
まあ、これらすべて、トランプ米新政権がいまだ機能不全であるためだ。
何もリアルな衝撃となって、日本に投げかけられるものが出てきていない。
中国は党大会の年であり「内向き姿勢」。韓国もまた政治的に機能不全状態。ヨーロッパもまた選挙の年であり「内向き姿勢」。英国はEU離脱でそれどころではない。
加えて、世界経済は2015年~16年に進んだ石油等の国際商品価格暴落から回復し、明るい見通し。心配される状況ではない。
国際政治経済をみると、日本はいま何をしてもよい、というか宇宙遊泳に似た状態なのである。
このチャンスを生かしてロシア外交を大いに進めればいいのにと思うのだが、所詮、択捉や国後は日本国民の関心外と思われる。ロシアは共同経済活動にロシアの法律を適用すると主張しているが、このことを大きく報道したマスメディアは皆無である。瞬時のうちに話題から消え去った。
投稿日付:2017年3月23日

4月に入ってからは、ト大統領が敢然と攻勢に出て東アジアは騒然となった。トランプ政権がついに走り(暴走?)始めた。想定外のその衝撃の中で、さすがの「森友騒動」も急速にテレビ画面や国会舞台からフェードアウェイしていった。

やはり「リアルな衝撃」は、「疑惑の衝撃」、「想像上の衝撃」を打ち消すわけであり、この事自体は、日本社会がまだまだ健全である証拠であった。

ロシアの出方や思惑、日本の対ロ外交が鍵となる点も上の投稿には書き込まれており、我ながら感心した次第だ。

どちらにしても閑居していた頃の国会は、よく言えばディベート、悪く言えば国会中継の視聴率向上を目指した営業としか外部の目には映らない。そんな印象であった。

しかしながら、北朝鮮が日本に向けてすぐにはミサイルを打つ心配はない。狙われるとすれば、まずは米海軍か韓国であろうと安心する心理が心中に広がってきたのだろうか、この2、3日になってまた森友騒動が再開される模様になってきたのは、やはり「小人閑居」の癖が抜けないのだろう、と。

時折しも大型連休の真っ只中である。やっぱりね・・・。「閑居」である。

そう見ているところだ。
いやまあ、あとから振り返るといかなるストーリーで語られるのだろうか?昨年から今年にかけての世情は。