2018年3月5日月曜日

メモ:「第三者=公正中立 →  素人の浅はか」にならなければいいが

相撲界で日本相撲協会と貴乃花親方の確執がつづき、「いまだけ相撲通」が大量発生したことにあきれていたが、今度はレスリング界でも同じような騒動が起こった。

育ててくれた恩師から別の指導者に移った弟子との間に不和が高じて、パワハラ事件へと発展したという事例は、古来、星の数ほどある。

今回の騒動がテレビ画面を賑わせているのは、当事者がオリンピック女子レスリング四連覇を達成し国民栄誉賞まで授与された名選手と、かたや女子レスリング界の名伯楽にしてレスリング協会の重鎮との間の騒動であるからだ。

この騒動を受けて「協会」もまた当事者からヒアリングを行うとのこと。それに対して、ある弁護士が「協会」は「事実」を黙認してきたので中立性がない、第三者委員会を設置するべしと主張しているとのことだ。

多いねえ、最近は、こうした意見が。

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第三者なら中立的な観点から良識に立った判断を下しうる。そんな期待には確かに合理性がある。

しかし、航空事故や鉄道事故でも事故調査委員会が立ち上げられるが、それは専門的知識が必要だからだ。専門家も属する狭い技術分野、学問分野の世界に限れば、日頃の付き合い、利害関係などもあるので、完全に真っ白な第三者関係は期待できないかもしれない。それでも専門家が必要とされるのは、何の予備知識もない第三者は即ち「素人」であるので、事故原因解明に有益な検討を加えることができないからだ。「素人の常識」では問題を解決できないケースは数多い。

相撲やレスリングと航空機事故は違う。しかし、(例えば)経済学であるゼミに入ったあと、その先生がとっている学問的立場や研究テーマに違和感を感じるようになり、別のゼミに移籍するといった場合、元の先生との間で不和が生じてしまい、いわば「素行の悪い学生」という批評が流布されてしまったとする。これをパワハラ、アカハラと判定できるか? それとも、本人が乗り越えるべき感情的葛藤として覚悟しておくべきなのか? その判定は微妙なところだろう、と。小生はこんな風に思うのだ、な。

学問の世界において師匠と弟子がやがて不和となり、決別し、互いに批判し合うようになったからといって、その学問分野をまったく知らない第三者が双方の言い分の正当性を判断するとして、判断できるものなのか?極めて疑問であると、小生は思うネエ。

まあ、今回のレスリングや相撲のケースを見るのに特定分野の経験や知識がどの程度必要なのか、それはその分野の人間が一番よく知っているはずだ。

願わくは、公正中立な審議をねらったつもりが、素人の浅はかにならなければよいが、というところだ。

そういえばマスメディア企業関係者は<第三者>といえば確かに第三者である、な。第三者というのは我田引水といえるかもしれず、実際のところ、あんな感じでホントにいいのだろうか、と。

関連して書き足しておくと、マスコミの逐一報道も極めて問題であり、速やかな収束点に到達する時間を長期化している可能性が高い。これに似ているのは「生産管理」である。時系列データを図化した管理図に基づき「管理状態」と「異常状態」を判別する技術体系がいわゆる「QC(Quality Control)」だが、その勘所は「偶然原因」と「異常原因」との区別である。その時点、その時点のあらゆる変動に対して過敏に制御行為を繰り返すと、正常状態であるのに制御シグナルを送ることによって、むしろ変動を拡大し、全体的なパフォーマンスを低下させるという理論的認識がQCの根底にはある。制御/コントロールとは現状修正が真に必要な時にのみ制御シグナルを発することに他ならない。正常状態と判定できるなら、その状態をキープすることが求められる。

社会的トラブルとその解決に際して、「新たな展開」などと称して逐一報道を繰り返すマスメディアの活動は、かえって社会的パフォーマンスを低下させている可能性がある。

いやはや、またまたマスメディア批判になってしまった。これもまた韓国の人たちの反日感覚にも通じるようなタイプの現代日本社会で共有されている感想だということか。

それにしても武芸の世界ではどうだったのだろうネエ。幕末、北辰一刀流の玄武館で免許をもらってから、次に神道無念流の練兵館に入り免許皆伝となる。そんなことはよくあったのだろうか・・・練兵館に入り直したあと、元の玄武館の師匠、弟子たちと「わだかまり」なく交際できたのだろうか?やはり陰に陽に軋轢や葛藤があるのではなかろうか?それは仕方がないのではないか?そう思うがなあ・・・何しろ小生、へそ曲がりという点では負けない自信があるので、こんなところで。

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