2017年12月4日月曜日

12月2日への補足: 問題解決の際の「日本的」な傾向

ある問題が発生し解決を迫られるとき、それぞれの国民性が反映される。その国民性は数多くの要因が結構複雑に絡み合って決まっている。

日本人の場合は、たとえば「島国」で大陸とは海で隔てられていたので長い歴史を通して独自の文化、理念ができあがっている ー 「邪を正す」という発想より寧ろ「和を以って尊しとなす」のはその一例かもしれない。前の投稿では、加えて日本語の特質という点をあげた。

前の投稿から少し考えを足したのでメモしておこう。

次のような日本文がある。

こんな日は、読書だ。

これを英語で表現するとどう訳す? たとえば

In such a day I like to read books. あるいは
In such a day one likes to read a book. 

上の二つはかなりニュアンスが違うが、これなら、まあ、学校的には丸がつくだろう。それでも原文とは意味が違っている。

そもそも元の日本文は「こんな日は」である。「こんな日には」ではない。だから"In such a day"ではまずいのではないか。「こんな日は読書だ」と、「こんな日には読書だ」とは、確かにニュアンスが違う。しかし、このようなことを言い出せば「こんな日は」を英語にすることができない。

かと言って、「日」を主語にして(日本語でも一見すると「こんな日」が主語であるようでもあるから)、

Such a day is a chance for reading.

こうすると余りにも分析的になる。大体、元の日本文とはまったく意味の違う文になってしまっている。『こんな日は、読書だ』と『こんな日は読書をするいい機会だ』というのは、意味は同じかもしれないが、情緒が全然違う。

大体、『こんな日は、読書だ』、『こんな日は読書だ』、『こんな日は、読書です』、『こんなひは、読書だよ』、『このようなひは、読書だよ』、『こんなひは、どくしょだ』、『こんなひは、ドクショだ』、まだあるかもしれないが、すべて文に込められている情緒が違うし、違う以上は異なった英文で訳さなければ(本当は)正確な訳文にはならない。

日本語による表現は、言葉で書かれていない「言外の」情緒を伝えようとするところに深い意味がある。その情緒を理解しなければ、聞いたことにならないし、読んだことにならない。英語でいう「ニュアンス」とは使われる言葉の選択を指しているので、いま言っていることとはかなり違っている。

大体、日本語による文学作品の代表例である『源氏物語』。ほとんど主語がないのだな。谷崎潤一郎の『源氏物語』は小生にとって長期的な読書リストの一つであり、いま少しずつ読んでいるところだ。谷崎は、紫式部の原文の雰囲気を忠実に出すために、現代日本語訳でも極力主語を省き、それが誰の動作であるかは敬語を用いているか、それとも前後の文脈から読み手に憶測させる表現をとっている。「源氏物語」が外国語に翻訳されているのはまったく驚異であると小生は思っている。

◆  ◆  ◆

前の投稿では、日本人が日本語で何かの問題を分析する時、自然に言葉の特性が国民性のような傾向になって現れてくるような気がする、と。そう書いたのは以上の趣旨であった。

特定の問題をもたらしているメカニズムをまずどう理解しているのか。そのメカニズムは何かの目的を達成するために設計されたはずだが、何が目的で、いま何か問題を抱えているのか。その問題が解決されていないために、現在の問題点が結果として現れているのではないか。本質的な問題を解決するための筋道は何か。本質的な問題を解決すれば、眼前の問題点も解消されるのではないか、と。

本質的なところで問題が発生しているとすれば、多くの場合、ヒト(Man)か、設備・道具(Machine)か、素原材料(Material)か、方法(Method)かのいずれかに存在するという「4M理論」などは、問題解決のためのツールとして製造業現場で受け入れられた<QC>(=品質改善)に由来するベーシックな視方である。QCでは整理された問題に対して「重点志向の原理」に沿って、大きな三つの問題点から先に解決しようとする。2割の問題が障害全体の8割を説明するという「パレートの法則」が根本にある。決して、すべての問題点を洗い出してから、整理し、解決への戦略を検討してから後、実行へ着手するという方式はとらない。これもまた実践的(というか非常にアメリカン)な方法論だろう。

いずれにせよ、問題解決にはまず観察、理論、診断のステップが必要である。こんなロジカルな構成をもたせて議論すれば(本当は)効率的である。しかし、日本語を使った議論では、中々、ロジカルな議論にならない。「この問題は何を意味するのか」、「意味されたことは他のどんな事と関連するのか」、とまあこのように連想ゲームのように話しが纏綿と関連しあいながら、進んでいくことが多い。

日本国内で「国会審議」とか、「ジャーナリズム」と呼ばれている「言論の場」は、諸々の事実の断片が次々に出てくるままに、事態が次々に成り行くさまをそのままに語り、問いかけ、嘆き、書き下ろしているだけである。

小生は日本的ジャーナリズムの元祖は鎌倉時代という歴史の変わり目のそのまた末期の世相を実見した吉田兼好の『徒然草』であると思っている ー その『徒然草』が小生が枕元に置いてある本の一冊であるのは、実は日本的ジャーナリズムが嫌いではないことの証拠でもあるのだが。

これが前の投稿の趣旨である。

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