2018年4月24日火曜日

前の投稿への反すう(その3):現場の関係者による判断 vs 公/国/第3者による審議

ここ何回かの投稿では実は矛盾していることを書いている。その下りを引用しておく。

まず前々回の投稿の一部:

ここで、同じ店内にいる他の客もまた同じように不愉快を感じていれば、たとえ男性客が店に抗議をしても、大勢の客が男性たちに一斉に声を上げるだろう。社会の日常的トラブルが解決されるには、政治と同じ「数の力」が必要である。そもそも古代ギリシアの時代から「人間は三人集まれば既に政治が始まっている』と言われる。それが人間だ。多数が結論を決めるというのは人類社会の原初形態であるとも言えるだろう。民主主義といえば学問の香りがするが、社会のあるべき正しい状態とは、多分に「常識」と「みんなで渡ればこわくない」という群集心理によって実現される面があるものだ。

正邪善悪の判定は、現場に居合わせて事情を一番知っている人が最も正確に判断できる、というものである。

要するに<自治の原理>を主張するものであり、狭い範囲では相撲のことは当事者である相撲協会に、野球のことは野球機構に、都道府県や市町村のことは住民と議会・行政機関に委ねるべきであるという考え方だ。これは<ローカリズム>の観点だ。現実とマッチする点を重視する調和主義の観点である。

これとは反対の部分。前の投稿だ:

・・・文字通りのメディア・スクラムを組んで一人の個人に対して圧力を加えるであろう。それが憲法違反の人権侵害であるとはまったく思わないに違いない。そこがメディアの怖さだ・・・メディアの怖さとは群衆の怖さと同一なのである。

仮にもし、こんな情景が正夢になったら、戦後日本の立憲主義、基本的人権の尊厳、罪刑法定主義、法の前の平等、民主主義、国権の最高機関たる国会の尊厳、三権分立、等々。すべては実質的に堕落、自壊して、あとはチンドン屋が日本社会の先を行くのか、横から騒ぎ立てるのか、後ろからついて来るだけなのか分からないが、日本の社会もいよいよ1920年までの浮かれ社会から1930年代の政党政治の没落までと同じ、戦後民主主義没落の10年間に入っていくことになるだろう。
日本人であれば誰にもせよ例外なく、社会の大多数から圧迫や恐怖をうける苦痛から保護される権利を有している。基本的な人権である。自分がおかした不適切な行為に対するペナルティは、その時の群集心理ではなく、明文化された法律によって決定される。同じ行為に対して、あるケースでは重罰に、あるケースでは軽い処罰が課されるという、そういう恣意的な判断で人生を決められてしまうという非条理は出来る限り防ごう、という趣旨がこちらである。

現場の人間だけに委ねていると、不適切な癒着、談合、限られた世界の多数派による横暴によって、社会的には正しい人たちが苦しむ場合がある。その時は、普遍的に適用される<法>によって<公正(Justice)>を達成しようという<ユニバーサリズム>、というか普遍主義がここにある。。

★ ★ ★

小生は、前者に限りない郷愁を感じつつも、基本としては後者の立場にたつべきだと考えている人間だ。

マスメディア各社は、表面的には護憲、法の前の平等、思想・表現の自由、基本的人権の尊厳を主張している。しかし、実際にやっているのは、自社の主張と対立する相手を攻撃し、相手を担当職務から追放するまでは圧迫を加え続けることである。マスコミは、公職にあるものを「権力の象徴」と認識しているようだが、公職にあるものは国民の公益に奉仕する立場にたっている個々の個人である。マスコミが尊重しているはずの基本的な人権を有している個人である。こんな時、マスコミ各社は法律的には〇〇だろうが、国民感情としては▲▲だと言っている。法の前に生きた人間の感情があると言いたいのだろうか。これは群集心理を煽っているだけではないか。定義通りのデマゴーグだろう。社会が自壊を始めるときの兆候である。

他方、時にはマスメディアはスクラムを組んで、前者の観点から現場の関係者が審議しているプロセスに介入することがある。そんなとき、マスコミ各社は当事者、関係者の努力を「世間からずれている」と一蹴して、基本的人権や法の下の平等、法にのっとった透明性ある審議を主張するのだ。口ではそう言いながら、それと同時に自らが尊重するはずの憲法と法律の趣旨に沿うよりも、敵対者の人権を圧迫していることには視線を向けず、群集心理を扇動することを頻繁に繰り返している。

上の両方をまとめれば、現代日本社会のマスメディア各社は<独善>に陥っている。そして、究極的には反対派を<粛正>しようとする意識が表面化してきているようだ。反対派の弁舌との論争を楽しむ余裕は消え去って久しく、いまや<論壇>という言葉も死語となっている。

反対派の主張や言葉をきくと『耳が汚れる』とでも言いたいのだろうか。もしそうならば、表現の自由を圧迫しようとする、あからさまな憲法違反である。

★ ★ ★

下村元文科相が、自分の講演会で言ったそうだ:
音声データによると、下村氏は聴衆との質疑応答の中で「確かに福田事務次官がとんでもない発言をしてるかもしれないけど、そんなの隠しとっておいて、テレビ局の人が週刊誌に売ること自体がはめられてますよ。ある意味犯罪だと思う。福田さんの問題だけども財務省問題ですよね」と発言した。
(出所)日本経済新聞、2018年4月23日

これまた無断録音の公開である。

講演会というのは、ある政治家の主張を忌憚なく聞くために希望者が集う集会である。その集会で講演者が語った言葉が不適切であるという理由で謝罪に追い込む姿勢は、戦前期の国家総動員体制を連想させる。

無断録音をしたのは共産党である。同じことを警察庁が行ったとすれば共産党はどう語るのか。無断録音というのはまだ穏やかな言い方だ。これは<盗聴>に等しい。

小生は、原理・原則として無断録音を公開することによって政敵に打撃を与える作戦は、捜査当局の盗聴と本質的に同じであると投稿した。

その手法の是非善悪がこの現代日本社会でどう判断されていくのか、小生にはまだ分からないが、もしも共産党が政権の座につけば、やはり<無断盗聴>を政治的ツールとして縦横に活用するだろうことは、もやは間違いないように思える。

共産党が社会を指導する集権的社会とはそういうものである。

戦前期の軍部は確かに崩壊し去ったが、その軍部と対峙した共産党、大手新聞社は1930年代の精神的エートスをそのままに残して、戦後日本で繁茂し、まだ呼吸をしていることがよく分かる。

故に、小生、最初に述べた二つの立場の前者(ローカリズム)に限りなく郷愁を感じるのだ。何が正しい理念であるかを定める普遍主義を担う具体的な権力が、(たとえば)共産党や大手マスメディア企業出身者であるような社会は怖くて仕方がない。前回の選挙で大勝し、その結果として政権を保っているとはいえ、支持率の推移を心配する現政権の方がまだ民主的である。

0 件のコメント: