2018年4月29日日曜日

現代社会で求められている研究課題の一つ

アンチ・セクハラでヒステリー状態の日本国内の、特にメディア状況の中で、東アジア地域の国際関係構造はひょっとすると大きく変化する(かもしれない)段階にさしかっている。

この見事なギャップ、断層はなぜ生じているのか?これは政治学者だけではなく、社会学者や心理学者、教育学者等々にとってみても、いまという時代の中で巡り合った面白い研究テーマであるに違いない。統計や、経済学でメシを食ってきた小生には、この辺のメカニズムは分からない。ただ社会的病理現象にしか見えない。

小生の関心を引く問題は、セクハラというよりは、より一般的なハラスメント発生メカニズムのほうだ。

というのは、極端な見方をする人は「だから女性は世間で働くなんて気は起こさず、結婚して家庭を守ればいいんだ」、そんなことを言う人も今なお現代社会には残っている ― これからもいるだろう。そうなのだろうか、という点も無視はできないからだ。

しかしながら、家庭の場で嫌な思いをするからこそ結婚は破綻するわけであり、そこに暴力が生まれていればドメスティック・バイオレンス(DV)、物理的暴力に至らなくとも乱暴な言葉を浴びせ続ければ見事なセクシャル・ハラスメントに該当することが多かろう。そして、その頻度は現代的な女性共同参画社会とあまり違うことはない・・・そんな風にも思われるのだ。女性を家庭に閉じ込めようとも、社会で活躍してもらおうとも、一定の頻度と割合でセクシャル・ハラスメントは発生する。与えられた国の社会的リアリティの結果としてハラスメントやイジメは理解するべきなのだ。もしもそうならそのような社会的メカニズムは何から生じるのか? 家族構造、家族道徳に由来するものか、生活水準によるものか、道徳の欠如によるものか、日本人のそんな意識構造の分析的研究が何よりも必要とされている。そう思うのだ、な(仮説にたった議論ではあるけれど)。

そんな研究の一連の成果の中から、「セクシャル・ハラスメント」ばかりではなく、学校という場のイジメ、職場におけるイジメについても、もっと軽微な程度の嫌がらせについても、全体的な解消、というよりは減少への方向が見えてくるに違いない。

防止のための法制化、処罰などはまず基本的かつ科学的知識の蓄積があってこそ効果を期待できるものだ。それまでは、むしろ嫌がらせや喧嘩の類は当事者の面々の和解(あるいは敵対関係の持続)に任せて周囲(=社会)としては放っておくのがベストであるという、そんな伝統的解決法にもまた耳を傾ける余地はあるというものだ。

夫婦喧嘩は犬も食わない・・・イヤ、イヤ、これまたハラスメントを増殖させる傍観者的態度というものか。まあ、現代社会の頭に血がのぼった面々はそう言うかもしれないが、何百年も継承された格言というのは経験的知見のかたまりでもあるのだ。

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