2018年3月16日金曜日

メモ: 従軍慰安婦問題+パワハラ批判をめぐる日本社会の二枚舌

女子プロレス界で紛糾しているパワハラ問題。その他にも数多くのパワハラ・セクハラ・アカハラ・マタハラなど、実に多くのハラスメント問題がマスメディアでとり上げられている。

先日は『当時は適法であったにせよ間違いであったと認めよ』という文章が地元新聞に載った話をした。こういう考え方はおかしいと述べた。

今日はまた上のレスリング界のパワハラ騒動をまた朝のワイドショーでみた(見さされた)。関係大学の学長から『パワハラという言葉がなかった時代にはあったかもしれない』という意味の発言があったことに対して、コメンテーターたちが『パワハラという概念がなかったからいいとか、そういうことではないでしょう。ダメなものはダメなんです』と、そんな非難が勢いよく語られている  ―  プロデューサーの事前シナリオなのだろう。

おそらく、一般的な世間の感覚に照らせば、「当時はそんな言葉はなかったのだ」という言い方を許しはしないのだろうが、もしそうなら日本社会は二枚舌だと感じるのだな。

というのは、戦前期に日本がまだ韓国を植民地にしていた時代、従軍慰安婦という制度で雇用/徴用された女性たちへ持つべき贖罪意識だ。

もちろん中には日本人女性もいたはずだ。

女性に対する戦争犯罪を決して許してはならないという倫理的問題は特に最近年において強く意識されるようになった。この観点には小生もまた全面的に賛成だ。しかしながら、その倫理的感覚を戦前期の日本にまで遡って適用して、「従軍慰安婦たちに日本は、韓国政府に対してではなく、元慰安婦たちに直接に面会して謝罪せよ」と現在の日本を高々と非難する。そんな韓国に憤慨を禁じられない日本人は(案外)多いのではないだろうか。現在の倫理基準にたった相手が過去の自国の行動の責任をそこまで裁いていいのだろうか。責任をもつべきなのだろうか。意見が分かれるところだ。

もし相手の過去の行動に対しては「いま自分はこう考えるようになった」といって昔はなかった責任を相手に求めるとする。しかし同時に、自分の過去の行動については「当時は間違ってはいなかった」といって責任を認めない。もしこう言えば、これは見事な<二枚舌>である。

戦時中の日本の行動を非難する韓国を「過ぎたことをとりあげて、あいも変わらぬ反日だ」と批判する日本人ならば、過去の「今でいうパワハラ」もまた「当時の感覚なら当たり前だった」と。そう主張しなければならない。

「今でいうパワハラ」を過去にさかのぼって非難するなら、過去の日本の行動にも贖罪意識を持たねばならない。それだけの覚悟を持たなければ二枚舌である。

選択可能なのはいずれか一つである。

実際、小生の学校時代、アニメで活躍する主人公はゼロ戦に搭乗するパイロットであり、運動会系の部活におけるキーワードは<根性>であった。猛練習は目がくらんで倒れるまでやって初めて効果が出てくる。強くなれる。女子バレーの「鬼の大松」がレジェンドとなった時代である。そんな時代が確かにあったのだ。「死ね!」、「死んでもいいんだぞ!!」、「ボケっ!」・・・、誰もそんな練習の方法が間違っているとは思ってはいなかったはずだ。ましてそんな指導が犯罪であるとか、違法であるとか、そんな感覚はまったくなかったはずだ。もちろん耐えられずに去っていった部員もいたはずだ。しかし、付いていった選手もいた。去る者、残る者、そこに強制、隷従がなければ、あとは生存競争ということになるのではないか。小生にはどうしても、そう思われるのだ、な。

時代は変わるものだ。変わったから新しい人間が古い人間を断罪してよいのだろうか。よいのだとすれば、韓国のように前大統領を裁くという慣例(?)をつくっていけばよい。

小生自身は、変わる時代それ自体こそ歴史であって、是非善悪を超えてそのまま事実として認めればいいという意見だ。つまり現代人からみればトンデモナイしごきが横行していたことが発覚したとしても、それは昔の時代の産物であって、いまの倫理基準を適用して是非善悪を決めたところで無意味である。進歩したはずの現代という時代も、いずれ将来には批判され、修正されていくのだ。なので、「今でいうパワハラ」が真にパワハラであったかというときの判断基準は行為が行われた時点の倫理基準である。つまり、歴史は歴史。いま断罪するなどは止めて、事実として残していけばよい。そんな考えだ。

ただ、現時点の小生の感覚は、昔の蛮行をいま後悔して、その時に犠牲にして省みなかった人たちに謝罪をする姿勢は、科学とは異なる道徳的な進歩というものだろう、と。そう思っていることも事実だ。

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