2017年11月29日水曜日

「ハラスメント」、この現代を象徴する言葉

人生は短いとよくいう。しかし、時間が長い、短いという感覚は人生の平均的な長さから決まっているにすぎない。小生は人生は十分に長いと思う。『徒然草』第7段の有名な下りに以下のような文章がある。
命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。 
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。 
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
(出所)http://roudokus.com/tsurezure/007.html

小生思うのだが、いま小中高校で上の文章を授業でとりあげれば、高齢者に対するハラスメントになるのではないかと憶測する。

人生50年の時代の40歳は、人生80年時代の65歳以上、まあ年金支給開始年齢以降の老人を指すと言ってよい。

現代の感覚に置き換えて最後の段落を読めば、『年金をもらう年齢にもなれば、風采を恥じる感性も失い、世間にしゃしゃり出ることばかりを考えるようになる。何かと言えば子供や孫のことばかりを心配し、自分の子孫が繁栄することばかりを願い、自分の目でそれをみれるまで長生きしたいと願う。ただただ貪るように、欲深く生きたいという気持ちが強くなり勝る。だから、もののあわれに感じる優雅な心とは無縁になっていくのだ。何とあさましいことか』と、大体はこんなところだ。

言えますか? 古文の授業で原文をこの通り解説できる教師がいまどのくらいいるだろうか。高齢者への「ハラスメント」に該当すると言われそうではないか。

◇ ◇ ◇

日本国憲法では私刑、いわゆるリンチは厳に禁止されている。第31条にはこう書かれている。
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
なので、たとえばメディア・スクラムによって自宅に缶詰め状態になるなどという状態は、憲法違反ではないかと小生は思っている。よく「社会的制裁」と判決文にあるが、「社会的制裁」自体が私刑であり、憲法違反であると思う。「知る権利」などはマスコミによるマスコミのためのマスコミ用語であり、現行憲法には規定されていない蜃気楼のような概念であると思っている。

リンチが禁止されている以上、リンチに近似した「いじめ」。ハラスメントも禁止されるという法理は極めて自然である。

実際、30年ほど前からだろうか、世に普及したセクハラという言葉以降、今ではパワハラ、アカハラなど多種多様なハラスメントが認められるようになった。

しかし、法的にハラスメントを概念定義し、その防止や救済、処罰にあたる基本的な考え方を規定する「ハラスメント防止基本法」のような法律は、小生の勉強不足かもしれないが、まだ制定されてはいない(と思う)。

ドメスティック・バイオレンスがあるのであれば、ドメスティック・ハラスメントもあるべきであるし、デート・バイオレンスに至る前のデート・ハラスメントもそうだ。

ゴミ出しハラスメントもありうるし、井戸端ハラスメントもありうる。ペット・ハラスメント、香水ハラスメント、ファッション・ハラスメント、音楽ハラスメントもそのうち出てくるだろう。

しかし、嫌なことを全てハラスメントと認定し、社会的に抑制していこうとすれば、あたかも現実社会を無菌化するような努力にも似てくる。表現の自由、思想信条の自由との調和も必要になってくる。

だから、法的な限界(=社会として約束する範囲)を引いておく必要があると思うのだ。

◇ ◇ ◇

ただ「ハラスメント」という用語は本当に現代特有のニュアンスを帯びていると感じる―ということは、逆に30年後になお「ハラスメント」という言葉が使われているかどうかは分からない。そうも思えるのだ、な。

たとえば「侵略」という言葉がある。現代の日本社会で「侵略」という言葉は極めてネガティブな印象を与える。日本はアジアを侵略したと中国・韓国が言いつのれば、それは反日キャンペーンであると思って日本人はきくだろう。

しかし、幼少時の個人的な思い出話になるのだが、小生が幼い時の夕食時、性格もあって好きなおかずを後に残しておくことが多かった。それをみた亡くなった父は『どれ、侵略、侵略・・・』と言いながら、小生の皿からその意図的に残してあった好きなおかずを取っていったものである。『あっ、お父さんとっていった、返してよ!』と言っても、『アッハッハッハ、侵略されちゃったなあ』と。母も笑って父子のやりとりをみている。

いま、そんな会話が交わされることはあるだろうか。まず、考えられないと思うねえ。

父が好きでよく歌っていた歌は武田節だ。歌いだしはこうだ。

〽 甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子(つまこ)につつが あらざるや
あらざるや

歌のモデルは戦国大名の名門・武田である。真ん中で詩吟が入る。武田の旗印である風林火山である。古代中国の軍略家・孫子からとっている。

疾如風(ときことかぜのごとく)
徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
不動如山(うごかざることやまのごとし)

 亡くなった父にとって他を侵略する行為は、積極果敢な前向きの行動であって、やましい気持ちなどは微塵もない。父というより、戦前に教育を受けた青年たちはそんな共有された理念と価値観をもっていたことが、今になって分かるような気がするのだな。

なので、自分の幼い子供に『どりゃ、侵略、侵略・・・』などと言いながら、家庭内教育をしていたのだろう。

こんな感覚は現代日本からは完全に消失している。ということは、いまから3、40年もたてばまた再生されるかもしれない、そういうことでもある。

もう一つ、これは現代日本にも理解されそうな例がある。福沢諭吉が安政5年(1858年)の日米修好通商条約批准書交換のために訪米する万延元年遣米使節一行に随行し咸臨丸でアメリカに渡った。福沢はアメリカの経済が自由市場を基本にして成り立っていることをつぶさに見聞してきた。帰国後、Competitionを「競争」と訳したところが、幕府の役人は「争うとは穏当ではない文字じゃ」と削除を求めたそうだ。幕府は「和を以て尊しとなす」を理念としていた。なので、「競争市場」などという理念が正しいとは当時の幕府官僚にはまったく思えなかったのだ。

現代日本の感覚は、むしろ「争い」を否定して、「和」を尊重する江戸幕府の役人に共感するのかもしれない。福沢渡米から158年も経過した後、日本国民の感覚は一周りして元に戻ってきた。そういうことかとも思う。

世間の感覚は移ろいやすく、決して定かではないのである。


◇ ◇ ◇


合理性とは、これは真理であると思われる大前提から出発し、あとはロジカルな議論を通して結論を得ることで確保される。法律的論議では規定された法規が真理であると前提される。法が現実から遊離しているという可能性は法律的論議では展開不能である。経済学でも理論構成は同じ性質を共有している。消費者、企業の最適化行動を前提しないのであれば、どんな結論も出てくる。つまり、出したい結論を出せる。学問ではなくなる、というわけだ。

その「何を前提するか」だが、それは合理的議論からは出てこない。その時代の社会が「これは当然正しいよね」という感覚で前提するしかない。あとは合理的だ。故に、理にかなった考え方をするはずの国民がなぜ無茶な集団的行動をしたのか。後になって理解できないことが出てきたりするが、それは同時代の感覚を現実として共有できていないためである。

もちろん「一連の事実」を「明らかな前提」において「故に、・・」という議論の仕方もありうる。しかし、その事実をもたらした根因とメカニズムを理解しないまま、事実はこうだから云々という議論は大半が間違っている。なので、このパターンは(さしあたり)論外とする。

「ハラスメント」をあくまでも撲滅しようとする現代日本社会の、というより世界の潮流は(多分)正しい方向を向いた努力なのだろう。

しかし、ハラスメントを禁止しようという思考は<合理的>なのかどうか。それを証明するのは難しいと思う。むしろ<当然禁止するべきだよね>という世間の感覚に近い。そう思うことがある。とすれば、ハラスメントに関する議論には個人的な思い込みも混じっているだろうと思う。であれば、30年後の世界がどんな見方をとっているかは分からない。最近現れた言葉や概念は、近いうちに消えてしまうかもしれないからだ。

故に、余計にハラスメントの防止と処罰に関しては基本法を明確に制定しておくべきだと思うのだ、な。

◇ ◇ ◇

北朝鮮が盛んにミサイルを発射するのは<国家的ハラスメント>なのだろうか。それとも大国アメリカの国防感覚が発露していることから続けられる北朝鮮に対する<いじめ>に応じた<反撃>にすぎないのか。

ハラスメントとは「相手に不快な思いをさせること」で成立する。では「不快」とは何か。注射の痛みは「不快」ではないのか。耳鼻科の措置は「不快」ではないのか。現実に治療中に患者が不快を感じてしまった場合、それをどう認識するのか。ここが明確に定義されなければ、上の定義は同義反復(トートロジー)であろう。

「ハラスメント」は極めて現代的である言葉だ。それが現代を超えて、普遍的な通用力を持つかどうか、なお明確にするべき余地は大きい。

◇ ◇ ◇

横綱・日馬富士が引退を決意したとの報道だ。

あれは文字通りの「リンチ」であるという感想を小生はもった。指導には当たらないという点は前の投稿でも書いたので省略する。

【この件に関する感想 11月30日加筆】

暴力根絶は現代日本社会の合意である(と言えるだろう)。今回はこれに抵触した。

本場所・巡業の会場に自ら足を運ぶ熱心なファンは横綱の取り組みをもっと観たかったようである。もし相撲に深い関心をもつ人々だけによる裁決で結論を出すならば横綱は引退しなかったはずだ(と予想する)。つまり、横綱引退に導いた主たる力は、少数の委員、というより普段はあまり相撲に関心を持たない多数の人たちが暴力というものに対して感じる非難感情である。

類似のケースは他にもある。

野球にはもともと無関心であってもプロ野球界で不祥事があれば非難の感情を抱き処罰を求める。相撲にはもともと無関心であっても暴力事件があれば暴力否定の感情から処罰を求める。更に、美術にはもともと無関心であっても、美術界に不祥事があれば旧来の慣行が理解できないとして関係者の処罰を求める。音楽界についても同じ。文学界についても同じ。学界についても同じだろう。

このようにして関係者による分権的統治は否定され、集中的・集権的に物事を決める方向へと事態は進む。権限委譲、分散処理、地方分権が重要な社会的課題になっているにもかかわらず、単一的・集権的・機械的結論を社会は喜ぶ。実質的審議ではなく、形式的審議を分かりやすいという理由で好む。

関係のない大多数の人々がどう考えるかで集権的に物事を決めるという潮流は、「第三者の意見」を重視する近年のファッションでもある。これを直接民主主義といえば(小生は濫用であると感じるが)それなりに理にかなっていると言えるのかもしれない。

しかし、その第三者を日本人だけに限るなら理にかなわない(と思う)。国際化した活動をマネージする主体は国籍にとらわれるべきではないだろう。日本人が<これは正しいよね>と前提することを海外の人々も<そうだよね>と同意するかどうかは分からない。前提が変われば議論の全体もまた変わる。大相撲が真に日本人のための「国技」であるなら文化慣習の異なる外国人は参加するべきではない。外国人の参加を認めるなら、日本人だけの価値観や感覚で管理するべきではあるまい。

この問題は海外進出する日本企業、のみならず外国人を採用する日本企業すべての問題でもある。

まあ今は当事者・日本人を含め、色々な変化期にあるのだろう。

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