2018年5月3日木曜日

忘れられる権利 ➡ 放送停止申請等を制度化してよいのではないか

役割としては民主主義社会を守るべきメディア産業が、そのとっている行動をよく観察すると、実は民主主義社会の敵になっている、と。そんなロジックも十分成立することを前々稿では述べた。

今日の投稿では、ずいぶん以前にGoogleを相手取って欧州で争われた「忘れられる権利」と関連する点をメモしておきたい。

たとえば若いころに万引きをして補導された経験をしたとする。それが地方紙で報道されたとする。未成年ならば実名は出ていないはずなのだが、結局は本人が特定されて、それがネット情報として流布されるという事態は日常茶飯事になってきた。

これもまた、小生は罪刑法定主義を無視した人権侵害事件として摘発するべきだと思うのだが、中には「こうしたことも犯した罪の償いの一環ではないか」と考える人もいるには違いない。まあ、罪を犯せば予測しておくべき社会的制裁と考えれば、我慢するしかないというのも一つの立場である。

しかし、10年余りもたってから、「君、昔ネ、万引きしたことがあったよね」と指摘され、その当時に人々がみていたネット情報が検索されて出てきたと伝えられるとすれば、これは常識、というか「程合い」を超えているだろう。誰でもそう感じるのではないかと思う。

何をするにしても人間社会では犯した罪と受忍するべき刑罰とのバランスが最も大切だ。これを考えれば、「忘れられる権利」というのは、当然に社会が保障しておくべき権利である。そんな理屈は確かにあるのだな。で、訴訟となる・・・

いつまでネチネチと言うか!!

たとえ加害者となった時が過去にあったとしても、「加害」の度合いによっては、こう言って怒る権利はある。それが英語でいうフェアという感覚だろう。そういうことである。

同種の事件として、ずいぶん昔のことになってしまったが、少女時代に重罪をおかした少女が模範的な生徒として成長しハイスクールで好成績をあげてハーバード大学医学部に推薦入学できるチャンスを得たところ、重罪を犯したときの地元地方紙の元記者が事件を伝える記事の写しをハーバード大学に送り「この事実をあなたたちは知っているか?」と詰問したという、この一件をあげてもよいだろう。さすがにアメリカでも論議をよんだ。それは幼い時に重罪を犯したことを許せるかどうかではなく、そのことを履歴書の賞罰欄に不記載であったことを理由に失格判定とすることがフェアであるかどうかである。いかにもアメリカらしい論議だなあと思ったことを記憶している。が、よくよく考えてみると、近年の日本では論議にもならないのではないか、幼い時に重罪をおかした少女が東京大学医学部に推薦入学するなど許せない、と。そんな非難が世間から噴出するのではないか、と。そう思ったりもするのだ。

小生、あらゆる日本人はメディア産業に対して  ―TwitterやFacebook、LineなどSNSも含まれるが ― <放送停止請求権>や<投稿記事削除請求権>を持つべきではないかと思うようになった。

たとえば、最近の事件を例にとればジャニーズ事務所に所属するY某という名前のメンバーが起こしたセクハラ事件である。

これは加害者と被害者が明確な事件であるが、当事者同士では既に示談が成立し和解している。また強制わいせつ罪ということで書類送検されていたが検察は不起訴の判断を下した。

当事者は和解し、犯罪としても不起訴となり裁判は行われないことになった。にもかかわらず、マスメディアはまだなおテレビ画面中でコメンテーターを呼んでは「にわか裁判」のような映像を流している。マスメディアがこのようなことをしてもよいと考える論理が小生には分からない。というより、これは人権侵害事件であろうとすら感じる。

このような場合、関係者(=当事者|代理人・所属事務所等々)は、所定の手続きに沿って<放送停止請求>を裁判所に対して行う。裁判所がその経緯ならびに申請者の基本的人権が侵害されているかどうかを審査し、一両日内に「却下」もしくは「放送停止」や「投稿禁止」、「既投稿記事の〇〇日経過後削除」等々の仮処分命令を下す。メディア側は「その報道が人権の侵害を超えて真に公益に資するものである」と確信するなら根拠を添付して処分取り消しの申し立てを〇〇日以内に行ってもよい。命令に違反した場合は、アカウント停止、運用停止、営業停止等々のペナルティを課す・・・恣意的な社会的制裁を防止するためにも、このような制度を導入するべきではないだろうか。

議員立法がベストだ。国会たるもの問題解決に向けて検討をしてほしいものだ。いくらなんでも野党の審議拒否のせいでGWを入れて<17連休>では<税金泥棒>と言われても仕方があるまい。

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