2018年3月30日金曜日

若いころの心情を思い出す

小生の亡くなった母は結婚してから父が他界するまでに12回の転宅を繰り返した。小生も両親と一緒に転居を繰り返し、この世に誕生後、学生時代の下宿を含めて、18回の転宅をした。しかし、その大半はいま暮らしている北海道の小さな町に移住する前の事であり、当地に来てからあとは最初に入った家からいま住んでいるマンションへ引っ越した1回だけである。幼少年期から青年期にかけて2年もたたないうちに新しい家に引っ越してばかりいたのが、中年になってからはもう四半世紀も転居はなく「一ッ所」で同じ隣人の顔をみながら暮らしている。

転居を繰り返している間、最も淋しい思いをしたのは、もちろん住み慣れた住居を出る日である。新しい暮らしが待っているとはいうものの、10回も引っ越しを経験すると、どこか自分が根無し草であるように感じられたものだった。

小生は永井荷風の作風を愛するものだが、短編の傑作『雨瀟瀟』の末尾には身につまされる思いがした。
住み馴れた家を去る時はさすがに悲哀であった。明詩綜載する處の茅氏の絶句にいふ。 
  壁ニ蒼苔アリ、甑ニ塵有リ
  家園一旦西鄰ニ属ス
  傷心見ルヲ畏ル門前ノ柳
  明日相看レバ是レ路人
その中賣宅記とでも題してまた書かう。(大正十年正月脱稿)

一昨日は永年使い慣れた研究室を大学に返納した。部屋は小生が当地に来て新しく研究室を割り当てられた直後の状態に戻った。


上の絶句の第3句を少し変えれば、今の小生の心象風景と一致する。

傷心見ルヲ畏ル窓ノ白樺
明日相看レバ是レ路人

当地に移住してから2回目の春、偶々思い浮かんだ愚作をもって締めくくるとしよう。

季節のめぐりくるごとに 私はうたを口ずさむ 
ふきのとうの花のいろをしった朝 ほおじろの群れが大学の窓辺をおとずれた 
ぼおおおお……いつの間に海はこんなに青い原っぱのように淋しくなったのだろう 
雨がコンクリートの壁を打つ さびしい壁を 放浪者のような淋しい雨が
「日本を我が住まいとなす」という位の気持ちで、その実は放浪者のように町から町へと移り住んだあと、25年余りの比較的長い時間を一か所で暮らしたとなれば、若い時分の心情からは異なった別の心持が自然と生まれてくるものである。それが衰退か、順応かはまだよくわからないが。





2018年3月26日月曜日

メモ: サムライの極意は「畏まって候」であった

リオ五輪で日本男子400メートル・リレー選手が刀を抜く演技をして見せたように、日本と言えばまずは、<サムライ>である。武士道、もののふ、忍者などなど、すべて日本人のプライドの源泉であるだろう。

しかしながら、サムライとはどのような行動をとるべき存在だったかと言えば、侍とは「さぶらう」、すなわち主人に付き従う者を「侍(サムライ)」という。これが語源である。

ありていに言えば、京の都にいる院や摂関家、その他堂上公家の手足となって、時には「汚れ仕事」にも手を染めながら、実働部隊として精勤するものこそ、日本武士の源流である。

武士の自尊心とは現場の人間がもつプライドと同根である。人生観や処世観、その他すべての精神的エートスもそうだ。

こんな風な出自でもあるから、鎌倉幕府滅亡後に、北条家遺臣が起こした中先代の乱の混乱の中、幽閉された護良親王を敵の手に渡る前に殺害してしまえと足利尊氏の弟・直義に命じられた家臣・淵辺義博は直ちに『カシコマッテソウロウ』と応え、実行に及んだ。実に見事な汚れ役である。確かに悪行ではあるが、是非善悪を自分が選んだ主君にゆだね、自らはあくまでも忠節を貫く、そんなサムライのたたづまいには爽やかさすら感じるというものだ。こんなサムライが幕末の頃までは呼吸をして生きていた。

というより、もしも太平洋戦争期の首相であった東條英機や最後の陸軍大臣を務めてから「一死大罪を謝す」と認めて割腹した阿南惟幾が、そのまま東京裁判に出廷して自分は汚れ役を引き受けさせられただけだと弁明していれば、そもそも昭和天皇の戦争責任論も違った進展を見せていたであろうし、戦後日本の歴史すらなかったかもしれない。

汚れ仕事を運が悪いといって嫌がる人は、言葉の定義からして侍(サムライ)ではない。

こんな文章がネットにある。
学校法人「森友学園」に国有地を売却した財務省の近畿財務局の男性職員が、自宅で自殺した。その後、佐川宣寿氏が国税庁長官を辞任し、財務省も国有地売却に関する決裁文書の書き換えを認めた。 
東京新聞などによると、自殺した職員は親族との電話で「常識が壊された」と漏らしており、親族は「汚い仕事をやらされたのではないか」と疑念を強めているという。痛ましい限りである。
これはひとごとではない。 
「汚い仕事」を押しつけられそうになること、あるいは実際に押しつけられることは、ビジネスパーソンにとって無縁ではない。実例を挙げて、どう対処すればいいのかについて解説したい。
(中略)
わが身を守るためには、なるべく第三者の同席した場で指示を受けるべきだ。要は、2人きりにならないということで、どうしても2人きりになる場合は、録音しておくのも手だ。
(出所)汚い仕事をやらされた人に伝えたいこと

日本から武士道は消え去ったと断言してもいいようだ。いま残っているのはパフォーマンスでしかない。

サムライを現代日本人が演じるのは、ブラジルやスペイン、オーストラリアの人がサムライを演じるのと、それほど大きな違いはない。もはやそう言っても構わない時代になった。

2018年3月22日木曜日

一言メモ: 省庁と国会議員との関係

文科省が自民党文教族2議員の圧力を(大臣の知らないところで?)受け、愛知県の1中学校の1授業の内容について圧力とも受け取れる問い合わせを(大臣に報告もせずに?)行った件:

国会議員は立法府に所属する。行政府に対する指揮権は本来はない。これは三権分立の原則であるから厳格に守ることが統治の出発点になる。

国会議員が中央省庁に対して具体的な問い合わせ、要望を行う時は、大臣・副大臣・政務官を通すのが本筋だ。立法府が行政府を監督するために置かれているのが政務三役である。これ以外に指揮権を有する議員はいない。意見があれば、同じ与党なのだから、政務三役の部屋を訪れて話せばよい。判断は政務三役に任せればよい。

省庁と国会議員との関係を律する手続きを定めておくべきだ。内規、というより法律で規定しておく方が望ましい。違反した場合の罰則も設けておくべきだ。

逆方向からいえば、役人から外部の国会議員に対する説明や根回しも政務三役の指揮下で行うべきだろう。

指揮命令系統を外れて直接に立法府と行政府の人物が業務上のやりとりをすることは文字通りの規律違反。典型的な<不透明な行政>をもたらす。

国会議員は本来の新規法案作り、法改正など本来の職務に極力専念するべきである、な。そのための勉強に役人が必要であれば、関係省庁の大臣室に連絡すれば直ちに応じてもらえるはずだ。

2018年3月19日月曜日

角界の暴力的体質 ― そもそも論なき状況判断はマズイのでは

相撲界には相変わらず「暴力体質」があるようだ。

某ワイドショーでは、今回の貴乃花部屋の一件と、昨年の日馬富士暴行引退事件とは一線を引いて区別するべきだという「専門家」もいるようだが、「マ、具合は悪いヨネ」というのが正直なところだろう。「お前の所にもあるじゃないか、もっとあるんだろ?」というやり取りが想像される。

思うのだが、相撲は文字通りの闘技である。それも張り手あり、ブチカマシあり、頭突きあり、土俵下への突き飛ばしあり、常識的な意味合いでは相撲自体が「暴行」に相当する。それも体重無制限の無差別勝負である。なので相撲の世界は、即ち非日常の世界といえる。

上手・下手の技術の違いではない。日常と非日常をわける違いが普通の人が暮らす世間と角界との間にはある。この違いは相撲の本質を考えるとき打ち消しがたいものである。

相撲は興行であるか、スポーツであるか判然としないと世間では言われている。が、興行とすれば、これ程にまで暴力肯定的な興行エンターテインメントは極めて例外的である。例外的なほどに暴力的な格闘技であるからこそ、例外的な荒稽古もまた普段から必要とされるのだと考えるのは大変自然である。

スポーツと認定するにも無理があると小生は思う。大体、相撲ほど露わに暴力を肯定し、ラフプレーすれすれの取り組みで怪我がつきもののプロ・スポーツは他にない。ボクシングには厳格な体重制限がある。プロ・レスリングは(内情に通じているわけではないが)戦いのマナーが厳然としてあると聞いている。実際、プロレス界では相撲ほど頻繁に負傷欠場というのはないように感じる。

◇ ◇ ◇

やはり日本社会において相撲というのは、かなりの部分、「神事」として受け止められているのだろうと推測する。独特の身支度、挙措動作が奇異と感じられていないのはその反映である。ある種の宗教的感情、それも日本人の土着の感情によって肯定されているのが相撲だとみるのが正しいのではないか。

日常では許されない荒事が(八百長を許さないほどに真剣に)許されるばかりでなく、期待すらもされているのは、八百万の神々に奉納する真剣勝負を戦っている力士が日本人の元来の<民族感情>を刺激するからだろうと最近は思うようになった。

その感覚が理解できない日本人は世間の常識に沿って角界の「暴力体質」は根絶されるべきだと議論をするだろうし、相撲は神事であると感じて本場所や巡業に自ら足を運ぶ人たちは軟弱な取り組みを「八百長」と呼んで非難するのだろう、と。どうも小生、そう感じられてならない。

だとすると、相撲の世界からいわゆる(と敢えて付け足しておく)<暴力的体質>を根絶していくのが是か非か? この問いかけに対しては、日本人の間にも埋めがたいギャップがあるのだと推測する。

そのギャップは、たとえば女性宮家を認めるか認めないか、戦前の旧宮家を皇籍復帰させてでも男系皇族による皇位継承を守るべきか否か。靖国神社は廃止してもかまわないと思うか否か、果ては「大和魂」や「大和心」が日本にとって何よりも大事だと思うか否か、こういう日本文化の本質と伝統に関する根本的論点について日本人の間には埋めがたく深い溝が現実にある。それと同じ、いや同根なのかもしれないと思う。

角界のいわゆる「暴力的体質」をどう見るかという問いかけに対する意見のホンネの部分の相違は、その深い溝と同根の溝であって、自称「専門家」たちが半年程度常識的な議論を重ねるくらいで根本的解決策を得られるなどとは到底想像できない。そんな洞察するべき問題を中に含んでいると今では思うようになった。


◇ ◇ ◇

日本社会で継承されてきた活動、文芸、文化は、日本人の歴史そのものだろう。これらをどうするのか。守っていくのか、続けていくのか、やめていくのか。現代日本社会を律している善悪の基準や世間的常識とどうすり合わせていけば続けていけるのか。

こうした論点にも配慮しながら、<そもそも論>に立ち返って深い考察を重ねなければ、満足な結論はでるものではない。ましてワイドショーの軽薄なノリで「こうしましょうか」という世間話のレベルで最適な解決策が形成されるなどとは全く感じられない。浅はかな世間の井戸端会議がメディアの電波や紙に載って日本社会をより一層薄っぺらくするだけではないか。薄っぺらくなれば透明にもなるという理屈だ。

どうしてもそう思われるのだ、な。

このような場合、理想的には自生的な秩序が現代の日本社会で形成されるのを支援する方向が正しい。法令万能主義で交通整理をしても混迷するだけである。これが小生のいつもの立場だ。

マスメディアが「世間の常識」にたって暴力否定の論陣を張るのは当たり前のことである。それが角界の「伝統」にかえって負の影響を及ぼし、日本人が求めている伝統的行事の継承にマイナスだと思われるなら、そう思う人たちがマスメディア産業に対して抗議運動を行ったり、(必要なら)不買運動や集団的対抗運動を繰り広げることを法的に抑制するべきではない。双方ともに表現の自由があり、最終的には数の力で社会的均衡点に達するものである。

社会のことは社会の力学に委ねる。これが常に正しいというのが小生の基本的意見だ。現実に「暴行」とも形容しうる荒事を肯定する行事が「神事」として現実に受け入れられているのであれば、その行事を継承するための荒稽古もまた暴行罪や障害罪など刑法を適用するべき犯罪とは認識しない、と。そういう方向もあってよいし、あったからこそ現代にまで継承されてきた。いま現時点にたつ現世代はこれをどうするのか。これが問題の要点になるはずだ。

日本社会の伝統と現代的法制との両立を深く考察することが「角界の暴力的体質」という問題の本質的解決には重要だろうと、そう思われてならない。

・・・稽古の中であればいい、稽古ではない処で殴るのが許せないのだ、という風なあまりにも幼稚な意見は聞くにたえない。稽古中であれば相撲であって暴力ではない、稽古でないなら暴力だというなら、その場では殴らず、稽古にかこつけてシゴクという具合に行動が陰険になるだけのことであって、状況は必然的に悪化する。というより、常住坐臥修行という精神は禅宗に限らず日本人なら誰もが共感する精神であって、相撲という伝統社会にも反映しているはずである。いまは練習中、何時以降は休憩時間という西洋的合理主義はそもそも角界の精神文化としては根付いていない可能性が高い。以上、短いながら思い出したので補筆まで。


2018年3月17日土曜日

官僚人事システムに関する投稿の棚卸し

安倍政権の先も地平線の向こうに見えてきた状況になって、世間の関心はようやく内閣人事局の位置づけへと集約されようとしている。

遅い! というのが小生の感想だ。なぜマスメディアはもっと早期に集中的人事管理のマイナス面を取材しようとしなかったのだろうか。財務省による文書改竄事件に至る前に、細かな兆候、保身現象は少し取材すれば容易に得られたはずである。それを広く報道するだけでも現在の混迷を避けることができたかもしれない。

『後悔、先に立たず』ではないだろうか。

これまでの投稿を<内閣人事局>で検索すると以下の3本がかかってきた。

メモ: 行政における政治家の役割(?)と内閣人事局(2017年6月28日)

覚え書 − 「問題があるのはまずい」症候群の一例(2015年6月8日)

覚え書き − 国会の在り方は分岐点にあるのではないか(2012年11月7日)

★ ★ ★

一番古いものは2012年11月7日に投稿している。安倍内閣発足前である。この時点で書いているのは「内閣人事局」という具体的組織というよりも、むしろ国会が果たすべき役割、議員の資質というものだった  ―  多分、民主党政権の唱える「政治主導」に心底から失望してこんな事を書いたのだろうと推測される。さわりの部分を引用しておく。

国会議員という人間集団は概ね<素人>である、というか素人でも偶々投票日当日に多くの有権者から票を集めれば、さしたる資格審査や業績審査を経ることなく、自動的に国会議員になるのが現行の制度だ。こんな風であるにもかかわらず、戦後日本においては国会は国権の最高機関であり、立法府としての役割だけではなく、専門知識を必要とする行政府にも議院内閣制や政務三役という名目で人を送り込み、行政の細部にまで彼らの裁量が働く形になっている。特に経済政策は、とるべき方向がロジックとして決まることが多いのだが、審議する議員がその議論を理解できない、用語を理解できないという状態が仮にあるとすれば、運転を知らない人が助手席に座って運転を指示するようなものであろう。

今日の時点になって修正するとすれば、国会議員という人間集団は<素人>である、という文章だろう。国会議員は明らかに<素人>ではない。政治のプロであり、集票にかけるスキルは並みの水準ではない。選挙区において支持母体を管理し、人心を掌握する資質も持っている必要がある。多数者の支持を集めるスキルがあるのだとすれば、国会議員はプロでなければなるまい。

2012年の投稿では、このような分野におけるプロ集団が官僚集団の業務の場に入ってきて、具体的指示を行うことが可能なのか、適切なのか、そんなことを書いている。

その線で人事というキーワードにかかったものとみえる。

直接的に「内閣人事局」についてまとめている投稿は昨年6月のものである。

行政府は、国会の立法意志を実行するための実働部隊である。事後的な結果としては、行政府の公務員は常に与党の側の意志を実行する。だから社会の多数派の利益の側に立って行動する。個々の公務員は政治的意志を持ってはならない。国会議員を中心とする内閣の命令によって行動しなければならない。内閣に従っている限り、国会の意志を実行していることを意味し、個々の官僚はニュートラルであり、不偏不党であり、行政機関が政治的に活動することにはならない。 
これは統治の論理として確かにトリッキーなところだ。 
 とはいえ、こう考えると政治家が政治家であるのは国会議員としてであり、内閣の一員として大臣の椅子に座っている時ではない。
『公平であるべき行政が歪められた』という指摘は、昨年の加計学園問題で時の人となった前川・前文部事務次官のほかにも、新聞・TVなどマスメディアでよく口にされる批判である。しかし、行政は政治によって決せられ、その政治は民主的に選ばれた議会の多数派が方向づけていく。そんな原則に沿って考えれば、行政は事後的には決して公平ではありえない。この点を書いているのは、今でも有効だと思う。と同時に、国家の行政は法令に根拠づけて実行される以上、法の運用にバイアスがあってはならない。もし法の運用段階において、一部の人間集団が優遇されることがあれば、それは「行政が歪められた」と、そんな批判がなされてしかるべきだ。そんな筋道にもなる。

その上で、内閣人事局については以下のように述べている。

政治と行政は明確に線を引くべきだ、と。こういうことかもしれない。内閣は政治の執行部で、政治は国会という場で行う。これが戦後日本の国の形なのだろう。 
上級官僚の人事は、内閣官房に人事局が設けられ、内閣が決定できることになった。それは縦割り官庁の弊害を避け、政治のスムーズな実行に必要だとされたからだ。しかし、官庁が政治の意図通りに行動しないのであれば、行動するように規則を密に定めればよい。進捗を報告させればよいだけの話だ。国会にはそれができる。 
もしもマイナス面が大きいなら、内閣が人事統制を行う先験的ロジックはない。何しろ国会は内閣総理大臣も指名しているのだ。上級官僚の人事を了承したって奇妙でないだろう。行政府が人事原案を提出する必要はあるだろうが、国会が人事原案を検証し、承認する権利をもつほうが、ひょっとすると文字通りの「政治主導」になるとともに、むしろこの方が官僚の士気は上がるのかもしれない ― 両院で承認するのか、衆参のどちらか適当な院で承認するかの判断は別にあるだろうが。
高級官僚人事の内閣による集中一元管理は、その昔の<党高政低>現象への反省から実現したものだ。政府の主たる業務はつまるところ予算編成に帰するのだが、予算を所掌する大蔵省に対して、自民党では政務調査会が農林族、道路族等々の族議員を養成することで高い調整能力を持つにいたり、官僚組織と自民党組織が一体化・融合化するに至った。行政官庁の長たる大臣より、自民党の族議員の意向に官僚は従い、ついには官庁内部の人事にも自民党族議員の意向が反映され、建前上の責任者である内閣は空洞化するに至った。その無責任体制への反省から内閣人事局による集中的人事管理を(及び政党の運営も政党交付金制度・政治資金規制強化を通して管理集中化を)すすめるべく大いに努力をし、マスメディアも支援をしたわけである。

なので、方向性として、内閣人事局を否定することはできない。この辺の論点を上の投稿では書いている。やはり、首相官邸が高級官僚の人事を一元的に決めるのではなく、国会による承認(=日銀総裁等と類似)、国会への報告、国会への回覧など、何らかの形で国会が最終的な認証機関となる必要がある。そんな趣旨のことを昨年は考えたようだ。

ま、昨年の考察に付け足すことはあまりない。あえて言えば、いま考え始めているのは日本国憲法の中で立法府、行政府、司法府を規定しているその骨格である。まず国会は国権の最高機関であると規定している。しかし、行政府の長である総理大臣は国会の指名に基づいて天皇が任命するとされている。総理大臣は内閣を組織し、天皇は内閣の指名に基づいて司法府の長である最高裁判所長官を任命する。そんな骨格だ。天皇は国会を召集するのであって議長を任命するわけではない。天皇に行政府の長と司法府の長を任命する権能を与えているのは、天皇は日本国民統合の象徴であると認識されているからである。この時点で、総理大臣は単に議会多数派の要望をそのまま機械的に実行するだけでは職務を果たしたことにならないという含意が読み取れる。思うのだが、戦前の大日本帝国憲法と戦後の日本国憲法の大きな違いは、国会の新たな権能として確かにあるものの、戦前期の政党政治と現在の政党政治の本質的な違いは本当に現行憲法で実現されているのだろうかと疑わしくなる時がある。

こういう論点は1年前にはまだ言及されていない。ただ、行政府の人事に国会が関与することは(日銀総裁、公正取引委員長などごく一部の国会同意人事を除き)ないのであって、多くは天皇による認証を得る形になっている。例えば、各官庁の副大臣以上は認証官であるし、法務・検察の検事長以上、外務省の大使も天皇による認証官である。しかし、各官庁の事務次官以下は天皇も国会も関与せず、首相官邸の意向にすべてゆだねられている。

日本の中枢をどう人事構成するかということに関連して、日本という国で天皇と国会とがそれぞれどのような機能を果たすべきなのか。もう一度、ロジックを整理する必要があるのではないか。現行の憲法には大日本帝国憲法の思想が少なからず残されているのではないか。そう思ったりもするのだ。

小生も、その昔、小役人として雑事に追われる毎日を送った経験があるが、官僚の人事システムは特に現在はバランスがとれていないように感じられる。

最後の2015年の投稿。これは正に内閣人事局批判をとりあげた投稿だ  ―  それも軽く論じている。

引用のそのまた引用になるが、さわりの部分というのは以下の通り:

 省庁の縦割り排除や女性登用を進めるだけでなく、人事権を通じて、安倍内閣が掲げる「政治主導」を強化する役割も果たしている。
(中略)
ただ、人事の決定に当たっては菅氏と内閣人事局長の加藤氏の意向が強く働いているとされ、霞が関からは「官邸に嫌われたら、出世できない」(中堅)との嘆きも漏れる。安倍首相が進める農業・医療などの規制を緩和する「岩盤規制改革」でも、人事権を握る官邸の反応を気にして、規制権限を持つ関係省庁の腰が引けているとの声もある。
(出所)YOMIURI ONLINE, 2015-05030

縦割り官庁の弊害と上にあげた党高政低問題は同根であった。内閣人事局に行き過ぎの弊害があるからと言って、時計を逆に回すようなことをすれば、元の木阿弥。これまでの努力は無に帰するだけである。

最後に書いている次の下り:
一元化するのであれば、人事戦略についてもチャンと一元化しているのか、そもそも高級官僚システムの包括的人事戦略というのはあるのか。不勉強のせいかあまり聞くことがない。疑問はつきない。
行政府の包括人事戦略を構築するとすれば、それはロジックから言って、内閣が原案をつくり、国会がそれを了承し、以後の進捗報告は内閣の義務となる。そんな筋道になろう。

官僚集団の士気を高めると同時に、国会が真の意味で日本国を統治していると評価されうるためにやるべき事は多いのが現実だ。

2018年3月16日金曜日

メモ: 従軍慰安婦問題+パワハラ批判をめぐる日本社会の二枚舌

女子プロレス界で紛糾しているパワハラ問題。その他にも数多くのパワハラ・セクハラ・アカハラ・マタハラなど、実に多くのハラスメント問題がマスメディアでとり上げられている。

先日は『当時は適法であったにせよ間違いであったと認めよ』という文章が地元新聞に載った話をした。こういう考え方はおかしいと述べた。

今日はまた上のレスリング界のパワハラ騒動をまた朝のワイドショーでみた(見さされた)。関係大学の学長から『パワハラという言葉がなかった時代にはあったかもしれない』という意味の発言があったことに対して、コメンテーターたちが『パワハラという概念がなかったからいいとか、そういうことではないでしょう。ダメなものはダメなんです』と、そんな非難が勢いよく語られている  ―  プロデューサーの事前シナリオなのだろう。

おそらく、一般的な世間の感覚に照らせば、「当時はそんな言葉はなかったのだ」という言い方を許しはしないのだろうが、もしそうなら日本社会は二枚舌だと感じるのだな。

というのは、戦前期に日本がまだ韓国を植民地にしていた時代、従軍慰安婦という制度で雇用/徴用された女性たちへ持つべき贖罪意識だ。

もちろん中には日本人女性もいたはずだ。

女性に対する戦争犯罪を決して許してはならないという倫理的問題は特に最近年において強く意識されるようになった。この観点には小生もまた全面的に賛成だ。しかしながら、その倫理的感覚を戦前期の日本にまで遡って適用して、「従軍慰安婦たちに日本は、韓国政府に対してではなく、元慰安婦たちに直接に面会して謝罪せよ」と現在の日本を高々と非難する。そんな韓国に憤慨を禁じられない日本人は(案外)多いのではないだろうか。現在の倫理基準にたった相手が過去の自国の行動の責任をそこまで裁いていいのだろうか。責任をもつべきなのだろうか。意見が分かれるところだ。

もし相手の過去の行動に対しては「いま自分はこう考えるようになった」といって昔はなかった責任を相手に求めるとする。しかし同時に、自分の過去の行動については「当時は間違ってはいなかった」といって責任を認めない。もしこう言えば、これは見事な<二枚舌>である。

戦時中の日本の行動を非難する韓国を「過ぎたことをとりあげて、あいも変わらぬ反日だ」と批判する日本人ならば、過去の「今でいうパワハラ」もまた「当時の感覚なら当たり前だった」と。そう主張しなければならない。

「今でいうパワハラ」を過去にさかのぼって非難するなら、過去の日本の行動にも贖罪意識を持たねばならない。それだけの覚悟を持たなければ二枚舌である。

選択可能なのはいずれか一つである。

実際、小生の学校時代、アニメで活躍する主人公はゼロ戦に搭乗するパイロットであり、運動会系の部活におけるキーワードは<根性>であった。猛練習は目がくらんで倒れるまでやって初めて効果が出てくる。強くなれる。女子バレーの「鬼の大松」がレジェンドとなった時代である。そんな時代が確かにあったのだ。「死ね!」、「死んでもいいんだぞ!!」、「ボケっ!」・・・、誰もそんな練習の方法が間違っているとは思ってはいなかったはずだ。ましてそんな指導が犯罪であるとか、違法であるとか、そんな感覚はまったくなかったはずだ。もちろん耐えられずに去っていった部員もいたはずだ。しかし、付いていった選手もいた。去る者、残る者、そこに強制、隷従がなければ、あとは生存競争ということになるのではないか。小生にはどうしても、そう思われるのだ、な。

時代は変わるものだ。変わったから新しい人間が古い人間を断罪してよいのだろうか。よいのだとすれば、韓国のように前大統領を裁くという慣例(?)をつくっていけばよい。

小生自身は、変わる時代それ自体こそ歴史であって、是非善悪を超えてそのまま事実として認めればいいという意見だ。つまり現代人からみればトンデモナイしごきが横行していたことが発覚したとしても、それは昔の時代の産物であって、いまの倫理基準を適用して是非善悪を決めたところで無意味である。進歩したはずの現代という時代も、いずれ将来には批判され、修正されていくのだ。なので、「今でいうパワハラ」が真にパワハラであったかというときの判断基準は行為が行われた時点の倫理基準である。つまり、歴史は歴史。いま断罪するなどは止めて、事実として残していけばよい。そんな考えだ。

ただ、現時点の小生の感覚は、昔の蛮行をいま後悔して、その時に犠牲にして省みなかった人たちに謝罪をする姿勢は、科学とは異なる道徳的な進歩というものだろう、と。そう思っていることも事実だ。

2018年3月14日水曜日

これまでの超長期・将来予測を棚卸しすると

小生の専門分野は統計的な将来予測である。

若いころには大鑑巨砲主義さながらの大規模マクロ計量経済モデルによるシミュレーションが花盛りを迎えていたが、次第にARIMAモデルを基礎に置く統計的な時系列解析がシェアを拡大する中で、ダイナミックな構造が主たる関心事項となり、マクロモデルを構成する方程式の本数は減少した。極端なことをいえば、GDPを予測したいならGDP一変量のARIMAモデルをボックス・ジェンキンズ法を使って推定・診断・採用すればよい。それで十分理論的な筋道は通る。そんな考え方に変わってきたのが、予測分野の30年史であった・・・。

予測精度の向上が大事であって、なぜその予測モデルの精度は高いのか? そんな疑問もあるにはあるのだが、それは二の次になっている。

そんなわけで、本ブログでもその時点、時点の将来予測を書いてきている。それも量的ではなく質的な予測であって、推測に近いものもある。

安倍総理の総裁三選は(自信をもって)ない、と。昨年はそんな予測を記していたが、数値データから予測された結論ではもちろんない。が、ボラティリティの拡大と変動パターンが株価バブル崩壊前を連想させるようになってきたという点では、普段の仕事とまったく無関係な考察でもない。

◇ ◇ ◇

最初に書いた予測は東日本大震災直後に書いた予測である。こんな投稿だった。関係個所を引用しておくと:

今日現在で整理しておきたい。

  1. 大震災復興総合計画ができるのではないか: これは既に始まっている。復興庁なるものが出来るかどうかは(ほぼ実現するだろうが)不確定だが。
  2. 日本のエネルギー計画は根本的な曲がり角を迎える: これも管首相が昨日サルコジ大統領を迎えて記者会見でも表明した。原発のゼロベース見直しは避けられない。
  3. 国土利用計画も並行して根本的な曲がり角を迎える: まだ俎上には上がっていないが、エネルギー計画を見直す以上、首都圏、近畿圏など各地域のエネルギー需給バランスの前提が崩れる。見直し不可避。方向としては1980年代末のバブル景気以前まで主流だった考え方<定住圏構想>が復活すると予想している。
  4. 経済産業省から原発管理行政を分離する: これも菅首相が既に表明している。銀行経営破綻で大蔵省から金融庁が分離したのと同じ論理だ。ただしエネルギー計画見直しをどこが主務官庁として取り組むことになるか、これはまだ分からない。復興庁ではない。
  5. 東京電力国有化: 債務超過になると予想する。国有化という手段に限定はされず、先日のアドバルーン後に早くも迷走し始めている模様だが、どちらにしても現行の株式会社組織は資金的に滅亡したと判断するべきだ。近日うちに政府は基本方針を公表する状況に追い込まれると予想しておく。
  6. 原子力発電の全国統合化、(多分)公的企業とする: リスクに対応するために必要な保険料コストを計上すると(発電規模にもよるが)原発事業は民間企業になじまない可能性が高い。新エネルギー計画で検討されることは必至。まだ議論は表面化していない。
  7. 原発事業にともなう保証債務発生リスクと保険制度の見直し: これは国内に既にあるが拡充が不可避。ただ原発事業統合の行方とも関係する。
  8. 原発保険制度を金融パニックを回避する国際通貨基金制度と類似の制度としてセットアップ: 必要になる。その場合、原子力利用の知識集積状況からフランス、US、ロシア、保険ビジネス技術からUK、USの人材が集められ、日本はお呼びではないだろう。最多の原発新設候補国(ならびに最大リスク国?)として中国が入れば、現国連安全保障理事会常任理事国と同じ構成になる。

東京電力は既に実質国有化されている。さらに、原子力発電の統合はまだであるにしても、例えば「原子力発電公社」のような公的企業の設立は今でも方向性としては合っていると思う ― 実際、最近になって公社設立を提案する人も増えているようだ。原発保険制度の国際的拡充はまだまだ、意識すらもなく、前途遼遠である。上の投稿は2011年4月1日。7年がたっている。

経済現象の進展、その予測作業において、最も重要なのは時間軸に沿った感覚である。内科医であれば当然のように持っている人体の生理学的メカニズムへの洞察の背後には、人体の機能に当てはまっている時間尺度を感じる感覚が含まれていなければならない。風邪やインフルエンザならまずは数日、骨折をすればまずは2、3か月。こんな感覚は社会をマクロ的にみる場合にも必要である。まず時間感覚が大事である。そう考えると、7年という時間スパンは原子力発電について何がしかの状態変化の兆しが顕在化し始めてもよい時機である。いま、そうも思っているところだ。

◇ ◇ ◇

憲法改正についても大きな予測を書いたことがある。こんな投稿だった。


  1. 反対デモが報道されたが、通常、デモは反対のためにするもので、賛成デモはあまりしないものだ。放映された反対デモの背後には、相当数の賛成派、というより「理解」派、「同感」派、「いいんじゃない」派等々の国民が多数いると推察される。大体、全国の主要大学のどこで学生集会が開かれ、どこの大学で「安保法案反対全学スト」が議決されたのか。小生の大学では、立て看板はおろか、ビラもポスターも全く、一枚も目にしない。食堂で学生達が安保関係の話しで議論している様子もない。マスメディアもまたコア層がどこにあるかに気がつき、報道の姿勢を変えていくだろう。それも「急速に」である。
  2. 政権批判は来春あたりまで続くと思うが、それと同時に戦後の憲法学界の潮流について様々な企画がなされ、憲法学界だけではなく各分野から色々な意見・指摘が掲載される。そんな中で、誰か、いずれかの憲法学者が自己批判的な文章を発表するのではないかと思われる。それをきっかけにして、憲法学界の中の旧世代と新世代の間で論争が始まる。そして新世代の中から台頭する「新立憲主義」が世間の喝采をあびる。概ね4、5年位の間には新しい潮の流れが目に見えてくる。
  3. そんな新しい立憲主義の展開、浸透から第9条だけではなく、複数の条文を対象に憲法改正案が(名誉回復、というかリベンジの意味からも)学界から提案され、次に与野党が合意する臨時憲法調査会が設置され、その答申を元にして改憲が発議される。今から8年ないし10年くらいはかかるのではないか。残念ながら安倍現総理が憲法改正にまで至るのは無理だろう。無理をすれば必ず制度的欠陥が混じる。
  4. この改憲発議までの8年乃至10年の間には、必ず今回の安保法制について違憲訴訟があり、最高裁はいずれかの時点で違憲判決を出す。それによる混乱と新立憲主義の浸透から憲法改正への動きが多くの国民から支持される。
大体、こんな風な予測をたてているところだ。


投稿は2015年9月15日。集団的自衛権を容認する安保法制成立後の投稿だ。

反対デモがその後全国に拡大することもなく、概ね半年程度で終息したのは、その時に予想していたとおりだった。

ただ、投稿から2年半が経過し、国際法、その他法学分野から憲法学会主流に対する異論が出され始めているとはいうものの、主流派憲法学者から特に憲法9条解釈について自己批判的な論説が公表される。そんな事態にはまだ立ち至っていない。まして若い世代から「新立憲主義」なる新しい潮流が目に見える勢いで現前してくるような状況ではない。安保法制運用をめぐって違憲訴訟があり、最高裁判所が安保法制違憲判決を出すこともまだなく、憲法をめぐって日本社会が混乱に陥っているわけでもない  ―  優に過半の国民は改憲には慎重である。

ただ、上の投稿から8年ないし10年の間には違憲訴訟があると述べているので、2025年までにはあるということ。それまでは予測ミスとは言えまい。

実際に憲法改正に至るのは、さらにその後ではないかと予想したのが上の投稿だ。東アジア情勢など国際関係の圧力で時間が短縮化されるかもしれないが、まだまだ時間が必要だという予測を書いている。

そんなわけで、安倍現総理が自らの宿願である改憲を自らの手で実現できるとは思われない。時間が足りない、と。そうも付け足している。

いまでもまあ、まずまずの予測を立てていると思う。

◇ ◇ ◇

個人的には日本のエネルギー基本計画がどうなるかに興味がある。

大体、東京電力管内の電力需給は(本当は)それほど余裕があるわけでもない。そんな状態で、電気自動車(EV)の浸透とか、プラグイン・ハイブリッド(PHV)がその前に普及するとか、小生、可笑しくてならない。電気はどうするのか。太陽光・風力で自動車を走らせるつもりなのだろうか? まったく非現実的である。

EVを走らせるための電気は化石燃料を燃やす火力発電で何とかする。こんなことを言えば、実に見事なブラックユーモアだ。ガソリンをそのまま使えばいいだけだ。こんな方向は選択可能でもないし、世界から笑われるだけである。

チェルノブイリ事故で脱原発を誓ったウクライナも既に原子力発電重視路線に復帰した。

チェルノブイリの処理を進める一方で、ウクライナはエネルギーに占める原発の比率を上げる方向を選んでいる。
事故直前、ウクライナには15基の原発が稼働していた。現石棺の整備後には、事故にあわなかったチェルノブイリ1号機〜3号機も再稼働。新シェルターの建設資金提供と引き換えに閉鎖されたが、当時建設中だった他の4つの原発も含め、現在15基が稼働。さらに2基が建設中となっている。
(出所)HUFFPOST、2014年4月26日

そろそろ現時点の原子力発電の技術水準、安全管理水準の進歩を冷静に見て真面目に評価するべきだろう。理念や精神力でエネルギーはどうにもならない。技術の問題を解決できるのは科学だけである。

2018年3月13日火曜日

マスメディアは自社の世論調査をフィードバックしているのか?

企業では消費者意識アンケートをとるのが主たるマーケティング・ツールである。その結果は、当然のことながら、商品販売、商品開発へとフィードバックされる。

マスメディアは世論調査をしている。実施機関の間で調査結果には統計的に説明のつかないほどの開差が出ていることは以前にも何度かふれたことがある。

ただ、最近時点の動きをみると、財務省による文書書き変え報道があった後においても、内閣支持率は依然として4割を超えている  ―  多分、騒動の深まりに伴って、一層どこまでかわからないが、下がるとは思うが、それでも相当の高さだ。かつ、これが重要だろうが、政党支持率にはほとんど変化がなく、自民党で4割弱。野党はどこも1ケタ台。希望の党に至っては支持率1%未満、立憲民主党も1%の支持率である。参議院には民進党がまだ残っているが、希望の党+立憲民主党≒民進党であるから、まあ2%強というレベルを大幅に超えると奇妙だというところだ。

不思議なのは、こんな状況であるにも関わらず、新聞やメディアの「報道」の仕方には「野党」の非難や発言に沿った伝え方が多いように見受けられることだ。最も多い自民党支持層の問題意識に応えるような説明スタンスがあまり見られない・・・。まあ、言語表現は難しいが、ニュースやワイドショーの編成現場に、自社の世論調査の結果がどのように反映されているのか? 要するに、こういう点である。

メディアも民間企業であり視聴率や販売部数の向上増加が目的であるはずだ。であれば、世論調査の数字が出ているのだから、それに合わせて自社のスタンスを決めるのが合理的だ。その辺りのフィードバックはどのように行われているのかという疑問だ。

それにしても、あれだネエ・・・

支持率1パーセント程度の政党が10党集まっても、合計10パーセント。支持率10パーセントの政党が声を大きくして、メディアが同調して、政局につなげていくなら、これ実質的には非民主的な政治ではないか。そんな感覚すら感じるネエ・・・無党派層へのマーケティングだということなのだろうが、小生個人的には「無党派」という政治スタンスをとっている階層はレスポンシビリティ(responsibility)という意識をもっているのだろうかと常々疑問を感じている。やはり問題が多いと思う。

野党が統一的に「反安倍政権」で共同歩調をとっているのは、ちょうど韓国が「反日」を掲げると団結できるのと同様に、野党が団結できる唯一の主題であるからだろう。

・・・しかし、自社の調査結果をまったくフィードバックしていない、というのも企業行動としては奇妙である。<親政権vs反政権>の関係は、実は<与党vs野党>の関係のことではない。

そうなのか?

野党議員はドラマで演じる俳優にすぎず、政治劇のプロデューサーではない。そういうことか・・・。

この野党の欺瞞・・・そして首相官邸の傲慢(というより鈍感?)。

2013年以降の日本政治を形容すると、こんな風に要約されるのかもしれない。

2018年3月11日日曜日

メモ:第二次森友騒動でスクープした朝日新聞社も無傷ではいられないかも・・・

標記の件で財務省が公文書改竄を認める方向になったので政府は(当然の事)苦境に立つ。

しかし、事案発生時の担当者が自殺するという経緯をたどった以上、朝日新聞社もまた無傷ではいられない「可能性」がある。

もしも朝日新聞のスクープ記事のニュース源が自殺した人物であったとするなら、朝日新聞社はニュースソースを守れなかったことになるし、そもそもいきなり報道にまでもっていったために情報提供者が追い詰められたという「可能性」もある。証拠を検察に持ち込んでも政府を追い込めたはずだ。そうしたほうが情報提供者を守れたかもしれない。その辺が詳細にされる必要があると思うのだ。

上のようではなく、朝日新聞社のニュース源は大阪地検特捜関係者かもしれない。だとすると、検察が捜査情報をメディアにリークしたことになる。これまた大変なことであり、ずっと昔の毎日新聞・西山記者の二の舞を演じたという「可能性」もある。

決定的証拠(=元の決裁文書)はただ一つである以上、上の二つ以外に「可能性」はないように思われる。

そのいずれにおいても、スクープに成功した朝日新聞社もまた今後は大変な状況になるのではないかと予想する。

2018年3月10日土曜日

予想: 公文書書き換えはちょっと考えられない

前稿では官公庁、企業の最終的文書と中間的文書との食い違いは大した意味はないという点を書いた。

森友事件の国有地払い下げにおいて最終的文書があるにもかかわらず、国会に提出した文書はそれとは異なっていた。これを以て朝日新聞は「国会には書き換えたものを提出した可能性がある」と報道した。

元の最終的文書を「これでございます」と提出すれば直ちに疑問は解消できるにもかかわらず、大阪地検に押収されているので出せないと。それで野党は国会審議を拒否している  ―  確かに、この状態は拒否されても仕方がない。

可能性があるのは、

  • 国会に提出した文書は、最終的文書(=真の決裁文書)ではなかった。その理由としては、最終的文書(=決裁文書)を意図的に書き換えた(公文書変造)か、もしくは不注意による取り違えかのいずれかである。
  • 国会に提出した文書は、最終的文書(=真の決裁文書)である。

上の二つのいずれかしかない。上の選択肢が二つに分かれているので可能性は三つだ。これ以外に可能性はない。

上の二つのいずれが真であるか。現在、大阪地検に押収されている最終的文書(決裁文書)を国会の場に示せば直ちに回答が得られる。

国会には憲法で国政調査権が与えられている。財務省・法務省の行政機関による欺瞞を防ぐためには、国会は国政調査権を発動して大阪地検からダイレクトかつ速やかに国会に提出させるべきだろう。

***

その後の発展で予想されるのは以下の点だ。

大阪地検から提出される文書が国会に提出された文書と一致する場合、国会審議の混乱の主たる責任は「書き換えの可能性」と報道した朝日新聞社にある。ただ、朝日新聞は「可能性」と報道しただけであるから責任はないという理屈になる。

しかし、可能性があると判断した根拠は「出せる範囲で」示すのがマナーではある。まあ、報道機関としての信頼性はガタ落ち(ひょっとすると大手新聞からは脱落?)にはなるだろうが。

***

もし文書が不一致の場合、上の選択肢のサブアイテムのいずれが真であるかの確認が必要になる。これは犯罪性があるかどうかの判定になるので、それこそ大阪地検の所掌である。

大阪地検は既に文書が国会の場に提供されたものと一致するかしないかを把握しているはずである。犯罪性があるならば起案者かその上役を逮捕しているのではないか。

しかし、逮捕者は出ていない。

ということは、そこに犯罪性はない。そう推測できるのだ。

とまあ、この辺までは考察が自然に進む。

というより、小生も役所という所で小者をやっていたが、「決裁後の書き換え」は担当者レベルでは絶対に思いつかない。今回の騒動は書き換え、というより2ページ以降の「差し替え」にあたるが、決裁後に差し替えるべき何らかの不備な箇所が見つかった場合、別の起案をたてて謝りながら判をもらっているのが自然だ。こんな大事件になる前なら、何の心配もなくそうしているはずだ。これが最終的文書になるわけで国会にはこれを出せばよい。ここに不注意によるミスの可能性がある。こうではなく、大事件になった昨年に改めて2ページ以降を差し替えて国会に提出する・・・・まあ、疑う人は疑うと思う。であれば、元の決裁文書をも既に差し替えているはずだ。大阪地検が保有している文書と国会提出文書は一致する。しかし、こんな差し替えをするのは真の犯罪行為が決裁文書中に含まれている場合のみである。しかし、もしそうならそもそも最初の決裁が得られるはずがない。完全に隠ぺいするはずである。文書からは分からない理屈だ。ならば差し替える必要もない。差し替える必要もないのに、差し替える犯罪行為を行うというのは理に適っていない。なので、これも考えにくい。

故に、朝日新聞の言う通りであったとしても、それは不注意である可能性が高い。

もちろん、大阪地検が保有する決裁文書が国会提出文書と一致する場合であっても、表面的整合性の背後に実は犯罪行為が隠蔽されているのではないか、と。そういう但し書きはつく。そんな疑惑を持ちたい人は持つだろうが、しかしそれは「安倍政権と財務省はクロに決まっている」と確信しているためだ。その場合は、なぜクロであると確信するのかをオープンにすることこそ、有効な議論につながる第一歩になるだろう。

【加筆 2018-3-10-20:10】

どうやら財務省は「書き換え」を認める方針との速報があった。それも意図的な改竄を行ったとのことで、不注意ではないらしい。これは吃驚仰天の一言。このとおりなら理性ではなく、何らかの恐怖、欲望、迷いといった人間の弱さが招いた不祥事であったのだろう。思い起こせば、かつて大阪地検特捜部で証拠ねつ造事件があった。近畿、関西、大阪をどう制御するかというのは東京の中枢本部からみると一種の「鬼門」なのかもしれない。

多分、週明けの月曜に事実報告と併せて麻生財務相は辞任するのではないか。安倍総理は決してストレス耐性が高くはなく、そうなると内閣総辞職の可能性も出てきた。場合によっては意外や政界再編成にまで進んでしまう「動乱の季節」がこの先に待っているのかもしれない。これが日本にとって吉となるのか、凶となるのか、予見不能であるが。もしそうなるとすれば、一年前の投稿が的中したことになる。

関係者がすべて合理的に思考し最適な行動をとっていれば、将来予測が(ある程度)可能である分野は確かにある。しかし、たまたま重要な職位にある人物が不合理な行動をとった場合に結果がどうなるかという問題に合理的に回答することは不可能である。

2018年3月9日金曜日

朝日新聞の報道について: 組織内部の個々の違いが意味するもの

企業、官公庁を問わず、業務は組織として進められている。どこでもそうだが、真に重要なのは▲▲機構図であって、それぞれの部署に誰がいるかということは、本来は関係がないはずである。

とすれば、組織外の人が組織と接するとき、目で見えるのは「窓口」の人である。その「窓口」は、〇〇さんという名刺を持っていて、どこの部のどの課、どの係にいる人であるかは、仕事の内容によってケースバイケースである。いくら「他の人」の意見を知りたいと思っても、担当窓口と現に交渉や連絡をしながら、Aさんとは話がかみ合わないので、別のBさんと話しをつけて、あとは相手方の組織内部の力関係で決めてもらう、と。こんな交渉スタイルは極めて不作法であるし、こんなアプローチを多数並行してやられてしまうと、やられた方の組織は混乱し、崩壊する。このロジックは当たり前のことである。

あくまでも「窓口」を通して業務を進めるのがガバメント・オフィシャル、ビジネスマンを問わず、守るべきマナーだ。

なので、組織部内の色々な人の間で、ある案件について、賛否が分かれているという状況は日常的にあるとはいえ、この事実は実は重要ではなく、機構図と決裁規則が大事なのである。組織内部の個々の意見の違いは外からは見えない。これが建前だ。

法人の意思は一つであり、二つあるのではない(でなければ契約主体にはなれない)。

この点は正論として真っ当な「仕事」をしている人ならほぼ全員が共感するはずだ。

***

しかし、「窓口」を通して決定事項のみをフォローしていては、組織的不正を察知することが困難になる。

もちろん不正防止の役割を果たすために行政では議院内閣制がとられ、株式会社では外部取締役や監査業務、株主総会があるわけだ。しかし、それでも関係者が全員共謀して不正を行う可能性はゼロではない。

ジャーナリズムが果たすべき役割はここにある。

「取材」と称して、(クラブ所属であるのが建前だが)記者が庁内を自由に歩き回れていた時代に小生は仕事をしたことがあるが、今でもそんな状態なのだろうか・・・、分からないこともあるが、当時の雰囲気を思い出しても、個々の人間にアプローチして組織決定とは違う情報をとったとしても、それはそもそも組織的意思決定の中では無意味であることが多いし、大体個々の人間には考え方の違いがあるという点自体は当たり前だ。

何を聞きまわっているのか当時はまったく分からなかった(専門知識を補充して記事を書こうと勉強しているくらいに思っていた)が、そうした状況自体が組織の健全性維持に貢献していたのだろうと、今更にして考え直している。

***

それでもマスメディア側は組織として提供している情報以外の内部情報をとりたがるものである。それは政策立案現場でもそうであるし、最近では統計データ関係部局もそうなってきた ー 昔なら考えられなかったことだ。

社会システムからみれば役所や企業の組織的意思決定を経た公式情報のみが重要だ。しかし、世間からみれば公式情報とは違う内部情報を面白いとも感じるし、内部情報と公表内容が違っていれば、不正がそこに隠れている、そんな可能性も想像するだろう。

とにかくロジックとしては、組織的意思決定が外部から見えていれば(差しあたっては)十分なのであり、その最終決定とその後の実行内容が異なっていることこそが不正である。

組織的意思決定に至るまでの中間的な資料の個々の矛盾、違いには実質的意味がない ― 日常的にはそうだということ。時に、何らかの不正を示す兆候となる可能性はゼロでない。が、単なる兆候は確証にはならない。

小生が仕事をしている統計的検定の論理を借用すれば、「不正あり」と前提して情報を吟味すれば、グレーゾーンの情報はクロの前提とは矛盾せず、故にすべてクロである確証になってしまう。普通はこうは議論しない。「正常状態で不正はない」と前提したうえで「このような情報は正常状態からは出てこない」という判断ができるとき、その情報は不正の確証となりうる。

こう考えるのが本来のロジックだ。

***

もし内部情報と公表内容が違っていれば「違うのはなぜか」と疑問に思うし、不正が隠れているかもしれない、即ち「疑惑」が生じる、というのは分かる。しかし、その違いは組織的意思決定に至るまでの検討プロセスで生じる日常的な違いである可能性もあるので、その違いが不正を示す確証であるというには、更なる情報が必要だ。

「疑惑」がまだ「疑惑」である段階で、「確証」へ向けての取材努力をしないまま、報道でオープンにするという姿勢は、もし本当に疑惑が真実であったときには証拠隠滅につながる可能性が高い。

「疑惑」の報道は、「確証」をおさえた後で行うのが本筋であり、確証とともにスクープするのがマスメディアとしてはとるべき姿勢である。

・・・とまあ、今回の<第二次森友騒動>に関して朝日新聞が報道している姿勢にはこんな意見が多く出ているようだ。

確かに「不正がある」と前提して資料の内容をみるとグレーがブラックに見える。捜査当局も時折りやってしまう間違いの例であるが、素人はともかく、法廷では通用しない。

朝日新聞の今後の補完報道が待たれるところだ。

2018年3月8日木曜日

▲▲ファーストをめぐる紛争の動機と契機がポイントである

最近2,3年の流行語を選ぶとすれば、表題の「▲▲ファースト」がトップ3に入るのは確実ではないだろうか。そのくらい、特に新聞、TVのマスコミでは便利な感情的表現として多用されるようになった。

分かりやすく「現場の意向をもっと尊重してほしいですねえ」といえば、リーダーシップこそが全ての組織の未来を決めるのだと切り返されてしまう。「実際にプレーをする選手の希望をもっと尊重してほしいですねえ」と言えば、選手がいくら頑張っても監督がダメなら優勝など出来るはずがないと反駁される。

現実を観察するに、これが正論だ。素質とは画材であり、指導者は画家である。選手は楽団員であり、監督は指揮者である。勇将の下に弱卒なしであって、兵が将を育てるとは言わない。トップで勝負は決まるといっても過言ではない。企業、スポーツ、芸術等々、観察すれば明らかなことだ。

ナポレオンが言ったように
一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れにまさる
弟子に才能があったから花が開いたのではなく、開くはずのない花を開かせたのは師匠である、というケースの方が多いことは、芸術、スポーツ、政治、経済の世界を一瞥するだけでも了解したくなるのである。

以上があくまでも正論であると思う。

しかし、正論では納得できない階層がいる。そんな場合には新しい概念、新しいキーワードをタイミングよく反復使用すると道が開けることが多い。特にマスコミは新し物好きである。なので、この戦術は大変有効なのだ。

遠く遡れば、「尊王攘夷」などという言葉は江戸時代を通じてなかった。幕府がペリーの恫喝に屈して伝統的政策を転換したタイミングで(幕府が最初に鎖国を決めた以上、鎖国を解除する権限もあった)、にわかに「尊王攘夷」が日本全土で流行語となった。その黒幕が京都の朝廷であることは「得をする者を探せ」という捜査の鉄則を守れば直ちに分かることだ。

都民ファーストもアスリート・ファーストもアメリカ・ファーストも同じである。正論が確固たるポジションを占めているときに、ちゃぶ台返しをしたい集団がいる。そのような時に使用される。使われているパターンをみれば、これが単なる流行なのか、意図をもった攻撃であるかは分かるというものだ。「アメリカ・ファースト」を連呼したのはなにもトランプ大統領候補が最初ではない。第一次世界大戦の終結と国際連盟創設に努力したウィルソン米大統領から政権を奪取するために共和党大統領候補ハーディングが選挙運動中に連呼した言葉である ー 前に投稿したようにハーディング政権がとんでもなく腐敗した政権となった点もどこかデジャブ感がある。

***

女子レスリングの稀代の名選手・伊調馨選手と歴史に残る(はずだった)名監督・栄和人氏のパワハラ騒動。

小生は基本的にこのような場合、あらゆる交通事故と同様、双方に何割かずつ紛争にまで至った責任があると考える。なので、敢えて言えば、伊調選手は引退、栄監督は辞任が最もあとくされのない「裁き」であると確信している。喧嘩両成敗である。軽はずみに是非善悪を決めると必ず恨みを残す。将軍・綱吉はこの点で見事に失敗した。

しかし、今日この話題をとりあげたのは別の観点である。

***

もし伊調選手が国民栄誉賞を授与されていなかったら、今回のような告発があっただろうか。

コーチ変更後に何度かの不愉快な経験がおそらくあったのだろう(でなければ、そもそも今回の騒動は発生しえない)。パワハラとして告発したいという動機は以前からあったのだと推測される。それでも何年もの間、ずっとその被害者感情をオープンなものにはしなかった。

伊調選手は勲章を授与され、多くのゴールド・メダリストを育成した監督は国家からの栄典には浴していない。

国による一方への厚遇が以前からの不満を公にする契機となったことを全面的に否定できるだろうか。

もし国から授与される栄爵が、いまだ現役として継続中の何人かの関係者の人間関係を変えてしまい、一方が利益を拡大する行為をひきだす誘因なり契機となるなら、国民栄誉賞を含めた栄典はすべて止めるべきである。

引き合いに出して悪いが、もしもイチロー選手が二度にわたる国民栄誉賞授与の機会に辞退をせず受けていたら、今日までに至るイチロー選手をみる日本人の視線、イチロー選手を遇するメジャーリーグをみる日本人の視線、イチロー選手の行動パターンなど、いろいろな面で、特に人間関係において「変質」ともいえる現象が見られたのではないだろうか・・・。そんな気がするのだ、な。

どうも小生、へそ曲がりに加えて、稀代の潔癖症でもあるので、不必要な国の行為が一方に肩入れしてしまう状況には腹が立つ。ただそれだけのことである。

2018年3月7日水曜日

一言メモ:対朝鮮半島外交に戦略余地はまだまだ残っている

韓国・文在寅大統領は小泉純一郎元首相と同じタイプの、よく言えば「信念」がある、悪く言えば「これだけは」という「妄執」だけがあるシングルイシュー・ポリティシャンであるように見受けられる(と思っていた)。

そうしたところ、北朝鮮・金正恩委員長から「望外の合意」を引き出し、一先ず欣喜雀躍、宥和戦略の初戦で大勝利をかちとった様子である。

ただ、永続的平和に向けての今後将来の進展を予想すると、文字通り、難問山積。どこかで岩盤のような障壁に衝突し、米中ロ(それに日本?)の思惑から、迷走する可能性が強い。愚かな政治家がどこかの時点で登場すると何が起こるかわからない。

そもそも宥和戦略の当面の成功の背景として強烈な経済的締め付け(=制裁)が継続中である点を無視できない。宥和だけがあったとしたら金正恩委員長は歯牙にもかけなかったろう。ムンさん、制裁の成功を自らの戦略に利用して抜け駆けをした、と。そう言えないこともないのだな。

さて、現状をどうみるかはさておき、今日は一言メモ:

先日の投稿では、もう北朝鮮を国家として承認してしまったらどうだろう、と。そんなことを書いたが、日本はそうしてもプラスにこそなれ、マイナスにはならないと益々思っている。

30年〜50年の超長期スパンで予想すると朝鮮半島の、特に北半分の運命は二つの可能性のいずれかしか歩めないだろうと見ている。

  1. 朝鮮戦争の終結と現状固定を関係国で盟約し北朝鮮を東アジア国際関係の中に組み込む。
  2. 北朝鮮の国内経済が崩壊し、国家としての機能を喪失し、中国の実質的属国となる。

まあ、まずはアメリカが北朝鮮をどうするつもりなのか。ここが決まらないと日本が仮に「承認」するとしても、最終的結論には至らない。

要は、アメリカが北朝鮮というアジアにおける敵対的存在を必要としている。最後はこの点に戻ってしまうのだ、な。

2018年3月6日火曜日

一言メモ:日韓関係の心理的側面

日韓外交を議論するとき、中華思想の残滓がまだ残っている韓国の国民心理に日本に対する韓国の格上意識が実は重要なのであるという指摘がある。その意識の根本には、中国を文明の中心であると(無意識に)評価する中華思想があり、中華の中心から地理的に離れている日本よりは朝鮮半島のほうが文化水準が高い。そんな儒教的価値観がある。そんな風にみる有識者(?)もいるようだ。

まあ、何となく分かるような、分からないような、ストーリーである。

もし韓国の側に国と国とをタテの関係で見る習慣が身についているとすれば、そもそも日本側にも朝鮮半島を元植民地として見るようなタテの意識がある。日本がタテの意識をもって朝鮮半島をみていることの反射関係として韓国もまた儒教的価値観から自国の方が上である、と。

要するに、日本も韓国も人と人、企業と企業、国と国など、森羅万象をタテの関係で見る習性から脱し切れていない。ここに東アジア外交の心理的ややこしさがある。そう思われるのだな。

日米関係はアメリカが強く、日本は従属国である。ただこの一言で十分だ。アメリカ人は社会をタテの関係で見る習慣はない。ただ強弱と戦略があるのみ。利害得失で外交ができる。なので、日本の思うようには行かないが、分かりやすいところもある。

こんな感じか・・・

2018年3月5日月曜日

メモ:「第三者=公正中立 →  素人の浅はか」にならなければいいが

相撲界で日本相撲協会と貴乃花親方の確執がつづき、「いまだけ相撲通」が大量発生したことにあきれていたが、今度はレスリング界でも同じような騒動が起こった。

育ててくれた恩師から別の指導者に移った弟子との間に不和が高じて、パワハラ事件へと発展したという事例は、古来、星の数ほどある。

今回の騒動がテレビ画面を賑わせているのは、当事者がオリンピック女子レスリング四連覇を達成し国民栄誉賞まで授与された名選手と、かたや女子レスリング界の名伯楽にしてレスリング協会の重鎮との間の騒動であるからだ。

この騒動を受けて「協会」もまた当事者からヒアリングを行うとのこと。それに対して、ある弁護士が「協会」は「事実」を黙認してきたので中立性がない、第三者委員会を設置するべしと主張しているとのことだ。

多いねえ、最近は、こうした意見が。

***

第三者なら中立的な観点から良識に立った判断を下しうる。そんな期待には確かに合理性がある。

しかし、航空事故や鉄道事故でも事故調査委員会が立ち上げられるが、それは専門的知識が必要だからだ。専門家も属する狭い技術分野、学問分野の世界に限れば、日頃の付き合い、利害関係などもあるので、完全に真っ白な第三者関係は期待できないかもしれない。それでも専門家が必要とされるのは、何の予備知識もない第三者は即ち「素人」であるので、事故原因解明に有益な検討を加えることができないからだ。「素人の常識」では問題を解決できないケースは数多い。

相撲やレスリングと航空機事故は違う。しかし、(例えば)経済学であるゼミに入ったあと、その先生がとっている学問的立場や研究テーマに違和感を感じるようになり、別のゼミに移籍するといった場合、元の先生との間で不和が生じてしまい、いわば「素行の悪い学生」という批評が流布されてしまったとする。これをパワハラ、アカハラと判定できるか? それとも、本人が乗り越えるべき感情的葛藤として覚悟しておくべきなのか? その判定は微妙なところだろう、と。小生はこんな風に思うのだ、な。

学問の世界において師匠と弟子がやがて不和となり、決別し、互いに批判し合うようになったからといって、その学問分野をまったく知らない第三者が双方の言い分の正当性を判断するとして、判断できるものなのか?極めて疑問であると、小生は思うネエ。

まあ、今回のレスリングや相撲のケースを見るのに特定分野の経験や知識がどの程度必要なのか、それはその分野の人間が一番よく知っているはずだ。

願わくは、公正中立な審議をねらったつもりが、素人の浅はかにならなければよいが、というところだ。

そういえばマスメディア企業関係者は<第三者>といえば確かに第三者である、な。第三者というのは我田引水といえるかもしれず、実際のところ、あんな感じでホントにいいのだろうか、と。

関連して書き足しておくと、マスコミの逐一報道も極めて問題であり、速やかな収束点に到達する時間を長期化している可能性が高い。これに似ているのは「生産管理」である。時系列データを図化した管理図に基づき「管理状態」と「異常状態」を判別する技術体系がいわゆる「QC(Quality Control)」だが、その勘所は「偶然原因」と「異常原因」との区別である。その時点、その時点のあらゆる変動に対して過敏に制御行為を繰り返すと、正常状態であるのに制御シグナルを送ることによって、むしろ変動を拡大し、全体的なパフォーマンスを低下させるという理論的認識がQCの根底にはある。制御/コントロールとは現状修正が真に必要な時にのみ制御シグナルを発することに他ならない。正常状態と判定できるなら、その状態をキープすることが求められる。

社会的トラブルとその解決に際して、「新たな展開」などと称して逐一報道を繰り返すマスメディアの活動は、かえって社会的パフォーマンスを低下させている可能性がある。

いやはや、またまたマスメディア批判になってしまった。これもまた韓国の人たちの反日感覚にも通じるようなタイプの現代日本社会で共有されている感想だということか。

それにしても武芸の世界ではどうだったのだろうネエ。幕末、北辰一刀流の玄武館で免許をもらってから、次に神道無念流の練兵館に入り免許皆伝となる。そんなことはよくあったのだろうか・・・練兵館に入り直したあと、元の玄武館の師匠、弟子たちと「わだかまり」なく交際できたのだろうか?やはり陰に陽に軋轢や葛藤があるのではなかろうか?それは仕方がないのではないか?そう思うがなあ・・・何しろ小生、へそ曲がりという点では負けない自信があるので、こんなところで。

2018年3月4日日曜日

政策選択とノイズ

裁量労働制の導入が延期された後には「高度プロフェッショナル」をどうするかという審議が待ち受けている。

野党はこれにも生煮え、というより本来的な意味において反対している様子だ。

小生は、両方とも21世紀の雇用市場には不可欠の制度であると考えている。

ところが、今日のニュースでも報じられているように野村不動産が営業職に裁量労働制を違法に適用し、結果として過労死を招くという事件が発生しているなど、経営者側の都合に合わせた<残業代ゼロ制度>として悪用される。そんな心配も高まっている。

この種の企業側の悪用例は確かに報道価値がある。そう思う。

◇ ◇ ◇

経済予測に典型的に表れるのだが、経済学は物理学や化学のような精密性をもたない。他の商品に対して価格が相対的に安くなれば、その商品に対する需要は増えるはずであると理論的に「証明」すらされている「法則」にしても、実際には安くなっても販売数量が増えないというケースは意外と頻繁に観察されるものだ。

それは価格のほかにも、その時の景気状況、プロモーション戦略の成否、競合企業の反応、商品に対するイメージや風評などなど、多種多様な要因から販売は影響を受けているからだ。さらに、主たる要因をすべて考慮して販売予測をしても、予測は中々当たらない。予測と実績が乖離するのは日常的である。それほど経済現象には「その他要因」の作用が大きく、精密な予測を不可能ならしめている。

かといって、経済現象には科学的分析などは活用できず、まったくのカオスと見るしかない、と。そう発言する専門家がいれば、完全な間違いだ。実際、経済変動史において理論的な説明のつく現象は多いのだ。理にかなわない経営をしている企業はじり貧になるものだし、理屈に合わない経済政策をしている国は最終的に崩壊する運命にある。

経済学が示す固いロジックはやはり考慮しておいたほうが良いということだ。

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水泳ができなくってもすぐに困るってエことはありャせんョ。しかし、泳げないよりは泳げる方がずっとマシだ。そりゃあネ、泳げるからこそ、無茶をしてネ、水難事故の犠牲者になることもあらあネ。だからと言って、事故にあうかもしれないから水泳は禁止しておくべきだと言っちゃあ、こちらの方が無茶ってものでござんしょう。日本人みんなカナヅチになってどうします? やっぱり出来ないよりは出来る方が助かるってもんだ。当たり前じゃあござんせんか? 違いますかえ? だからね、おっちょこちょいが偶には無茶をするけどネ、学校で泳ぎを教えるってのはいいことだ、そうでんしょう。

自分の都合に合わせて仕事をして収入が一定額保証される制度があれば、ないよりはあるほうが有難いと思う人は確実にいる。だから導入された。もっと拡大する余地はあるかもしれない。メリットが確認されているのだから「ない!」とは断言できないだろう。

もちろん、この制度を導入すれば、必ず良くなると100パーセント、全てのケースを必然的に結論できるかといえば、そこまでの精密予測は無理だろう。制度がもたらす恩恵は、全体としてそうだ、としか言えないものだ。個別ケースには必ずノイズがともなう。

自動車学校の教師が言ったことがある。『決して交通事故を起こさないためには何が一番ですか? それは運転をしないことです』。これ、半分は職務放棄である。

しかし、国会議員まで職務放棄をすれば日本全体が低迷する。

確かに雇用されている人が一定の報酬の下で自分で仕事のスケジュールを決められるというシステムは、企業から悪用される可能性がある。目指す目的がある以上は、悪用されないように法的ルールと違反した時のペナルティが必要だ。導入される制度には、問題が残されていて、完成型には至っていない。しかし「完成型にまで仕上げてから国会に提案せよ」というのは、立法府である国会の職務放棄にも思える。原案を吟味し実施可能な政策に落とし込むことこそ国会が果たすべき役割だ。

◇ ◇ ◇

相撲には土俵の充実。国会には審議の充実が生命線になる。

現状は程遠いネエ。与党は野党の言い分を顧みず、野党は役に立つ提案をしようとしない。言うことは反対ばかりだ。

不誠実である。

<不誠実>と同じ程度に<欺瞞>もまた問題かもしれない。

従軍慰安婦に関する日韓合意をめぐって韓国・文政権の対応を日本人は非難しているが、こうした紛糾には双方それぞれ責任があるものだ。10対0には中々ならない。

そもそも合意をめぐる交渉の段階で、日本政府による真摯な謝罪が求められていた。韓国側は、安倍総理の謝罪の書簡を手渡したい、と。そう韓国は求めてきたのだが、日本側は一蹴したそうである(と伝えられている)。

<真摯な謝罪の態度を示す>という一項も合意の中身には含まれていたはずだ。日本は韓国に約束を果たせと主張しているが、日本は約束を完全に履行したのだろうか?

金は払ったが、合意された事柄はカネだけではないだろう。カネを払った以上、合意は履行したと主張するのは、手前勝手な欺瞞にならないのだろうか?

今日の道新には『日本も合意の約束を完全に果たしているわけではない』と指摘しているが、この点には検討するべき冷静な指摘があると。そう見る。健全なリベラルがまだあるように感じた次第。ま、今さらに「いやあ、これネ、やろうと思ってたんですヨ」などと言って追加措置をするなど、もう不可能だろうが。世界のどこに出しても、日本側に欺瞞はないと言えるようであってほしゅうござるよ。


「働き方改革」も「器の大きな保守」と「健全なリベラル」との対決であってほしいネエ。

2018年3月2日金曜日

公開ヒアリングが公開リンチとな?

厚労省によるデータ分析上の「不手際」が政府の法案撤回にまで発展した以上、ことは大事になってしまった。調査を担当した課長や局長、答弁資料作成にあたった係長や課長補佐クラスは針のむしろにいるような心持ちだろうと推察する。

だから「宮仕え」は嫌なのだ。

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不思議に思っていること。

そもそも「調査原票」らしきものがTVでも流れているが、よいのだろうか?
というか、違法にはならないのだろうか?

「労働時間等総合実態調査」は平成25年度に実施されている:
調査対象は、労働基準法別表第1第1号から第5号まで、第8号から第15号まで、及びその他の事業に該当する主として民営の事業場のうちから、業種・規模・地域別事業場数を勘案して、厚生労働本省において決定された対象事業場数をもとに、各都道府県労働局において無作為に選定された11,575事業場である。ただし、裁量労働制に係る事業場数を一定数確保するため、専門業務型裁量労働制及び企画業務型裁量労働制の導入事業場が優先的に選定されている。
(出所)労働政策研究・研修機構より

類似の調査は平成17年度にも実施されていると説明されている。担当部局には前回の経験というものもあったはずだ ー 経験があったということは、質問項目の設計において、比較のための継続性やテンポラリーな新設質問事項など、それなりの検討を加えたものと思われる。

ただ、定期的に実施される統計調査ではないためだろうか、統計調査の原票は統計調査目的以外の目的には使用できないという大原則の適用範囲外であるかもしれないし、ミクロベースの情報を提供することが調査の目的であるのかもしれない。反対に、調査には必ず混在する異常値、外れ値をも含めて個別データがすでに流出していることがもう既に違法な状態になっているのかもしれない。

もしTV画面にも出ていること自体が違法状態になっているなら、漏出経路などの確認は今後されるものと憶測する、というより期待したいものだ。

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厚労省の副大臣が野党が求めている公開ヒアリングは「公開リンチ」のようなものであると訴えたそうである。

確かに、統計調査とその分析を担当する人たちがTV中継される場で(=公開して)質問、というより野党の国会議員群から詰問されるという場を設けるには、そうしても可であるための法律上の根拠が必要だ。こんな風に論理的に考えると、確かに野党が求めている演出は法的合理性を欠いており、「公開リンチ」にあたるという見方もできないではない。だとすれば、なぜ上の副大臣は、「野党の主張は公開リンチを求める群集心理と違いはないと思うのであります」と、あくまでも冷静沈着にロジカルに訴えないのだろうか?

そこが残念だ。

感情的な議論は百害あって一利なし。そもそも人間社会はロジカルに振る舞おうとしても、一貫した論理を示し得ないモンスターのようなものだ ー この点は既にアローの不可能性定理によって数学的に証明済みである。まして影響力のある人物やマスメディア企業の経営者が政治問題に感情を混ぜて話せば、私たちの暮らす社会がどこに行ってしまうか、予想もつかなくなる。危ない、危ない、剣呑、剣呑・・・

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にしても、ミクロデータ段階で異常値や外れ値が見つかったとして、『これらの明らかな異常値が分析の結論を歪めているということはないのか?」と、この当然するべき質問をしている関係者は小生の勉強不足のせいかもしれないが(マスコミを含めて)一人もいないのだ。本当に一人もそう質問していないなら、唖然とするほどに低品質な話しが世間で進行中であることになる。

統計は大量情報の処理技術である。雑音のようなミスレポーティング(Mis-reporting)、アンダーリポーティング(Under-reporting)、オーバーリポーティング(Over-reporting)が混在する中で、全体の真相をどのようにデータ全体から抽出するかが(ほとんど唯一の)大事な要点だ。

ノイズの存在がデータ収集の失敗を意味すると考えるほどの素人は、そもそもデータ分析なるものに(本来は)関心を持っていないはずである。この対偶をとれば、日頃からデータ分析に関心を持つ人であれば必ず『この異常値は結論にどの程度影響しましたか』と聞くはずである。そう聞いた人がいないなら、本当はみんなデータというものに何も関心を持っていないことを意味する。にも関わらず、しきりに多数の人が詰問しているのは、何か失敗したらしいというので、今だけは関心をもっているためである。この種の素人から公開で詰問されるとすれば、それは集中審議ではなく、「公開リンチ」に該当する、と。上の副大臣の主旨がこういうことであれば、この点は小生も共感できるのだ、な。

それほど国会審議を長年みてきたわけでもないが、小生がずっと昔、側から見ていた委員会でもGDPや物価上昇率が問題になることはあった。そこでは素人の議論をこえる真面目な検討が与野党、議員、政府委員を問わず行われていたように覚えている。質問も本丸をついていてシャープ、答弁もギリギリの線でストレート。答弁資料の文章をどう書くかは(補佐クラスが案を書いていたが今は違うかもしれない)当人の知識、力量、実務能力が問われるものであった。それが質問は杓子定規、応ずる側も逃げの一手になってしまってはネエ・・・、丁々発止の論争になる理由があるまい ー「昔はよかった」というようになったらダメだという好例になってしまったかもしれないけれど。


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話は変わるが、スコッチの大手ジョニー・ウォーカー社が新ブランド"Jane Walker"を新発売することの方が、ずっと実質的に意味のある活動でござろう、な。

働き方を殿中で吟味するときになってから「集められたデータにはノイズが混入しておる」と言い立て、声高にがなり立てる戦法も「ある」といえばあろうが、かたや女性活躍を支援するために伝統ある"Jonny Walker"に加え女性向け新ブランド"Jane Walker"を発売するという決断。まあ、いかさま偽善にすぎぬとは存ずるが、ずっと中身があるとは思われぬか。<勝負>にかける気概があるというものでござる。

それをまあ、こんなデータが混じっているようでは土俵には上がれぬと、北朝鮮の真似をして時間稼ぎをして正々堂々とり組まぬと言うようでは、もともとヤル気がないとされても文句は言われぬて。

政権は ストレスばかり 高まりて
      野党にもどり 安堵して寝る