2018年4月21日土曜日

前の投稿への反すう(その1): 現代社会のハラスメント問題

前の投稿の以下の部分について、思い当たった点を補足したい:
例えば、街の喫茶店で数名の仲間と遠慮のない会話をする中で、偶々、話題が下ネタに落ちしてしまい、大笑いをしてしまったとする。その近くの席に座っていた(女性かもしれないが)眉をひそめ、憤慨の気持ちから店の人に「あまり汚い言葉使いで不愉快です」と伝え、注意をしてもらうというのは社会では当たり前にあることで、都会生活とはそういうものだろうと思われる。しかるに、注意をすると逆切れされるという恐怖も手伝うこともあろう、スマホでその雑談を無断録音し、話している(男性たちかもしれないが)面々の顔が特定可能な動画を公開の場にアップするとする。それで自分の鬱憤をはらすとする。 
小生の基準では、雑談がセクハラに該当したのかを吟味する以前に、無断録音をして公開の場にアップして話していた他者の名誉や信用を壊すという行為が、その人物たちの基本的人権を侵す違法行為となる。「出発点」と言ったのはこういうことである。
隣席の男性集団が下ネタで大笑いすれば、隣にいる女性達が不愉快になるだけではない。その周囲の客たちも不愉快に感じるであろうし、店の従業員、店主もまた迷惑このうえないことである。

つまり、品の悪い雑談をしている客たちの行為はハラスメントの動詞形を用いると"harassing"である。

隣席の女性たちが店の従業員に頼み注意をしてもらうとする。このとき、男性客たちはバツの悪い思いをしながら、おそらく注意を依頼したのは近くの席にいる女性たちであろうと推測するであろう。「もしも近くの席にいる人が同じ男性であれば、このような細かなことで公衆の面前でメンツをつぶされることはなかった」と、そう感じるとすれば、やはりその男性たちも「不愉快だ!この店は!」と感じるかもしれない。だとすれば、最初のハラスメントとは逆向きのハラスメントもまた事実として生じている理屈である。その客たちの性格によっては「ここは怒ってもいい、怒る権利がある」と感じるかもしれない。

社会問題としてのハラスメントは、ほとんどの問題、相互理解・相互信頼の欠如、であるが故の敵対意識から生じるものである。

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ここで、同じ店内にいる他の客もまた同じように不愉快を感じていれば、たとえ男性客が店に抗議をしても、大勢の客が男性たちに一斉に声を上げるだろう。社会の日常的トラブルが解決されるには、政治と同じ「数の力」が必要である。そもそも古代ギリシアの時代から「人間は三人集まれば既に政治が始まっている』と言われる。それが人間だ。多数が結論を決めるというのは人類社会の原初形態であるとも言えるだろう。民主主義といえば学問の香りがするが、社会のあるべき正しい状態とは、多分に「常識」と「みんなで渡ればこわくない」という群集心理によって実現される面があるものだ。

このメカニズムが機能しなくなった時に色々な社会的病理が発生する。とくに社会の自浄作用に期待すると口では言いながら、規律と制裁(ディシプリンとペナルティ)の権限を当事者から公的機関へ一元的に集約しようとする傾向が強まるに伴ってそう言える。

もしも 周囲の客が十分な勇気を持たず臆病であり、何事も<お上>に解決してもらおうという姿勢を日常的にとっていれば、声を上げることをためらう。トラブルを解決する役割を担当するのは、庶民である自分たちではなく、店なり、警察なり、公人であるという生活感覚が当たり前の時代であればそうだ。そんな時代、周囲の人物は物理的距離の近さとは関係なく、当事者ではなく傍観者となる。その場の女性客も、そんな臆病な他人たちには何も期待できないと知っている。店の従業員に注意を依頼することも後難をおそれ、その場では諦めることになる。スマホで密かに動画を撮って音声とともにYouTubeに匿名でアップする行為は、その場で為すべきことを勇気に欠けるがゆえに為すことができなかったことの代償である。

本質的には勇気にかけるが故の卑劣な行為であるのだが、為すべき行為を為せなかった代償であるが故に、それは後になっても正義にかなっていると確信するのだ。

しかし、こうした行為は自動車が接触して自分が怪我をしたとき、相手の攻撃的態度に恐れを感じ1万円のカネで済まされたところが、どうしても怒りがおさまらず後になってその人物の背中をナイフで刺す行為とどこか似たところがあるではないか。

言うべきことは言うべき時に言わねばならず、為すべきことは為すべき時に為さねばならない。これを可能にするのは勇気であり、できないのは臆病のためだ。臆病な人は正しいことを為すことはできない。臆病な人は向き合うのではなく、逃走すればいいのだ・・・小生はそんな風に思う。戦う必要はない。しかし、戦わないなら、後ろから刺すようなことをするべきではない。すれば倫理としては悪である。

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ハラスメント、あるいはハラスメントがイジメに進行するケースも現代社会の病理として蔓延している。小生が若いころは、喧嘩や武装闘争のような陽性の敵対関係がずっと多かったように思う。これに比較して、現代日本社会のトラブルは陰性であり反復的である。

戦争でも社会的トラブルでもその在り方や態様が変わるには何らかの理由がある。

パワハラは上下関係の下で生じると考えがちだが、真に実質的支配力を有している上役ならば、気に入らない部下は解雇すればよい。左遷してもよい。英語でいえば"fire"すればよいのだ。これ即ち「むき出しの経営判断」である。ところが、国の労働行政で経営者の思うようにはできなくなってきた。課長の上には部長がおり、部長の上には取締役がいる。中間管理職として部下が掌握できずトラブルが生じれば管理職としての評価に傷がつく。「上」が「上」でなくなれば「下」は「下」ではなくなる。「上」が弱体化している下でパワハラは代償行為として起こるものだとみている。パワハラは虐めではない。不愉快な人間関係は実はお互い様である場合が多い。パワハラの周囲では、他のタイプの様々なハラスメントが併せて発生しているものだ。ひょっとすると、パワハラと正反対の向きの"too many complaints harassment"(ぶつぶつ言うばかりで士気を下げる部下)もあるかもしれないし、"neglecting harassment"(何日たってもレスポンスがない部下)も確認できるだろう。

人間関係において生じるトラブルは複雑で微妙なのだ。前の投稿でも述べたが、虐待とハラスメントは異なる。なぜ集団構成員の間の相互信頼が形成されず、敵対意識が形成されてしまっているのか、その背景と原因を分析することがハラスメントの解決には不可欠だ。先行して「ハラスされた("harassed")」と訴えた側が被害者、訴えられた側が加害者("harassing")であるというシンプルな枠組みにはハラスメント問題は収まらない。であるだけでなく、シンプルな枠組みの中に現に生じているハラスメント問題を押し込め、形式的結論を出しても、全体状況は悪化するだけであろうと予想する。

ハラスメントが集団内の問題として発生するプロセス全般についてはまだ研究途上であると推測する。単に強者と弱者が併存していることが原因であるとは限らない。今後、ありとあらゆる種類のハラスメントが生じてくるはずだ(この点も既述した)。

今のところ暫定的に小生は以下の筋道を追っている(一面的だろうが、試し掘りだ):

法律や社会規範で保護されている限り、弱い立場にあるものは本質的に弱いままである。守られている集団が守られようと願っている限り、その集団は臆病であり、社会の中では当事者ではなく傍観者である。故に、その行動が社会正義にかなうことはほとんどない。社会の傍観者が社会に対して真に貢献する行動をとるはずはないと考えるのがロジックではないだろうか。

ハラスメントが発生する場合、当事者、関係者の中に<傍観者>として行動する者が必ずいる(はずだ)。この「傍観者」はゲーム理論でも関連する概念だ。多分、純理論的には"Problem Harassment Audience By-Stander"をキーワードとする学問的成果が得られてきているのではないだろうか。小生、ちょっと調べてみようかという気になっている。

どちらにしても、現代社会の難病ともいえるハラスメントを解決するのは、ヒステリックなマスコミの非難でも国会の証人喚問でもない。人間行動に関する科学的研究の進展のみが問題を解決できる。この点は間違いところだ。

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ナポレオンは(フランス語で話したはずなので誰かドイツ人が伝えたのだろうが)こう語ったそうだ:

Man muß stark sein um gut sein zu können.
人間は善でありうるにはまず強くあらねばならない

臆病な人が社会で増えれば、その社会から善いことは減り、悪いことが増える。これは必然的な結果だろう。

智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない

智・仁・勇の三徳を重視する古き道徳教育に何か取り柄があるとすれば、良い人間関係の形成に重要な点を繰り返し強調していた点だろう。

最近の現代社会的な病理の原因がこの種の道徳教育の消滅にあるのでなければ幸いだというべきだ。



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