2018年5月17日木曜日

メモ: 日大の突然の「炎上」で感じること

関西学院/日本大学のアメリカンフットボールの試合において起きたラフプレーは録画を見る限り、明らかに傷害事件の域に達しているほどの異様さがある。

この行為については、まだ日大学内において調査中であるのだが、既に無数の感想・解釈が公開されている。

ここでは掘り下げないが、憶測はある:

傷害行為とも受け取られる行為を日大選手がしたこと自体は明らかだ。弁明のしようがない。しかし、日大側の監督など責任者が被害者側に直接に謝罪をしたという報道はない。多分、世間の動きをみて、結局は行くだろうが、遅すぎる。

憶測なのだが、日大側は顧問弁護士あたりに事件への対応方を相談しているのではないだろうか。もしそうであれば、危機管理失敗への第一歩となるだろう。最近年の日本社会では弁護士が得意とする法律論からトラブル解決への道を探る議論は失敗することが多い。

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先般の財務省事務次官、女子レスリング界で生じたパワハラ・トラブル、その他のイジメ・パワハラ・セクハラ事案一般、(更には森友・加計学園問題もそうかもしれないが)これらに共通している点は、当事者、特に加害者・責任者だと目される側が、自身の「法的責任」をまず明確化するという発想では、最近年の日本社会ではトラブル解決に成功していないという現実がある、ということだ。

なぜなら、事件を報道するマスメディアへの当事者の対応に世間が反応し、双方が相互に反応している中で世間の群集心理がバブルのように形成・拡大されてしまう。その結果としてトラブルを解決するルールであるべき法律をはるかに上回るスピードで世間の「社会的制裁」が「加害者」と目される側に加えられてしまうからである。

前の投稿でも何度か述べているが(たとえばこれ)、現在の日本社会でトラブルを解決する際に、まずは双方の法的責任を明らかにし、それに基づいて法治国家にふさわしい合理的な解決を導くという「公式ルート」は現実には機能しなくなりつつある。法治国家がもっている正当なプロセスが機能不全の状態に陥っている。全面的にでないにしても、確かにそう言えるところがある。これにはマスメディアの姿勢に責任の大半があると何回かの投稿に分けて述べたところだ。

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日大側は、本事件の処理に関して、法的ロジックから対応方法を議論しているのではないかと憶測する。だとすれば、非常に拙い。問題は解決できまい。テクニカルな法律的思考では状況をむしろ悪化させる可能性を考えておかなければならない。結果として日大は失う必要のないものまで失うだろう。

マスメディア、というよりマスメディアが煽る世間の群集は、法を運用する政府や法曹界のエリート達よりもはるかにスピーディに、実効性あるペナルティを、加害者である日大に加えるだろう。日本大学という巨大な私立大学が世間に対して無条件降伏の白旗を掲げるまで、世間の非難・攻撃は止むことはないと予想する。イメージダウンによる大学経営面の損失は莫大であろう。

日本社会を律する規範は、すでに法律からモラルへと作用の重心が移りつつある。法曹エリートから大衆へと実質的な権力が移りつつある。この変化を日大は見るべきだ。

それが正しいかどうかを言い立てても意味がないのだ。情報がネットを瞬時に流れる社会ではこうなるのだ。そういう現実が観察されつつある。生活、金融、製造現場等々、あらゆる場面において進行している多くの社会的変化の中のこれまた一つの断面なのだ。そんな社会的変化への<不適応>の一例として日本大学の名前が残るなら、いささか残念である。

これは確かに憲法でも禁止されている「私刑」に違いないと小生は思う。が、政府にもどこにも止められる主体はないのが現実だ。そんな時代が到来している。

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