2018年6月16日土曜日

『人生、四時あり』よりは一日にたとえるほうがシックリくる

吉田松陰の『留魂録』は今なお読む人が多い。特に以下の下りは有名だ。
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
長寿に恵まれる人、恵まれない人、それぞれにその人の人生には春夏秋冬の四季があるものだ。

小生、これが気に入っていて、亡くなった両親の歩んだ人生にも当てはめては、自分の人生と引き比べたりしてきた。

最近は、人生を一年にたとえるよりは、むしろ一日に対応させる方がシックリ来るようになった。三十余年、一夢の如しと来れば、人生ほんの一日とみるのが自然な実感に違いない、

間もなく嫁さんを迎えようとしている下の愚息は、朝食をとり、朝一番の仕事をこなしたあと、一日の見通しを考えめぐらしている午前10時頃だろうか。

「仕事」からは解放されつつも、まだ非常勤で特定の仕事を担当し「データ」だ「分析」だなどと言い続けている小生などは、その日の片づけをしている午後5時前だろうか。

そろそろ帰宅し、夕食は何か、食後の憩いの一刻をどのようにして過ごそうかと、楽しみにしながら考えている。そんな頃だろうか。

人生暮六つ。六つの鐘がなれば「仕事」とやらは完全に足を洗って清浄の毎日を送りたいものだ。その昔、先輩と『下半身はいかに泥にまみれようと、水の上は美しい花を咲かせる蓮のように生きたいものですネエ・・・』と、そんな快談をやったものだが、そろそろ実行できる齢になってきた。

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