2018年2月27日火曜日

データ収集が政争のタネになる信じられない状況

裁量労働制をめぐって厚労省のデータ収集プロセスが国会で問題になっている。「働き方改革」そのものは、今後の日本にとって絶対に必要な政策である。しかし、与党と対立している野党からみれば、データの統計的処理の不適切、データ収集プロセスの「ずさん」は、(もし報道がすべて本当なら)確かに攻めどころではあり、その後の説明の不手際ぶりをみていると、なるほど「これはいかんネエ」と感じる。

分からないのは、今回の問題はデータという実体がある(原票は保存されなければならない)以上、標本調査の目的、質問事項の設計、サンプリング方法、収集されたサンプルデータをどのようにデータ・クリーニングしたか、どのような統計的処理をしたか、これらの点を淡々と国会の場で(多分、担当局長あたりが適任だと思うが)説明すれば、それまでの話しである。政治家が技術的な話題をことさらにとりあげて、一つ一つなぜそんな結果になっているのかなどと質問するのは、本来は時間の無駄のはずである。それなのに・・・現に紛糾が続いている。ここがまったく分からないのだ。

非常に不思議である。

これって野党がロジカルな審議を拒否して、「時間の空費」を強要するという戦術をとっているってこと? それとも、与党が本当にデータ・クッキングをしていて、詳細を説明できないってこと? 両方が可能なように感じられて、よく分からないのだな。

まあ、小生のメシのタネでもあるので、付け加えておくと、大体1万件程度のサンプルデータがあって複数項目の平均値を出す時、これらの項目のいずれかが不記入であるケースは予想外に多いものである。更に、明らかに異常値である数値が回答されていたり、複数項目間に不整合があったりもする。データ分析の前に分析に値するようなデータ状況に整えるデータ・クリーニング作業が不可欠なわけであるが、この種の作業を済ませた後、最初にあった1万件のデータが6千件程度にまで減ってしまう(=4千件程度は使えない)ことは、それほど驚く事ではない。

新聞記事を書いている記者もデータ分析の実際はよく知らないに違いなく、記事を読んでも大事なポイントは何も書かれていない。ではあるが、「異常値が200件もある」とか、そんな文章を読むと母数が1万件もあれば当然でしょ、とも言いたくなるわけで、大事な要点は「それらの異常値を分析段階ではどのように処理したのか」ということである。

まあ、具体的なことは何も伝えられていないので、多くは書けないが、厚生労働省という官庁は、その昔、「就業構造基本調査」や「毎月勤労統計」、あるいは「国民生活基礎調査」等々、日本でも最重要な統計調査を所管する組織として作業協力もし、学生時代には直接訪れてデータをもらったり、懐かしい思い出が数多くある。「産業連関表」の作成作業を担当していた時も大変お世話になったことがある(当時はまだ厚生省と労働省に別れていたが)。現在の状況は小生にとっても悲しく、情けないものである。

2018年2月25日日曜日

再掲? 普遍性のある話題が三つある

時代を問わず、国を問わず、誰もが興味をもつ話題が三つある、という話題は前にも一度投稿した記憶があるのだが、検索しても出てこないのだな。

こうなるなら、最初から本ブログでもラベルを付けておくのだったと、今さら反省してももう遅い。

もう一度、その三つの話題を書いておくと:

  1. 食べ物の話し
  2. カネ・財産の話し
  3. 親子、兄弟、夫婦の話し

この三つである。

外国人が目の前にいれば、『お国では何が一番好んで食されているんでしょう?』という質問はまず絶対に出したいところだ。『エッ! そりゃあ、うちの国ではご法度だ。お国ではどんな風に料理するんで?』、こんなやり取りほど面白い会話はない。

2番目の話題の中には、いわゆる「権力」や「相続関連」。もっと具体的にいえば、後継者争いが含まれる。アレクサンダー大王の死後、王国が幾つもに分裂したのには理由があった。会社が設立され、発展し、衰退し、身売りするまでには劇的な歴史がある。そこには興味の尽きない興亡がある。人間ドラマがあるはずだ。興味をそそられるのは何も現代日本のニトリや大塚家具だけではない。福田家や中曽根家、小泉家や安倍家だけではないのである。

3番目の話しは家族の話だ。この話題は、2番目の話題と重なる部分があることが多く、そうなると一層陰惨な物語りが生まれることになる。引き合いに出して悪いが、旧年の暮れ、東京は深川にある富岡八幡宮境内であった惨劇は当時の人々に大きな衝撃を与えた・・・何年経っても、こんな風な語り口であるだろう。この大事件の背景にあったのは、やはり後継者争いであり、親と子、姉と弟という一族同士の愛憎であった。

中東では一夫多妻制である。日本も明治以前はそうであった。古い慣行であるから、人々は不幸であるに違いない、とは決め付けられないだろう。いわゆる不倫は、一夫一婦制であろうが、一夫多妻制であろうが、発生しうるものである。

同じ子供であっても複数いれば均質ではない。父と二人の息子の関係は同じではない。一人の息子とは理解しあえるが、もう一人の息子とは会話ができない。こんな話をすると、あらゆる時代、あらゆる国の父親と時の経つのを忘れて話がはずむだろう。話の中にはシェークスピアの『リア王』や聖書の中の「カインとアベル」が登場するだろう。

時と空間を超えて人間なら誰しもが興味を持つ話題。ということは、この三つの話題は人間性の本質を構成しているということだ。

食って、愛して、いつか自分は死んでいき後継者に託す。人生はつまるところ同じだ。

人間の寿命が永遠になるという可能性はゼロである。いつか死ぬ。いつか死ぬのであれば、子をつくり、後世代に託すという行為が欠かせない。ライフサイクルが同じである限り、人間性はずっと将来も同じである。

2018年2月24日土曜日

古代ギリシアのオリンピアと現代のオリンピックの大きな違い

始まった時は「どうなることか?」と思われた平昌五輪であったが、無事閉会を迎えられそうだ。

関係者はヤレヤレというところか。五輪で整備した施設は20年後にも稼働しているのかどうか、気になるところではあるが。

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それにしても今回の冬季五輪、決してアスリート・ファーストではなかったネエ、と。そう感じる。

というより、政治がオリンピックに優越することが明確に表現された大会であった。

「政治」は人間社会の最も人間的な領域であり、ある意味で高次元の活動だとは思う。とはいうものの、所詮は単なる上部構造であって、社会や生活の豊かさが政治によってもたらされることはほとんどなく、自然科学、社会科学の進歩こそが豊かさをもたらす真の要因である、と。政治が重要だとすればただ一点。おかしなことや独善的なことを決してしないことだ。まあ、ホボホボ100%、そう結論できる。というのが小生の見方である。

なので、今回は実に下らない五輪で、1936年のベルリン大会と並んで史上ワースト2を構成するのではないかとすら思ったが、終盤になってから相当盛り上がって来た。

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古代ギリシアでは4年に1度ペロポネソス半島の寒村オリュンピアにあるゼウス神殿にギリシア世界全土から人々が集まって祝祭が開催されていた。それが古代オリンピアである。開催中は敵対する都市国家であっても争いを中断し、神々を称える祭典を祝うことにした・・・という歴史的事実が、(周知のように)現代オリンピック運動が始められた契機であった。

しかしながら、古代ギリシア世界を構成していた都市国家群は、必ずしも国制や価値観を共有していたわけではなかった。同じギリシア民族であってもドーリア人が建設したスパルタと傍流のアカイア人が建てたアテナイは、行政システム、日常的なライフスタイルなど、多くの点で大きな違いがあった。そればかりではなく、多数の都市国家に分立したギリシア世界では内戦が頻繁に繰り返されていた。

とはいうものの、国家の組織・制度・主義には大きな違いがあるにしても、宗教は共有されていた。信仰する神々はギリシア世界の中では同じであった。遠く北方にあるオリュンポス山に住まう神々をギリシア人都市国家はそろって信仰していたのであって、戦国時代さながらの日常にもかかわらず、信仰という面では共有される基盤があったようだ。ギリシア世界のオリンピアにペルシア帝国が招かれることはなかった。北隣のマケドニア王国も永らく参加は許されなかった(王族の先祖がギリシアの英雄ヘラクレスであると主張してある時期からは許されたようだが)。

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古代のオリンピアは大神ゼウスに全ギリシア民族がそろって奉納する祝祭であったのだが、現代オリンピックは何を理念として共有しているのだろう。

五輪で共有されるのがもはや同一の神々ではないことは、あまりに自明である。共有されるからには、理解されていることが不可欠だ。

思うに、現代オリンピックで共有されている価値は<マネー>ではないだろうか?

カネの有難みだけは、いま生きている地球上の全人類が理解可能であると、ほぼほぼ結論しても許されるだろう。

具体的には、時代の変化にともなって、金からドルへ、ドルから何種かのソブリン・マネーへ、ソブリン・マネーから仮想通貨へと、マネーの実体はシフトして来ているにもかかわらず、だ。

実際、全人類レベルで理解が共有されている価値はもうカネしかないのが現実ではないだろうか?他に、何があるだろう??言葉では、色々と形而上学的な理念を語ることができる。しかしどれもローカルではないか。限られた地域でしか理解されないのではないか。立派に語られる言葉は現実のマネーの前ではどれほどの重みがあるだろう、現代の世界で。

信仰する神々に神聖なる闘技を披露して神々の祝福をうけたいという本源的欲求に代わる動機として、<それはカネになる>という以外に現代オリンピック運動を継続できる真の動機があるだろうか?

開催を続ける真の動機が何であるかにおいて、古代オリンピアと現代オリンピックはまったく別のものである。

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マネーが社会を支配する社会こそ<資本主義社会>であると定義するなら、現代オリンピック運動は資本主義の申し子である。

更にいえば、カネを個人ベースで追及するか、国家レベルで追及するかという点だけが、資本主義と社会主義・(現代)共産主義の相違である、と解釈すれば、マネーを使用する社会主義も、共産主義もまた資本主義体制のヴァリエーションの一例に過ぎない。そう思うのだ、な。

その意味では世界はすでに一つになっている。

古代オリンピックの主祭神がゼウスとオリュンポスの12神であったのに対し、現代オリンピックの祭神はマネーであろう。古代ギリシア世界にギリシア神話があったと同じく、現代オリンピックを支える現代世界にはロスチャイルドやエジソン、フォードやスティーブ・ジョブス、ビル・ゲーツ、ジェフ・ベゾスといった拝金教の神々がいる。アップルやアマゾンという神殿ではなく、わざわざペソポネソス半島のオリンピア遺跡から聖火リレーが出発するという儀式こそブラックユーモアである。

世界はすでにマネーという祭神の下で一つになっている。そんなことを思った今回の五輪であった。

2018年2月23日金曜日

メモ:宗教から国家への移り変わりは戦争に効率的であったからか

毎月、月参りに来てくれている寺が本堂を修理したいので寄付を募りたいという手紙が届いた。

今日はその月参りの日であったので、様子を聞いてみると、本堂と住居部分をつなぐ廊下の部分が根太ごと腐っているということだ。

現住職で寺の8代目。創建以来150年が経つと言うから、出来たのは幕末の頃、単純に引き算をすると1868年になる。ちょうど明治維新の年になるか。古くなるはずである。

ずっと昔(宗教組織が人々を支配する権力であった「中世」をとおして)は寺や教会が村里ごとにあって、住民がカネを出し合って寺を守り、僧侶は何事かあれば堅固な寺院に住民をかくまって保護し、また寺子屋を開いて子供達に文字を教えるなど教育機能を担い、文化的行事を企画したりしていた。今の言葉でいえば、宗教的権威を有する人はその地域におけるメンターとして機能していたのであって、信仰と生活が<共生関係>にあったと見られる。

宗教を軸としたこの生活システムが国家を基礎とするシステムに変化する中で、住民が納めるカネも寄付(寺からみれば勧進)から租税へと移り変わっていったーとりあえず「領主」という存在は無視しておく。

なぜ宗教から国家へと変わったか?宗教から国家へ移り変わる中で、社会を支配するモチベーションは信仰から政治へシフトして来た。現代日本では、政府はいかなる宗教からも独立でなければならない。

いま関心を覚えている問題はこれである。何がこの社会的変化をもたらしたのだろう?

国家が必要になった理由は、小生今のところ、「戦争」ではないかと思っている。戦争をする必要があるので、それには宗教ではなく、国民国家を組織化する必要が出て来た。今のところ、そう思っている。

これは事実か?いま関心をもっている読書課題だ。

ただ全ての社会的変化の土台には生産技術があるという唯物史観にたてば、上の変化もまた宗教から国家という理念の変化ではなく、技術の進歩がもたらしたことになる。

その技術進歩とは軍事兵器の進歩ということか?用兵思想の進歩なのか?う〜ん、こうなると石原莞爾の『最終戦争論』の世界になってくる。
飛行機は無着陸で世界をクルグル廻る。しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば今日戦争になって次の朝、夜が明けて見ると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。その代り大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう。すべてが吹き飛んでしまう……。それぐらいの破壊力のものであろうと思います。そうなると戦争は短期間に終る。それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない。そんななまぬるいのは持久戦争時代のことで、決戦戦争では問題にならない。この次の決戦戦争では降ると見て笠取るひまもなくやっつけてしまうのです。このような決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得る者が最後の優者であります。
(中略)
 今までお話して来たことを総合的に考えますと、軍事的に見ましても、政治史の大勢から見ましても、また科学、産業の進歩から見ましても、信仰の上から見ましても、人類の前史は将に終ろうとしていることは確実であり、その年代は数十年後に切迫していると見なければならないと思うのであります。今は人類の歴史で空前絶後の重大な時期であります。
(出所)青空文庫『最終戦争論』(石原莞爾)

軍人・石原の基本は軍事力を土台にした勝利の追求、つまり武断主義である。しかし、この発想は歴史的事実として破綻した(だけではなく、日本にとってフィージブルな選択ではなかった)。

ただしかし、一介の軍人が政治・軍事・信仰の関係について考えている筋道にしても、このような視線は現代世界における政治家にも求められている。これは確かなことだと思われるのだな。

今日の月参りでは、仏説阿弥陀経に加えて、法然上人の一枚起請文を読んでいた。
・・・念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
 ここには「無知の自覚」がある。「反・知識」の立場がある。ソクラテスの「無知の知」に通じるところを感じる。無知を知ることは、全ての哲学の出発点である。

学問全体の基礎である哲学の、その出発点が「無知を知ること」であるというのは、非常に示唆的である。

かたや「知は力なり」という。軍事力は知の結果である。知識が信仰の土台を掘り崩して来たのも事実である。知識の進歩は技術の進歩をもたらし、技術の進歩は軍事力を飛躍させ、武断主義を選ばせる。これは危機である。危機が喜ばしいはずはない。

古くて新しい問題だ。

この辺のことをもう一度読み直したい、と。そろそろ時間もできるだろうし、そう思っているところだ。

2018年2月20日火曜日

今度の忖度は厚労省のデータクッキング? ホントにそうなんですか??

愛媛県今治市の加計学園獣医学部新設に関連して、内閣府が所掌する国家戦略特区を安倍総理の友人に有利な形で調整するよう総理自身が圧力を行使したのではないか、と。特区を所掌する内閣府が「総理の意向である」と文科省に強い圧力をかけたのではないか、と。行政を歪めた、と。許せない、と。

森友問題もそうであったが、昨年の春先からずっと野党が政権攻撃の最大の理由としたのは、総理が管轄外の事柄に不当な圧力をかけたのではないかという疑惑であった。

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現在進行中の衆議院予算委員会審議では、厚生労働省の実態調査の技術的不備をとりあげ、その調査結果に基づく過去の答弁を総理が撤回したことが無責任であるとして、野党議員は安倍総理の責任を追求している。「事実に基づき政策は進められるべきであるにもかかわらず、間違った調査に基づいて答弁をするのは不適切である・・・」と、こんな風な非難である。

ことは裁量労働制の是非であり、働き方改革を基礎付ける法案とその正当性を証拠づける統計データが問題になっている。

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確かに裁量労働制になると、毎日一定時間の仕事をしていると見なされるため残業手当はつかなくなる。仕事に従事している時間が8時間を超えている場合でも8時間と見なされる。その代わり、働き方は自分の裁量でスケジュールできるようになる。

一般労働制では多くの場合、毎日8時間の就業時間を設けているので、8時間を超える時間は残業として記録される。残業には手当が支給される。もし「最長の残業時間」がわかれば、それを8時間に加えて一般労働者の最長労働時間(の目安)が出てくる(という点が問題になっている)。

実態調査では裁量労働者については労働時間を調べている。一般労働者は最長残業時間である。この二つの労働時間は概念が異なるので比較できない。これが問題のコアである。

野党は、改めて実態調査をするべきであると要求している。

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一般的に、利用できる他のデータがない場合比較をする必要に迫られたとき、結果について特定の解釈を行い、その解釈を前提にして、概念調整された数字を導出することは、経済分析では日常茶飯事的に行なっている。野党が質問をしたので答弁をする必要があった、だから厚生労働省内部では既存の情報から計算をしたものと推察されるのだ、な。

なぜ最長残業時間を8時間に加える手法をとったのか。それは分からない。とはいえ、別調査で調査実施月における平均的な残業時間分布が分かっているなら、その中央値と最大値との比率をとって、残業時間の目安がわかるだろう ― 厚労省ならこの程度の情報を持っていないとおかしいし、少し調べただけでも日経連が所定外労働時間の分布を公表していることがわかる。省内になくともデータ協力依頼くらいはできるだろう。それを8時間に加えれば、モデルケース的な労働時間は一応出てくる。どうせ(という言い方はやや捨て鉢だが)サンプル調査なのだから、行政の参考にするのが目的なら、この程度の作業で十分のはずだ。

異なった複数の統計調査結果を組み合わせて、知りたい事柄の目安となる数字を導出する作業は日常茶飯事的な分析作業である。

もし概念調整を行う統計的操作がダメだというなら、GDP統計すらもダメだという判定になる理屈だ。GDP統計もまた加工統計である。

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主旨はわかるが、非常に細かなディーテイルである。

せいぜいが「資料要求」が相場の質問である。

「適切な統計データがありませんので、裁量労働者と一般労働者の労働時間の比較については、お答えできませぬ」と答弁するべきであったのだろうか。

「きちんと実態調査をしてほしい」と、野党はまたそんなことを言っているが、厚生労働省は「予算要求の格好な理由を提供してくれた」とコッソリ喜んでいるに違いない。財務省に対して「政治問題にもなっており、大々的に調査を実施する必要がある」とこの8月には予算要求するかもしれない。

野党の当面の狙いはこれなのだろうか。

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よく分からないのだが、この件は厚生労働省の行政の細部に関わることである。担当閣僚は厚労相である。総理大臣は、(野党の理屈からいえば)管轄外である。総理の答弁を得たとしても、具体的な内容を語れるはずがない。語れば、現に「圧力」を加えたことになる。

にも関わらず、野党議員は総理の意見を求めることが多い。その主旨は、総理が担当閣僚に何かをせよと指示せよという趣旨なのだろうか?「総理の指示」は「総理の圧力」にならないか。それは加計学園獣医学部新設において野党が最も非難した行為ではないのか。

野党の議員は総理大臣の所掌と担当閣僚の所掌とどのように線引きしているのだろうか?

前もよく分からなかった。大学に戻ってからわかるようになったことは多いが、上の点だけは、今だによく分からないのだ、な。

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ま、何度も投稿しているが、韓国人の「日本バッシング」もそうだろうが、いまの世の中、バッシングするなら、先ずはロジックよりも「反▲▲」を重視するTVのワイドショー、次に小党乱立で次々に登場する野党議員の方たちだ。実にバッシングしやすい。そもそもアンバランスに目立っている。何がターゲットなのか、これが最善の戦略なのか、と。見ているこちらはツッコミどころに困らない。「何とかならんのかネエ」とさえ言っておけば、多くの人と感覚を共有できる。

こんな時代といえばオシマイになるが、この現実はやっぱり悲しいネエ・・・

裁量労働制・・・個人的には大いにウェルカムだった。時間に束縛されず、自由にスケジュールをたてて、それで毎日8時間の業務に従事していると見なされる。これほど嬉しいシステムはない。これが実感であった、な。出勤簿の煩雑さから解放されたし、超過勤務手当の支給率に目をとがらせることもなくなった ー もともと大学教員には残業手当はつかないのが通常だ。そんな仕事だから仕方がないと思うが、それでもなまじ「勤務時間」が決まっていると「これって、超過勤務してるよなあ」と。そんな思いにかられることもある。こんな職種は広く世間にあるのではないだろうか。

人は色々、仕事も色々だ。今後はもっと個人間で仕事の内容がばらつくだろう。これまたそんな時代なのだから仕方がない。

野党は「厚労省が官邸を忖度したデータクッキングである」と見ている(というより、持っていきたい)ように見える。しかし、森友や加計学園獣医学部の忖度疑惑と今回の件はスケールが違いますぜ。去年のモリカケは、まあ一言でいえば「どうでもよいマイナーかつ細かい話し」であった。しかし、働き方改革をつぶすというのは、国民全体に関係する話だ。野党も本気でやるなら、覚悟を決めてからやるべきだ。モリカケの乗りで気軽に嫌がらせ程度の気持ちでやっちまっているようだが、今回の件は経済界、労資双方ともども、高い関心をもっている大問題である。言う方も言われる方も<政策感覚>が試されるのは間違いない。野党にそれほどのリスクに耐える力はあるのか・・・小生、疑わしいと思ってみているところだ。

国会が中継される初夏ごろまでは、このブログでも格好の話題を提供してくれそうだ。


2018年2月16日金曜日

最近の出来事から連想して:「返納」という言葉をテーマに

「徒然なるままに」というのは何でも書いておく本ブログのメインテーマだ。

書いておくとすれば、まずは韓国・平昌冬季五輪か。今のところ、日本は"Silver Medal Collecter"を演じている。ドイツは(これまでもそうだったが)"Gold Medal"を集めている。これは「おかしいねえ」、というより「可笑しいねえ」というのは個人資格で出場しているロシア選手グループ"OAR(Olympic Athlete from Russia"と、開会直前に政治的理由から結成された「韓国・北朝鮮合同チーム」じゃな。

もし韓国と北朝鮮が合同するなら、韓国が獲得した金メダルも韓国と北朝鮮が合同で獲得したということになるのではないか?なぜ、この種目は合同とするが、別の種目は韓国の、北朝鮮のという扱いになるのか?

こんなことが出来るなら、この種目は日印合同で、この種目は日豪合同で、その他種目は別々で、ということも出来る理屈になるのではないか?

あまりにも裁量的、というより恣意的でござろう。納得致しかねる、というのはこの事だ。

ロシアを国家として出場禁止にするのはいいが、実際にはロシア人が出場しているではないか。これって「ロシア」だよね、と。カミさんも「そうだよねえ」とうなずいていたが、ロシア人ではあるが、ロシアではないというのは、屁理屈じゃあないか。

これも納得致しかねる。

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いま研究室を整理している最中だ。書籍類は、不要なものを廃棄、必要なものは少しずつ蟻が運ぶようにして宅に持ち帰った。次は、紙類である。これはワラケンさんの「セキュリティパック21」を利用して溶解処理する。最後は、備品類というか、「燃えないゴミ」。どうもこの辺の線引き、つまり「返納して廃棄処分するもの」と「返納せずに直ちに廃棄できるもの」の間の仕分けがよく分からず、困っているところだ。まあ、色々と聞いているうちにわかってくると思う。

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いまの日本社会で何が分からないかと言って、年金制度と入試センター試験制度(受験生側から見ても、監督側から見ても)のラビリンス的状態は、誰か某法務大臣が国会審議の場で「私の頭脳では理解困難であります」と答弁したことがあったと思うが、まさに理解を超越したレベルに至っている。

年金制度と課税制度が複合すると、さらに迷路的状態は高度なものになる。

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基礎年金は税によって一定年齢に達した全ての国民に同一金額を支給する。これを「国民皆年金」と呼ぶ。それ以外の報酬比例年金部分は、原則任意として民営化。自営業者は業界組合などを結成すればいつでも2階部分を設計できる。自営業者と被用者の公平は十分確保されるはずだ。年金支給額の差は自由選択の結果となる。税金が投入されるのは基礎年金の部分だけ。あとは積立金の運用成績で決まる。これのみが持続可能な最善の制度と個人的には確信している。

いつの時点でかリセット的改革が余儀なくされるかもしれない。

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リセットと言ったが、団塊の世代がさらに高齢化すると、財政需要は増す。

しかし、考えてみると、一般家計であっても老後は貯蓄を取り崩す、つまりマイナスの貯蓄を行う。マイナスの貯蓄とは資金不足になっているわけだ。

政府部門は(いうまでもなく)資金不足である。ということは、日本では民間企業部門が資金余剰になっている。

経常収支は黒字である。つまり、日本全体では資金余剰である。であるので、今の日本では企業の黒字を使って、政府の赤字をカバーしている。近い将来には高齢化する家計部門の赤字もまた企業部門の黒字で埋め合わされるだろう。

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日本全体が高齢化すれば、家計部門全体で資金不足になってもおかしくはない。家計部門が資金不足になっても日本全体の国際収支(経常収支であるが)が赤字化するとは限らないのだが、ひょっとすると(というより、おそらく)日本の経常収支は赤字化するかもしれない。

SNAの勘定体系において、資本調達勘定の実物部門で確かにISバランスは決まり、そのISバランスは金融部門の資金過不足に一致する。もし日本全体で資金不足になれば経常収支は赤字になる。しかし、経常収支の赤字を資本収支の黒字でカバーしているのが今のアメリカ経済である。生産活動している企業群が世界から信頼されていれば必ず資本は調達できる。資本調達できれば日本経済に心配はない。資金不足になれば、負債の増加か、資産の減少かで埋め合わす。これが基本的なロジックだ。

仮に資本調達できなくとも、売却できる海外資産があれば、これまた心配にはあたらない。高齢化による資金不足は一定期間を経た後では解消できるからだ。

高齢化による公債残高累増の処理は将来時点においては資本勘定をどう操作するかの問題であって、経常的な経済活動がどうなるかの問題ではない。

もし公債を償還して公債残高を減らすなら、政府部門の負債減少と政府あるいはその他部門の資産減少、もしくはその他部門の負債増加があるということだ。どんなことが起こるのか、今から具体的にわかるはずはないが、多分、以下のような道筋になるだろうというのは前にも投稿したことがある。

資産は、誰の資産であるか決まっているわけではないが、政府部門の債務と誰かの資産が両建てで相殺されることで、公債の相当部分は国内償却されるだろう。

その「誰かの資産」とは、その時点の納税者の資産ではなく、死去していくはずの団塊の世代、つまり財政赤字をもたらした世代が全体として保有していた資産になるのは、<ほぼほぼ確実な選択肢>であると小生は見ているわけである。具体的には相続税率を代表に資本課税が限りなく上がっていくという方向のことだ。資産分配の不平等度は所得分配の不平等をはるかに上回っているから、庶民にはこうした路線変更はほぼ無関係である。

税率・保険料率上昇の遅れによって団塊の世代が受け取った生涯収支黒字の部分は、自らの世代が世を去る時点において、国庫に<返納>し、それによって将来世代の公債償還負担を軽減(というよりほとんどゼロに)する ― もちろん政府債務減少に見合って、親世代が残した資産を相続できないという意味で家計部門の資産が減少する。そんな道筋をとっていくのだろうという予想は、前にも投稿したことがある、というのは上に述べた。

ただ自民党政権に必要な政策変更ができるかどうかは明らかではない。

2018年2月11日日曜日

「無知ゆえの遠慮」を求めるか、「凡人の常識」を許すか

『ホント、最近のニュース解説はひどいねえ、それに何だい?ワイドショーっていう奴。見ている人を傷つけてばかりいるじゃないか』というのは、何度も投稿しているように韓国の人たちが『ホント、日本人というのはひどいよなあ、許せないよな』という反日意識に通じるところがあって、これさえ言っておけば大半の人たちと心を一つにできる共通の話題になりつつある。

日常の出来事を記録するブログではニュース番組やワイドショーの登場頻度がどうしても多くなってしまう。

話題に困ったときは、テレビ・バッシング。そんな時代になってきた。

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またまた福井県の記録的豪雪をめぐって某局のキャスターが「やっちまった」、というより「言っちまった」ようである。

1500台の自動車が立ち往生する中、災害救助要請をうけた自衛隊が現場に駆けつけて、除雪作業にあたったのだが、そのキャスターが『ただ、24時間で除雪できたのは、手作業がメインだったということもあって、わずか1.5kmほど』と言ったというのだ ― 小生も10時から放送されるそのニュース番組はよく観るのだが、その発言は後で知った。もし観ていれば、「ありゃ、ありゃ、いいのかい」と小生もまた感じただろう。

この発言に対して、抗議が殺到したというのだな。

「人の手で1日であの高さの積雪を1.5kmもする事がどれだけ大変か…現場のリポーターにスコップ渡して1メートルでもやらせてみろ」等々、抗議の電話が殺到したという。

そりゃあそうでんしょう。「わずか1.5キロ」という表現はひどすぎる。そのキャスターが雪というものを全く知らなかったことは明らかであるにしてもだ。

しかし、一方で雪を知っている人は日本の中で多数派ではない。体感的に知らないのは仕方がないんじゃない・・・そうも感じる。実際、1992年にこの町に移住するまでは、小生もまた表日本育ちであり、「スタッドレス・タイヤ」という単語ですら、「それ何?」と聞いていたくらいだ。

「雪ってロマンチックだね」と思う人は雪国にはまずいないからネエ、と。そう言ってもリアルな実感として心を一つにできる人は東京や大阪にはそうそういないはずだ。

***

小生はマンションで暮らしている。だから寝る前に雪を確かめ、早朝に一度起きてまた雪を確かめることはしない。しかし、一軒家の住人は降っていれば雪かきをしておく。すれば30分か1時間は肉体労働をする。そんな一戸建てに暮らす苦労とは無縁である。楽な暮らしをさせてもらっている。

除雪はマンション管理の一環として任せている。これは楽だ(もちろんその分だけの管理料は払っている)。しかし、駐車場に除雪車(除雪ブル、ブルドーザーと当地では呼んでいる)が入るときは車をどける必要がある。大雪の朝は、管理人から「ブルが入るので9時半までに車をどけてください」と連絡が入る。そうすると、住人が一斉に車をどけるのだが、停めるところに困るので、小生はそのまま近くのショッピングモールにいって昼までコーヒーを飲みながら時間を過ごすことにしている。買い物もすませて正午前後に戻ると、除雪は完了している。ブルドーザーもどけた雪を運搬するトラックもいなくなっている。駐車場はスッキリと、滑らかな雪面が輝いている。その時の気分は雪国の住人でなければ想像できない。

まあ、雪国の冬はこんな朝が毎週1回や2回はある。一度、ブルが入る前に自力で除雪をして車を出したことがあった。その夜、生まれて初めての坐骨神経痛が発症して眠れなかった。雪国育ちではない小生は雪かきには肉体が適応していないのだ、な。駐車場の車1台分など僅かな大きさだ。加えて、北海道の雪は軽い。それでも除雪作業はかなりこたえる。重労働なのだ、な。疲弊すること月並みではない。

もし駐車場を除雪する時に起きてこない人がいて、何台かの車がそのまま残っているとどうなるか? ブルドーザーは直進しながら帯状に雪をどけながら一地点に集める作業をする。その集めた雪をトラックで運搬するわけだ。何台かの車が残っていると、残っている車の周囲には取り切れなかった雪の段差が残ることになる。作業も煩雑になる。

豪雪時の1500台立ち往生の際、自衛隊はなぜ重機を持って行って効率的に作業をしなかったのかと、そんな疑問を呈するコメンテーターもいたようである。

この意見も「自衛隊の除雪はわずか1.5キロ」と同じである。生活実感として知らないのだな。大体、車がズラッと並んでいる国道で、除雪ブルドーザーを動かせるか?困難であろう。かえって時間を要する可能性が高い。

人海戦術でいくしかない。その人海戦術にしても、数万人を投入するわけにはいかない。狭い国道沿いに作業エリアがある。数万人が集まっても役にはたたない。なので千人規模の動員になったと想像される。

自衛隊の作業体制は極めて合理的であったと小生は思う。

***

「わずか1.5キロ」、「なぜ重機をもっていかなかったのか?」。マア、悪気はないのである。「無知ゆえの勘違い」である。

除雪というのを知らないのだから、誰か知っている人がキャスターに教えてあげればいいのにねえ・・・そう思いました。

「なぜ1.5キロしか進めないんでしょう?」
「それは△△○○なんですよ」

そういう短時間の会話、確認をしておくだけで、キャスターの目線は格段に的を射た共感可能なものになるだろう。

実際には、都会で暮らしている平々凡々たるサラリーマンが「凡人の常識」に沿って大雪で難渋している現場の報道をしたわけである。別に悪意があるわけではない。しかし、無知であるが故に現場で苦労している人が聞けば腹立たしい発言をしたりするわけである。「知らないなら黙っておれ!」と言いたくもなるわけだ。

そこで今日の表題になる。

***

ずっと以前は、TVの民間放送といえば、まずはドラマかバラエティ、歌番組、クイズ番組、お笑い番組が主であって、ニュースといえばNHKでアナウンサーが淡々とデスクの上の原稿を読むといった風なスタイルであった。

世間の出来事を「報道」と称して、キャスターが個人的感想や意見を付けくわえつつ語るというスタイルは、放送業界の伝統ではないと思う。

これもあらゆるジャンルの番組が視聴率低下に悩み、ソフト提供側にあってはニュース解説やワイドショーが残された最後の鉱脈であるのだろうが、そろそろ社会倫理上の限界に達しつつあるようだ ― 実際、番組中に細々とした謝罪をのべる事が増えているように感じる。

「よく知らないなら黙っておれ」を忠実に守るなら、キャスターがアドリブで発言する機会は封じるべきであるし、「あのキャスターが何をいうかを聞きたいんだよね」というのであれば「勘違いもまた面白いよね」と、そんな意識が見る側になければなるまい。

ドラマやバラエティは100パーセントがエンターテインメントで最初からフィクションである。受け取る側もそれが分かっている。しかし、「事実」を素材にコンテンツを編集するなら、関係者は現実の住民である。それなりのリスクは作り手側が当然覚悟しておくという理屈になる。

学問用語でいえば、電波で流すソフトにも社会的な外部不経済があるわけだ。その社会的コストは<生産者責任原則>に沿って供給側が負担する、そしてコスト負担を内部化する。この考え方が社会的な資源配分の適正化への基本となる。

アメリカではフェースブックなどのSNSが社会にプラスの価値を提供しているのかどうかを議論している。日本でもそろそろ真剣にTVのワイドショー、ニュース解説が社会にプラスの価値を提供しているのかを議論してはどうだろうか。





2018年2月10日土曜日

メモ: 泰明小学校のアルマーニ制服について

東京銀座にある泰明小学校の前の通りは在京時代に食事に買い物によく歩くことがある。その近くにあった中華レストラン「東京飯店」(だったと記憶しているが)は、製鋼企業に勤務していた叔父が好きで、役所の仕事をさぼって足を延ばした時など、よく行ったものだ。また行きたいのは山々だが、もうないらしいのだ。銀座の中華レストランといえば、「中華第一楼」の冷麺(冷やし中華などという俗なものではない)。ある先輩が好きで知ることになったが、この店も(歩いて確かめたわけではないが)もう閉店してしまったらしい。そういえば、中華ではないが阪急の階上にあった「コックドール」。実に好きな店だった。いけば必ずエスカルゴを頼んだものだ。この店も既になくなった。実に歳月怱々。昔の銀座はもう訪れようとしてもかなわぬ曾遊の地となってしまった。

その泰明小学校が再び世の注目を浴びているのだから面白い。それも制服。いまどき小学校で制服を着用させるところがまだあったのか、と。数十年の昔にさかのぼったような感覚を覚える一方で、服のデザインは何とイタリアン・ブランドのアルマーニだ、と。

なにか京都の南禅寺のそばにある店でキャビアを賞味するような感じだネエ・・・、にしても、なぜアルマーニなのか??

アルマーニの制服採用を決めたのは校長先生だと報道されているが、なぜ数あるブランドの中からアルマーニなのか?

そこが、小生、はなはだ不思議でござった。なぜバーバリーではないのか?なぜイブ・サンローランではないのか?なぜブルックス・ブラザーズではないのか?

公立小学校で制服をデザインするなら、イッセイ・ミヤケ・・・はもうお年か。KEITA MARUYAMA(丸山敬太)はいいらしいぞ・・・、日本航空の客室乗務員の制服デザインも手掛けているらしいし。

公立なら「国産愛好」を考えてもいいのではないですか。小生が関係者なら意見を言ったろうなあ・・・。(今でもそうだと思うが)役所で会議があるときに出されるお茶は、コカ・コーラの「綾鷹」ではなくて、伊藤園の「おーいお茶」だった。

どうしてもそんな疑問をもつネエ。

結局は、(公費が直接的に支出されるわけではないが)公的機関によるデザイン発注業者選定手続きが適切であったか否かという、最近よく発生しているパターンの問題の一例になっていくのではないか。やはりカネのからむ事柄であるし。

2018年2月8日木曜日

戦前のベルリン、戦後の平昌が五輪史に残るか

北朝鮮が平昌五輪に参加できる道を開いたこと自体は文在寅大統領の政治哲学として共感できるところがある。

しかし、強硬外交を貫く意図を心の底に隠しながら、五輪を政治的宣伝の場に活用し、時間をかせぎつつ軍事力強化を続け、最終的には近隣諸国に圧迫を加えて様々な利益を獲得していこう、と。こんな国際政治戦略を北朝鮮がいま採っているとすれば、戦前期のドイツ・ナチス政権が採った戦略を再現していることになる。

ただし、仮面をかぶった狼の戦略を実行するには、騙される赤ずきんの役回りを演じる人物が必要だ。

***

1930年代の欧州世界にあってはチェンバレン英首相がそうであったし、現在にあっては文在寅韓国大統領がそれにあたる。

ネヴィル・チェンバレン英首相はノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレンを兄にもち、自身は実業界でも成功し、政界に進出した後は女性や児童の人権問題に関心をもつハト派として活躍した。そのチェンバレン英首相が大陸欧州に対してとった政治戦略が<宥和政策>である。その外交戦略に沿って英国はドイツ・ナチス政権とミュンヘン協定を結んだ。

宥和政策は、ナチス政権をバックアップすることに目的があったわけではなく、台頭する共産主義国家ソ連への警戒心に基づくものだった。いわばソ連を牽制する番犬としてナチス・ドイツを使おうと考えたのだが、その番犬は島国イギリスのいうことを従順にきくような忠犬ではなかった。自らの意志をもつ猛犬であった。

中国大陸で台頭する共産党勢力を警戒するのであれば、アメリカのルーズベルト政権は日本と国民党政権との和解を調停するべきであって、そうすれば満州に勢力を張る日本はソ連を牽制することができ、最終的結果としてはアメリカの国益にも適ったはずである。しかし、イギリスの宥和政策の結末を見たアメリカはたとえ融和を演出するとしても大人しく日本がいうことをきくはずがないと悟った(はずである)。その後のアメリカの強硬外交は、経験から学んだ政治哲学であろう(と思われる)。

そんなことを振り返ると、たとえ文在寅大統領がいかに頑張ってもアメリカが対北朝鮮外交の方針を変えるとは思われない。日本も自分自身の過去を振り返れば、ソフト・コミットメントを選ぶ相手にはソフトに応じるどころか、逆にタフ・コミットメントをとってそのまま相手を押し出していく戦術を選ぶ、そのほうが得である、北朝鮮もそう考えるはずだ、と。そんな思考に基づき、故にアメリカの強硬方針に同調するだろうと思う。

なぜ文在寅大統領は北朝鮮に対して宥和外交をとろうとするのだろうか。なぜそれが効果的であると考えるのだろうか。宥和外交は失敗するケースが多いというのに。

まあ、先日も投稿したが、現在の韓国は韓国の国益を追求しているというより、中国外交戦略の駒の一つになっている、そう考えると理解できることが増えている。

やはりそういうことなのだろうか。

最終的には、朝鮮半島から米軍を含めた外国軍を撤退させることに目的があるのだろうか。しかし、北朝鮮が核武装し、むき身の韓国から米軍が撤退すれば北朝鮮主導の半島統一が実現可能になるのではないか。中国はそれで心から喜ぶとは思われない・・・。ムンさんの心の中はどうなっているのか?ともかくムン大統領、考えていることをすべて明らかにはしていないようである・・・

どちらにしても、平昌五輪は北朝鮮・金正恩政権にハイジャックされてしまった感がある。ナチスによる政治的プロパガンダの舞台を提供したという悪名を残したベルリン五輪の二の舞にならなければよいがネエ・・・。

2018年2月7日水曜日

米株価の大暴落をどうみる

歴史を通して何度も株価大暴落劇を演じ世界経済の行方を左右してきたアメリカでまたもや大暴落が発生した。2月5日のダウ平均は前日比1600ドルの下げとなり、数字だけでみるとリーマン危機以来になった。これで景気上昇は終わりかと悲観する人もいるくらいだ。

ただ、下落率でみると株価水準がこの間に26000ドル前後にまで上がっていたため大したことはない。マイナス4.6パーセント。5パーセント未満である。この程度の株価変動は、なるほど日常的ではないかもしれないが、珍しくはない。
ダウ平均は、5日の終値が前週末比1200ドル安に迫った。大幅に見えるのは、数字を大きく見せているからだ。ニュース番組の平均的な視聴者は、ダウ平均が500ドル以上下落すれば一大事、と刷り込まれている。だがダウ平均の最高値が2万4000~2万5000ドル前後を行き来するのが日常的になった今、1000ドルの振れ幅に以前ほど大きな意味はない。比率で言えばわずか4.6%の下落だ。米紙ウォールストリート・ジャーナルの編集者は、ダウ平均の下落率が今回より大きかった日は過去に100日以上ある、とツイッターに投稿した。 
株価が2営業日で急落したと言っても昨年12月末の水準に逆戻りしたに過ぎない、ということも覚えていてほしい。もしあなたが1年前にS&P500に投資していれば、5日の急落後も約15%の上昇率を確保している。
(出所)ニューズウィーク(日本語版)、2018-02-06

 今回の株価大暴落は、これから実態経済が上向いていこうかという段階で発生したところが特徴的である。グリーンスパンFRB議長が登場直後に発生した有名な「ブラックマンデー」(1987年10月19日)もそうだった ー もともとNY市場の暴落は10月に発生することが多い。

世間では「日本はずっと不況が続いている」、「アメリカはリーマン以後ずっと長期拡大が続いている、いつ崩壊してもおかしくない」と。そんな単純すぎる指摘がされることが多いが、何を見てそう思うかは人それぞれだ。マネーとは別の世界経済全体のリアルな実態をみると、ずっと拡大が続いてきており、今後も一過的、地域限定的な波乱は予想されるものの、成長拡大基調が続くであろうと。この予測はまず外れないと見ている。

現在は、ネット技術が個別商品にも織り込まれ、ライフスタイル全体を変えつつある。世界全体で暮らし方、買い方、楽しみ方が変わり「消費革命」が進むだろう。働き方も変わり、文化、ライフスタイル全体にも波及するだろう ー その際の難問が貿易システムになるのか、国際政治になるのか、宗教になるのか、民族になるのか・・・それはまだ分からないが。

ま、いずれにせよ、

「日本の景気はずっと悪い」というメディア調の慨嘆はまったくのウソである。人手不足である。賃金が上がらないのは少ない人でビジネスが展開できるイノベーションが進行中であるからだ。賃金インフレが発生しない分、安定的な成長が期待できる。そうでなければ某経済週刊誌のように「老後の資金は株式投資で」などとすすめられるはずがない。

今回の米株価大暴落の主因は以下のようにみている:

  1. 雇用状況データが予想を上回る好結果で賃金も回復しはじめた。
  2. アメリカ経済の拡大トレンドが改めて確認された。
  3. 金利先高観が一部に出てきた。長期国債相場の下落懸念から先手をうって売却、長期金利が上がった。
  4. 株から債券への資金シフトが発生し、株価のボラティリティが上昇した。
  5. この変化を検知した人工知能(AI)売買プログラムが売却指示を出した。株価下落が波及し、更にボラティリティが拡大、更なる売却指示で暴落。


概略以上のような経路ではなかったかと想像している。そして、何よりこの一連の暴落劇が、FRB議長がイェレン氏からパウエル氏に交代するちょうどそのタイミングで起こった、この点はやはり大事なポイントだろう。グリーンスパン新議長が登場して間もなく起きたブラックマンデーは上に述べたが、バーナンキ新議長登場時にも確か「バーナンキ・ショック」があったはずだ。なぜかFRB議長の交代前後にアメリカ金融市場の波乱は発生しがちなのだな。なぜだろう?

イェレン氏は再任されなかったことへの失望を露わにしている(と伝えられている)。前議長のこのような姿勢はかなり珍しい。

雇用状況の改善とそれを受けた金利先高観は事前にFRBに(可能性として)分かっていたことだ。金利が2018年中に何度引き上げられるかで3回説や4回説が噂されていた。世間(≒金融市場関係者)の心配に対して、FRBはまったくのコミットレスな姿勢をとり、そのため金利は景気拡大ペースに合わせるように、予想以上に急速に引き上げられていくのではないか?そんな観測もあった。とすれば、そもそも上がりすぎという感覚もあった株をいま売却し、債券にシフトさせようという投資戦略が浮上するのは極めて自然だ。

どうやら今回の米株価大暴落。イェレン前議長からパウエル新議長に与えた最初の宿題。品の悪い表現をとれば<最後っ屁>でなかったろうか。好意的にみれば<大掃除?>。「株、適当に落としておいたから、あとはヨロシクね」、ひょっとしてそんなところか?そう思っているところだ。

2018年2月4日日曜日

一言メモ: 世間は実は「官僚主義」を願っている??

最近の「第2次貴の乱」にとどまらない。企業の不正経理、不祥事が発生するたびに外部第三者の視点を入れるべきであることが強調される。

確かに組織管理(=経営)の現場において組織外の人材の視点は以前よりも濃厚に反映されるようになっている。この事情は大学運営においても同じである。

***

ただ、思うのだが、企業が外部取締役の役割を以前よりも尊重するようになったのは誰の利益を重視しているのだろうか?

この問いかけに対しては「それは企業の所有者たる株主の利益を重要視するからにほかならない」という回答になる(はずだ)。

企業の所有者である<株主>と現に業務に従事している<経営執行部+従業員>は典型的なプリンシパル・エージェント問題である。なので、現に働いている経営執行部か従業員の側のいずれか、あるいは双方にモラルハザードが発生し、所有者の利益を毀損する確率が高い。

第三者によるモニタリングは所有者である株主の利益を守るためである。組織内部の現場を構成する経営執行部や従業員の利益を守るために第三者を入れるというのは、そもそもロジックからしてありえないことである。労使協調路線を徹底すれば、組織内部においてローカルな最適解が必ず見つかるものである。

***

外部取締役の視点を経営現場に入れることによって、株主への利益配分が増え、従業員への配分が減るというのは、組織管理の基本ロジックを思い出せば当然の結果である。

最近は、このような結果は問題であり、任命されている外部第三者が果たしつつある役割が不十分であるという指摘が増えている。

もし企業内部において、利益と賃金との所得配分の理念を変更しようとすれば、

  1. 従業員代表がボード(=取締役会)の構成員となる。
  2. 株主ではなく社会の利益を代表する外部委員がボードの構成員となる。
  3. 株主利益の視点から経営をモニタリングする外部取締役をボードから外す。

これらの方策がありうる。

最後の選択肢<3>は以前の状態に戻すというものである。しかし、当該組織の運営を当事者だけに委任するという方式はもはや世間が受け入れないかもしれない。

最初の方策<1>は(例えば)ドイツが採っている「従業員代表制度」が近い。ただ、経営意思決定への参画の度合いは様々であって、参画の度合いが高くなれば、最後の選択肢とどこが違うか区別できなくなる。

方策<2>は、(ある意味で)利害関係のない「世間代表」。学問的用語を使えば「公益代表委員」をボードの構成員とする案である。これは、しかし、たとえば中国の企業内部に共産党の支部組織を設置し、経営判断においては<自分達(=会社)だけで決めず>党(=社会)の意向を尊重せよという、いま習近平政権が推進している方向とどこが違うのだろうか。そんな疑問を感じる。

***

いずれにせよ、「世間の目を意識せよ、社会的な利益を尊重して組織を運営せよ」という世間の要求は、自由市場においては既に実現しているはずのことである点を忘れるべきではない。許容できない(という事実が明らかになった)企業の商品・サービスは購入しなければ、その企業は存続できないのである。その意味で、自浄機能が備わっているのであって、自由市場経済の下では「顧客が社会を決めている」と言ってもよい。

社会的な利益を意識させるために、その組織の意思決定の場に「世間(=公益、社会)」を代表する人材を送り込む。この方式こそ、いま共産党国家・中国の指導者が最も力を入れている政策である。これは結構重要なポイントではないだろうか。

***

相撲の話に戻るが、もし「大日本相撲協会(当時の呼称)」の下に(よくいえば)統合化された大正15年(1925年)以前のように、相撲界が「一門」という多くのグループに分かれ、群雄割拠し、互いに競争している状態であれば、いわゆる「暴力体質」が露見した一門の巡業からはファンが離れ、その一門は資金が枯渇し、多人数の関取を維持することができなくなるので、本場所に出場しても好成績を収めることが困難になるだろう。こうして角界には自浄機能が働く。

相撲興行を自由開催から日本相撲協会による独占的活動にしたのは、マア「伝統文化」を守るためであったと言えば聞こえは良いが、要するに独占化することによる利益拡大と、更に1920年代の思想の潮流として見落とせない<国家社会化>への志向が色濃く反映していた、これらの点は忘れてはならないと思われる。

***

その相撲協会には既に危機管理などで外部の人材が任命されているが、その外部の人材が世間の感覚とかけ離れ、協会側の利害に立った議論のみをしている、と。マスメディアではこんな批判があるようだが、このような議論の行き着く果ては、真に公益を代表した理事を日本相撲協会の執行部に入れるべきである、と。関取は世間の常識に沿った運営をする協会の指示に従えばよい、と。そんな方向になるのではないか。もしそうだとすれば、この発想はいま習近平政権が進めている「腐敗撲滅運動」とどこが違うのだろうか?

現在の日本は「国民主権」である。「国民」や「社会」を名乗れば、それは直ちに「権力」をさす。世間の常識、社会の合意をふりかざせば、そのまま「社会主義」、「全体主義」への道を開くことも可能である。「官僚主義」そのものである。

確かに世間の常識は守ったほうがよい。しかし、だからといって詳細かつ具体的な事まで明文化してルール化するのは問題だ。透明化といえば聞こえはいいが、法治主義には裏の顔がある。小生はそう思っているのだな。そこに自由はない。息の詰まる社会ができる。体制には従え、となる。反対すれば反社会的になる。そうなる。この手法こそ、いま中国で共産党政権が進めている「打虎拍蠅」(虎もハエもたたく)一大運動と同じである。そうなってしまうのではござんせんか?

世間も社会常識もオールマイティではない。やはり<ほどあい>というものが大事ってことでござんしょう。


2018年2月3日土曜日

一言メモ: 角界の行方を予想する

相撲は「国技」と言われれば特別の行事・団体と感じる向きもあるが、現実は相撲好きのマニアを顧客としている「興行」である。純粋に勝敗や記録を争う「スポーツ」と言えるのかすら、小生は疑わしいと思ってきた。

ただ、幼少期からずっと相撲は好きであった。その「好き」は北の湖をもって最後となり、千代の富士の時代になると、もう熱烈ファンとは言えなくなった。その後の若貴時代などは小役人の頃の仕事の忙しさもあって、思い出も思い入れもないというのが正直なところだ。

***

やっと静かになる。やはり不祥事で揺れる角界が毎日ワイドショーで「あれこれ」と批判されたり、憶測されるのは不愉快であった。

10年ほど前に貴乃花親方が起こした「貴の乱」。それほど衝撃であったのか・・・千代の富士が北の湖にしかけた権力闘争のほうは、何となく記憶があるが。まあ、その時点で興味をもってフォローしていなければ、こんなものだろう。今回の顛末もやがて時がたてば何事もなく、忘却の彼方に消えていくような気はする。

10年ほど前に貴乃花が在籍していた二所一門を離脱して、理事職に立候補した時、一門の大御所であった大鵬はまだ存命中であり、若い者が頑張るのはいいことだと、後ろ盾になってくれたという話をきいた。大鵬ならやりそうなことだろう。理事会に入った貴乃花は出羽一門という本流出身である北の湖から評価され、後に抜擢され、角界改革の将来戦略を担当した。伯父が初代若乃花、父親が名大関・貴乃花、自分自身は平成の大横綱。その血筋は関取なら誰もが「この人は貴種なり」とリスペクトするだろう。そもそも日本人は家柄好き、世襲好きの潜在意識が強い。戦前期は新体制を唱える旧五摂家・近衛文麿に人気が集まり、今は梨園の御曹司・市川海老蔵の13代目團十郎襲名を心待ちにする。

角界の御曹司は一人飛び出しても一門の大御所・大鵬が盾となり、出羽一門出身の理事長・北の湖が後ろ盾となり、引き立ててくれた。そして、若年でありながら要職を占め続けてきた。北の湖理事長が急逝する前に遺言があり、まず八角親方が跡を継ぎ、程なくして貴乃花親方に禅譲せよ、と ー この話は真実かどうかわからないが、そんな遺言があったという。既定路線であったのだろう。

小生の知っている世界は角界とは全く様相を異にしているが、貴乃花親方が歩いてきたような人生をおくれば、まず確実に自分を過信し、他人は自分を尊重し、自分の意思を必ず忖度してくれるものと誤認するであろう。

大鵬も北の湖も世を去った。実父・初代貴乃花も伯父・初代若乃花もこの世の人ではない。実兄・二代目若乃花とは縁が切れてしまった。

戦前期・日本の何よりの失敗は、国をリードする指導層の養成に失敗した点にある。日本のエリートは、エリート教育を受けながら、そのエリート達の視野が実に狭く(組織に忠実だったとも言える)、杓子定規な発想にこだわり(受けた教育に従順に従っていたともいえる)、現実的な問題解決能力に欠如していた。十分な能力に欠けながら、日本のエリート層は、自分の能力を自ら評価し、過信し、外部の人間の介入を嫌悪し、そのため人事には常に執着し、処遇には常に不満を抱きがちであった。

貴乃花という一人の力士が角界においてエリート教育されてきたが故の決定的弱点をもっているのであれば、今回の理事選における敗退は、角界を現場で支える親方衆の日常的な感覚とあまりに遊離してしまった結果である。そのようにも見える。現場を支える人間集団から広く(本当の意味で)理解され、広く会話をし、信頼され、支持されない人は、いかに世間で正論を述べても、真の問題解決能力が欠如しているが故に、結局は評論家として外に出るしかない。古くて当たり前の組織論的な原理がここにある。

小生の上の愚息は、昔の小生に匹敵する相撲マニアであるが、将来の角界は「貴乃花理事長」という既定路線を離れ、次第に元横綱・大乃国である芝田山親方に衆望が集まってくるのではないか。そんなことを言っている。

その発言を文章で読む限り、予想として当たるかもしれない、と。そう思っている。

副理事の藤島親方(元大関・武双山)も人柄手腕とも優れていると伝えられる。
約束はみんな壊れたね。

海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。

空には階段があるね。
(備考)三好達治『測量船』より

そもそも「将来の人事戦略」などは、言葉の遊びに近いのであり、「御曹司」は9割方、自ら転んでいくものである。

今回の角界騒動もまた世の中に掃いて捨てるほどある「必敗のパターン」だと。そう見るのが自然な受け止め方だろう。

***

暴風雪でどれほど海が荒れても、海面の下はいつものように静かである。角界騒動とはいっても、強風に砂嵐が舞うようなものだろう。現実の世間は何も変わらない。1年も過ぎれば新しい体制が定着し、3年もたてば人は今回のことを忘れるだろう。まあ、その前に次の理事選があるだろうが、その頃には世間の人の頭も冷静になっているだろう。

やれやれ、よかった。もうウンザリである。

国会の線香のほうもいい加減にしてほしいネエ。

これらはマスコミが騒ぐからこうなるのか?そもそも騒動になっているからマスコミが食いつくのか?一体、どちらが真相なのだろうか?

2018年2月2日金曜日

日本では「線香と憲法」の国会審議。イギリス議会とは提灯と釣鐘だ。

通常国会が開幕して、またまた、森友蒸し返し、加計蒸し返しか、と。そう思っていたら、毎日新聞(であったか、朝日新聞であったか、記憶が曖昧になってもし間違っていたら誠に申し訳ないのだが)、加計学園獣医学部の志願者が競争率10倍を超える状況となり、「これでいいのか?」と新聞社なりの視点からツイッターで問題視したところ、「受験生が何か悪いことをしたのですか?」と反撃されてしまい、(情けなくも)謝罪と投稿削除をしたそうな。

となれば、加計学園の方は入試、合否、その後の教育状況をフォローするのがせいぜいである。

であれば、森友しかない。

と思っていると、色々と出てくるようである。国税庁長官はいざという時の「きりしろ」として次官でも、退官でもなく、いわば政権への協力報奨として提供されたものかもしれないなあ、と。そんな邪推すら思い浮かぶ。なので、モリトモは何かのカタがつくのかもしれない。

***

安倍首相はそんな状況の下、憲法改正への議論は国会の義務であるとゲキを飛ばしているそうだ。行政府の長が国会にゲキを飛ばすなどあっていいのか、と。また理屈にもならない不平を新聞が伝えているようだが、なかなかスムーズには進まないだろう。というのは、国民の過半数は生煮えの憲法改正には消極的な態度を示しているからだ。

野党は正面からガチンコ勝負をするのは避ける戦術をとっている。まあ、昨年の衆院選で大敗を喫するのみならず、分裂劇まで演じてしまったので弁舌以外にはもう何の力もない。そこで見つけた攻め口は茂木経産相の線香配布活動。これひょっとして公職選挙法違反ではないか。だから攻撃する、ということだろう。時間稼ぎにはなるし、この件が炎上すれば「政権交代?」すらも夢ではない。そんなロジックでござろう。もし功を奏すれば
あなうれし 線香でとる 天下かな
というものでござる。

かたや「憲法改正を!」と攻め、かたや「選挙区に線香を配っただろう、これ違反だぞ!」の論争だ。

まさに<線香と憲法>の国会だ。

先日は、代表質問のヤジ問題で副大臣が一人辞めた。日本の国会はヤジには過激に反応する。器が小さい。

今度は「TTP11合意」の中心人物を線香でクビにする、と。これが野党の戦術になっている。合意という国益は自党も享受できる将来の果実、クビにするのは今の自党の利益。確かに攻撃するだけのロジックはある。

***

悪法とは「間違った法律」なのであれば、線香が違反になるという規則、これ小生の感性からいえば「間違った法律」だから変えた方がいいんじゃない?間違っている法律なら、守らない方が正しいんじゃない?そうも感じたりしますネエ。先日の新聞コラム記事に沿って語るなら・・・

EU離脱レファレンダムというオウンゴール以降、英国の政治は迷走気味になっているが、先日はTPPへの参加をイギリスが検討中とも報道されるなど、政治のエネルギーはマグマのように、なおも枯渇していないようだ。生存への強烈な意志というものを感じる。

実に、イギリス議会と日本の国会は<提灯と釣鐘>。

日本の野党も「たかが線香」しかとりあげられないのであれば、もう何もしかけず、美しく枯れ果てることをプランニングするほうが国益にかなうのではないか。こんなことを思う今日この頃でござる。


2018年2月1日木曜日

適法だったかもしれないが間違った法律だった、とな!?

昨晩は、現役最後の授業をいつもよりは早めに終えて帰途についた。宅に入るとき、ふと空を見上げると三日月、いや赤味がかった満月が煌々と輝いている・・・「あれっ、今日は月食なの?」と、カミさんにそう尋ねると「そうそう、言ってた、言ってた、あれ月食だよ」というので、二人でしばらく眺めていた。

部屋に戻ってから調べてみると、昨晩の皆既月食は月が地球に近づいて大きく見えるスーパームーン、同じ1月に2度目の満月を迎えるブルームーン、それに皆既月食が重なったというわけで、これは152年ぶりの天文現象であるそうだ。

西洋占星術では、月食は一度欠けてからまた元のように輝くというので「よみがえり」、「生まれ変わり」、「復活」を象徴しているのだ、と。

いいねえ・・・復活だとさ
へえ~
現役最後の授業で生まれ変わりってのは、縁起がいいねえ
へえ~
それにね、かに座の満月っていうのは、大願成就。未来に向けて計画をたてよっていう意味でもあるそうだよ
へえ~~~

先日聞いたテレビのワイドショーでキャスターが連発していた感嘆符付きの「へえ~っ」をうちのカミさんも連発していたが、当たらぬも八卦にせよ、嬉しくないといえばウソになる。

■ ■ ■

一夜明ける。

(もうそろそろ毎月購読はいいなかとは思っているが)朝刊を読む。コラム記事に目を向けると
本来であれば「当時は適法だった」のあとに、せめてこう続けるべきだろう。「適法だったが、誤った法律だった」と。
はあ~~っ! 感嘆符付きの疑問が出てくる。どうやら「優生保護法」の下で不妊手術をされてしまった人たちのことを評しているらしい。

誤った法律でも「当時は適法」とかわす考え方はなお政府にはあるようだ

この論説委員(?)は何を語り始めたのか、と。そう思いました。呆れました。まあ、同情的にみれば、ちょうどあれですナ。韓国の新聞人が従軍慰安婦を語るときも同じような心境なのでありましょう。そう感じた。有名な感性優先の報道哲学がここにもある。

政府や政治家に必要なのは、悪法に正面から向き合う姿勢だ。

「法律ではあるけれど、これ悪法なんだよね。間違っている法律かもしれないんだよね」、と。法に対するこのような姿勢から出てくる考え方は「守らない方が正しいんじゃない?」という思想ではないだろうか。

「これは悪法です。だから変えましょう。これまで間違ったことをしてきました」、と。法に対するこのような姿勢のどこが間違っているかという問いかけは、現代でも学生向けの好適な演習問題である。

ソクラテスの「悪法もまた法なり」。何とコラム記事の中で揶揄的に引用している。一体この御仁はプラトンの『ソクラテスの弁明』を本当に熟読したのだろうか?中学校の推薦図書を真面目に読書していれば読んではいるはずだ。読めばこのような使い方はしないだろう。

法というのは時代に合わせて進化させていくべきだ。だとすれば、憲法改正も議論をしてよいわけである、むしろ常に議論の場を設けておくべきである。いわんや一般の法律においてをや、である。法はすべて時代の進展にそって改正していくべきものである。

しかし、改正をしたからといって従来の憲法が間違っていた、だから直したわけではないのだ。法もしかり。間違っているから改正するわけではないでしょう。価値観や哲学、倫理観は時代の変化に伴って変わるものである。だから修正していくのだ。これまで間違ったことをしていたので正す。こんな乳幼児のようなものの考え方はやめてほしいものである。だから「最近のジャーナリストは、無教養であるだけではなく、そもそも地頭が悪い」と批判されるようになったのではないだろうか。

昨夜の月はまことに美しいものであったが、浅薄な新聞の論説ほど目を汚すものはない。

浮世というのは文字通りのごった煮。玉石混交。そんな中で、蓮のように美しく咲いていようと、先輩と語り合ったのはもう30年の昔になった。

時代というのは変わるのである。