2017年8月31日木曜日

一言メモ: 対北朝鮮外交に戦略的余地はあるのか?

北朝鮮を国家として承認していない国は世界でも少数である(Wikipedia)。日本は米・韓とともにその数少ない未承認国の一つである。つまり、朝鮮半島全体は韓国の領土であるという立場を日本はとっている。そう解釈せざるをえない ー 現に韓国はその立場にあることを憲法で明確にしている(と聞いている)。

朝鮮戦争はいまだに「休戦状態」にある。米・韓は北朝鮮の敵国である状態はまだ続いている。

故に、北朝鮮が現にとっている行動を「国際平和を破壊する行動」と直ちに断定するのはあまりに此方側の見方に偏っており一面的に過ぎる。こんな観点もあると言えばあるだろう ー だからこそ中露は北朝鮮を陰に陽に支援し続けている。「より有効な経済制裁に向けて中露の協力を日米は要請する」といっても、中露の国益にかなうわけでもないので、おそらく機能するまい。

ともかく現状は持続可能でない。しかし、現状を根本的に変更する試みも不可能に近かろう。

◇ ◇ ◇

日本が北朝鮮を承認することのプラスは何か?検討してもよい時機ではないのか(というか、もう検討はしていると思うが)。

東アジアのありうべき状態は「現状固定の相互承認」のみである(と思われる)。朝鮮半島の現状を固定し、平和共存を目指す方向は、日本にとっては確かにプラスである(どのようなプラスであるのかは多面的だが概ね自明である)。

朝鮮戦争開始と休戦までの期間、ずっと日本はアメリカの占領下にあった。朝鮮戦争の結果である半島分裂は日本の責任ではない。が、明治以来の外交史を振り返ると半島の現状に日本は相当の責任を負っている。日本は日本で選択すべき朝鮮半島外交があるだろう。

イギリスもドイツもカナダもオーストラリアも北朝鮮を国家として承認している。北朝鮮の存続を認めている。国家としての承認は平和を築く交渉の第一歩である。もちろん日本による北朝鮮承認となると、東アジアにおける波及効果は(特に韓国に対しては)かなり大きいに違いない。が、日本はまだ使っていない外交上のリソースを有していると考えるべきだ。

◇ ◇ ◇

外交を尽くしていないにもかかわらず、軍事行動を検討するのは、現行憲法の理念を真っ向から否定するものだ。統治のロジックが破綻している、と。そう言われても仕方がない。

2017年8月28日月曜日

この報道用語は「情緒主義」から生まれたのではないだろうか

知る権利と忘れられる権利との選択(?)という。これまた、いかにもマスコミ各紙の好みそうな表題だ。

教え子の小学生への強制わいせつ容疑で、愛知県警に逮捕された臨時講師の男の公判が名古屋地裁岡崎支部で進んでいる。男は4年前にも別の小学校で性犯罪を起こし、停職処分を受けていた。男が名前を変えたこともあり、情報が共有されなかったという。
(出所)朝日新聞 DIGITAL、2017年8月26日配信

そもそも「権利」というのは「憲法」や「法律」の明文があってはじめて担保されるものだ。法的根拠がなければ、それは「慣習」として定着している常識(=Common Sense)であるはずだ。これにも該当しないとすれば、これ大事ダヨネ、ソウソウというレベルの「日常用語」である。どうも小生、勉強不足で「知る権利」や「忘れられる権利」がどこで規定されているのか知識がない。そんな権利は、小生の少年期から青壮年期にかけて言葉もなかった。なので定着した慣習であるはずはなく、故にそんな権利が存在しているのだとすれば、いつの時点でか国会で規定されたか、でなければ誰かが使い始めて広まったファションに近いものだ、と。 どうしてもそう感じてしまうのだ。

要するに、「知る権利」にしても「忘れられる権利」にしても読者の情緒に訴える報道用語じゃあないのかと、そうも思われるのだ、な。

ただ、上の問題提起は意外となかなか深い。これも事実。結構入り組んでいる問題である。

***

ロジックとしては『公的機関が正式に決定した判断は、立法はもちろんのこと、行政にせよ、司法にせよ、すべて国民に公開されなければならない』という原則に従うべきだ。「だって公共機関の決定なのですから」というわけだ。ロジックはまずこうなると思う。

故に、いわゆる「前科」は公的情報の一部をなし、原理としては共有されるべき対象である。求められれば(よほどの理由がない限り)隠蔽するべきではない。その処分の結果そのものだけではなく、決定の際の責任者、経緯等々を確認できる文書も同様である。

中央官庁で日常的に作成されているメモや事務連絡でさえも「公文書」であると、隠蔽するのは怪しからんといって内閣支持率が急落するほど大きな騒動があったのだ。公的な処分は当然のこと、誰もがアクセスできるよう公開されなければ筋がとおらない。

こう考える以外に議論のしようはあるだろうか?・・・あることはあるのだな。

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それでは、公的機関が関係しない私的処分はどうか。たとえば、ある人が何らかのトラブルで勤務している●●社人事担当部局から減給や停職処分を受けたとする。その人が、会社を退社し、別の会社に就職しようとしている時に、その別の会社が元の会社に当該人物について何らかの処分歴があるかどうかを照会することは可か?

さすがにこれは、小生、素人だ。法律では照会をうけた会社に何らの(伝えることも、秘匿することも)義務も課していないように(感覚的には)思う。処分は会社による行為であり、社内では周知のことであるから既に個人限りの情報ではなく、当該人物の「個人情報」には当たらないとは感じる。が、要確認だ。

それでもある程度は検討は可能だ。

もしも不祥事を起こされた元の会社が、その事実が広く共有されるよう積極的に情報を提供するとすれば、これまさに江戸時代以来の「奉公構」になってしまう。近代以前、「奉公構」は単なる追放(=懲戒免職)ではなく、類似の就職機会をも奪う重い刑罰として機能した。元の所属先から「回状」を出された人物は社会の最底辺に身を落として生きるしか道がなかった。これは個別の主家による刑罰である。これと同じことをいまやってしまうと、憲法で禁止されている「私刑」になる。免職でなく、停職であっても、その情報を広く提供すれば結果は同じだろう。同じ結果であるから、求めに応じて処分歴を提供しても、やはり民間関係者による「私刑」となる(そう思われる)。

上の問題がなかなか深いのは、公的機関による処分であっても、要求に応じて個人の処分歴を公開してしまうと、実質的に禁止しているはずの「私刑」(法律によらない刑罰を課す行為)を公共機関が行ってしまうからである。それとも公共機関なら許されるのか。

行政情報公開の原則と、私刑禁止の法理と。どちらを優先するかである、な。だから、意外と深い問題だ。

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【29日午後加筆】

それにしても今朝の北朝鮮によるミサイル発射に対して政府やマスコミ各社がどう反応しているかをみると、実に面白い(と思う)。

安倍政権は(当然のこと)『わが国を飛び越えるミサイル発射という暴挙はこれまでにない深刻かつ重大な脅威だ』と非難の声明を出している。それで、トランプ大統領と電話会談をして『圧力強化で(日米は)一致』したと、そう報道されている。

実に、淡々とマスメディアはそれを伝えている。政権を支持するのか、日米一致一本道でいいのか、もっと強硬に対応せよと言いたいのか、どうやら意見らしい意見はマスメディアは持っていないようだ。

森友事件や加計騒動ではあれほど食い下がって反政権闘争を展開したのにネエ・・・。
怒ってみたってショウがねえべヤ。あっちは安倍さんじゃあなくってサ、国なんだわ。こっちが怒ったって、向こうは打つんだからサ、怒ったって何がどうなるってもんじゃないっショ!落っこってくるわけじゃあねえからサ、何発かうたれているうちにサ、だんだん 慣れていくっショ(笑。
メディアの人たち、実際こんな感覚なんですかねえ・・・恐ろしいといえば恐ろしゅうござんす。

状況としては、マスメディアはもっと怒らないといけない。強硬路線を支持するなら日本独自でもっと強化せよと主張するべきであるし、対話路線なら制裁オンリーの現政権の外交路線を非難しなければならない。融和路線を主張しなければならない。政権をもっと批判しないといけない。何が違法か判然としない加計問題では、それができたのだから、政権批判ができないはずがない。そうじゃあござんせんか?

どう見たって、この春先以来の報道姿勢といまのスタンスはつじつまがあっていない。

地方の一大学の一獣医学部、大阪の(どうでもよい)一小学校の設置問題には腹がたっても、隣々国によるミサイル実験にはあまり腹が立たない、と。やはり、論理というより、いまの「情緒」を大事にしているようでもあり、これまた情緒主義報道の和風ヴァージョンなのかもしれない。韓国のことを云々はできないねえ。まあ、日本では身の回りの細々としたことを書き綴る日記が日記文学として世に迎えられ、自分の感想を縷々とつづる私小説が高く評価されてきた。そんな感性にあった事実報道が覚えず情緒主義になるのは、ある意味、自然のことかもしれない。


2017年8月26日土曜日

「当選=有権者の代表」とリスペクトされない時代もやがて来る

1990年半ばから2010年代にかけて<官民の民>がずっと優勢である。もちろんその背景としてバブル発生とバブル崩壊に対処しようとした旧来の官僚主導体制の堕落と破綻があったのは言うまでもない。

その頃、官の言い分があるとしても選挙で当選した政治家が一喝すれば、有権者はそれに拍手喝采したものである。民主党政権における菅直人・元首相が『異論があったら君達も選挙で当選してから言いなさい』と(官僚幹部に対して)言い切ったのは、(本当かどうかは知らないが)時代を象徴する一例だろう。

そんな時代がもう25年近く、一世代ともいえるほど長い期間、ずっと続いて来た。思想の寿命としてはもう大分長くなったと言える。

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ところが・・・

少し以前になるがTVのワイドショーで飯塚市の市長・副市長が勤務時間内に庁舎を抜け出し、別の建物で賭け麻雀に興じていたという話をした。聞けば経営者出身の地方政治家だそうである。選挙で当選して3期目ということだった。

う〜ん、確かに(声高には言えぬが)「賭け麻雀」なるものは小生がその昔に勤務していた役所でも行われていたし、「賭けゴルフ」なることもやっていた。やっぱこれって「犯罪」だよネ。ダメだよね。

こんな風に「犯罪だよネ」と発言している人は多いのだが、普段から相当多くの人は実際に賭けをやっている。これは厳然たる事実だ(と思う)。事実であるとずっと前から知っておきながら、いざとなると「これは犯罪です」と指摘して追い落としへの口実に使うのは、簡単にいえば「罠」である。法律には合致しているが卑怯であろう。

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とはいうものの、地方議会議員の不祥事、東京オリンピックにまつわるゴタゴタ等々、色々とあがってくるスキャンダルや混乱を聞いていると、「選挙で当選した」ということそれ自体にどれほどの価値があるのだろうか、と。(安定しているかもしれないが)安い給料で黙々と勤務している公務員という集団は、時として「異分子」が混じるかもしれないが、全体としてはより高く信頼できるのではないか?機能的ではないか。少数の政治家に任せるのは危ないのではないか・・・

大体、宝くじの当選ではあるまいし、選挙の当選を振りかざすエリート意識も鼻持ちならない・・・。嘘が必ず混じっている選挙運動よりは、公務員試験の受験勉強のほうがずっと誠実な努力ではないだろうか、そこに嘘は混じっていない、と。

……もしこんな感覚が芽生えてくるとすれば、その時点から以降、選挙制度に基盤をもついわゆる「政党政治」は間違いなく機能不全をおこすだろう。そう思いながら「また出てきたか」とTVを視ている。

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ずっと昔の官僚集団は、同年齢層のわずか1パーセントを占めるにすぎない帝国大学卒業生しか高等文官試験を受験することはまずなかった時代の人々であり、その中でも東京帝大、京都帝大という少数の大学卒業生しか実際に採用されることはなかったと聞いている。そして最後に出世を遂げるのは、同じ東京帝大卒でも旧制一高を卒業した人物にまずは限られていた。そんな伝説もあったくらいだ。しかしながら、点数第一ということは、血縁・人脈・縁故はゼロの裏返しでもあったのだ、な。

試験の受験資格は全国民に(建前上は)あり、国公立学校の授業料は極めて低廉であった。戦後になってしまうが、小生のカミさんの兄は某国立大学の医学部を出たが、その当時の授業料は3万円だったという。貨幣価値を考慮するとしても安い。少年マガジン1冊が40円か60円くらいの時代であったから、今の価値に直せばざっと15万円である。月当たりで1万2千5百円/月。これなら親の仕送りがなくとも奨学金とバイトで自活できる。戦前はもっと授業料が安かったと亡くなった父親は語っていたーというか、教師になる師範学校、軍人になる陸軍士官学校、海軍兵学校は無料だった。

こう考えると、意欲(と頭脳・力量)さえあれば開かれた学業機会を活用して誰でもが高等教育をうけ「公職」につく道があった。そんな道を(努力して)歩んだ官僚集団は、それ自体が開かれた民主主義社会の成果であった。そうとも言えるのではないか。

少なくとも人脈や地盤、そして何よりも先祖に著名な人物を持っていると言う血統的優位が価値をもつ政治家集団よりは、世襲の困難な官僚集団のほうが、小生よっぽど民主主義に合致しているように思えますぜ。

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満ツレバ欠ケル。栄枯盛衰。ピークを迎えれば、あとは下り坂になる理屈だ。

規制緩和、民間主導。この理念にも自ずから賞味期限がある。経済理論としては、決して間違ってはいない。しかし、正論が通らない時代は反復的に交代的に現れるものだ。正論が常にとおるなら、大体、敗戦などあるものではない。

全ての時代を通じて一貫して合意され、支持されて来た社会科学的仮説は一つも存在しないのが現実だ。時代状況が変われば、正しいとされる政策も変わる。社会科学は正当化のためのツールとして利用されて来たのが現実だ。学問分野にも栄枯盛衰はある。

社会は正常状態に収束しつつあるのではなく、非エルゴード過程として収束点なき漂流を続けている。これが社会経済発展の実証的真相である。

近代日本において、最初は薩長藩閥、明治から大正にかけ発展を遂げてからは政党政治、その後政党が官界を侵食し、官界が政治の場と一体化し、そして政党が財閥と癒着してきた段階で政党不信が高まる。1929年の世界大恐慌で金融政策をしくじるに至り、それまで逆境にあった軍人集団への期待が高まる。軍部と相応じた異端派革新官僚が下克上のように台頭し、国家総動員体制の確立と軍国主義へと走る。その後は知ってのとおり、崩壊と占領、独立、戦後日本の再出発となる。

こう列挙すると、トレンド要素とともに循環要素が確かにあるようだ。単純な「振り子理論」では素朴すぎて話にならないが、(一つの切り口として)官と民との間の潮の満ち引きを振り返ると、次第に逆転しようとしている。そんな予感を覚えるのだ、な。

これら一連の事柄が、現行憲法そのものの賞味期限まで意味するものであるのかどうか。そこまで分かるはずはない。

2017年8月21日月曜日

覚え書: 政治参加機会は平等であるべきか、平等になっているか?

民主主義の下では、誰にでも選挙権が与えられる普通選挙が欠かせない。と同時に、誰もが公職(特に議員や知事、市長など)に立候補できる被選挙権をもつことも大事である、これは歴史や政治学、高校以下の授業「公民」でも強調されているので周知のことだろう。

ただ「公職」とはいっても、国公立大学長や中央官庁の事務次官や局長、あるいは地裁所長や地検・検事正、警察署長や税務署長などに誰もが自由に立候補できるわけではない。学位などが求められることがあるし、組織内現役であることが求められることも多い ― とはいえ、国立大学では原則的に公募が行われ出来る限り参加機会の平等が図られていることも付け加えてよいかもしれない。

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誰もが参政権をもち、誰もが公職に就く権利を有するとはいえ、まさか「非常識なバカ者」が当選するという事態はこれ自体歓迎されてはおるまい。まあ考え方によっては、権力者に「とんでもない愚か者」が当選してしまう事態もまた、民主主義のコストであって、民主主義を維持するためには耐えるべき不幸な事態であると、こんな見方もあるかもしれないが、おそらく少数派であろう。

合法的に選出されたヒトラーやマッカーシーなどのレベルに至らないまでも、ダメな国会議員、好戦的な大統領、常軌を逸した知事などは十分出現可能である。とはいえ、こんな種類の人物にも他と平等に当選する可能性を与えるべきであると本気で考えている有権者が多数いるとは(小生には)とうてい思われない。もし平等に当選する可能性を与えよというならクジを引くのが一番だが、とんでもない人物が紛れ込んでいるのにクジを引かせようとは誰も考えまい。つまりそんな「問題のある人物」には当選させたくないのである。

こう考えると、普通選挙と言い、民主主義とは言っても、誰もが平等に同じだけの政治参加機会を有するべきだと考えているわけではない。特に被選挙権についていうときは、「誰でも」と考えているわけではなく、「適任者」を選抜しようと考えているのであるから、問題は民主主義というより、「選挙」は最適な人材選抜方式であるのかどうかということになる。「選抜」という以上、言葉の定義上、望ましい人物と望ましくない人物を区別(≒差別)する意思がそこには含まれている。

投票する立場からは平等に参加できているように見えるが、実際に選ばれるのは誰かという側からみれば、平等では決してなく、選ばれやすい立候補者と選ばれにくい立候補者に分かたれる。「能力主義」なのだと言えば一見合理的だが、能力を測るのであれば選挙という方式を用いる必然性はない。能力評価を客観的に行う方がよいのだ。なので、立候補する立場に立とうとするとき、参政権の平等という言葉は(現在の日本社会は)多分に欺瞞であると思う。

もし選挙される側に存在する実質的な不平等を理にかなったことと認めるのであれば、選挙する(=投票する)側における望ましい区別(≒差別)を認めるまで、あと一歩しかない。有権者を限定したり投票権の数や内容に区別を設ける制限選挙である。目的が「選抜」であるなら、選抜精度・民主性・コストの側面から最も社会的合理性をもつ方式を採用するべきである、ということになる。実際、世の中は大きく変わってきた。激しく変わってきた。今後、どう変わっていくか誰にも分かるまい。

・・・このような考察が民主主義社会を根本的に変質させる危険な考え方であることは言うまでもない。政治参加機会の平等に努力することは民主主義社会であり続けるための必要条件である。

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もし最高裁が考えているように、住んでいる都道府県によって選挙における一票の重みが違うことが憲法上の平等規定に反すると考えるのであれば、被選挙権、いや被選挙権という言葉に含まれているはずの実質的な参政権が社会のあらゆる階層に現実として平等に与えられているかどうかにも目を向けるべきではないだろうか。これも合理的な問題だと思うのだ。

社会の行方を決めるのは、実際には立候補し、当選し、公職につく人物たちに限られるのだから。投票権はいくら平等でも、公職につく可能性が実質的に不平等であれば、政治参加の機会が平等に提供されているとは言えないのではないか。

とすれば、現に国会議員の少なからぬ割合が親から地盤を世襲した二世、三世議員である現状をみれば、裁判員決定方式と同じにして、たとえば市会議員、都道府県議会、国会議員の議席の何割かは、全住民に平等な参加機会を与えるため抽選で決め、議員歳費を支給し、議会開催時の出席は有給休暇消化に参入しない。論理からいえば、こんな措置も必要になるのではないか。

・・・もしこんな議席決定方式が国会の円滑な機能を阻害すると、「それは無理です」と反論するなら、選挙区ごとの定数配分もまた国会の円滑な機能のためには必要なのだ、と。それは国内政治が必要とすることなのだと。そんなロジックになるのではないか。

都道府県ごとの、というより選挙区ごとの一票の重みの違い云々は、参政権平等を考える問題群の中のたった一つの(恐らくあまり重要ではないが、数字で「見える化」されている)問題でしかない。そう思っているのだ、な。

多くの論点の中のたった一つに注意を集中することは、正しい判断を得るには有害であると思う。

2017年8月18日金曜日

一言メモ: 韓国の対日個人請求権を論理的に考えると

本日の報道によれば
文氏は日本の朝鮮半島統治時代の徴用工に絡む請求権について、「個人の権利は残っている」との韓国の司法判断を踏襲する考えを明言した。
(出所)産経ニュース、2017年8月18日配信

この状況は、1965年の日韓請求権協定にかかわらず元・従軍慰安婦の対日個人請求権は消滅していないという司法判断が2011年8月以降に韓国で下されるようになり、その後の紛争激化に至っていることから、当然予想されていたはずだ。

同協定に関するネット上の解説をそのまま引用すると次のような説明があり、小生の多くない予備知識ともだいたいは合致している。
この協定は、日本が韓国に対して無償3億ドル、有償2億ドルを供与することなどで、両国及びその国民の間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認する内容である。したがって、戦時中などに生じた事由に基づく請求権は、いかなる主張もすることができない。また、この協定に関する紛争があれば外交経路で解決するものとし、解決できない時は第三国を交えた仲裁委員会に付託することになる。
(出所)コトバンク

もちろんこの解説は日本語で書かれている日本人向けの説明である(に違いない)。

慰安婦問題をはじめ韓国の対日請求権問題は、これまでの経緯をざっと調べれば調べるほど、細密な論点が絡み合い、一刀両断にはいかないことがわかる。

そもそも「戦時中に生じた事由に基づく請求権はいかなる主張もすることができない」という明文があるなら、それと同時に「この協定に関する紛争があれば外交経路で解決する」ものと記述している趣旨をどう解するのか。戦時請求権が完全消滅しているなら戦時請求権に関する「紛争」は起こりうるはずがない。矛盾である。まあ、この辺りに日韓外交の積み重なりが象徴されているのだろう。

「すべての対日戦時請求権は消滅した」と日本が主張し、韓国政府(というより司法府)が個人請求権は消滅していないと、つまり個人の権利の有無がそこで判定されているなら、かつ請求権を有する元・従軍慰安婦は未だ戦時被害を弁済されていない事実が現にあるのなら、まず韓国政府が請求者に代理弁済し、請求権者の不便を解消するのが順番として本筋ではないか。そうすれば、少なくとも韓国内において問題はまず解決される(という理屈だ)。対日請求権が残っていると行政府が考えるなら、支払金額の払戻しを外交ルートで求めるのが協定に沿った最もロジカルな手順ではないか。残るのは純粋な外交問題だけとなる。しかし、そんな措置は勉強不足のためか聞いたことがない。実効ある問題解決をせず少女の彫刻作品を多数展示して記念碑群とするのはどうにも合点がいかない。ロジックが通らない。被害者本人たちより「関係者」がどこか宣伝じみていて美しくない。問題に取り組む韓国・行政府の姿勢全体が杜撰である。国家的名誉も毀損されるのではないだろうか。が、これまた外野席からみたときの美的感性の一例にすぎない。

ま、要するにゴールは最初から動く余地があった。そう考えるしかない。

2017年8月17日木曜日

「明治維新によって文明開化がもたらされた」という見方は科学的ではない

終戦記念日に靖国神社を訪れると、荘厳であるべき境内周辺は政治団体の勧誘(?)で騒然としており、そうかと思うと戦前どおりの帝国陸軍軍装を来た一団が闊歩していたりして、とてもじゃないが心をこめて参拝をするような雰囲気ではないそうだ。

それにしても戦前を懐かしむ人は案外に多い。増えているのかもしれない ― ひょっとすると、安倍総理その人もそうかもしれないと思わせるところが恐いといえば恐いのだが。

***

戦前期・日本は明治維新(王政復古)でスタートして1945年8月15日で終焉を迎えた。これに反対する人はまずおるまい。確かに明治憲法が施行されたのは、維新から20年以上もたった1890年であったが、フランス流に名前をつけるとすれば戦前期・日本は全体として「第一帝政」という名前に落ち着くのだろう。まあ、維新から明治憲法施行までが第一帝政、憲法施行から敗戦までを第二帝政と呼ぶ人もいるだろうが、本質に大した違いはない。この伝でいえば、戦後日本は国民主権となり「帝政」とはいえないので「第一共和制」ということになるのだろうか。いや「共和制」ではないなあ・・・「象徴天皇制」ではあるのだから。ま、この点は今日は置いておこう。

日本人で明治維新を非常に高く評価する人は多いはずである。義務教育でもそう教えられている。廃藩置県や文明開化はそのプラス評価の柱だ。が、そんな一時期の功績に注意を限定してプラスに評価してよいならば、戦後の日本についても昭和20年代の財閥解体、農地解放、そのあと昭和30年から45年に訪れた「高度成長」時代だけをとりあげて、非常に高い水準でプラスに評価してもよい理屈になる。これが片手落ちであるのは当然だ。

政治体制、というか一つの時代を形成した特定の社会システムの評価は、発足から終焉までの総決算によって評価するべきだ。つまり、戦前期・日本を評価するなら、大政奉還を天皇が勅許した1867年11月10日時点の日本と1945年8月15日時点の日本の国土と社会を比較して、双方のプラスとマイナスを評価するべきなのだ。総決算とはそういうことだ。

そして戦後日本の中間評価をいまするならば、1945年8月16日と2017年8月16日(今日の時点)を比較して評価する。そうでなければ全体を評価することにはならない。

確かに戦前期・日本の下で科学技術は向上し、資本蓄積は進み、人的資源もレベルアップした。それは事実だ。とはいえ、そもそも(客観的数値化などは不可能だが)旧幕時代最後の一日における国民の平均的幸福度と玉音放送があった一日の国民の平均的幸福度とどちらが高かったのだろうか?総決算とはそういうことである。1945年8月15日の日本が戦前期・日本の帰結である。これはもう自明のことである。

***

一般に、ある政策の効果を評価する場合は次のようにする。

  1. 政策を示す外生変数を定義する。
  2. 実際に実施された政策をデータに含めモデルを推定する。
  3. 政策の実施がなければどうなっていたかをシミュレートする。
  4. シミュレートされた計算値と実績値との差が政策の効果である。
  5. また、ほかに実施されえた政策を複数のケースに分けてシミュレートする。その中で最善の結果をとって、実績と比較する。実績がシミュレートされた最善値を下回れば政策による不利益があったと考える。
実際には、上のような経済実験はデータ的にも概念的にも実行が困難である。しかし、上のような考え方に沿えば、「もっとうまく出来たのに」という歴史上の「イフ(If)」はいつでも当然あるわけで、<明治維新のおかげで文明開化が出来たのだ>という歴史評価は決して科学的議論ではないことに思いが至る。

AのあとBがもたらされた時、Bという結果の原因がAであるとは限らない。AダッシュやAツーダッシュからもBはもたらされうる。因果関係の検証は慎重さを要するのだ。しかし、歴史評価ではAがあったからこそBがあったという議論をよくする。『先にあったことが後にあったことの原因である(post hoc ergo propter hoc)』(英訳:"after this, therefore because of this")と考えるのは昔からよく知られている誤謬"post hoc fallacy"である。「明治維新のあと文明開化があった」のは事実だが、明治維新なかりせば文明開化は決してなかったのだと、そうは推論できないだろう、と。そう考えるのはロジックに反するし、また実験で検証されているわけでもない。科学ならそのように議論する(はずだ)。

旧幕時代から維新後にかけて社会は大いに進歩したのだという福沢諭吉的観点に立つとしても、それは観察された事実がそうだったということだ。大政奉還がなかったと想定して、1867年11月10日以降をシミュレートすればその長期的な発展経路は、案外、実際の歴史経路よりもパフォーマンスが良かったかもしれない。少なくともその仮説的可能性を先に否定することは非科学的である。同じ意味で、もし明治維新後に実際に実行された政策は最善とはいえず(これが事実だと小生は考えているが)、ほかにもっと豊かで平和な日本を築くことが可能であった政策も存在した、と。そんな可能性についての議論が構築できるなら、そういう議論も決して無意味な議論ではない。

まあ、歴史学界ではどのような議論の仕方が普通であるのかは小生よくは知らない。

***

であるので、靖国神社境内を帝国陸軍軍装で闊歩する一団をみると、重大な交通事故を起こした運転者(ないしその家族)があとで何度もその事故地点を訪れ、訪れるたびに「間違ったところはなかった」と、「誠心誠意、注意をして運転をしていたのだ」と、「ほかに何ができただろう」と、そんな反・自虐的追憶に心を任せる人物(悪い人では決してないのだろう)を想像してしまうのだ、な。道を変えれば事故はなかった可能性があり、そもそも運転をしなければ事故は起こりえなかったのだ。



2017年8月16日水曜日

一筆メモ: これも国民性の違い?

カミさんと話していたとき、こんな話をした:

カミさん: 日本人の若い人がまた海外でボランティアをやるみたいヨ。
小生: ずっと昔、宴会か何かでこんな話をしたことがあったっけ。ええっとネ、アメリカ人は『みんなで協力して大儲けしようじゃないか、金持ちになろうぜ』って言う。日本人なら『みんなで力を合わせて我慢しよう。困った人がいれば助け合おう』って言う。で、中国では『お上の言うことをきけば金を儲けてもよい』ことになっている。
いま思い出しても、結構よくできたアネクドートであったわい、と。

ただまあ、何事にも表と裏がある。アメリカ人なら『山分けで一番たくさんもらうのは、やっぱり案をだした奴だな』というわけで分配面の問題が残る。不平等が進むことが多い。日本人はみんなが平等になるが、下手をするとみんな貧乏になる。一人儲けると心やましくなる、やっカミをこうむることが多い。中国では、言うことを聞いていれば国が助けてくれるが、聞かなければ蓄財疑惑で家財没収になることが多い。

小生:一長一短だなあ、やっぱり。
カミさん: 暮らしやすくても貧乏はいやだなあ・・・。
小生: 才あるものは徳が薄く、徳あるものは才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである。同じだよ、これと(笑)。

2017年8月15日火曜日

北朝鮮は誰の番犬なのか?

先日の投稿では、こう書いた。
中国がつないでいた北朝鮮という名前の狂犬が、トランプと名乗るならず者と仲良くし始めた主人に疑いをもって、暴れまわったあげくに綱を噛みちぎり、みんなが困り果てていたところ、ロシアの狩人プーチンが力づくで犬を抑え付けて、ロシアの番犬にした。
核開発技術はロシア経由かと憶測しているのだが、こんな見方もあるようだ。
 習国家主席は、北京より平壌と親しい「瀋陽軍区」によるクーデターを極度に恐れている。「瀋陽軍区」高官の一族らは、鴨緑江をはさみ隣接する北朝鮮に埋蔵されるレアメタルの採掘権を相当数保有する。「瀋陽軍区」が密輸支援する武器+エネルギー+食糧+生活必需品や脱北者摘発の見返りだ。北朝鮮の軍事パレードで登場するミサイルや戦車の一部も「瀋陽軍区」が貸している、と分析する関係者の話も聞いた。
(出所)産経ニュース「野口裕之の軍事情勢」、2017年8月15日

ロシアではなく、中国の地方軍閥の番犬が北朝鮮だという見方もあるわけか。やはり大企業マスメディアの取材力だねえと見るべきか、それとも単にこんな噂もあるという目で見るべきか。この両方が正しいということなのか。

いずれにせよ、こんな地下で根が繋がっているような複雑怪奇なパワーゲームに参入した戦前期・日本は、ウブな感覚のままで状況変化に振り回され、狡猾に立ち回るべきところを武断主義などと称してガラパゴス的な行動を選び、結局は米・ソ・英・中(←中国に対して戦術的には優勢であったものの戦略的敗北に追い込まれたと見る点では合意が得られているようだ)の力に踏み潰されてしまう、力を使えばもっと大きな力に敗けるという大失敗を演じたが、これまさに理の当然でもあったわな。と、そう思う今日・終戦記念日である。

思えば日清戦争ではやくも明治天皇は『これは朕が戦にあらず、臣下の戦争なり』(だったかな?)と語ったよし。戦前期の天皇制の意思決定の本質、そして何が可能であったか、不可能であったか、その問題の本質等々、まだまだ研究課題は多いに違いない。

もう一度、仕事のスタートラインにたつならビッグデータや人工知能も面白いが、近現代史もまだまだ未開拓の余地があって面白いだろうなあと思う。"Noch einmal"(もう一度!)ができない点が人生で残念なところだ。

2017年8月12日土曜日

気温予報の説明方式には改善の余地あり

「西日本の気温は本日も例年より3度高くなるものと予想されます」・・・天気予報ではよく耳にする伝え方である。

しかし、長期的な温暖化が本当に進行しているなら、「例年」より今年の気温が高めになるのは当たり前である。

たとえば『最近10年間の平均気温よりは3度ほど高い暑さになるでしょう』という説明であれば意味がより明確になる。更に『温暖化が続くなか、データから予想される気温よりもさらに1度高い暑さが予想されています』、こんな予報であれば最近の気温上昇トレンドを加味してももっと暑い、つまり非常に暑い、こんな説明方式も可能なはずだ。

最近の気温の動きを加味した予測値計算は、扱いの難しい時系列データであっても、多々、統計的な計算方法があるので選択に困ることはない。

古典的なボックス・ジェンキンズ法を勉強するときに何度も強調されるように、高め或いは低めの同一方向に予測ミスを一週間も続けるなら、予測方法自体がおかしい。温暖化は気温にトレンドが生じていることだから平年値に予測上の何かの意味をこめているなら既に適切ではないし、従来の目安として使っているだけなら単純に意味がない。

温暖化を後追いしながら「例年より高め」だと説明する言い方には意味がない。

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ただまあ化石燃料利用による「温暖化」は本当かという点も、正直なところ、マユツバであるとは思っている。足元では確かに上昇トレンドにあるのだろうけれど、これを「温暖化」というなら、これまでにも温暖化現象があらわれた期間はあった。「寒暖700年周期説」を唱えた学者もいたくらいだ。

厳密な意味で正確かどうかは検証していないが、まず正当だと思われる記述があるので引用しておく。
白亜紀には、年平均気温で、現在より10~15℃も高かったので、北極や南極近くにあった氷床はとけて、海水が増えました。そのために、海岸線が上がってきました。これを海進(かいしん)といいます。また、海進との関係はまだよくわかりませんが、白亜紀には3度にわたる海洋での酸欠の事件(1億1500万年前ころ、9300万年前ころ、8800万年前ころ)がおこりました。
 中生代には、あたたかく浅い海が広がっていたため、海の生物が増え、有機物が地層中にたくさんたまっていきました。これが、石油となりました。
(出所)http://www1.tecnet.or.jp/lecture/chapter4/4_13.html

「白亜紀」とは中生代白亜紀のことで今から1億年前後さかのぼった時代である。恐竜が生きて地球上を闊歩していた。初期哺乳類はもう誕生していたはずだ。もちろん前後というのはプラスマイナス4千万年程度で広くみなければいけないー人類の古代文明が誕生してからまだ5千年程度であることを思うと、「文明」といっても自然史の中ではほとんど瞬間的な出来事である。中生代にはもちろん自動車も火力発電所もなかったわけだ。

2017年8月11日金曜日

メモ: 対北朝鮮=軍事マターと決めているのはメディアではないか

実質が確かにスキャンダルであった森友騒動はともかく、「加計学園問題」に本当に問題である実質があったのか、未だによくわからない ー というより、加計学園騒動は反政権闘争であったとみれば理解できる。

またまた不審な状況になっている。それは現時点の北朝鮮ミサイル発射観測に関するメディア各社の報道姿勢である。

どのメディアも防衛省の対応方針、たとえば「北朝鮮がグアム周辺水域に着弾させるとして、それは日本の存立危機事態に該当するのか」とか「同時に4発発射するとして、その一部が日本に落下する場合、打ち落とせるか」とか、あれもこれも北朝鮮問題を軍事マターとしてとらえている。

そして政府もまた、言うまでもないが、同じ姿勢で、つまり北朝鮮の軍事挑発には軍事的対応で対処しようとしている(ように側からは見える)。

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軍事の前に、外交マターではないのかねえ?この分野の専門家でもないが。おかしな状況だ。

防衛大臣に意見を聴く前に、まずは外務大臣に対応の基本方針を確認するべきである。メディアは取材対象の選択を完全に間違えている。

防衛大臣の所掌マターに外交当局が口出しできない「雰囲気」があるなら、戦前期・日本と何も変わっていない。TV局は、有効な意見など出てくるはずがない軍事評論家にワイドショー出席を依頼するよりは、まずは本筋通りに外交評論家の意見を聴くべきだ。

そもそも日本国憲法は、原理的に読めば国際紛争を解決する手段として武力行使を明文で<放棄>しているのであって、何であれ外交によって解決することを明確に要請しているのだ。日本の政府は日本の憲法が要請している国務を誠実に履行する使命を負っている。安保法制は成立したが、憲法が改正されたわけではないのだ(=政府が閣議決定を変更したというだけで司法判断で正当性が確定したわけではない)。

北朝鮮のミサイルに対して「迎撃ミサイルで・・・」なんて言ってね、話しがありますが、あくまでも解釈で「自衛のために最小限なら持ってよし」とされているだけでござんしょう?憲法には『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』ってハッキリ書かれているんでござんすヨ。まあ、「絶対使わねえから」って誓うんなら、「これは戦力じゃあねえよ」って詭弁もあるんでしょうけど、迎撃ミサイルで撃ち落とすってんなら、こりゃあもうどうみたって「戦力」に決まってらあ。武力は使っちゃいけねえってサ、小学校でね憲法でそう決まってるって先生言ってましたぜ。そうじゃあないんですかい?土台おかしなことをやってるヨ。「こんなこと、本当に憲法でできるんですかい?」ってね、政府のお歴々は頭はいいはずだし、メディアのお方も学問をしていると思うんですけどね、なあぜ「専門家」に聞いてみねえのか、頭の悪いアッシにゃサッパリ分かりやせん。ミサイルはねえだろうってサ、おれっちには落とすなヨってね、外交に一生懸命になるってえのが義務ってやつじゃないんですかい?

違憲の疑いがある(というより、法学界では明らかな違憲であると判断する学者が多数派である)安保法制によって軍事的対応をとる場合、違憲訴訟が続出することになりますぜ。マスメディアもいまは憲法より軍事だと言わんばかりに片棒をかついでいる。支離滅裂である。このバイアスは意図的なのか?それとも編集部、デスクのメンタルは大丈夫か?

2017年8月10日木曜日

メモ: 社会的役割と微罪の関連性

「微罪」というのは、例えばスピード違反やシートベルト装着義務違反、あるいは最近の時代であれば組織内部における(自覚のない程度の)パワハラ、セクハラ、アカハラ等の加害者経験も該当するだろうが、要するに規則上罰則対象になっている細かな違反行為を総称するものである(と本稿ではしておこう)。これが万引きや痴漢にまで至ると、「微罪」という範疇には含まれず、言葉のイメージ通りの「犯罪」ということになるだろうが、罰則の軽重から順序づければやはり「重罪」ではなく「微罪」ということになるのかもしれない。

「微罪」とはいえ、責任ある地位にある人にとっては、致命的なウィークポイントでもあるのが、現代の先進国の特徴である。なぜなら爛熟したマスメディアによって「微罪歴」を公表され、社会的な物議になることによって、その当事者は社会的地位を失い、将来責任ある地位につく可能性も喪失する可能性が高い、というのが特に近年目につくようになった現象であるからだ。一部の人は、成功した人物に対して「ある境遇の」人たちが共有する嫉妬であると、言い切るのも特に最近になって増えているようだ。

やはり「格差拡大社会」の負の側面が顕在化しつつある、ということなのか。

政治家(の事務所)であれば(過失による、もしくは監査の不十分性による?)政治献金未記載、株式会社取締役であれば泥酔暴行やアダルトビデオ購入歴などは上で言うところの「微罪」の典型例だろう。少なくともこれらが「重罪」であるとはどうしても(小生には)思われない。

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これも以前の投稿でつかった記憶があるのだが、江戸幕府6代将軍である徳川家宣が家臣・新井白石から勘定奉行・萩原近江守重秀罷免の願いを数度にわたってきくもののその都度とりあげることはなかった。『才ある者は徳が薄く、徳ある者は才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである』と。確かに荻原重秀は世評が極めて悪く、その何割かは事実だったのであろうが、財政運営における重秀の技量は実績の示すところであり余人をもって代えがたい。ゆえに、もう少し待て、というのが将軍・家宣の判断だったという。

現代日本なら、瓦版が重秀汚職の非難を繰り広げ奉行辞任を強要していたであろう。

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内閣にせよ、官庁、民間企業、はたまた一般の個人商店、家庭に至るまで、非常に長い期間にわたって問題なく運営するには相当の技量、覚悟と修練の裏付けが必要だ。

組織の重要ポストにふさわしい力量は、その職務から決まってくるものであり、円満な家庭をつくり子弟を育て上げるにはまた独立した才徳が要る。

何十年の「実績」の積み重ねは、それ自体としては事実であり、あった事実をなかったとすることはできない。

何が新たに評価材料として付け加わるとしても、プラスとマイナスをあらいざらい汲み取って人をみる(将軍はいないわけだから)国民の度量をメディア企業は損なってはならない。バイアスを意図的に混入させてはならない。反対尋問にたえる準備はせねばならないし、また必要に応じて尋問の機会を設けるべきだ(「日本報道検証機構」はあるがこの機構のパフォーマンスを評価できるほどの知見はもっていない)。小生はそう思うネエ・・・。やはりジャスティスやフェアネスが社会には大事である。

まあ、特に日本を話題にすれば、この二、三年の「安倍政権」の傲慢も酷かったけれど、ネ。

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微罪を攻めて社会的地位を失わせる行為は、現代先進国で開発されたソフト・テロリズムの兵器と言っても言い過ぎではないような気がしている。

もしも政治的党派感情から特定の会社・結社が敵対者を筆を用いて攻撃するとすれば、まさにソフト・テロという言葉が当てはまるだろう。

創造的かつ生産的な社会の維持にとってこのような人的資源の浪費はマイナスであるとしか思えない。

しかしながら、「表現の自由」を考慮すれば、このような攻撃的報道も違法ではない。これまた社会の健全性の証でもある。しかし、あらゆる意見に対して公平な機会が提供されていなければならない。これも重要な命題だ。

大企業によるメディア市場の寡占、寡占企業による結託、アウトサイダー排除等々の弊害を防止する必要があるのは言うまでもない。

要するに、特定の大規模メディア企業の影響力は、その報道姿勢によらず、一定レベルを越えるべきではないということだ。これも経済学上の一般的要請の一例であり、行政上の課題になりうる。

今日の投稿で述べたことと、インターネットが普及した状況の下ではどのメディア企業も<党派的>にならざるを得ないと議論した先日の投稿と、どう関連づけるか、それはまた別の機会に。


2017年8月8日火曜日

メモ:公職の選抜方式について

先日の投稿でも政治家や官僚などの所謂「公職」に就く人物の選抜方式をとりあげている。政治家は選挙で選ばれ、官僚は筆記試験を受けて選抜されるのだが、選挙と試験という方式の違い自体には何の倫理的価値も含まれていない。選ぶ人材と選抜の効率性に基づいた方式の選択でしかない。そんなことを述べた。

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朝の連続テレビ小説『ひよっこ』の視聴率がこのところ上がっているそうだ。拙宅でもカミさんと二人で毎朝視ているのだが、ちょうど失踪した父親が記憶喪失の状態で見つかり、今後の進行が期待される段階にきている。

見つかった父親は、ちょうど小生の亡くなった父とも同世代と思われ、思わず見入ってしまうのだが、ともすると『あれだねえ、あの世代は少年から青年にかけては軍事教練、勤労奉仕、あげくに軍隊に召集されて最前線で生死の境をくぐり、戦争が終わると今度は仕事の最前線で無際限に働けと・・・忙しいまま年をとり、年をとったら介護が大変、介護費用がもったいない。若い者が気の毒だ。いつまで生きるんだと言われているかのようで、ホント、報われないねえ・・・あわれだよ』。そんなつぶやきも口から出てきたりする。

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終わってチャンネルを切り替える ー 小生、まだ仕事は続けているが、「隠居」待遇なので業務上の義務からはかなり解放されている。だからこんな毎日を続けられている。

すると山梨市長が職員の不正採用の疑惑で逮捕されたとの報道だ。

『役所の原稿を読むことに徹します』といった風の抱負をのべた安倍・再々改造内閣の某新大臣のほうがまだましであった。

それにしても所謂「政治家」のレベルダウンが甚だしい。

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そもそもある一日に有権者が投票をして、より多く票を集めたほうの立候補者を議員なり、知事なり、市長に採用するという現行の方式。実質的に適切な人材を選抜する方式でありうるのだろうか、というより現にそうなっているのだろうか。単なる人気投票ではなくそれが適切であることは論理的に証明できるのだろうか。証明できるなら、どんな証明になるのだろうか・・・?もちろんこれらは反語的疑問文である。外ヅラがいいとか、内面がいいとかがあるが、人柄もよく知らずに投票をして、その票数で決めるなど、クジで決めるのとどこが違うのだろう、と。小生ずっと若い頃からこんな反民主的な思いをもってきた。が、最近はこの思いに自信も加わってきたのだ、な。

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大学でよくやるように、政治課題に関するレポートを書かせ(もちろんゴーストライターがいるかもしれないが、それは想定上のことだ)、レポートの採点をするのと併せ、そのレポートを踏まえたプレゼンを公開の場でコンペティション方式で開催し、専門家と一般有権者から構成される審査委員による評価に基づいて第1位候補者、第2位候補者を提示する。その候補者に対して有権者が最終的に投票するーこの最終段階の投票は省いてもよい。小生なら、市長や知事はこうするねえ。ま、いま職にある多くの首長はこんな風な方式であったとしてもやはり第1位候補者に選出されると思う。

普通選挙よりは筆記試験の方が知識・教養のある人材は選抜できる理屈である。頭脳とコミュニケーション力を求めるなら、選挙より公開プレゼンが最良である。プレゼン終了後は審査員が質問する。フロアで観ている一般有権者の質問も幾つかは応答する。実際にやってみればすぐ分かる。驚くほどよく力量を判別できる。もしリーダーシップや協働への適性を見るなら特定課題に関するグループ討論をさせてみるのが一番だ。これらを視聴する一般有権者は誰がもっとも「公職」にふさわしいか容易に判断できるはずだ。

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普通選挙は民主的だが、民主的であるがゆえに縁故や地縁・人縁に影響される。人材選抜の精度と民主性、更には経済性(=低コスト)を同時に満たすには、選抜方式を選抜目的と整合させなければならない。これは学問的知見が活用できる領域である。

専門家は、こんな時に活用するべきだ。

いずれにせよ、封建的・身分制的社会から現代社会に至るまでの理想であった「普通選挙」は、もう一度、その役割と位置付けの再検証が必要になってきたのが21世紀という時代だと思われる。

2017年8月6日日曜日

科学・芸術と政治の埋められないギャップ

最近は多様な分野で仕事をしている人がマスメディアに登場し、自らの信条や哲学、政見を語ることが増えている。

政治評論家ばかりではなく、社会の出来事について科学者や芸術家のものの見方を視聴することは、確かに清涼感をもたらすもので、それが悪いというつもりは全然ない。

しかし、話題が政治になると学者や芸術家の発想の仕方と話題の性質とがまったく異質で、かみあっていないと感じることが非常に多い。なにも政治には素人だからというのではなく、切る刀と切られる肉がまったく合っていない、そんな感覚なのだな。

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学者にとって非常に重要なことは、細部における違いに注意することであって、そんな細かな違いを徹底的に考えることが新しい考え方や理解の仕方、新たな概念につながることが普通にある。細かな違いを発見すること自体が一本の論文になることも多い。大局に当てはまっている基本的な大枠は、大体は共通の理解として得られていて ー もちろん、そんな大枠がひっくり返ることも何百年に一度はあり、パラダイム転換と呼ばれている ー そんな基本的な観点を検証しても、まずは面白い結果は出てこないのだ。というか、巨大なパライダイム転換の始まりもまた、やはり理論と事実との細かく、小さな不一致が動機になることが多いのは、ケプラーによる楕円軌道の着想やアインシュタインによる特殊相対性理論の例を引くまでもなく、科学者であれば誰でも知っていることだと思う。だからこそ、多くの科学者は細部に執着する。それが第一歩であり、日常的な習慣になっているはずだ。

芸術家もそうではないのかな、と想像している。ささやかな、細やかな、ともすれば見逃しやすい事象に愛情を注いで見つめる姿勢から美の発見に至るものではないだろうか。大きなもの、普通にあるもの、頻繁にあるものは、これまでに何度も作品化され、テーマとしては陳腐で月並みなものになってしまっていると思う。

作家や哲学者、更には伝統芸能や医師、職人さんたちを含め、一般に高度に文化的知性的な活動に従事する人たちは、社会の出来事を語る際にも一人一人の人間の思いに目を向けることが多いのは、自分の仕事と取り組むときの精神がそこに現れているからだと思う。

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しかし、「政治」を語るとき、そういう細部、つまり少数例であったり、可能性であったり、ディーテイルであるような側面に執着する発想はまったく噛み合わないのではないかと。そう思ったりもするのだ。

そもそも「民主主義」を支える土台ともいえる「選挙」は、これ自体が100パーセント統計的な方式であり、一人一人に着目するというよりは社会全体の傾向を大雑把にとらえるのが目的だ。というより、民主主義という概念には最初から(国民を一個の政治的意思決定主体とみなせば)「国民」の大勢を統計的に把握しようとする意識が核心として含まれている。

まあ、上のような視点に立てば、「待機児童問題」や「いじめ問題」がいつまで経っても解決できないでいるのは、行政が民主的に進められていない証拠とも言える。が、解決できずにいるのは、予算制約など供給側の事情にもよる。

事情はいろいろある。が、ともかく正解があるのなら「政治」は要らない。行政機関が専門家に依頼すれば正解をみつけてくれる理屈だ。正解を探していては解決できず、解決に長い時間をかけていては、多数の人が困る、そんな場合に「政治」が必要になる。そうではないか。一口にいえば「政治」は全く科学的ではない。問題が政治的であるとは、(科学が利用される場がまったくないというわけではないにせよ)科学によっては結論は出ない問題であると言うこととほぼ同意義である。そうではないか。

しかし科学的でないというなら、史上初めての"Data-Driven-Management-System"の成功例といえるQC(=品質質理)のコアである「PDCAサイクル」と「重点指向」。まずは重点課題を選択し、ターゲットを定めて、解決への第1歩を実行せよというQC哲学も決して科学的とは言えないだろう。脚気患者が多くて困るなら、海軍がやったように「イギリス海軍では脚気患者がいないので、同じものを食することにしよう」というのが、正解ではないまでも有効な対応であったわけで、これを森鴎外のように『脚気の原因が不明であるのに食事で解決しようというのは科学的でない』と言っていては、解決には近づけなかったのだ。「政治」をマネジメントとみれば、「それは科学ではない」というのはそういう意味だ。

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小生が予測する未来の政治とはこんなものだ。「理想」ではなく、「夢」でもなく、こちらの方が選ばれる可能性が高いのではないかという単なる「予想」だ。

社会問題を政治的に解決するときは、関連するビッグデータをAI(=人工知能)に検証させて、ベスト・レコメンデーションを提案させる、その提案について人間が議論し、追加的条件を入力し、AIを学習させてレベルアップする、こんな方式が未来の政治システムになっていくのだと思っていて、そうなっていけば「政治の統計化」は目に見える形で進んでいくに違いない。これまた現れるべき技術革新ではないかと思う。

現代という時代に「面壁十年」や「即身成仏」を敢行する宗教家はもう滅多におるまい。巫女が託宣を下して政治を行なっている国はもう聞くことがない。時代が進歩したからだと言うのが正しいものの見方だ。あと百年もすれば、国会議員などのプロの政治家は職業としては二流・三流になっているかもしれず(今でもそうかもしれないが、これはまた別途)、もしそうなれば人類社会がそれだけ進歩したという証である。

が、今はまだそこまでは行っていない。なので、いずれにせよと言ってもいいが、政治的な解決が求められている時に「一人一人の気持ちに寄り添って・・・」という視線は結局は問題の性質と噛み合わないのであって、「普通の人は・・・」という冷淡な視線で問題を考えるのが実は本筋だろうと。どうしてもそう思うのだ、な。

「赤ひげ」のような人間的情愛も大事だ。しかし、高度医療を可能にする医療設備とそれを広く利用可能とする社会制度の設計が現実にはもっと大事である。どこかで何かを早く決めなければならないとすれば、QCのようにデータ・ドリブンで決めるしかないだろう、というのが本日の要点である。


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むしろ政治問題の解決を考える際にもっとも注意しなくてはならないのは、与えられた問題に対して<正解>を追求することではなく(正解などそもそもないのが通常である)、中でも正解だと思われるその解決策が生み出していく間接的影響(=戦略的効果)をあらかじめ、予測できる限り予測しておくことである。これは、何も対ソ戦略としてはベストの戦略と思われた満州事変が、結局のところ日中戦争への端緒となり、対米戦争を選択させ、国家崩壊につながっていったという、この歴史的事実を思い出すまでもないことだ。が、この面でも<政治的人工知能>のレベルアップによって人類の知的状況はずいぶん改善されるだろう。


2017年8月2日水曜日

国の問題・学校設置の問題: マスメディアによる「社会の消費」

思いつくことは幾つかあるが、どれも細かく、下らない。わざわざメモするまでもない。
と思っていると、世間の話はいつの間にか明日の内閣改造だ。

それにしてもあれだねえ。

いま最も客観的な意味で心配なのは、北朝鮮のミサイル開発の進捗度のはずだ。

アメリカは決して北朝鮮の敵ではないと言い始め、ひょっとすると制裁一点張りでは効果がないとみて、協議の場につく意思があるのかもしれないが、協議すればすればで今度は制裁とは真逆の「経済支援」を求めるのがまず確実だろう。そうなれば日本もどんなに嫌だろうとつきあわざるを得ないだろう。いやならまたミサイル開発・核開発を再開すればいい・・・失うことを恐れる、現にそのリスクがある先進国に対してこれほど効果的な戦術はない。

どうなっていくのだろう・・・日本の公益を考えれば、国際環境と安全保障がいまほど難しく問題化している時代はない。放置しておくと、いずれ経済面にも影響は出るだろう。いや、将来への投資という面ではもう出ている可能性はあるが。

リスクは一定限界を超えてはじめて社会レベルで共有されるものだ。が、一般の人が意識しないといっても、ないということではない。

★ ★ ★

ところが・・・

先日、北朝鮮が発射したミサイルの仰角が大きく、そのため奥尻島付近に落下したという報道を(例によって)ワイドショーがやっているのを視ていると、某メインキャスターが『なるほどねえ・・・そのように計算したんだ、距離が出ないようにネ』と、まるで野球の解説でも聴いているかのように感心することしきりの様子だった。

悲しかった。唖然を通り越して、絶句の念を禁じえずでありました。

「許せません!これほどの暴挙を何度見過ごせばいいのでしょうか!」くらいのことは言えないものだろうかネエ。それとも、北朝鮮はああいう国なんですから、と。そういうことだろうか。

森友学園と加計学園騒動には、確固たる証拠がないにもかかわらず、あれほどまで食い下がり、敢然として、政府という公権力を批判することができたのだ。疑惑という一点であそこまで批判を繰りかえし、もはや倒閣運動であるとも言える報道をしておきながら、それと同時に単なる疑惑ではなく、日本の公益を現に脅かしている「暴挙」を目前に見て、それでも「外務省は抗議をしました」と。前者に比べて、実に冷戦沈着、泰然自若としているのだな。

しかし、マスメディアがこれじゃあ、冷静を通り越して、足元を見られますぜ。北朝鮮が怖いんじゃないのか、と。冷静なら、徹頭徹尾、国内の区々たる不祥事にも冷静でいるべきだ。

★ ★ ★

エールフランス機がミサイル着水直前の時刻に同地点を通過していたという報道は、「いま考えると結構危なかったよな」と、まあこんな話しで終わるわけだが、マスメディアがこうなっちゃったらダメなんじゃないの?たかが学校一つ、学部一つの不祥事であれだけ怒れるなら、もっと怒れよ、話はミサイルだぜ、日本漁船にだって危険は及ぶんだヨ、生命に関わる話なんだゾ、と。小生の友人には幸いマスコミ勤務の人はいないが、もしいればこんな嫌味を言うと思う。

野球の解説はあったほうがいい。エラーや誤審を指摘してほしい。ゲームが面白くなるからだ。しかし、日本社会の現実はゲームではない。面白く伝える必要はないのだ。

まして、ある社はリベラル派を、ある他の社は右翼の応援団になってほしいと、そんな党派的報道を誰も頼んでないだろう。それぞれ会社の都合で自らの役回りを自らに振っているだけではないか。

面白くするために、誰かを、何かを、どこかを原材料としてダシに使っているなら「社会」そのものを消費していることになる。食料を消費すれば食料はなくなる。サービスを消費すれば、サービス生産で利用した資源はなくなる。社会を消費すれば、社会で共有される資源がなくなるのだ。なくなるその共有資源には、社会の相互信頼やマナーや落ち着き、物事の軽重、健全な常識といった日本人の文化全体が含まれるのだ。

井戸端会議も役に立つときと、地域社会の害になる時がある。それと同じだ。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件にまで拡大した「疑惑のデマ」の怖さを忘れるべきではない。表現の自由よりは生命の尊厳を優先するべきであるし、表現の自由が大切であれば、それが真理であるか、社会規範に適っているか、備えるべき表現上の品位を有しているかといった価値判断も同じく大事にするべきだ。いくつかの私企業の経営が安泰であるかどうかは、これらの社会的価値に比べればどうでもよいことである。