2018年5月30日水曜日

一言メモ: 「イジメ」に関する乱暴な仮説

2004年の岡山女児殺害事件が14年ぶりに解決する見込みになったそうだ。TVの解説によれば、犯人自身が中学生時代にイジメをうけ、腹部を刺す自傷行為を繰り返していたところ、医師から注意されたことから他者を、その中でも弱者である女児を狙うようになったということだ。

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犯人の残虐な行為には慄然とする。と同時に、その心理的必然性にも目を向けざるを得ない。そんな思いだ。

以前から感じていることが一つある。それは、「人は周りの人間集団から虐待されれば、人格性が毀損される」ということだ。人を虐待することは、人格が毀損された人間をつくり出していることと同じである。故に、人を虐待することのリターンは、人を虐待した社会にかえってくる。そういう理屈だ。それで収支のバランスがとれる。因果応報だ。小生はずっと前からそんな風に考えている。

『それでも実行した犯人は許せない』というのであれば、それは先日のアメフト悪質タックル事件を実行したM選手が許せないという見方と同じである。もちろん、こう考えても誤りではない。必要である。が、小生は(そして世間も?)見方が少し違う。そういう行為をM選手にさせた責任は指導者にあると考えるなら、人格を毀損するほどの虐待を少年期に行った社会が犯人に犯行を実行させたのであると考えなければ理路一貫しない。

極端なイジメは、極端な貧困 ― 貧困は社会から受けている虐待であると考えてはならないのだろうか ― と同じく、その渦中にある人間の人格を(統計的な意味で)毀損する。人格を毀損された人物は、意識の核心的部分に反社会性がうまれ、受けた虐待への応報を求める願望から弱者に対する攻撃意欲が代償行為として潜在する(これもまた統計的な意味で)、というのが小生の仮説である。

故に ― というより一般化していえばと言うべきだが ―、残虐な犯罪の相当部分は、犯人個人の責任というより、そんな犯人を生み出した社会のあり方の側に原因がある。小生はこういう見方を基本的にはとっている。

ズバリ言うと、性善説のほうに共感を覚えるのであり、犯罪への誘因や性癖、一線を超える動機などはすべて後天的なものである、と。そう思う。性悪説よりはずっとこちらの方に同感しているのだ。だからこそ、ずっと以前に悪人正機説についてメモを投稿しておいた。

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学校現場における<イジメ>は、学校関係者(及び、関係する保護者たち)がいま考えているよりははるかに甚大な被害を日本社会にもたらしている。

まして<イジメ>の発生を認識しながら、保身や事なかれを旨とする学校管理者が(そして保護者達も)事態を放置するとすれば、ガンの初期症状を認識しながら「大したことはない」と伝える医師にも似て、社会的には許容できないほどの無責任な姿勢である、と。小生はこう思うのだ、な。

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ハラスメントの認識とイジメの防止はかなりの部分で重なることは確かだ。一枚のガラスが割られた事件を放置すれば、校舎の窓ガラスがすべて割られてしまう荒廃に至るかもしれない。状況が制御不能になるかもしれない。

深刻なイジメになる前に、ハラスメントの段階で事態を管理し、深刻化を防ぐ必要がある。

ただ、極端なハラスメントの防止は、活発な交流、刺激のある会話、悪ふざけやお笑いまでも抑えつける可能性がある。モラルの追及が極端になれば、期待には反して社会の相互不信が進み、指導者の信頼性が低下するものである(これまた仮説的な見方、社会の特性の見方は全くキリがない)というのは、日本人なら既に何度も経験しているはずだ。

どこでバランスをとればいいか?学問領域でいえば社会学になるか。実証的研究の蓄積が望まれる。

【1日たってから加筆:5月31日】
改めて本稿を読み直すと結構過激である。カミさんに主旨を話してみると「そんなこと、外では言わない方がいいヨ、被害者がいちばん可哀そうなんだから」と言ってくれた。なるほどそうかもしれないと思った。持つべきものは人生のパートナーである。

極端なイジメを受けたからといって、人格が傷つけられたからと言って、誰もが反社会的な行動願望をもち、誰もが社会に対する報復を実行するわけではない。サマセット・モームの名作『人間の絆』の主人公であるフィリップ・ケアリーのように幼少年期から同級生による激しいイジメをうけながらも、結局は真摯で誠実な魂を失わない人物もいるだろう。

カミさんにはこう言った。
みんながみんな、イジメによって社会に報復するわけでもないし、犯罪行為を実行するわけではないさ。その後に出会う人によっても違うさ。でも、虐待された人は「覚えてろ」くらいのことはつぶやくのじゃないかねえ? そして、100人の中の5人でも、実際に胸の中の鬱屈を犯罪で晴らしてしまえば、やっぱり因果関係というのは認めざるをえないんじゃない?多感な学校時代に受けた心の傷は、30や40を過ぎてからまた血が出てきて、傷み始めることもあるんだよ。人間って、そんなんじゃない?

2018年5月28日月曜日

日大問題: 「乖離」とは何と何との乖離だったか?

今回の悪質タックル問題が生じた原因として、日大当局と加害者学生本人の言い分がまったく正反対になっており、事実はどうであったのかという点で紛糾している。

「乖離」という用語、というか概念は、世間のマスコミには「普段、こんな言葉、使いませんよ」という具合で大変評判が悪いのだが、小生のようにマクロ経済状況の統計的把握や政策の効果予測を専門にしてきた人間にとっては、日頃使い慣れた言葉である。

「乖離」もそうであるが、「ラグ」、中でも「認知ラグ」や「効果ラグ」などは使わない日がないくらいであるし、「予測誤差」や「ノイズ」もこれらに劣らず、非常によく使う言葉である。

なぜなら、経済分析や経済政策は物理学や精密製造現場のように極めて精度の高いコントロールが可能な領域ではなく、簡単に言えば「大体、こんな方向で行くだろう」という程度でまずはやってみる。ありていに言えば、こんな感じで分析やマネジメントをしているからだ。

経済学もそうであるし、経営学も同じである。企業経営の当事者にとって、社員が完全にトップの意図通りに行動してくれるなどということはありえない。自然現象においても河川管理、災害防止、天候予測、地震予測等々においては精密予測、精密制御が不可能であり、上のような状況があてはまっている。

★ ★ ★

経済政策には三つのラグがある。
認知ラグ: 特定の政策が必要である経済状況を認めるまでの遅れ
決定ラグ: 必要な政策を決定するまでの意思決定、手続きの遅れ
効果ラグ: 実施した政策の効果が浸透するまでの遅れ
さらに人間集団において戦略意図、個々のオペレーションを共有できるまでの「乖離」には四つの段階がある(と考えられる)。

  1. 指導者が思考の結果を特定の意図として具体化するまでの乖離
  2. 特定の意図をどんな言葉で表現するかという段階における乖離
  3. 表現された言葉が聴いている人間集団にどう解釈されるかという段階の乖離
  4. 聴いた人間集団がどんな行動をとるかという段階における乖離

小生、思うのだが、日大の指導陣は「▲▲という内容の特定の傷害行為を遅くとも〇〇という時点までに必ず実行したい」という「意図」を持っていたわけではなかった。この点は間違っていないと感じている。なぜなら、これはもはやアメリカンフットボールという競技ではないからだ。「自分たちはアメフトをやっているのだ」という意識は確かにあった、と。そう思われるのだ。更に、傷害の意図がそもそもあるなら、後の追及を予想し意図を隠ぺいする、つまりカムフラージュするはずなのだが、日大側は試合後に謝罪もせず、開き直っているかのようであった。やろうとしていたのは、(ラフであるにせよ)アメフトというゲームであり、傷害行為を意図していたわけではなかった。この点の認容が今日の投稿の出発点となる。

日大当局のいう「乖離」とは、上の1と4との乖離。つまり自分たちの思考/意図と選手の行動とが乖離していたと。そんな主張なのだろうと推測する。一方、マスメディアは「乖離」というか、「ミス・コミュニケーション」というレベルに問題を矮小化しようとする大学当局を卑怯であると非難を続けている。「傷害行為を指示した」ことは「事実」であると認めるように毎日のワイドショーを通じて圧力を加え続けている。

しかし、「このような傷害行為をしようと考えていたわけではない」という言い分が実際に真相であり、日大指導陣が当事者にとっての真相を話しているのであれば、ひと先ずはそれを聞き入れ、ではなぜあのような結果が起こりえたのか?

こんな具合に掘り下げていく姿勢が、少なくとも「報道」を目的とするマスコミ各社には求められるはずだ。「双方の話しの内容に矛盾がある以上、どちらかが嘘をついている」と断定するのは、(いまさら驚くことではないが)日本の(海外でも同じか?)マスコミ各社の低レベルと、単細胞的な粗雑さを伝えている。そう思うのだな。

今回のルール違反に憤りを感じ、番組でもとりあげてきたマスコミ各社は社会の中で果たすべき役割を果たしたと思う。が、例によってマスメディアは恒常的なパターンに逆戻りをして、非常に非知性的な、浅堀りの議論を反復的に繰り返し、問題解決に向かう日本社会の足を引っ張り始めている。そう思うことが(またしても)増えてきた。

なんでいつもこうなるんだろうねえ・・・と。不思議である。と不思議に思いつつ、小生の個人的予想としては予想ラインにそって(順序の前後は生じているが)進んでいるようで、先日の投稿のとおりに、マア、マアなっていくのではないかと今はまだ思っている。

★ ★ ★

まず事実であると感じられるのは加害者のM選手が指導陣と語った言葉である。話は極めて具体的であり、実際に観察された情況とも整合している。そして、指導陣が口にした言葉というのは、それは傷害行為を命じる非社会的組織の組長の言葉そのものである、と。アメフトに詳しい人物はそう語っている。「あそこまで言えば、そういう意図だと思ってきくでしょう」ということだ。

だとすれば、「乖離」があったのだとすれば、上の段階の1と4というのは欺瞞であり、1か2においてだろう。

つまり、指導陣とM選手の間に乖離があったのではなく、指導陣が意図したことが適切な言葉で表現されなかった。これは段階2である。あるいは、トップ自らの思考が一つの意志としてまとまり伝達可能な具体的意図として表現されていたか。つまり段階1における本質的な乖離もありうる。要するに、トップの前監督・U氏がチームの現状をどう解釈し、レベルアップのために何をやろうとしていたのか。現状解釈と問題確認、問題解決への具体的意図。その意志の共有化。そこで「乖離」が起こっていたこともありうる。

だとすれば、監督・コーチという指導陣の機能不全である。福島第一原発事故の原因として「不作為の指示」ではなく、東京電力経営陣の「機能不全」に着目する観点にも通じる見方かもしれない。マネジメント不在の無責任体制であったのかもしれない。リスクの存在に鈍感であり、言葉をきく相手の心の動きを察するだけのデリカシーがない無神経な指導陣であったとも言えるだろう。

これを単に「指導陣と選手の間に乖離」があったというだけでは、極めて表面的かつ皮相的である。M選手の記者会見で明らかにされたように、そこで使われた言葉が事実であれば(多分事実だろうと感じる)、言葉とM選手の行動に乖離の生ずる余地はなく、言葉は「指示」として聞く側が聞いたとしても自然である。ではなぜ、このような「異常な指示」を「意図することなく」行うという結果が生じたのか?

M選手の最後の「悪質タックル」をTV画面でみていて、小生は(自分が経験したわけではないが)太平洋戦争中に特攻で敵艦につっこむゼロ戦を連想した。あれもまた「同調圧力/指示/命令」はあったかもしれないが、自軍の兵を喜んで殺す作戦など最初からつくるはずがないという上層部の意図もまた同時にあったわけである。責任あるマネジメントはなかった。何かに対して狂信的な人間集団がそこになければ起こりえないことも時にはあるものだ。だから人は吃驚する。

これが非常に大事な本質的問題である。多分、これからは以上のような体系的な調査と分析が必要になってくると思われる。そんな調査を通して、スポーツにせよ、アカデミックな研究、教育の現場において、「乖離」や「ミス・コミュニケーション」が生じる可能性をなくしていく。やるべきことはそんなことだ。

まあ、月並みな言い方をすれば
負けて覚える相撲かな
事件や不祥事そのものは決して忌むべきものではない。

そこには必ず社会を改善するためのヒントが含まれているものだ。関係者を処罰して、「これでサッパリした」などというアプローチは最低の姿勢であり、「正義」を語る資格などはないと言える。

2018年5月25日金曜日

一言メモ: 「善意志」に基づく行動を認めるべきときとは

前稿ではこう書いた:
近代社会の哲学的基盤を整えたと言っても過言ではないドイツの哲学者エマニュエル・カントは『この世界で最も善なるものは善意志をおいて他にはない』と考えた。行為の受け身となった側の受け取り方よりも(こちらに着目すればアングロサクソン流の功利主義となるのだが)、本来、善をもたらしうるのは善意志をもって行為をする側である。意志の善悪に目を向けるこの哲理もまた真理であろう。善意志のもとに行為している側にハラスメントが認定されるとすれば、法と哲学が矛盾することになるだろう。
では、1931年9月18日の関東軍参謀・石原莞爾のように(真に?)国益を願って軍律違反の作戦を実行した場合はどう考えればいいのか? 国益を願っての行動は正に善なる意志によるのではないだろうか?

★ ★ ★

当時の日本国内のマスメディア大手は大半が軍の行動を支持した。国際協調の観点から軍の独走を抑えようとする内閣を「堕落している」と非難した。

事後的には満州事変がその後の日本の歴史を歪め敗亡への道を歩ませることになった。文字通りの一大転機となった。

善意志の善たる価値は、いわゆる「国益」であった。その国益を「純粋」に追及して行動に出た。故に、国民はその大胆さに感動の気持ちをすら覚えたのだろう。保身に身をやつす政治家とは対照的だった。

が、もしも国益が善なる価値であるなら、その行動が真に国益に合致するのか?これまた難しい判断だ、本来は。どのように判定するのか?

一つ言えることは、一部のエリート軍人に情報が独占されるのではなく、国民全体が考えるべきであった。エリートが判断するのではなく、国民が判断するべきであった。つまり全てのモラル的な価値は国民が共有するもので、少数のエリートが決めるものではない。故に、国際関係や中国情勢の正しい情報、海外からの反応、日本の国力等々、重要な情報をオープンにした上で、国民が国益に合致するかどうかの判定を下すべきであった。この意味で、<民主主義>というのは<善>をこの社会で実現するモラル的な基盤でもあると位置づけられる。「最悪だが、まだましだ」というような政治体制ではないのだろう。「民主主義」そのものの価値については小生はずいぶん懐疑的であったが(たとえばこれ)、最近になってだんだん変わってきた。

とまあ、ひとまずは考えておけば前稿の一言メモは完結する。

★ ★ ★

とはいえ、上の総括では十分ではないかもしれない。

「侵略」とは隣国に対する窮極的な国家的ハラスメントと言えるだろう。共存共栄の国際的理念に合致していることも、それが善なる目的に沿った行動であるかどうかの判定をするには大事な要点だったはずだ。

何が善であるか? 結局、この問いにまた戻るのだ。

カントは、「実践理性」なるものが全ての経験に先立って、最初から人間には備わっているはずだと考えた。その実践理性の働きを曇らせるものは、独断や後天的な慣習、教育である。

小生にもまだ分からない。

時間が出来たら読みたいと思う本があった。が、勉強したいことはどんどん増える。

日暮れて、道遠し

ハラスメントの防止は重要な社会的課題だ。しかし、難問だ。まあ、運用可能な法技術でとりあえず始めるのだろうが、最初は欠陥だらけのスタートとなるのは間違いない。

2018年5月22日火曜日

一言メモ: ハラスメントの概念が今後大きな問題になる。極めて難問だが。

狛江市政の紛糾は改めて書く必要はない。

ただ以下の事は言えるだろう:

現在、セクハラ、パワハラ等々、すべてのハラスメントは「言った方の意図ではなく、言われた方がどう感じるか」で認定される。これが(今のところ)原則になっている。

しかし、普段はA党を支持している職員が多い―役所の職員はもちろん中立であるが歴史や経緯からという意味。実際、市役所職員もまた個人としては投票権をもっているわけで支持政党というものはある―役所において、野党のB党から首長が当選し、それまでとは異なる方向の指示をしたとする。こんなことは民主的な地方自治では日常茶飯事だ。

首長の指示に対して、職員は従来の政策の流れを現状と併せて説明しようとしたとする。その説明を遮り、『私は当選したのだから、君たちの講釈を聴く義務はない!私の指示に従いなさい!』と言う。これまた日常茶飯事で、民主主義社会の維持のためにはこうでなければならない。

職員が不快を感じ、理不尽なパワハラだと感じれば、感じた側の感情がそのまま認められパワハラとして認定されるのか?

もしそうであれば、極めて不適切で認めがたい。

ハラスメントの認定は、言われた側の感情がきっかけになるとしても、その判定は民主主義や社会のフェアネス、公正、確かな公益の存在等々、より次元の高い理念を根拠として行うべきだ。

「お客様は神様です」というのは、なるほど極端なスローガンだ。しかし、社会主義時代の旧ソ連内の「店内」で働いていた職員たちのように、勤労する側の怠惰や協調不足、職務規律からの逸脱が認められれば、叱責され、指導されても、それはハラスメントではなく、公益にそった組織管理である。業務には一定のディシプリンが要るわけで、そのためのマネジメントを担当するのが上司である、定義としてはだ。

近代社会の哲学的基盤を整えたと言っても過言ではないドイツの哲学者エマニュエル・カントは『この世界で最も善なるものは善意志をおいて他にはない』と考えた。行為の受け身となった側の受け取り方よりも(こちらに着目すればアングロサクソン流の功利主義となるのだが)、本来、善をもたらしうるのは善意志をもって行為をする側である。意志の善悪に目を向けるこの哲理もまた真理であろう。善意志のもとに行為している側にハラスメントが認定されるとすれば、法と哲学が矛盾することになるだろう。


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行為の受け身の側の感情に着目したセクハラ、パワハラなどのハラスメントが大きな社会問題として注目されるようになった背景、というか社会的・歴史的条件として、冷戦の終結があると小生は思っている。敵対陣営が消滅し、自由で豊かな長寿社会が到来した。確かにネット化社会の中で新型の人権侵害現象も起こっている。しかし、基本的にハラスメントという問題のクローズアップは、意志なき調整型国家が到来しつつある兆候なのではないかと思ってみているところだ。ルール化の徹底は社会生活のスポーツ化、社会の無目的化、意志や目的なるもの、そういったものを押し付ける政治家への不信や反発を意味するものと思ってみているところだ。

以上、付け足し。


2018年5月20日日曜日

メディア(=大衆)と関係者たちの戦略ゲーム?

レバ・タラを議論するのはそもそも意味のないことだというのはその通りだ。

しかし、最近年の日本社会で顕著になってきたメディア主導の「社会的制裁」をみると、その特質を理解し、進行を予測する能力を磨いておくことは、非常に重要である。特に、組織マネジメントの地位にある人たちにとっては、メディアが演出する「世論」というか「群集心理(→経済では市場心理と呼んでいるもの)」をケーススタディで徹底的に理解しておくことが危機管理に必須の学習項目になってきている。

ケーススタディでは、前例を分析し、そこから今後に生きるメッセージを抽出することが主なトレーニング内容になる。レバ・タラを考えることは思考能力を磨くうえで格好のエクササイズだ。

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現在世を騒がしている「日大関学アメフト騒動」で日大側の視点からレバ・タラを整理してみよう:


  • 1回目のファウル(=悪質タックル)で直ちに選手を下げていたら。

試合直後に監督自らが関学側に謝罪に出向くことが必要だっただろうが、監督辞任に追い込まれることはなかっただろう。逆に言えば、何らかの計画的悪意があったならば、こうしていたはずであるとも言える。ということは、そのままプレーを続行させたこと自体、悪意をこめたプレーを計画的に指示していたという見立てとは矛盾している。日大側の言っている「偶発的」という表現は、日大指導陣の目線にたてば、一面の真相を表している可能性はある。


  • 2回目のファウルで選手を下げていたら。

1回目のファウルで一発退場になっていないこと自体、ラグビー、サッカー、野球など他の種目のプレーヤーの感覚からみると不思議であるそうである。『アメリカン・フットボールではあんなことは普通なのですか?』と聞く人もいる。アメフトをやっている人も『イヤ、イヤ、そんなことはないです』と応じているのだが、2回目のファウルで下げていれば、非難は1回目のファウルでプレーを続行させたレフェリー判断に向かっていた公算が高い。もちろんこの場合でも試合後に謝罪の意を関学側に伝えることは必要だった。ということは、逆に言えば、この時点で下げていないこと自体、悪意のある計画を実行したとは推察できない、という見方もある。つまり、何か隠したい悪意はなかったと、そう推察する余地もあるということだ。はじめから悪意があったのなら、あまりにも露骨に悪意的であり、愚かに過ぎるだろう。


  • 試合後ただちに謝罪の意を発言し、負傷した関学選手を見舞っていれば。

ラフプレーに対する非難はあったにせよ、関学側は謝罪を受け入れている状況であり、関学が記者会見を開き抗議をする事態にはならず、和解への道を進むことができたのではないか。今回の騒動のきっかけが関学側の抗議であるのは明らかだ。ということは、日大側にはそもそも計画的な悪意というものは最初からなく、故に悪意を隠すための体裁をつくる必要も感じておらず、そもそもが礼儀やマナーも二の次であり、相手に対するリスペクトもなかったので「この程度の事は謝る必要もない」と、タカをくくっていた、と。こんな見立ても可能かもしれない。


  • もし動画サイトもSNSもなければ。

『見ていた?』、『いや見てなかったなあ』ということで水掛け論になり、レフェリーがそのままプレーを続行させていたことでもあるので、うやむやに終わったに違いない。今回の騒動は、動かせぬ事実が誰の目にも明らかになるツールが存在しているという技術革新があって初めて起こりえた。そんな時代の特性が日大側にはピンときていなかったのではないか。選手の「想定外のプレー」が意外な騒動になり、しかも傷害事件とも指摘され、かつそれが故意であるというストーリーとあまりにも辻褄があう発言を選手にもしていたので、ついに対応に窮し立ち往生している、と。まあ、日大側の視点にたてばこんな見立てもできるかもしれない。

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今後の進展を予想しておく。当面は日大の監督は辞任するものの、兼務する常務理事の職には留まり、またアメフト部のコーチ陣もそのまま残留するということである。

予想の前に前稿にも書き記した部分を再掲しておく:
マスメディア、というよりマスメディアが煽る世間の群集は、法を運用する政府や法曹界のエリート達よりもはるかにスピーディに、実効性あるペナルティを、加害者である日大に加えるだろう。日本大学という巨大な私立大学が世間に対して無条件降伏の白旗を掲げるまで、世間の非難・攻撃は止むことはないと予想する。イメージダウンによる大学経営面の損失は莫大であろう。 
日本社会を律する規範は、すでに法律からモラルへと作用の重心が移りつつある。法曹エリートから大衆へと実質的な権力が移りつつある。この変化を日大は見るべきだ。

既に、メディアのターゲットは「日本大学」に向けられている。順に予想をリストアップする:

  1. 残留するコーチの氏名、前歴などがネットで公開され、特に「(反則を)やるやろな」と試合当日の朝、反則を行った選手当人に念を押したというコーチが先ずは炎上すると予想する。
  2.  上のコーチが世間の攻撃に耐えかねて辞めた後は順に一人ずつ氏名と顔がネットで公開されメディアによる攻撃の的となる。辞めた前監督の前に1年で解任されたT氏にも取材記者がインタビューを求めるだろう。解任前後の経緯も記事となる。
  3. 一斉にか、一人ずつかは分からないが、コーチがすべて辞める。
  4. マスメディアの標的は再び常務理事にとどまっている日大前監督U氏に向かう。併せて、日大アメリカンフットボール部自体の廃部を世間は「期待」し、求めはじめる。この時点で、当事者である日大にも関学にも、また大学連盟にもスポーツ庁にも事態は制御不能になる。
  5. 日大の前監督は常務理事退任を余儀なくされる。これが10月頃の時点になるか。
  6. 日本大学の運営そのものに世間の非難は向かう。アメフト部の存続だけではなく、アメフト部以外の部の内情に世間の目が向けられ、あらゆる不祥事が洗い出される。また、非難のターゲットは<暴力体質>を肯定してきた理事長にも移る。
  7. 日本大学の学内内部の派閥対立が週刊誌で繰り返しとり上げられるようになる。日大OB層は人数も多く各分野に分厚く存在する。人的ネットワークも多様である。状況は複雑化する。
  8. おりしも大学受験の志願を決める季節でもあり、大学経営面での打撃が云々される。

まるで太平洋戦争時の日本の戦略と同じである。同じ戦略をとれば同じパターンで敗北する理屈である。

一般に戦略ゲームにおいては相手の予想を超える大胆な行動のみが勝利をもたらしうる。量的に勝る相手に抵抗しながら一歩ずつ後退するという発想では最後には無条件降伏以外に選択肢がなくなり全てを失う。

・・・

この後に更に予想されるのは、他の大学の特に運動系部活動に残っている(かもしれない)暴力体質に世間の関心が向かうことだろう。これもまた洗いなおされてくると、日大以外にも打撃を蒙る大学が出てくるのではないか。事態がここまでに至れば、大学スポーツの在り方、教育と運動との両立の状況、授業出席・単位修得と練習時間との整合、スポーツ推薦、卒業判定等々、ありとあらゆる側面が民放ワイドショーの格好のトピックとなる。私立大学のブランディング・ツールと化している大学スポーツは混乱を極めるだろう。戦後日本でずっと常識として受け入れられていた(特に私立大学の)運動系部活動の在り方は根底から改革を余儀なくされるに違いない・・・そして、大学スポーツが一巡すれば、今度は特にスポーツ名門校と評される高校部活動の暴力体質、パワハラ、(それからセクハラ?)となる。・・・いやはや大変である。カオスとなる可能性すらある。

ちょうど韓国の文在寅大統領が五輪をきっかけに南北融和を進めようとしたところ、この先の進展が不透明になり、南北の当事者にも制御不能となる可能性があるのと似ているようでもあり、ちょっとした火遊びが大火事になるとはこの事だ。

***

もしも昨日の前監督の謝罪の直後、つまり本日の朝、日本大学の決定として「U氏とコーチ全員の解任・U氏の人事担当解除・学外関係者を含む調査委員会立ち上げ・アメフト部新体制編成への基本的な考え方」をパッケージとして大学が公表していれば、(その実際的機能はともかく)世間にはサプライズとなっていた(かもしれない)。

トラブル解決のオーソドックスな手順は激変しつつある。法曹専門家のテクニカルな発想では課題解決に失敗することが増えている。重要項目は<法的責任>ではない。<真のコミットメント>になってきた。空虚なポーズではなく<背水の陣>をしく覚悟が求められている。もやは<調整>の時代ではない。起きているのは<サバイバル>のための闘争である。負ければ損をするのではなく消え去るのである。実に厳しい。理屈よりも意志が決定的に重要なのだ。そんな時代になってきていることを見なければならない。

『・・・すべては私の責任でございます』ということはコーチの責任ではない、故にコーチは留任してもよいのだという論理は法律的な三段論法であって、いかにも弁護士好みの立論だ。しかし、トラブルが社会化されたときの戦略ゲームでは、法的ロジックではなく、社会心理に受け入れられるかどうかで勝敗が決まる。

解決のためのルーティンが日本では変わりつつある。これが善いことなのかどうか小生はまだ判別がつかない。良い面も悪い面もある。稿を改めて書きたい。








2018年5月17日木曜日

メモ: 日大の突然の「炎上」で感じること

関西学院/日本大学のアメリカンフットボールの試合において起きたラフプレーは録画を見る限り、明らかに傷害事件の域に達しているほどの異様さがある。

この行為については、まだ日大学内において調査中であるのだが、既に無数の感想・解釈が公開されている。

ここでは掘り下げないが、憶測はある:

傷害行為とも受け取られる行為を日大選手がしたこと自体は明らかだ。弁明のしようがない。しかし、日大側の監督など責任者が被害者側に直接に謝罪をしたという報道はない。多分、世間の動きをみて、結局は行くだろうが、遅すぎる。

憶測なのだが、日大側は顧問弁護士あたりに事件への対応方を相談しているのではないだろうか。もしそうであれば、危機管理失敗への第一歩となるだろう。最近年の日本社会では弁護士が得意とする法律論からトラブル解決への道を探る議論は失敗することが多い。

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先般の財務省事務次官、女子レスリング界で生じたパワハラ・トラブル、その他のイジメ・パワハラ・セクハラ事案一般、(更には森友・加計学園問題もそうかもしれないが)これらに共通している点は、当事者、特に加害者・責任者だと目される側が、自身の「法的責任」をまず明確化するという発想では、最近年の日本社会ではトラブル解決に成功していないという現実がある、ということだ。

なぜなら、事件を報道するマスメディアへの当事者の対応に世間が反応し、双方が相互に反応している中で世間の群集心理がバブルのように形成・拡大されてしまう。その結果としてトラブルを解決するルールであるべき法律をはるかに上回るスピードで世間の「社会的制裁」が「加害者」と目される側に加えられてしまうからである。

前の投稿でも何度か述べているが(たとえばこれ)、現在の日本社会でトラブルを解決する際に、まずは双方の法的責任を明らかにし、それに基づいて法治国家にふさわしい合理的な解決を導くという「公式ルート」は現実には機能しなくなりつつある。法治国家がもっている正当なプロセスが機能不全の状態に陥っている。全面的にでないにしても、確かにそう言えるところがある。これにはマスメディアの姿勢に責任の大半があると何回かの投稿に分けて述べたところだ。

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日大側は、本事件の処理に関して、法的ロジックから対応方法を議論しているのではないかと憶測する。だとすれば、非常に拙い。問題は解決できまい。テクニカルな法律的思考では状況をむしろ悪化させる可能性を考えておかなければならない。結果として日大は失う必要のないものまで失うだろう。

マスメディア、というよりマスメディアが煽る世間の群集は、法を運用する政府や法曹界のエリート達よりもはるかにスピーディに、実効性あるペナルティを、加害者である日大に加えるだろう。日本大学という巨大な私立大学が世間に対して無条件降伏の白旗を掲げるまで、世間の非難・攻撃は止むことはないと予想する。イメージダウンによる大学経営面の損失は莫大であろう。

日本社会を律する規範は、すでに法律からモラルへと作用の重心が移りつつある。法曹エリートから大衆へと実質的な権力が移りつつある。この変化を日大は見るべきだ。

それが正しいかどうかを言い立てても意味がないのだ。情報がネットを瞬時に流れる社会ではこうなるのだ。そういう現実が観察されつつある。生活、金融、製造現場等々、あらゆる場面において進行している多くの社会的変化の中のこれまた一つの断面なのだ。そんな社会的変化への<不適応>の一例として日本大学の名前が残るなら、いささか残念である。

これは確かに憲法でも禁止されている「私刑」に違いないと小生は思う。が、政府にもどこにも止められる主体はないのが現実だ。そんな時代が到来している。

2018年5月15日火曜日

クウェスチョンマークや「ではないでしょうか?」で終わる文章は「報道」の要件を欠く

職業柄、アカデミックな論文を読むことも多かったし、愚作ではあれど自論文をサブミットしたこともあった ― サブミットした論文がアクセプトされた時の強い喜びを学生への教育活動で同程度に感じられる機会はそう多いものではないのが現実だ。この点で亡父からきいた戦前期の「大学」と今とはまったく状況が違う。

・・・いや、いや、大学論や学生論が本日投稿の主題ではない。

***

論文でもクウェスチョンマークを使うことはある。ただし、それは論文のイントロダクションで使うことがほとんどである。たとえば、"Problems to be answered are as follows:"などという表現は英語の拙い日本人には定石的文章になっている。このあと、箇条書きで疑問文をリストアップするのだ。

その後は本論になる。そして本論に入ってからは、クウェスチョンマークを使うことは、よほどの修辞的文章でなければまずはなく、すべて記述的な平文でデータに示された事実や論理的に得られる堅い推論を飾りなく述べていくのが鉄則だ。二重否定や修辞的な反語的疑問文は逆効果である。

事実やデータ、実験結果を示して何かを結論付ける、何かを提案する以上は、「・・・ではないでしょうか?」と言うのは禁物だ。まあ中には「予想」を述べる場合もある。が、学問上の「予想」というのは「理論的には・・・であると結論され、今後のデータによってそれが正しいことが確認されるものと予想する」。これが趣旨である。予想とはいえ、理屈としては結論を述べているのだ。数学的な「予想」もほぼ同趣旨だ。証明はまだ得られていないが、これまで得られた結果をみれば、このような結論が証明可能であるはずだという確信を述べたものだ。

『・・・ではないでしょうか?』、結論がこんな風では「今回公表する必要はあったのでしょうか」と逆に指摘されるのが落ちであって、何かを提案する以上は『・・・とするべきである、何故なら・・・』と主張するのがよい。データがあるなら「・・・であることが明らかになった」という具合に結論を明確に示さなければ論文の体をなさない。

***

報道機関が何かの報道をするとき、以下のようにしてくれれば、ずっと目に入りやすくなる、また聞きやすくなるだろう:

  1. 疑問文を結論部分には置かず、また極力、反語的疑問文は用いない。
  2. 文章中のクウェスチョンマークは不使用を原則とする。

言葉の定義上、事実を相手とするのが報道である。「・・・ではないでしょうか?」とどうしても語りたいなら、根拠とともに「・・・であると思われます」と、少なくともこの程度の断定はするべきだ。でなければ、伝えていることが信頼されることはない。

まして『・・・と疑われます』などという表現は論文では使ってはならず(序論の部分で旧説への懐疑を示す下りならまだしも、本論で使えば何も研究していないのと同義である)、報道としても限りなく失格に近い、と感じるのだ。これは、その人の意見であり、意見である以上は「個人の責任においてそう思う」と言明する一言が必要である。というか、意見を報道と称するべきではなく、政府から割り当てられた電波を利用して自己の見解を独占的・一方的に述べるのは機会の平等に反する。

『・・・は不明のままです』や『・・・という謎が残ります』という表現も、「報道するべき今後の課題宣言」としては分からないわけではないが、個人的にはタブーとする方がニュースレベルが保たれると思う。が、あれはダメ、これもイカンと言うのでは、一切のニュース解説は無意味にもなりかねず、ここでは掘り下げない。

ずっと以前のニュース番組では、キャスターは(念入りに推敲されたのであろう)ニュース原稿を読み上げていたが、いつの間にか、原稿なしで(自由に?)事実について色々と話すようになった。そして、いつの間にかニュース番組が「放談番組」に近づいてしまった。ずっと昔になるが、細川隆元と藤原弘達(小汀利得が初代)の二人の談義は『時事放談』とタイトルを打っていただけ良心的であった。確か、TBS系列だった。立場や主義が違うにせよ、ハイレベルの批判は批判される方もファイトが掻き立てられる。何にせよ、だ。意気に感ずるのはこういう時だ。みんな小粒になったから「放談」とは名乗らずに中身で放談をしちゃってる、と。無免許運転にも似ているかねえ・・・時代が変わってしまったといえば、それまでのことか・・・。



2018年5月14日月曜日

メディア企業による世論調査の質問設計で一つの疑問

今朝の朝刊に共同通信が実施した内閣支持率調査の結果が掲載されている。

それによると、安倍内閣への支持率はなお30%台(=40%弱)ながら前回より微増。半面、不支持率はまだ50%を超えている。「踏みとどまっている」というコメントがつけられていた。

また、次の総理に誰がふわさしいかという質問に対しては、小泉進次郎氏が初めてトップになったということだ。2位が石破氏、安倍現総理は3位であったよし。但し、自民党支持層に限れば安倍氏の支持率が40%となり、小泉氏の20%のほぼ倍となっている・・・と、そんな解説がつけられている。

「???」、が小生の感想である。

***

調査の質問は次のようでなくてはロジックが通らず結果の解釈が難しい。

質問〇〇: 与党を支持していますか、野党を支持していますか?
( )与党(自民党・公明党)
( )野党(その他の政党)

質問□□: 上の質問で与党を選んだ方に質問です。次の総理大臣に誰がふさわしいと思いますか?
( )安倍晋三現総理
( )石破茂議員
( )小泉進次郎議員
( )山口那津男(公明党代表)
( )その他(具体的に名前をお書きください:       )

質問◇◇: 質問〇〇で野党を選んだ方に質問です。次の総理大臣に誰がふさわしいと思いますか?
( )玉木雄一郎議員(希望の党代表)
( )大塚耕平議員(民進党代表)
( )枝野幸男議員(立憲民主党代表)
( )その他(具体的に名前をお書きください:       )

当たり前の質問設計であるので、こうなっている(のかもしれない)、とは思う。

質問〇〇では敢えて「支持政党なし」は入れていない。与党を支持するか、野党を支持するか、ロジックは二択である。質問□□と◇◇で未回答は「該当者なし」と解釈される。

野党を支持すると回答していながら、次の総理大臣にふさわしい議員として自民党議員を回答するというケースは、解釈が難しくなる。実際、共同通信社の調査ではこんなケースが大量に発生していると推測できる。

野党を支持するなら野党議員の誰が次の総理大臣にふさわしいと考えているのかを先ず回答してもらうのがロジックだ。

そう質問しなければ「支持している政党」という語句の意味するところが曖昧になってしまう。

***

いずれにしても、次の総理大臣にふさわしいのは誰かという質問で、小泉進次郎議員が首位となったのは「野党支持層」を含めての数字であるのは明らかだ。

が、自民党議員が総理大臣になりえるのは、自民党(+公明党)が議席の過半をとったときだ。その自民党支持層では安倍現総理がダントツで支持されているのが事実なら、基本的な流れは安倍政権継続という結論になるのではないか。首班指名で自民党議員は自民党総裁に(ほぼ確実に)票を投じるのだから。流れはこう見るべきだろう。

どうも小生が昨年春に投稿した予測は外れそうな状況になってきた。

まあ、自民党支持・安倍非支持+野党支持が結託して、安倍現内閣支持勢力を上回るという可能性もあるのだが、上のような記事からこれを読みとれというのは、素直な伝え方とは言えまい。データの解釈において、可能性を探るような読み方は(ある意味)タブーである。まずは素直に読みとることが大事だ。

世論調査に限らずデータ分析を行う時には、自らの意見は封印してニュートラルな姿勢にたつことが非常に重要だ。

★ ★ ★
話しはまったく変わる。

「セクハラ」についてはこのところ相当集中的に投稿していて、これまた昨今の世相そのものだと思うのだが、色々とネット上にある投稿を読んでいると、セクハラに悩む(特に)女性勤労者は非常に多いということが分かる。

ただ、どうなのだろうなあ・・・

訴えられている辛さや悲しみは、その人がまさに女性であるためだと思わざるを得ず、だからこそ「セクハラ」ということになるのだが、訴えられている内容は「仕事の辛さ」、「理不尽な処遇」、「職階の上下関係のやり切れなさ」、等々であるようでもあり、もしそこから「セクハラ」的側面をとってしまえば、そのまま男性若手勤労者にも当てはまる、同じような辛さでもある。男一匹生きてりゃあ、そんな逆境は幾らでもあるだろう、女一匹だって同じさ、と。そういう感懐をも持ってしまう。これまた事実なのだ、な。

そりゃあ仕事になると、何だって辛いもんだぜ・・・そうそう簡単に人様からカネをもらえるわけないだろが。会社に入って楽ができるって思ってたのかい?  仕事なんて楽しいもんじゃないヨ。お客様は神様だし、モンスタークレーマーだっている、大体、上司と波長が合うなんて、そんな年は何年あったかなあ・・・そんなもんさ、あとはフンって感じよ。砂を噛むような毎日さ。前にもいったろ? 仕事で幸せになろうなんて考えちゃ駄目だヨ。命をとられずに、カネをくれるだけ、運がよかったくらいに思うこった。でなけりゃあ、辛い仕事、やっていけねえぜ。楽しみを別につくらねえとな。土台、仕事なんて行儀よくなんて言ってちゃあ、勝てねンだよ。戦争に負けてよ、日本がアメリカやヨーロッパに馬鹿にされながら、それでも仕事でうまいこといったのはヨ、とことん行儀悪くやったからだって。それを今になってヨ、仕事は上品に、優雅になんて言ってよ、中国や韓国はどんどん情け容赦なく日本から何もかも獲っていこうって、そんな時代だろ。あっちはあっちで行儀のギョの字もなくやってるよ。そんな戦争みたいなマーケットでよ、お行儀よく営業なんてできねえぜ。裏じゃ相手の股グラ蹴り上げてんだヨ。自分の会社の中はお上品になんて言ってもヨ、そりゃただの自己満だろうが。サービス残業とか、横流しとか、犯罪色々ある中でよ、ああ言われた、こう言われた位で、社内で紛争起こしてちゃあ、肝心の会社がそのうちつぶれちまうんじゃないのかい?

そんな苦言、というか叱責、指導・・・いやあ小生も年だネエ。そんな感じがしてしまう。

2018年5月12日土曜日

メモ: セクハラ防止で盗聴社会になるかもしれない日本の社会

別の話題が頭にあったのだが、本日は(最近の世相を象徴するような記事があったので)メモっておきたくなる事が出てきた。

今朝の朝刊で記事になっていたのだが、自民党に所属する某国会議員が(想像するに)次のような趣旨の挨拶、というか祝辞を結婚披露宴で述べているそうだ。

前略・・・ええ、昨今の少子化・高齢化が進む日本の未来を少しでも明るくするためにも、是非! ご新郎、ご新婦のお二人におかれましては、できればお子さんを二人、いや必ず三人以上は(笑い)、おつくりになって育てられて、先達から受け継いだこの私たちの日本という国を、次の世代へと伝えていっていただきたい、【少し取り乱して】あ~、エエ~、つい私の日頃の職業病が出てしまいまして、ご列席の皆様のお耳を汚してしまいましたなら平にお許しをいただければと存じますが、世の中にはお子さんが欲しいと思ってもさずからないご夫婦もいる、人様の子供の税金で老後を送る、私はやはり考えていただきたく、若くこれからの日本を支えるお二人には乗り越えるべき問題として意識していただきたい、日ごろからいつも感じているものでございますから、こうしてお話しさせていただきました。ご新郎、ご新婦のお二人には是非実りある人生を歩んでいかれることを心から願っている、そんな私の気持ちとしてお受け取り頂ければと存ずる次第であります・・・云々
これが問題となった。「結婚式で『必ず三人以上の子供を産んで欲しい」と呼びかけている」と報道されている。正直、噴飯というか、吹き出してしまった。親戚の甥や姪であれば分からないが、まあ人様の結婚式に招待されて、小生ならここまでは言わないネエ・・・とは感じる。

首相の所属する清和会(というのが報道の動機であったのだろう、まあ、小生の感性にも合わない政治グループではあるが)、そこの会合で某議員がそんな話をしたそうである。それが、どうしたことか、リークされてしまってマスコミの記事となり、議員は発言について謝罪をする事態にまで追い込まれてしまった・・・。まあ、当の議員は今回の騒動をもネタにして、同じ趣旨の挨拶をして、披露宴の客を喜ばせることだろうが・・・。

細かな言葉づかいは分かりようもなく、実際に披露宴に招待された来賓客のスピーチを無断で録音する不作法な人がいるとも思われないのだが、大体は上のような挨拶をしているのではないだろうか ― 議員という人たちは挨拶慣れしているので、市販の「挨拶百選」にも掲載されているような文例に近い言葉づかいであることが多い。

それにしても、

いかに国会議員という公職であるにしても、結婚披露宴の来賓祝辞という名目で語っているというその言葉がオープンになり、それが問題化し、謝罪、撤回する事態となっている。決して話してはいけないことなのだろうか・・・?小生は、正直なところ、そう思った。

国会議員は自分の思っていることを、私的な席でも語ってはいけないのだろうか?禁止されているのだろうか?結婚披露宴は一般大衆とは無関係の純粋の私事、プライベートな空間である。そこで聴いている人たちが好いと思えば好いのではないのか。もし好いと思われなければ、議員個人が嫌われるだけの話ではないか。そこまでの話にするべきことである。

このような世相の延長上にあるのは、個人の生活にも公益を名目とした盗聴が入り込む可能性だ。

「セクハラ防止」という社会的目的は、盗聴やプライバシーの侵害をも打ち消すほどに優先されなければならない目的なのだろうか。極めて疑問である。

セクハラ防止が実行されなかった従来の日本社会は別に崩壊はしていない。それどころか、発展して、非常に洗練された文化をつくって、日本文化が世界市場で利益になる時代すらやってきた。が、盗聴や個人の自由の侵害を許すような社会が到来すれば、戦前期に経験したような恐ろしい社会になることは確実である。そこでは公益が万能であったのだ。公益を振りかざす社会ほど怖い社会はないということを、日本人は勉強したはずなのだが。

メディア産業の各社は本当にそう思っているのだろうか?

「公益」と「善」とは別物ですよ。公益に奉仕するものと信じて行動したところが、実はそれは悪行であった・・そんな事例は無数にありまさあネ。私たち日本人だって戦前期ニャア、そんなことをやらかしてましたよ。エッ! 覚えてない? 聞いたことがない? 忘れちまうには、まだ年数、たってないでしょうが。そう思いますがネエ・・・。ホントに、あなた方、大丈夫でンすか?

どれほど不愉快に感じようとも、人の話しはその人の話しとして聴いた方がよい。世の中そんなものだ。金正恩がどんなに嫌だろうと話を聞かないわけにはいかないだろう。嫌なことは聴きたくもない。そのような態度は国全体を変な方向へと導くものである、と。小生は、そう思うのだがネエ。

2018年5月11日金曜日

ハラスメントに満ちている古典作品

これまでにも『徒然草」はハラスメントに満ちていることは話してきた。本ブログにもこんな投稿をしている。

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人生は短いとよくいう。しかし、時間が長い、短いという感覚は人生の平均的な長さから決まっているにすぎない。小生は人生は十分に長いと思う。『徒然草』第7段の有名な下りに以下のような文章がある。

命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

(出所)http://roudokus.com/tsurezure/007.html

小生思うのだが、いま小中高校で上の文章を授業でとりあげれば、高齢者に対するハラスメントになるのではないかと憶測する。

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『高齢者は世の中を貪りながら生きているようで、あさましく見苦しい』などと中傷しているのであるから、これは立派なエージ・ハラスメントだろう。数ある日本の古典作品からわざわざ『徒然草』を選んで授業の場で解説するのは思慮にかける・・・いずれ、近い将来、いまの世間の流れをそのまま伸ばせば『徒然草』が教育の場から駆逐されるときも近い。

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ゲーテが晩年に出した詩集『西東詩集』(Westösthieher Divan)の中に「観察の書」(Tefkir Nameh)があり、更にその中に「別の五つ」(Fünf Andere)がある。次の詩句は小生のお気に入りになっている。

前後は省略する:

あんなに誠実であったのに、
わたしはあやまちを犯した。
それで何年も何年も
苦しみぬいた。
それでよいとも言われ、だめとも言われた。
これはいったいどういうことだ?
では悪人になってやれと思い、
せっせとその役にはげんだが、
どうにも性に合わなかった。
心をちぢに裂かれただけ。
そこで思った、誠実なのが
やはり一番だと、
どんなにみじめであろうとも、
それがやはり確かなことだ、と。

つまり、誠実であるのが人生を歩むうえでは最良の選択なのだが、みじめであることも十分に覚悟せよ、ということだ。

モラルとして善いことをしているのに、こんなに惨めで不幸せなのは許せない、というのは特に最近の日本社会では支持されそうなアピールなのだろうが、これほど甘口で非現実的なクレームはないわけだ。人生の味は塩カゲンがききすぎている。

ゲーテの洞察力が息づいているようではないか。最近のテレビドラマの表現を借りれば「濃密な人生をおくってきたもので・・・」と言いたいかのようだ。

ただ、上に引用した部分の少し後でゲーテは次のようにも詩っている。

女を扱うにはご用心!
女は曲がった肋(あばら)から創られた。
神さまもまっすぐにはできなかったのだ。
撓めて(ためて)直そうとすれば、折れてしまう。
かまわずおけば、いっそう曲がる。
おい、アダム殿、これよりひどいことがあるか?―
女を扱うには用心せよ。
うっかり肋(あばら)を折れば、ひどいことだぜ。
う~ん、やはりセクシャル・ハラスメントかな・・・ やはり詩人ゲーテがおくった「濃密な人生」から得られた教訓か。

日頃、カミさんと付き合っていて、小生は実に納得できるのだが、この詩句の内容は最近の世の中では「これって、セクハラね」と判定されるだろう。まず間違いあるまい。かくして、ゲーテの古典的詩集もセクハラの疑いでお蔵入りすると予想される。

大体、バイブルからしてセクハラの疑いが濃厚なストーリーであるし、ギリシア神話もまた性的差別に満ちている。学校教育には不適切だと判定される可能性大だ。

***

真正のジャーナリストと呼ばれるからには、古今東西の古典に通暁し、現代世界への深い洞察眼を持ち、併せて清濁まじえた豊富な人生経験をも有していないと、人様にお金をもらってまで読んでもらえる文章は書けないと思うのだが、いくら二流三流未満だとしても「それにしても無教養だな」と感じる時が増えてきた。その根本的理由って、「だって古典作品はセクハラになることが多いし、授業とか入試問題には出てこないんです」。案外、これが理由になっているのかもねえ・・・。いや、これは想像のしすぎか。

ま、しばらくはこんな風潮が続くだろう。


2018年5月9日水曜日

セクハラと国民の敵に関する雑談

民進党のK議員がジョッギング中に自衛隊統幕に所属する3等空佐と遇会。その際、『国民の敵だ』との暴言を浴びせられたという事件はまだ記憶に残っている。

自衛隊内部で調査が完了し、このたび処分が下されたということだ。当該3佐は「国民の敵だ」と発言をした事は否定。ただ、『国のために働け』とか、『馬鹿なのか!』という言葉を発したことは認めているよし(道新によれば) ― 感性にもよろうが、こちらの方がもっと暴言的であろうとは思うのだが。

下った処分は「訓戒」。要するに、「いけませんよ、もうこのようなことをしてはなりません」という程度の叱責となった。今後の昇進にも影響はないだろう。

当然ながらK議員サイドは「処分が軽すぎる!」、「自衛隊の文民統制が危機に陥っている」と激高していると伝えられているが、この件、カミさんにも話したのだが:

小生: 「ダメだよ、そんなこと言ったら」っていう程度の軽い処分になっちゃったそうだよ。 
カミさん: だって言っただけなんでしょ? いいんじゃない? 言われても仕方ないし・・・ 
小生: まあ、最近の民進党、っていうか野党の面々をTVでみてるとネエ ・・・・・・ でもネ、「国民の敵」とまで言うかなあ、というか、そうは言ってないと当人は否定しているらしい。そうじゃなくて「もっと働け」とか、「馬鹿か」と、こんなことはどうやら言ったらしい・・・まあ、「お前たち、バカか!」っていうのはネ、機会があったら言ってやりたいってサ、よっぽど強く思ってたんだろうけどねえ。 
カミさん: そう思うんなら言っても良いんじゃない?国民なんだから。
小生: それが自衛隊法っていうのがあってね、「自衛官たるもの、政治的行為をしてはならない」って書かれているの。それに違反するって国会議員は怒ってるのさ。
カミさん: でも言いたかったんだよ、直接。 
小生: 民進党、っていうか野党は、ホント、創造力っていうか、クリエーションっていうか、作り出すってことになるとそんな能力のかけらもないグループだからねえ・・・馬鹿か位は言われても当然か・・・ 
カミさん: でも言われた方は怒ってるんでしょ? 
小生: 激怒、激高さ。本当のことを言われたから余計に腹が立ったのかもしれないけどね(笑)。

・・・別の話題もあったのだが、それはまた本日投稿の後段に。

ただ、思うのだ。1931年に満州駐屯の関東軍が突如として満州事変を現地の独断で始めた時、東京の内閣、首相、外相、陸軍大臣、参謀総長など、政府の上層部は一致して現地の暴走を止めようとした。今上天皇も歴史を振り返るとき、「満州事変以降の」という表現をよく使われている。それまでの国際関係重視の日本外交を根本から突き崩してしまった「現地の暴走」が満州事変であったのだが、意外や当時の日本国民は満州事変と作戦を主導した石原参謀を歓呼して称賛したのである。「最近の内閣は酷いからねえ」、「最近の政党はどこもかしこもなっちゃあいない」、「これでスカッとした」と言いたい気分が社会心理として形成されてしまっていたのだ。「陸軍の一大不祥事」というより、国民の欲求不満を解消する一服の清涼剤として受け止められてしまった。少なくとも、そんな群集心理に迎合するような記事を大手マスコミは書いてしまった。ここで「あなた達が間違っている、これは軍律違反なのだ」と声を一つにして国民の群集心理にブレーキをかけていれば、その後の日本の歴史の進展は別のものになっていただろう。

翌年、首相公邸に押し入り犬養毅首相を拳銃で狙撃して暗殺したのは海軍の三上卓中尉とその一党である。首相暗殺を目指す彼らは第1陣9名が2台の自動車に分乗、それぞれが首相公邸の表門、裏門を押し入り、客間で首相本人を取り囲み、「問答無用、撃て」との命令一下、銃弾を首相の頭部左右両側に発射したものである。第2陣、第3陣を併せた18名は事件後に憲兵隊本部に自首した(Wikipediaによれば、他にも一味がおり、後になって検挙されている)。全体が計画的テロであった。

この時も、国民の大多数は純粋な青年将校が堕落した政党政治に一撃を与えたと、むしろ称賛を口にし、裁判に際しては多数の減刑嘆願書が全国から寄せられたと記録が残っている。

その後の歴史は周知のとおりだ。

こうしたことも考えると、「言われても仕方ないよねえ」という今朝のカミさんとの会話は本当は極めて危険なやりとりになるかもしれないと、そう思った。

やはり、何と言っても国会は憲法で定められた国権の最高機関である。自衛官たるもの、相手が国会議員であると分かっていたのであれば、リスペクトの姿勢をとるべきであったろう。与党、野党を問わず、である。

今回の軽度の処分が後難をもたらさなければ幸いだ。

「文民統制」とは要するに「統制」である。上の意志に下が従う、という意味に結局はなる。ここの基本において戦前期の日本は本質的な間違いを犯したのである。「それは分かるような気がする」などと言っているようでは、最も重要な統制がとれない。それだけは言えるのだ。

***

実は、上のやり取りの前にこんな会話もしていたので、メモっておこう。まあ、くだらない話ではある。

小生: ずっと前に『おっぱいバレー』っていうサ、綾瀬はるか主演の映画があったでしょ。あれって、タイトルから、ストーリーから全編これ、セクハラだよね。 
カミさん:そうだね 
小生: 今なら作れないよ、あんなのは・・・て言うかさ、その頃は「巨乳」とか「貧乳」とかそんな単語も世の中にあふれてたし、民放はどこでも使いまくってたよねえ。ドラマでさ、『山おんな壁おんな』って言うのもあったねえ、フジテレビだったかな? 
カミさん: そんなこと言ったら、ずっと昔は「ボイン」って・・・ 
小生: 大橋巨泉だったねえ、朝丘雪路にね(笑)。『あの女、いいケツしてンなあ、ナッ!』って、石原裕次郎だったか、加山雄三だったか、言わなかったっけ? 
カミさん: みんなそうだったんじゃない、品ないけどね 
小生: 実に品がなかった!(笑い)でも、女性だって、「あのハゲ、ほんと、腹立つのよ」とか、それを聞いた友達が「腹が立つって言ったらさあ、うちの鬼ババ、あれ気狂い(キチガイ)よ! きいてきいて」とか、こんなやりとりもあったんじゃない? 口喧嘩をしたら、ハゲとかババアとか、死に損ないとか、半魚人、妖怪、モンスターとかさ、この位はどんどん言ったよねえ。言えば言われるけどね。それが今はっていうと「それ、犯罪になります」か・・・いやあ、世間っていうのは、すごい速さで変わるもんだなあ・・・巨乳とか、貧乳とか話していた頃からまだ10年くらいしかたってないんだよ 。あまり速くて着いていけんなあ・・・ご隠居になってよかったよ、ホント。ずっと現役やったら、いつか俺も捕まるヨ。晩節を汚したって言われるのが落ちサ。
カミさん: 確かにネエ、最近はちょっと過敏症だよねえ・・・
前の投稿の一部分を再掲しておこう。

社会が一方の極端にいけば、必ず反動がおこる。「被害者づら」という言葉がもしも万が一流行すれば、日本社会は進歩から退歩へと局面が転換する。そうなれば一定期間、世間は現在とは正反対の方向に突き進むと予想される。そんな不安定な社会を安定させるために法治国家というモデルがあるのだが、残念ながら、最近の日本社会は法よりも群集心理と群衆を顧客とするメディア産業企業によって動かされているようだ。

前稿ではマスメディアは少なくとも「法治国家の敵」とまでは既に呼べるのではないかと書いた。「民主主義の敵」とまではまだ言えないのじゃないかとも書いた。

今のところ、国会議員に暴言を吐いた3等空佐を擁護するような記事はない。が、仮にもし、自衛官の方を 擁護するような報道をするとすれば、文字通り戦前期・日本の繰り返し、マスメディアは「民主主義社会の敵」として役割を果していくことになるだろう。

「報道の自由は民主主義社会の不可欠の構成要素」という理念は、本当に求められているジャーナリズムが提供されつつあるのかという、そんな毎日の検証に耐えることで、はじめて具体的現実性を持ち始めるのだ。堕落したジャーナリズムは「民主主義社会の敵」にもなりうる。人間が善人にも悪人にもなりうるのと同様、マスメディアもまた善にも悪にもなりうる。そんな認識に立つことでマスメディアの側にも国民と相対しているという緊張感が生まれよう。己(オノレ)の正当性を妄信するのではなく、常に自問自答する動機ができるだろう。無軌道な行為をすれば自己批判をためらわないだけの誠実さを持てるだろう。それは良いことに違いない。

2018年5月7日月曜日

セクハラ救済 < フェアネス、だと思うが

英国の作家サマセット・モームの"The Summing Up"(要約すると)の中に次のような下りがあったはずである。
人の落ち度には厳しくとも、自分の落ち度には甘くなるのは、その時の事情を自分が一番よく知っているからである。
この文章が小生は大変気に入っているのだ、な。特に最近年の日本社会を見るにつけそう思う。明らかに小生が若い頃の時代とは変わってきている。ありていに言えば、思考力に欠けた低能社会化現象が目立つ。世論は本質をはずし皮相的になり、寛容さがうすれ、非寛容が大手をふっている。

★ ★ ★

大手芸能事務所の山口某が自身のセクハラ行為で契約を解除されようと、無期限謹慎のままでいようと、日本経済にも国民生活にも何も影響はない。なので、「社会的影響も考慮し」と言われつつも、それは「多くの人の関心を集めており」という意味合いでしかないのが現実だ。

であれば、<とりあえず厳罰に>というのも分からないではない。厳罰を課すことの社会的コストはゼロだから。世間はそれを十分わかっているのだ。一体誰が山口某の人生をまじめに考えるだろうか。所詮は他人事なのだ。

しかし、処罰感情には<正義を主張する快感>のほかにも、群衆の持つ「決められる快感」、「報復できる快感」、「支配できる快感」が混じっていることが多い。もし後者の劣情のほうが半分以上を占めていれば、無法社会がもたらされるだけである。

最初の政治哲学者とも呼ばれる英国のトーマス・ホッブスがいう「万人の万人に対する闘争("Bellum omnium contra omnes" = "The War of All Againt All")。まさにこれである。ホッブスは、原初状態の人間社会をモデル化する概念として「無法社会」を提示し、これを解決するための政治的ツールとして「社会契約」と「法治国家」の重要性を結論付けたのだが、まさか日本社会で逆向きの群集心理と社会的制裁がまかりとおるようになろうとは、小生にとってまったく想定外の成り行きである。

★ ★ ★

足を踏まれたからと言って、相手を殴れば、最初に足を踏まれた側はもやは被害者ではない。町のならず者に殴られたからと言って、得意の空手で相手を骨折させてしまえば、被害者というより加害者である。

セクハラ救済も社会では大事だが、社会で最も重要な規範はフェアであるかどうかではないか。

昔から「因果応報」という言葉があるが、まあ同じような意味合いだ。人間の行為には行為に応じた結果がもたらされるという確信がなければ、人たるもの、人間社会をどう信頼すればよいのだろうか。

故に、被害を超えた報復が加害者に対して結果として社会で行われてしまえば、被害者は単なる被害者としての立場にいつづけるのは難しくなるという理屈になる。

具体的に書いておく。相手に嫌な思いをさせたのなら、自分もまた嫌な思いをさせられても仕方がない。相手を殴ったのなら自分もまた殴られても仕方がない。人を殺害すれば、自分の命を奪われても仕方がない。3千5百年余り昔のハムラビ法典に提示されている「目には目を、歯には歯を」はフェアネスの原初形態である。これによって過剰な制裁が禁止され止めどもない復讐が不正義となった。正義がフェアネスとして表れるという"Justice as Fairness"の観点は現代に生きるロールズよりも実はずっと遡り、ソロモン王の昔まで辿ることができる。已むに已まれぬリベンジもフェアであることが求められるのである。嫌な思いをさせられたから相手を破滅させるのは不当である。もしこれをやれば過剰制裁となる。過剰な報復を望む被害者は既に加害者に転じていると解釈されても仕方がない。被害者に同情する社会が同じことを望んでも同罪である。小生はハッキリとこう思うのだ、な。

なので本日の表題を決めた。

★ ★ ★

小生の専門分野は将来予測であるので、予測はほとんど趣味と言ってもよい。1~2年以内に日本社会で流行する言葉を予測しておこう。それは「被害者づら」という言葉である。

どこかの週刊誌で、誰かが記事を書いて、それをどこかの民放で、誰かがその言葉を使う・・・そんな展開があるのではないかと予想している。

よくまあ、イケシャアシャアと、「被害者づら」をして出てこれますねエ・・・その後の成り行きをみれば、「実質加害者」と言ってもいいんじゃない?こんなんでいいのでしょうか??

こんな予想になるだろうか? 

社会が一方の極端にいけば、必ず反動がおこる。「被害者づら」という言葉がもしも万が一流行すれば、日本社会は進歩から退歩へと局面が転換する。そうなれば一定期間、世間は現在とは正反対の方向に突き進むと予想される。そんな不安定な社会を安定させるために法治国家というモデルがあるのだが、残念ながら、最近の日本社会は法よりも群集心理と群衆を顧客とするメディア産業企業によって動かされているようだ。

セクハラだけではなくハラスメント一般の問題解決は、十分な研究に基づいて着実に進めることが大事だ。ただ「許せない」からという感情から急進的に対応すれば社会状況は希望に反して必ず悪化すると予想する。

メディア産業の寡占企業は、民主主義社会の敵とまで言えるかどうかにはまだ時期尚早だと思うが、<法治国家の敵>であるという判定は既にできる状況ではないかと感じる。


2018年5月5日土曜日

ウォークマンとイヤホンで音楽趣味を再開

小生が暮らしていた家にはじめて「ステレオ」なる電気製品が鎮座することになったのは中学校1年の冬である。この前後のことは一度投稿したことがある。今はJVCケンウッドになっているが、当時はまだ一流にして名門の音楽メーカーであった日本ビクターの製品だった。まだSONYなどはテープレコーダーの新興メーカーであり、ステレオと言えばビクターかコロンビアという時代だった。白い犬が蓄音機に聞き入っている"His Master's Voice"の図柄の入ったステレオを母は本当に喜んで「またこのマークのあるプレーヤーで好きな曲を聴けるのね」とよく話していた。小生が音楽好きになったのも、その影響である。そのステレオも父が亡くなって家を引き払う時に廃棄した。代わりに何かのときに買ったのが日立のLo-Dで、残った家族で移り住んだ利根川河畔の公団住宅で愛聴したのは主にクラシックだった。が、母は一日時間があるにもかかわらず、あまりレコードをかけて聴こうとはせず、小生も極端な多忙の中で毎日の暮らしから音楽らしい音楽はだんだんと消え去っていった。小役人をしていたころの小生の日常は、干からびた仕事漬けのような暮らしであった。

その母が晩年になって四国・松山の日赤病院で最後の夏を過ごしているとき慰めになっていたのはウォークマンである。まだカセットテープの時代で、1本テープを入れてもせいぜい45分程度でA面とB面を入れ替えなければならなかった。それでも母は小型であるにもかかわらず、非常な高音質には驚いて、ベッドの上で聴いていた姿をよく覚えている。

その後、ウォークマンはアップルのiPod、iPhoneを端緒とする携帯型デジタル・オーディオ・プレーヤー(DAP)の台頭により、すっかり市場からは駆逐されてしまったかと勝手に思い込んでいた。

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この春、常勤から非常勤になった。学生も自由人であるが、十分な収入基盤のない経済状況であれば、毎日を過ごしたいようには過ごせないわけであり、言葉の定義どおりの自由人であるとは言いがたい。若いうちは何事も我慢することが多く、その意味ではむしろ不自由人だと言うべきところがある。4月になってからの小生は日常の生活を送りつつ、十分な閑暇をもてるようになったという意味では、自由人になることができた。今はやりの「高等遊民」とも言えるのかもしれない。

それで、画作だけではなく、ずっとなじんできた音楽を高音質で毎日聴きたくなった。製品事情をよく調べてみると、なくなったと思ったWalkmanブランドがしっかりと継承され、進化し、残っているという事実を再発見した。それで購入したのが"ZX2"だった。旧モデルで既に生産停止となっているので型落ち価格になっていた。

それにAudio-Technicaの"CKS55"の廉価品(という程には安くはなかったように思うが価格は忘れた)を繋いで聴いていた。iPhoneでずっと10年ほど使ってきた古いイヤホンである。が、耐用年数が来たのか、時々、鳴らなくなった。それでJVCの"FX1100"を買って聴き始めたところだ。これまた旧モデルで生産停止となり、いまは型落ち価格になっていた。まるでアウトレット探しだ。

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イヤホンを変えてみると、確かに音が素晴らしい。ユーザーの感想を読むと、低音域が強調されすぎる傾向があるようなので、そんな気構えで聴いたのだが、これまで着けていたのが、ヨレヨレ状態のオーディオテクニカである。いつも正体不明のベース音がブォン、ブォンと地底から響いている感じだった。それに比べると、JVCのFX1100は非常にバランスのとれた音のように最初から感じられた。鳴っている空間が倍ほどに広がったようでもあった。

ただイヤホンで聴くのは、せいぜいがピアノ・コンチェルトまで、ポップスやジャズ、クラシックの室内楽まではよいが、「シンフォニーをイヤホンで聴くなんて・・・まず絶対に無理、というか無茶」と考えていた。

ところが、ブルックナーの第8番を聴いてまったく認識が変わってしまった。宇宙という存在を感じさせるようなブルックナーのあの「第8番」が第4楽章まで完全に鳴りきっている。ここまでコントラバスをリアルに鳴らせるのは据え置きアンプ+高音質スピーカーあるのみ(必然的に大音響となりマンションでは難しい)と思っていたのでこれは驚きだ。

若いころから愛聴してきたのはシューリヒト指揮ウィーンフィル版だが、マタチッチが1984年3月7日に来日してN響を指揮したときのライブ録音も同程度に、というより一層素晴らしいと思ってきた。このシンフォニーの白眉は多くの人は第3楽章のアダージオであるとするのだが、小生は第4楽章が好きである。ブルックナーが若い時期に暮らしたオーストリア・聖フローリアン修道院に訪れる白一色の世界が目の前に浮かび上がる。地上の世界を超える「存在」そのものを意識させられるときもある。この第4楽章ばかりは携帯用のWalkmanとイヤホン、ヘッドホンでは絶対にダメだろうと思ってきた。イヤホンで聴くなんてあり得ないと決めていた。それが見事に裏切られたと同時に、これほどオーディオ技術がこの30年で進歩したなら、なぜセカンドハウスを買ってそこにリスニングルーム兼アトリエを作ることを夢としてきたのか、まったくもって馬鹿々々しいことであった。


2018年5月3日木曜日

忘れられる権利 ➡ 放送停止申請等を制度化してよいのではないか

役割としては民主主義社会を守るべきメディア産業が、そのとっている行動をよく観察すると、実は民主主義社会の敵になっている、と。そんなロジックも十分成立することを前々稿では述べた。

今日の投稿では、ずいぶん以前にGoogleを相手取って欧州で争われた「忘れられる権利」と関連する点をメモしておきたい。

たとえば若いころに万引きをして補導された経験をしたとする。それが地方紙で報道されたとする。未成年ならば実名は出ていないはずなのだが、結局は本人が特定されて、それがネット情報として流布されるという事態は日常茶飯事になってきた。

これもまた、小生は罪刑法定主義を無視した人権侵害事件として摘発するべきだと思うのだが、中には「こうしたことも犯した罪の償いの一環ではないか」と考える人もいるには違いない。まあ、罪を犯せば予測しておくべき社会的制裁と考えれば、我慢するしかないというのも一つの立場である。

しかし、10年余りもたってから、「君、昔ネ、万引きしたことがあったよね」と指摘され、その当時に人々がみていたネット情報が検索されて出てきたと伝えられるとすれば、これは常識、というか「程合い」を超えているだろう。誰でもそう感じるのではないかと思う。

何をするにしても人間社会では犯した罪と受忍するべき刑罰とのバランスが最も大切だ。これを考えれば、「忘れられる権利」というのは、当然に社会が保障しておくべき権利である。そんな理屈は確かにあるのだな。で、訴訟となる・・・

いつまでネチネチと言うか!!

たとえ加害者となった時が過去にあったとしても、「加害」の度合いによっては、こう言って怒る権利はある。それが英語でいうフェアという感覚だろう。そういうことである。

同種の事件として、ずいぶん昔のことになってしまったが、少女時代に重罪をおかした少女が模範的な生徒として成長しハイスクールで好成績をあげてハーバード大学医学部に推薦入学できるチャンスを得たところ、重罪を犯したときの地元地方紙の元記者が事件を伝える記事の写しをハーバード大学に送り「この事実をあなたたちは知っているか?」と詰問したという、この一件をあげてもよいだろう。さすがにアメリカでも論議をよんだ。それは幼い時に重罪を犯したことを許せるかどうかではなく、そのことを履歴書の賞罰欄に不記載であったことを理由に失格判定とすることがフェアであるかどうかである。いかにもアメリカらしい論議だなあと思ったことを記憶している。が、よくよく考えてみると、近年の日本では論議にもならないのではないか、幼い時に重罪をおかした少女が東京大学医学部に推薦入学するなど許せない、と。そんな非難が世間から噴出するのではないか、と。そう思ったりもするのだ。

小生、あらゆる日本人はメディア産業に対して  ―TwitterやFacebook、LineなどSNSも含まれるが ― <放送停止請求権>や<投稿記事削除請求権>を持つべきではないかと思うようになった。

たとえば、最近の事件を例にとればジャニーズ事務所に所属するY某という名前のメンバーが起こしたセクハラ事件である。

これは加害者と被害者が明確な事件であるが、当事者同士では既に示談が成立し和解している。また強制わいせつ罪ということで書類送検されていたが検察は不起訴の判断を下した。

当事者は和解し、犯罪としても不起訴となり裁判は行われないことになった。にもかかわらず、マスメディアはまだなおテレビ画面中でコメンテーターを呼んでは「にわか裁判」のような映像を流している。マスメディアがこのようなことをしてもよいと考える論理が小生には分からない。というより、これは人権侵害事件であろうとすら感じる。

このような場合、関係者(=当事者|代理人・所属事務所等々)は、所定の手続きに沿って<放送停止請求>を裁判所に対して行う。裁判所がその経緯ならびに申請者の基本的人権が侵害されているかどうかを審査し、一両日内に「却下」もしくは「放送停止」や「投稿禁止」、「既投稿記事の〇〇日経過後削除」等々の仮処分命令を下す。メディア側は「その報道が人権の侵害を超えて真に公益に資するものである」と確信するなら根拠を添付して処分取り消しの申し立てを〇〇日以内に行ってもよい。命令に違反した場合は、アカウント停止、運用停止、営業停止等々のペナルティを課す・・・恣意的な社会的制裁を防止するためにも、このような制度を導入するべきではないだろうか。

議員立法がベストだ。国会たるもの問題解決に向けて検討をしてほしいものだ。いくらなんでも野党の審議拒否のせいでGWを入れて<17連休>では<税金泥棒>と言われても仕方があるまい。

2018年5月2日水曜日

一言メモ: ヒョッとすると見れるかもしれないTVニュースの低脳ぶり

今治刑務所から脱走したH受刑者もついに広島市内で確保され、メディアの報道はそのことで持ち切りである。

昨晩、反政府で有名な民放のTVニュースをみていた。そうすると、『別荘の屋根裏に潜伏していたそうですが、刑務官にいじめられたというメモを書き残していたそうです、一体何があったのでしょう・・・』と、キャスターが気がかりな表情で話していた。

『刑務官にいじめられたので逃げた』と書いていた新聞もあった(ように覚えている、紙名は思い出せないが)。

受刑者に対する刑務官の<パワハラ>は果たしてなかったのでしょうか?そのために逃亡を招いたということはなかったのでしょうか?

小生、(どこでもいい)民放のニュースキャスターが上のセリフをいつ言ってくれるか、実は楽しみにしているのだ。

まあ、小生は法務省に勤務していたわけではなかったので、具体的な事情には通じていない。あるネット上の記事によれば、他の受刑者から物を譲られたそうなのだが、受刑者同士の物のやり取りは厳禁とされている。叱責を受けたには違いない(どの位の叱責かは不明だが)。まあ、いろいろな可能性は想像できる。

体罰ということはなかったのでしょうか?
何度も叱責するということはなかったのでしょうか? 
ハラスメントはなかったのでしょうか? 

ホント、楽しみにしているのだ、言ってくれないかなあ・・・と。

もしも、万が一、上のように報道してくれるのであれば、G7を構成する先進国のキー局の報道番組であっても、所詮は「一流企業で仕事をしている都会育ちの好青年ではあるが、中身は想像を絶して低能かつ低知識のボンボン」であるというお寒い現実が露わになってしまうというものではないか。そうでないとすれば、人格など正体不明のプロデューサーが隠れた政治的メッセージを伝えようとするための指令、いやさシナリオなのだろう・・・

ま、いずれの場合であっても社会の未成熟を表していて恥ずかしい。財務事務次官の下品な会話も国として恥ずかしかったが、もし上のような報道ぶりを堂々としてくれるようなら、どこもかしこも恥ずかしい、という事態となる。

なので、他人事ながら楽しみなような、心配なような、そんな複雑な気持ちで「まさかネ」という気持ちでいまからいるのだ。決してあり得ないことではないでしょう。

2018年5月1日火曜日

「平成の刀狩り」があるとすれば

日本国内を統一し100年余りの戦国時代に終止符をうった豊臣秀吉が行った数々の政策の中で、後世からみて最も感謝するべき英断は「刀狩り」をおいて他にはない。個人的にはそう理解している。「宗教政策」、「税制政策」、「貿易管理政策」、「行政組織」等々、多方面のことを豊臣政権は実行したが、「刀狩り」があってこその成功であったと思うのだ。

なるほど「検地」によって中央政権は地域ブロックごとの納税能力を把握した。納税能力を把握できれば、地域が反乱を起こす際の潜在的軍事力の限界を評価できるので、中央政権が保有するべき警察力も決まってくる。行政機構の基本を設計できることになる。確かに、「検地」は中央政権にして初めて実行可能な必須の経済政策だった。

が、やはり「刀狩り」こそ、庶民から軍事力をはぎ取り、内戦継続能力を消滅せしめることで、はじめて豊臣政権を国内唯一の<真の権力>とする決定的政策だった。もし「刀狩り」を実行していなければ、武士による徳川250年の平和は不可能だったろう。必須の政策であった「検地」もまた「刀狩り」と並行させてこそ実効性があったのだ。

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英米では"due process of law"という言葉が最も重要視されている。正当かつ公式の法的手続きによって、という意味合いである。「法学」が学問として確立されたのは、「法に則す」という社会的合意が最上位の規範としてその社会で共有されたときだ。そう言ってもよい。その合意がないなら法治国家ではないし、国民国家ですらないだろう。

もちろん国家には法治国家以外の国もある。人治国家もあれば、徳治国家もある。軍事国家、一党独裁国家等々、国の形は実にさまざまだ。

現在の日本は三権分立制を布いている。この事は日本国憲法で定められており、小学校の授業でも説明されていることである。

三権分立制とは、立法は国会に、行政は政府に、司法は裁判所に、という制度であり、それ以外に国民が服するべき<権力>は、いかなる団体にも保有させないということである。国民、すなわち全ての民間の個人、企業は、政府の政策に不服があれば選挙を通して、あるいは裁判所に提訴して、その決定に従うことになる。故に、いかなる違法行為を犯したとしても、当該個人に対する<制裁権>は司法以外には属していないわけだ。

しかし、現代日本社会で<社会的制裁>という用語が浸透して久しい。そしてメディア産業の独占的企業が社会的制裁のプロデューサーとして活動しているのは明らかだ。

立憲主義の観点から考えれば、いかなる<社会的制裁>も違法である理屈であり、法的規定なき制裁、つまり<私刑>を実質的に演出している大手メディア企業は、非公式の権力を行使している。そんな現実は実はずっと以前からも指摘されていたが、このところ、実は公的な権力よりも非公式の権力の方が、速度、実効性ともに、上回っているのではないか。そう思うことが増えてきた。

その理由は、公的な権力は民主的統制に服している一方で、非公式の権力はいかなる民主的統制にも服していないためである。更には、情報が瞬時に社会に浸透する自由なネット社会の到来も背景としては挙げられる。

日本という国では、歴史上しばしば、非公式の権力が生まれ、社会の個々人の生活に覆いかぶさる例が多かった。いにしえの院政は引退した天皇による裏の権力。「目白の闇将軍」は刑事被告人となった元首相が「数の力」で表の権力をあやつった裏の権力であった。

日本人は、非公式の権力が行使されている状態に対して、(よくいえば)免疫をもっており、(悪く言えば)自立しておらず屈従的である。

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憲法に定められた権力以外に個々の日本人を制裁する権力はあるはずがない。あってはならない。この認識が最も基本的だろう。

なるほど会社に勤務する社員が不正を行い会社に不利益をもたらせば会社から懲戒処分をうける。が、会社の行為は雇用契約に基づくものだ。さらに処分は雇用者対被雇用者の限定的な関係における行為であり、法を犯した刑事犯でなければ社会に公開されることはなく、個人情報は保護される。契約の当事者双方にとってフェアな関係が保たれている。

ここでいう<権力>とは契約という双方の合意を経ることなく日本社会がその社会のルールを犯したという理由で構成員たる個人を処罰/制裁することが出来る力のことを指す。

確かにジャーナリズムは一般論として民主主義にとって不可欠である。しかしながら、民主主義社会を維持する権力はすべて法によってその限界を定められる必要がある。正当な権力以外の主体から権力的手段を奪う政策が「刀狩り」である。政府が民主的であれば「刀狩り」もまた民主主義のためである、という理屈になる。

最近非常に顕著になりつつある独占的メディア企業が主導する<社会的制裁>は憲法を犯していると、小生、思っている。裁判所の判決で<社会的制裁>を現に受けていることを情状酌量の構成要素にあげる例が多いが、社会的制裁の存在を司法が認めること自体が、小生には理解不能である。

非公式な権力が行使されているとすれば、その権力的部分は解体されるべきであるし、解体されないなら民主的統制下に置くべきだ。

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我々は事実を報道しているだけだという主張はもはや通用しない時代だ。

Facebookは、ユーザーが自分の意見を発信する場にすぎないとして、自らの役割を自己定義していたが、それが通らなくなった。結果として社会に対して不当な影響力を行使しようと考える主体がいた。その主体がFacebookを密かに利用した。故に、アメリカではFacebookが非難されているのだ。

日本のメディア産業で支配力を有する寡占企業はなぜそのような行動をとっているのか、まったく不透明である。経営者の思想・政治的立場、プロデューサーの職歴・実績、記事の執筆者等々、すべて闇の中である。実に非民主的である。自由市場の中の私企業としては許されるが、非公式の権力を行使している状況であれば容認できない。

この辺、小生、あまりに潔癖にすぎるのだろうかねえ・・・


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・・・ま、こんな議論にも筋道は通っているように思われる。ということは、実際にこんな方向で物事が動き始める可能性もあるということだ。

もちろん憲法で保障している「表現の自由」と調和するのかどうかという問題を解決しなければならない。この問題も数多くの設問に分かれるだろう。

もしもメディア産業で支配力をもつ寡占企業に十分な知性が欠けていれば激しく抵抗するだろう。もしそうなれば、それは既に権力の一端を把握した集団と正当な政府との内戦と本質的には同じだ。その片方を中国やロシア、北朝鮮が密かに支援して介入するとどうなるかねえ・・・。そんなことまで考えさせられる昨今の状況である。



暴力的な展開は正直ごめんだ。今後将来にかけても平穏な時代が続いてほしいものだ。