2018年5月11日金曜日

ハラスメントに満ちている古典作品

これまでにも『徒然草」はハラスメントに満ちていることは話してきた。本ブログにもこんな投稿をしている。

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人生は短いとよくいう。しかし、時間が長い、短いという感覚は人生の平均的な長さから決まっているにすぎない。小生は人生は十分に長いと思う。『徒然草』第7段の有名な下りに以下のような文章がある。

命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

(出所)http://roudokus.com/tsurezure/007.html

小生思うのだが、いま小中高校で上の文章を授業でとりあげれば、高齢者に対するハラスメントになるのではないかと憶測する。

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『高齢者は世の中を貪りながら生きているようで、あさましく見苦しい』などと中傷しているのであるから、これは立派なエージ・ハラスメントだろう。数ある日本の古典作品からわざわざ『徒然草』を選んで授業の場で解説するのは思慮にかける・・・いずれ、近い将来、いまの世間の流れをそのまま伸ばせば『徒然草』が教育の場から駆逐されるときも近い。

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ゲーテが晩年に出した詩集『西東詩集』(Westösthieher Divan)の中に「観察の書」(Tefkir Nameh)があり、更にその中に「別の五つ」(Fünf Andere)がある。次の詩句は小生のお気に入りになっている。

前後は省略する:

あんなに誠実であったのに、
わたしはあやまちを犯した。
それで何年も何年も
苦しみぬいた。
それでよいとも言われ、だめとも言われた。
これはいったいどういうことだ?
では悪人になってやれと思い、
せっせとその役にはげんだが、
どうにも性に合わなかった。
心をちぢに裂かれただけ。
そこで思った、誠実なのが
やはり一番だと、
どんなにみじめであろうとも、
それがやはり確かなことだ、と。

つまり、誠実であるのが人生を歩むうえでは最良の選択なのだが、みじめであることも十分に覚悟せよ、ということだ。

モラルとして善いことをしているのに、こんなに惨めで不幸せなのは許せない、というのは特に最近の日本社会では支持されそうなアピールなのだろうが、これほど甘口で非現実的なクレームはないわけだ。人生の味は塩カゲンがききすぎている。

ゲーテの洞察力が息づいているようではないか。最近のテレビドラマの表現を借りれば「濃密な人生をおくってきたもので・・・」と言いたいかのようだ。

ただ、上に引用した部分の少し後でゲーテは次のようにも詩っている。

女を扱うにはご用心!
女は曲がった肋(あばら)から創られた。
神さまもまっすぐにはできなかったのだ。
撓めて(ためて)直そうとすれば、折れてしまう。
かまわずおけば、いっそう曲がる。
おい、アダム殿、これよりひどいことがあるか?―
女を扱うには用心せよ。
うっかり肋(あばら)を折れば、ひどいことだぜ。
う~ん、やはりセクシャル・ハラスメントかな・・・ やはり詩人ゲーテがおくった「濃密な人生」から得られた教訓か。

日頃、カミさんと付き合っていて、小生は実に納得できるのだが、この詩句の内容は最近の世の中では「これって、セクハラね」と判定されるだろう。まず間違いあるまい。かくして、ゲーテの古典的詩集もセクハラの疑いでお蔵入りすると予想される。

大体、バイブルからしてセクハラの疑いが濃厚なストーリーであるし、ギリシア神話もまた性的差別に満ちている。学校教育には不適切だと判定される可能性大だ。

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真正のジャーナリストと呼ばれるからには、古今東西の古典に通暁し、現代世界への深い洞察眼を持ち、併せて清濁まじえた豊富な人生経験をも有していないと、人様にお金をもらってまで読んでもらえる文章は書けないと思うのだが、いくら二流三流未満だとしても「それにしても無教養だな」と感じる時が増えてきた。その根本的理由って、「だって古典作品はセクハラになることが多いし、授業とか入試問題には出てこないんです」。案外、これが理由になっているのかもねえ・・・。いや、これは想像のしすぎか。

ま、しばらくはこんな風潮が続くだろう。


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