2017年8月8日火曜日

メモ:公職の選抜方式について

先日の投稿でも政治家や官僚などの所謂「公職」に就く人物の選抜方式をとりあげている。政治家は選挙で選ばれ、官僚は筆記試験を受けて選抜されるのだが、選挙と試験という方式の違い自体には何の倫理的価値も含まれていない。選ぶ人材と選抜の効率性に基づいた方式の選択でしかない。そんなことを述べた。

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朝の連続テレビ小説『ひよっこ』の視聴率がこのところ上がっているそうだ。拙宅でもカミさんと二人で毎朝視ているのだが、ちょうど失踪した父親が記憶喪失の状態で見つかり、今後の進行が期待される段階にきている。

見つかった父親は、ちょうど小生の亡くなった父とも同世代と思われ、思わず見入ってしまうのだが、ともすると『あれだねえ、あの世代は少年から青年にかけては軍事教練、勤労奉仕、あげくに軍隊に召集されて最前線で生死の境をくぐり、戦争が終わると今度は仕事の最前線で無際限に働けと・・・忙しいまま年をとり、年をとったら介護が大変、介護費用がもったいない。若い者が気の毒だ。いつまで生きるんだと言われているかのようで、ホント、報われないねえ・・・あわれだよ』。そんなつぶやきも口から出てきたりする。

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終わってチャンネルを切り替える ー 小生、まだ仕事は続けているが、「隠居」待遇なので業務上の義務からはかなり解放されている。だからこんな毎日を続けられている。

すると山梨市長が職員の不正採用の疑惑で逮捕されたとの報道だ。

『役所の原稿を読むことに徹します』といった風の抱負をのべた安倍・再々改造内閣の某新大臣のほうがまだましであった。

それにしても所謂「政治家」のレベルダウンが甚だしい。

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そもそもある一日に有権者が投票をして、より多く票を集めたほうの立候補者を議員なり、知事なり、市長に採用するという現行の方式。実質的に適切な人材を選抜する方式でありうるのだろうか、というより現にそうなっているのだろうか。単なる人気投票ではなくそれが適切であることは論理的に証明できるのだろうか。証明できるなら、どんな証明になるのだろうか・・・?もちろんこれらは反語的疑問文である。外ヅラがいいとか、内面がいいとかがあるが、人柄もよく知らずに投票をして、その票数で決めるなど、クジで決めるのとどこが違うのだろう、と。小生ずっと若い頃からこんな反民主的な思いをもってきた。が、最近はこの思いに自信も加わってきたのだ、な。

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大学でよくやるように、政治課題に関するレポートを書かせ(もちろんゴーストライターがいるかもしれないが、それは想定上のことだ)、レポートの採点をするのと併せ、そのレポートを踏まえたプレゼンを公開の場でコンペティション方式で開催し、専門家と一般有権者から構成される審査委員による評価に基づいて第1位候補者、第2位候補者を提示する。その候補者に対して有権者が最終的に投票するーこの最終段階の投票は省いてもよい。小生なら、市長や知事はこうするねえ。ま、いま職にある多くの首長はこんな風な方式であったとしてもやはり第1位候補者に選出されると思う。

普通選挙よりは筆記試験の方が知識・教養のある人材は選抜できる理屈である。頭脳とコミュニケーション力を求めるなら、選挙より公開プレゼンが最良である。プレゼン終了後は審査員が質問する。フロアで観ている一般有権者の質問も幾つかは応答する。実際にやってみればすぐ分かる。驚くほどよく力量を判別できる。もしリーダーシップや協働への適性を見るなら特定課題に関するグループ討論をさせてみるのが一番だ。これらを視聴する一般有権者は誰がもっとも「公職」にふさわしいか容易に判断できるはずだ。

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普通選挙は民主的だが、民主的であるがゆえに縁故や地縁・人縁に影響される。人材選抜の精度と民主性、更には経済性(=低コスト)を同時に満たすには、選抜方式を選抜目的と整合させなければならない。これは学問的知見が活用できる領域である。

専門家は、こんな時に活用するべきだ。

いずれにせよ、封建的・身分制的社会から現代社会に至るまでの理想であった「普通選挙」は、もう一度、その役割と位置付けの再検証が必要になってきたのが21世紀という時代だと思われる。

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