2017年8月2日水曜日

国の問題・学校設置の問題: マスメディアによる「社会の消費」

思いつくことは幾つかあるが、どれも細かく、下らない。わざわざメモするまでもない。
と思っていると、世間の話はいつの間にか明日の内閣改造だ。

それにしてもあれだねえ。

いま最も客観的な意味で心配なのは、北朝鮮のミサイル開発の進捗度のはずだ。

アメリカは決して北朝鮮の敵ではないと言い始め、ひょっとすると制裁一点張りでは効果がないとみて、協議の場につく意思があるのかもしれないが、協議すればすればで今度は制裁とは真逆の「経済支援」を求めるのがまず確実だろう。そうなれば日本もどんなに嫌だろうとつきあわざるを得ないだろう。いやならまたミサイル開発・核開発を再開すればいい・・・失うことを恐れる、現にそのリスクがある先進国に対してこれほど効果的な戦術はない。

どうなっていくのだろう・・・日本の公益を考えれば、国際環境と安全保障がいまほど難しく問題化している時代はない。放置しておくと、いずれ経済面にも影響は出るだろう。いや、将来への投資という面ではもう出ている可能性はあるが。

リスクは一定限界を超えてはじめて社会レベルで共有されるものだ。が、一般の人が意識しないといっても、ないということではない。

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ところが・・・

先日、北朝鮮が発射したミサイルの仰角が大きく、そのため奥尻島付近に落下したという報道を(例によって)ワイドショーがやっているのを視ていると、某メインキャスターが『なるほどねえ・・・そのように計算したんだ、距離が出ないようにネ』と、まるで野球の解説でも聴いているかのように感心することしきりの様子だった。

悲しかった。唖然を通り越して、絶句の念を禁じえずでありました。

「許せません!これほどの暴挙を何度見過ごせばいいのでしょうか!」くらいのことは言えないものだろうかネエ。それとも、北朝鮮はああいう国なんですから、と。そういうことだろうか。

森友学園と加計学園騒動には、確固たる証拠がないにもかかわらず、あれほどまで食い下がり、敢然として、政府という公権力を批判することができたのだ。疑惑という一点であそこまで批判を繰りかえし、もはや倒閣運動であるとも言える報道をしておきながら、それと同時に単なる疑惑ではなく、日本の公益を現に脅かしている「暴挙」を目前に見て、それでも「外務省は抗議をしました」と。前者に比べて、実に冷戦沈着、泰然自若としているのだな。

しかし、マスメディアがこれじゃあ、冷静を通り越して、足元を見られますぜ。北朝鮮が怖いんじゃないのか、と。冷静なら、徹頭徹尾、国内の区々たる不祥事にも冷静でいるべきだ。

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エールフランス機がミサイル着水直前の時刻に同地点を通過していたという報道は、「いま考えると結構危なかったよな」と、まあこんな話しで終わるわけだが、マスメディアがこうなっちゃったらダメなんじゃないの?たかが学校一つ、学部一つの不祥事であれだけ怒れるなら、もっと怒れよ、話はミサイルだぜ、日本漁船にだって危険は及ぶんだヨ、生命に関わる話なんだゾ、と。小生の友人には幸いマスコミ勤務の人はいないが、もしいればこんな嫌味を言うと思う。

野球の解説はあったほうがいい。エラーや誤審を指摘してほしい。ゲームが面白くなるからだ。しかし、日本社会の現実はゲームではない。面白く伝える必要はないのだ。

まして、ある社はリベラル派を、ある他の社は右翼の応援団になってほしいと、そんな党派的報道を誰も頼んでないだろう。それぞれ会社の都合で自らの役回りを自らに振っているだけではないか。

面白くするために、誰かを、何かを、どこかを原材料としてダシに使っているなら「社会」そのものを消費していることになる。食料を消費すれば食料はなくなる。サービスを消費すれば、サービス生産で利用した資源はなくなる。社会を消費すれば、社会で共有される資源がなくなるのだ。なくなるその共有資源には、社会の相互信頼やマナーや落ち着き、物事の軽重、健全な常識といった日本人の文化全体が含まれるのだ。

井戸端会議も役に立つときと、地域社会の害になる時がある。それと同じだ。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件にまで拡大した「疑惑のデマ」の怖さを忘れるべきではない。表現の自由よりは生命の尊厳を優先するべきであるし、表現の自由が大切であれば、それが真理であるか、社会規範に適っているか、備えるべき表現上の品位を有しているかといった価値判断も同じく大事にするべきだ。いくつかの私企業の経営が安泰であるかどうかは、これらの社会的価値に比べればどうでもよいことである。




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