2017年8月10日木曜日

メモ: 社会的役割と微罪の関連性

「微罪」というのは、例えばスピード違反やシートベルト装着義務違反、あるいは最近の時代であれば組織内部における(自覚のない程度の)パワハラ、セクハラ、アカハラ等の加害者経験も該当するだろうが、要するに規則上罰則対象になっている細かな違反行為を総称するものである(と本稿ではしておこう)。これが万引きや痴漢にまで至ると、「微罪」という範疇には含まれず、言葉のイメージ通りの「犯罪」ということになるだろうが、罰則の軽重から順序づければやはり「重罪」ではなく「微罪」ということになるのかもしれない。

「微罪」とはいえ、責任ある地位にある人にとっては、致命的なウィークポイントでもあるのが、現代の先進国の特徴である。なぜなら爛熟したマスメディアによって「微罪歴」を公表され、社会的な物議になることによって、その当事者は社会的地位を失い、将来責任ある地位につく可能性も喪失する可能性が高い、というのが特に近年目につくようになった現象であるからだ。一部の人は、成功した人物に対して「ある境遇の」人たちが共有する嫉妬であると、言い切るのも特に最近になって増えているようだ。

やはり「格差拡大社会」の負の側面が顕在化しつつある、ということなのか。

政治家(の事務所)であれば(過失による、もしくは監査の不十分性による?)政治献金未記載、株式会社取締役であれば泥酔暴行やアダルトビデオ購入歴などは上で言うところの「微罪」の典型例だろう。少なくともこれらが「重罪」であるとはどうしても(小生には)思われない。

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これも以前の投稿でつかった記憶があるのだが、江戸幕府6代将軍である徳川家宣が家臣・新井白石から勘定奉行・萩原近江守重秀罷免の願いを数度にわたってきくもののその都度とりあげることはなかった。『才ある者は徳が薄く、徳ある者は才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである』と。確かに荻原重秀は世評が極めて悪く、その何割かは事実だったのであろうが、財政運営における重秀の技量は実績の示すところであり余人をもって代えがたい。ゆえに、もう少し待て、というのが将軍・家宣の判断だったという。

現代日本なら、瓦版が重秀汚職の非難を繰り広げ奉行辞任を強要していたであろう。

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内閣にせよ、官庁、民間企業、はたまた一般の個人商店、家庭に至るまで、非常に長い期間にわたって問題なく運営するには相当の技量、覚悟と修練の裏付けが必要だ。

組織の重要ポストにふさわしい力量は、その職務から決まってくるものであり、円満な家庭をつくり子弟を育て上げるにはまた独立した才徳が要る。

何十年の「実績」の積み重ねは、それ自体としては事実であり、あった事実をなかったとすることはできない。

何が新たに評価材料として付け加わるとしても、プラスとマイナスをあらいざらい汲み取って人をみる(将軍はいないわけだから)国民の度量をメディア企業は損なってはならない。バイアスを意図的に混入させてはならない。反対尋問にたえる準備はせねばならないし、また必要に応じて尋問の機会を設けるべきだ(「日本報道検証機構」はあるがこの機構のパフォーマンスを評価できるほどの知見はもっていない)。小生はそう思うネエ・・・。やはりジャスティスやフェアネスが社会には大事である。

まあ、特に日本を話題にすれば、この二、三年の「安倍政権」の傲慢も酷かったけれど、ネ。

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微罪を攻めて社会的地位を失わせる行為は、現代先進国で開発されたソフト・テロリズムの兵器と言っても言い過ぎではないような気がしている。

もしも政治的党派感情から特定の会社・結社が敵対者を筆を用いて攻撃するとすれば、まさにソフト・テロという言葉が当てはまるだろう。

創造的かつ生産的な社会の維持にとってこのような人的資源の浪費はマイナスであるとしか思えない。

しかしながら、「表現の自由」を考慮すれば、このような攻撃的報道も違法ではない。これまた社会の健全性の証でもある。しかし、あらゆる意見に対して公平な機会が提供されていなければならない。これも重要な命題だ。

大企業によるメディア市場の寡占、寡占企業による結託、アウトサイダー排除等々の弊害を防止する必要があるのは言うまでもない。

要するに、特定の大規模メディア企業の影響力は、その報道姿勢によらず、一定レベルを越えるべきではないということだ。これも経済学上の一般的要請の一例であり、行政上の課題になりうる。

今日の投稿で述べたことと、インターネットが普及した状況の下ではどのメディア企業も<党派的>にならざるを得ないと議論した先日の投稿と、どう関連づけるか、それはまた別の機会に。


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