2017年9月10日日曜日

メモ: 「文春砲」についてどう思うか

「文春砲」という単語は小生が東京で小役人をやっていた時分にはなかった。ごくごく最近年になってから使われ始めた言葉だ。

とはいえ、こういう「社会的制裁」、いやいや憲法で「私刑」は禁止されている、そうではなくて「報道サービス」は自分たちが暮らしている社会の自浄機能を維持する上で必要である。これまた事実であるのだな。

人間ドックでこんな会話をしたことがある。
コレステロールが上がっていますね。チョコレートはお好き?そう、それは止めたほうがいいと思います。チーズは?
お節介な話だが、本当に悪い所があったときに、「悪い所がある」と正確に指摘してくれるためには厳しい判定基準が必要なのである。統計学では「第1種の誤り」と「第2種の誤り」のバランスをどうとるかという問題になる。前者はヌレギヌ。つまり「悪くはないのに悪い」と判定してしまう、後者は見逃シ。即ち「悪いのにそれに気がつかず放置してしまうことから問題が拡大する失敗」をさす。人間ドックに限らず、すべての検査、すべての判断行為には判断ミスの可能性がまじるものだ。

甘い捜査をすればヌレギヌをきせる回数は減るが、真犯人を見逃す誤りが増える。厳しい操作をすれば、容疑者は落とせるだろうが、冤罪をうむ可能性が高まる。一定の情報で判定するなら、二つの誤りはトレードオフである。

◇ ◇ ◇

「文春砲」のターゲットになった人物は、記事の内容がすべて事実なのか、一部分は事実なのか、まったくの虚偽なのか、その度合いや真相とはかかわりなく職業上の地位を(たとえ一時的にもせよ)失うという憂き目にあうのが現実だ。

社会にとって有用な人材が週刊文春編集部の私的な判定で葬られてしまうのは確かに社会的損失である。が、本当に悪辣で警察による捜査では立証し難い人物であっても「黒い噂」が週刊文春に掲載されれば、その時点で当該人物は大打撃を被るだろう。

理想はピンポイント砲撃であるが、そこには狙うターゲットはいないかもしれず、砲撃すればやはり無辜の市民も巻き添えをくう、無実の御仁もドカ〜ン1発で哀れなり、社会的生命は花と散る・・・犠牲をゼロにするのは実に難しいものである。同じ理屈じゃな。

◇ ◇ ◇

確かに「文春砲」のような存在は社会にとって必要なのである。が、犠牲者はやはりゼロではない。これまた払うべきコストということだ。悲しいけどねえ・・・。

今回の騒動は山尾議員の身の不運かもしれない。仮にそうだとすれば、それは日本社会が自浄機能を維持するために必要な犠牲ということになる。
お上が何もかもやるわけにゃあいけませんからネエ、火消しもそうなんですけどネ、この辺はもう町方の考えでやってもらってるんでござんすヨ。こりゃあいけねえヤって皆が思うなら消えていくでしょうし、何かのお役に立つってんなら使う人も出てきましょう。まあ、見ててごらんなせえ、落ち着くところに自然にネ、落ち着くってことじゃあござんせんか?
そういうことか。大火から江戸を救うには、燃えてない家を壊しても「致シ方ナシ」。不純異性交遊の蔓延をくい止め、世間の規律を保つには犠牲も時には「ヤムヲ得ヌ」。かなり危ないことを二人がやっていたことは確かだし、そうかもネエ・・・。

0 件のコメント: