2017年11月11日土曜日

「日本の家電メーカーは世界に冠たる・・・」と豪語していた時代

東芝がテレビのREGZAブランド、パソコンのDynabookブランドを完全に放棄することを検討しているようだ。

歳月匆々、転た凄然というのはこの事である。

◇ ◇ ◇

小生が北海道の地方都市に移住してきたのは1990年代の初め、バブル景気は崩壊したものの、それから後に「失われた15年」という長い時間が必要とされていたとは想像もしていなかった頃だった。単なる株価の大幅調整、地価の水準調整。その程度に考えていた。

ただ日本の花形産業がそれまでの「鉄は国家なり」から軽薄短小の電機産業にシフトしていく方向は必然とみられていた。中でも日本が絶対的な強みを持つと思われていたのは、家電製品全般、半導体、精密機械だった。自動車は確かに強力だったが、まだまだアメリカのビッグ3が覇権を握っていて、トヨタやホンダ、日産はあくまでも世界市場への挑戦者という立場でしかなかった。

その電機産業は既にアジア全域にサプライチェーンを構築中であり、製品の信頼性、コスト優位性などすべてを含めて、絶対的な競争優位性を信じて疑わないという鼻息だったことを鮮明に記憶している。「生産のモジュール化がカギなんですよ」と何度聞いたろうか。

・・・まるで、ミュージカル『キャッツ』でグリザベラが歌うバラード「メモリー」の世界である。
Memory
All alone in the moonlight
I can smile happy your days (I can dream of the old days)
Life was beautiful then
I remember the time I knew what happiness was
Let the memory live again
メモリー 月明りの中
美しく去った過ぎし日を思う
忘れない その幸せの日々
思い出よ 還れ
今朝、カミさんが『大分寒くなってきたよね、そろそろ毛布もいるけど、ダイソンのヒーター、羽がついてない扇風機みたいなものがあるでしょ?あれもネ、いろんなヴァージョンがあるみたい。扇風機にもヒーターにもなって、静かみたいヨ』と眠いのに話しかけてきた。薄く目を開けると、もうiPad Air2を指でタッチしながら何やら調べている様子だ。

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アップルはアメリカ企業だ。ダイソンはイギリス企業だ。

日本の電機産業は世界に冠たる競争優位性を築いていたのではなかったのか。文字通り『過ぎし日を思う』朝のひと時であったのだ。

小生がまだ大阪で研究をしていたころ、主に使っていたのはNECのデスクトップPC98であった。DOSマシンである。ただ、その頃アップルのMacintoshが急成長しつつあって、やがて小生も研究費でSE/30を購入した。その後、Quadraまでアップルを使った後、ようやく追いついてきたWindowsに移行して、その後PCはずっとMicrosoftを愛用している。ただ、趣味の世界ではやはりアップルを使い続け、ウォークマンを二度ほど買い換えたあとは、iPodに移り、その後はiPhone2、iPhone4sと買い換えてから、いまのGoogle Nexusにたどり着いた。いやあ、SONYのオンライン・ミュージック・ストア・・・何と言ったっけなあ・・・使いにくかったねえ。それだけは覚えている。

小生が若かった頃にはなかったものが、今では広く使われていて、ライフスタイルは昔と一変してしまった。そんな新しい生活を支えているものは第一にスマホ、タブレットというよりインターネット。PCもタッチペンが鉛筆や万年筆なみになってきてデジタルノートがとれるようになった。買い物はAmazonだ。この冬にはEchoが日本にも登場する。毎日の家事では掃除・洗濯・料理がある。そのうち、掃除はダイソンのコードレス・クリーナーに買い替えてしまった。料理といえば炊飯器だが、それはまだ日本製だ。しかし、ホームベーカリーはフランスのTfal、やかんはTfalのケトル、コーヒーサーバーはネスカフェのバリスタ。まだ現役続行中であるのは、東芝製の洗濯機であるが、東芝は既に白物家電事業を中国に売却した。

こうみると、世界に冠たるはずの日本電機産業は中国や韓国の低価格商品に駆逐されて敗退したわけではないことがわかる。もちろん半導体が韓国勢に後れをとったことは事実だ。しかし、1990年代初めの時期、過剰設備を解決しようとして生産能力をスリム化した日本勢の戦略が韓国勢の拡大戦略を誘発したことも否定できまい。戦略的代替関係が支配している設備投資ゲームにおいて、日本の出方をモニターしているライバルの存在を意識することなく、何らコミットメントを発することなく、スリム化戦略を進めたのは油断というしかない。

世界を変えるような創造的な新製品はアメリカやイギリス勢に後れをとり、コスト優位性があるはずの既存製品では戦略ミスを犯した。戦略ミスは経営能力の問題だ。

競争優位を築いた先駆者が退いたあと、実際に手足を動かし、汗を流して動き回った後続世代が経営の舵取りを担うようになった。おそらく自分たちこそが世界市場の覇権を築いたという感覚を持っていたのだろう。それは錯覚だった。勝つか負けるかは、個々の兵士、個々の営業レベルで決まるのではなく、もっと上位レベルの戦略的判断を担う人たちの能力で決まるものである。一定の方向付けを与えられて個々の問題を解決できたからといって、世界規模になったメガ企業をどう発展させていくかという高度の問題は身に過ぎた問題であった。

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戦争はやってみないと分からないところがある。もっと危ういのは、負ける可能性を認識できず、必ず勝てると信じてしまう人物群が指導的なポジションを占めていることだ。まあ、最後にかつ人間というのは有能な人物ではなく、勝てると信じている人間であると、ナポレオンは言っているそうだが。そのナポレオンも敗れて人生を終えた。

黄金時代の日本の電機産業は、確かに韓国や中国の低価格戦術に被害を被った。しかし、アメリカ勢にも、ヨーロッパ勢にも創造性や魅力という点で敗退したのである。

決して安物にシェアを奪われただけではない。「世界に冠たる・・・」は、ヘボの勘違いであったに過ぎない。

「価値観や哲学、統制ある行動パターンとか、すべて間違いだったとは思えないんですよネ」と言っているようでは、電気産業だけではなく全産業において危ないと小生は思って見ている。

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