2018年1月29日月曜日

アレルギー疾患と類似しているメディア過剰の時代

いま暮らしている北海道の海辺の小都市に移住してきたのは1992年である。26年前になる。

当地に来て何か目立った変化があったとすれば、まず第一には(広い意味での)健康状況があるかもしれない。

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まずカミさんが悩んでいた手のアトピー性皮膚炎が解消した。『水がいいのかしらネ』とその時は話したのだが不思議である。それから背中が痒いと悩んでいたのだが、それも解消し、顔の一部分が赤く発色する炎症もなくなった。有難いのは秋口になると何度かやってきた喘息が全快したことである。『夏が過ぎて金木星が薫るようになると空気が急に冷えてくるでしょう、その頃がこわいの・・・』と話していたカミさんが、今では『秋になったし、どこか遠出しようか?』と聞くようになったのは一番うれしいことである。当地に転居してホッと安堵したのはカミさん本人もそうだが小生もまったく同じである。

小生自身の健康はむしろ悪化したところがある。東京在住時代にもあったアレルギー性鼻炎が悪化した。一年に何度か時々服用した薬が当地に来てからは一年中ずっと手離せなくなった。移住後の我が家ではアレグラは必需品となり、今ではアレロックのジェネリックを個人輸入している。ツムラの小青竜湯徳用版も欠かせない。最近になってからは、アレルギー性結膜炎も悪化し、対アレルギーのアレジオン点眼薬、ドライアイ防止のジクアス点眼薬を外出時にも持つようになった。

専門の仕事とは関係ないのに時間をかけてアレルギー症状について勉強してきたのは毎日を楽しく過ごすのに必要だったからだ。

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周知のことだが、アレルギー疾患は人体の免疫機能と密接に関連している。

一口に言えば、体内に侵入してくる異質なタンパク質を毒性物質と誤認して攻撃するときに様々なアレルギー症状が発生する。体内で進行する一種の自傷活動である(とも見なせる)。

ずっと昔には日本人の衛生状態は今日のようなレベルにはなかったため、ウイルスや細菌などに感染する機会も多かった。1950年代には日本人の寄生虫感染率は60%を超えていたそうだ。これらは、当然、毒性をもったタンパク質であるので抗原と判断して抗体を形成する免疫機能が身体の健康にはプラスに作用する。攻撃するべき対象が日常的に検出される状態であれば、免疫機能はフル稼働の状態にあり、不必要なターゲットを探すなどという状況は起こりえなかった。

ところが現代日本は高度の衛生管理状態を実現した。無菌社会とまではいかないが、弱毒社会に近くなった。ところが、体内の免疫機能は生物体として同じ水準にある。現代社会の日本人と昔の日本人と遺伝子レベルの設計は同じである。免疫能力過剰の状態がもたらされる。

ちょうど16世紀の終わりに織田信長が登場して戦国時代が終わり、豊臣政権が確立されたあと、内乱状態に対応するための巨大な武士集団が過剰になったことにも似ている。豊臣秀吉が文禄慶長の役を引き起こした理由として、戦乱の時代から継承した武士団に格好の攻撃目的を与え、領土(=税源)獲得と併せて、戦死による消耗も期待した、と。よくこんな解説がされるが、もしそうだとすればアレルギー疾患の蔓延と秀吉政権がとった戦略と、この二つの類似性には驚かされる ― もちろん体内の免疫機能に秀吉の文禄慶長の役に相当するイベントは起こりようがなく、今日もアレロックを服用しているわけだ。

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確かに、マスメディアは社会において重要な役割を担っている。このことは一般的な観点から間違っていない。

暴力的な権力を倒すには、マスメディアほど有効な手段はないだろう。だからこそ『第4の権力』などと呼ばれたりもするのだ。その意味でマスメディアは社会の自浄機能を実現する機関である。健康なメディアは民主主義社会には不可欠だ。

戦前期の日本で新聞社、放送局、出版社など、現代日本にも継承されているマスメディア企業がもっと自由に、毅然と、表明するべき意見を社会に向かって表明していれば、日本の現代史は別のものになっていただろうとは、よく言われることだ。

しかし、同じ指摘が現時点の日本社会にも言えるのだろうかと、疑わしい思いにかられることが、特に最近はとみに増えてきた。メディア過剰と免疫過剰はどこか似ている。スキャンダル続発とアレルギー症状は何か通じるものがある。不必要な非難と不必要な体内防御反応は本質が同じだ、と。そんな風に思うようになったのだ、な。

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たとえば、(もう少しで予約購読は止めようと思っているのだが)朝刊のテレビ番組表をみると、朝からまずは栃ノ心の優勝、春日野部屋で4年前に起こった暴力事件。昼過ぎから仮想通貨"NEM"の580億円流出事件を少しとりあげる。その後は再び春日野部屋、日本相撲協会の理事選挙、貴乃花親方の動向。まあ、絶句します、ナ。一日に放映するあらゆる番組に占める<相撲もの>のシェアは50%に達するのではないかとすら思われる。本当にこれほど普通の日本人は日常から相撲に関心をもっていたのだろうかと改めて驚かされる。と同時に、疑いも感じる。

これはテレビだが、週刊誌のマーケティングも苦しいことは苦しいのだと推測する。実際、ドラマを制作してもカネはかかるし、視聴率はあがらず、CM収入は増えない。以前なら、プロ野球を春から秋まで中継すれば、低コストで収入を伸ばすことができた。歌番組もあった。いま何を流せば番組をみるのか。

思うに、20世紀型メディア企業はどこも戦力過剰なのだろう。もう朝から夜までずっとテレビ番組を流すことを社会は期待していない。インターネットで十分以上の映像が提供されている。新聞のページ数も中途半端に多いのだ。新聞を端から端まで丁寧に読む時間などもうないのである。北海道内のJRもそうだが、戦力を削減し、スリム化し、真に対応するべき需要に対応する。役割を果たしていく。これに徹するべきだ。そう思うことしきりだ。

上で述べたことはマスメディア産業における大企業をどう見るかという経営戦略の視点であって、メディア産業で仕事をしているビジネスマンの潜在能力の話しとは違うーそれでもまあメディア全体が保有している経営資源が過剰だからこそ色々な現象が起きていると思うのだ。

ま、いずれにせよ今後は人出不足の時代が続く。本当は不必要な、求められてもいない業務を維持するためにターゲットを作り出す戦略は放棄した方がよいと。そう思ったりするのだ、な。

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思うのだが、日本社会全体にとっての重要性、社会において「毒性をもつ組織体」かもしれない存在になりうるのは、相撲協会ではなく仮想通貨である。

それが、金融当局の指導にも対応することなく問題点を放置し、ムザムザと580億円(!)をハックされて失ってしまった。実に「大事件」ではないか。これが分からないはずがない。

金融当局に落ち度はなかったのか? ムザムザとハックされたコインチェック社の技術水準は十分であったのか? 仮想通貨取引業者は登録制になっているのだが、登録すればそれでよいのか? 仮想通貨は既に資金決済法の中で決済手段、つまり「通貨」として認定されている。であれば、仮想通貨取引業は両替商でもあり、金融機関として管理指導されなければなるまい。その体制はどうであったのか? 森友事件や加計問題よりも遥かに重要性において優先されるべき大問題だ。

まあ日本相撲協会を攻撃するのはご自由だが、それで日本社会がどれほど健康になれるのか?きわめて疑問である。

噂によれば、マスメディアは今年の春までまたまた森友・加計問題で政府を追及する(営業?それともマーケティング?)戦略を検討しているらしい。

まあ、やっていけない、それは犯罪だというつもりはない。しかし、あまりに「無学丸出し」ではないだろうか。マスメディアは標的を誤認している。誤認というより社内資源が過剰状態であるため、投入ミスの機会費用がゼロに近い状態。そうも推測できる。明白な敵の脅威が減り、敵の存在を(北朝鮮問題が拡大しつつはあるものの)迫りくる実体として意識する習慣が薄れ、それ故にターゲッティングのミスによるマイナスを心配する必要がなくなった(資金過剰からもたらされるゼロ金利状態と似ている)。日本のメディア産業は過剰資源、過剰資本、過剰雇用の状態にある。なので、標的選択が甘くなっている。不必要な攻撃をしかけている。リソースの配分割合を間違えている。どうもそう見えてしまうのだ ― 本来は社内資源のスリム化が課題であるときにアウトプットを維持すれば往々にしてこうなる。

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メディア企業の社内資源制約が有効に意識されていれば、ターゲットは慎重に選択されるはずだ。大きな問題を優先し、小さな問題には人員を割かないだろう。社会が真の意味で脅威にさらされていれば、大きな問題には常時困らない理屈だ。

仮想通貨やフィンテック、資金洗浄には分厚く戦力を投入し、森友には少し、加計学園獣医学部については入学状況、教育状況などのフォローアップ、相撲は余剰人員があればフォローする。そのくらいでいいはずだ。

もしも今でもマスメディアは現代社会の木鐸という自意識をもっているなら、もう一度、自社は何のために日本社会に存在しているのかという問いかけをするべきだ。そう思われるのだ、な。

ひょっとすると、中国マフィアや多数の軍事スパイ、産業スパイ、テロリストが徘徊するようになれば、日本のマスメディア企業も覚醒するのだろうか・・・そうなれば相撲どころではなくなるワナ。そんな風にも思われるわけである。

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