2018年6月5日火曜日

いまは情報のマーケタイゼーションへの途中なのだろう

森友事案に関する財務省の内部調査が出てきて、それがまたTV画面、新聞紙上で話題を提供している。

まあ、予想された範囲の結論だ。

某検察OB弁護士は『そもそも今回の文書改竄が起訴される可能性は最初からほぼなかった』とネット上で明言しているほどだ。読めばなるほど、と。極めてロジカルである。

省内処分もまあ適当な塩梅だ ― というより、「収賄、職権濫用でもないのに厳しいネエ」と個人的には思う。「役所の官僚が総理や大臣の意志を全く忖度しなければ、そのほうが官僚専制で恐ろしいんじゃないかネエ」とも思う。

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今日はカミさんが友人たちと趣味の会合をしている。宅内でいつも観ているワイドショーに習慣でチャンネルを合わせている。結構詳細なパネル資料を一晩で(?)作ったのだろうか。細かい話をコメンテーターともども会話しているところだ。

これすべて無料で入手される情報である。今の日本で民放の地上放送はすべてフリーだ(スカパーなど有料衛星放送を除く)。無料である点はツイッターやフェースブック、ブログなどネット情報と同じである ― エッ、TV受像機の購入費を含めればフリーではないと?耐久消費財ストック所与の下で消費者均衡を考えれば民放はタダであるのは容易に理解できる。その後で耐久消費財需要を考えればよい。

そういえば無料のフェースブック・アカウントでアクセスできる情報には悪質なフェイクニュースが混在していたというので、フェイクを流した当事者だけではなく、フェイクを流す場を提供したフェースブックもまた責任ありとして、厳しい批判にさらされた。

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中身のない流言飛語、即ち「フェイクニュース」は経済学でいう「レモン」である。中古車がなぜ安いのか? それは一見しただけでは分からない劣悪な中古車が混じっているリスクがあるためだ。その分、ほぼ新車であっても買い手の評価が割り引かれるというロジックである。1年ともたないと思われるようなボロ車は、当然のこと、買い手の評価はゼロとなり、価格はゼロ、つまりタダになる。実は中身はいい車であったとしてもだ。

最近、目立つ傾向なのだが、既存メディア企業がインターネットで流通している情報を番組中でまとめて、それを「ネットの反応」と呼びながら、便利に活用し始めている。ネットの状況を「世論」と読み替えながら、そこからまたコメンテーターが意見を重ねていき、番組全体として一つの論調が醸し出されてくる。そんな方式が流行りつつある。

自分なら、やらないネエ・・・こんなやり方は。

ネットの情報、特に「解説」という名の投稿は、その多くは裏をとらずに流されている。この点は自明だろう。ネットを通して情報をとるのは情報収集側にとっても極めて低コストである。低コストである裏側をみないといけない。少なくともネット経由の情報は根拠があるのかないのか不詳である。中にはデマもある。悪質なフェイクもある。野良の中古車市場と同じである。故に、ネットを流れる情報はフリーになる。価格はつかない。価格がついているのは広告媒体としてである。広告の出し手がネット情報のコストを負担する。広告費の出し手が対価を支払うのは多数の人間がみるからだ。多数が見るので媒体価値がある。何が書かれているかというコンテンツはユーザーにとって無料である。ユーザーが支払うのは何かを買う時(e-Commerce)だ。商品には価値がある。コンテンツとしては価格ゼロの情報をストーリーの鍵に利用して、放送内容、報道内容を編成する。故に、放送自体の価格もゼロになる理屈だ。費用はネットと同様、広告の出し手が払う。

民放とインターネットと、ビジネスモデルの論理は完全に同一なのである。双方は100パーセント、競合関係にある。であれば、長期的には同質化していく理屈だ。

この2、3年のマスメディア、特に民放は、根拠不詳の流言飛語を拡声スピーカーで社会に流している、と。厳しく言えば、そんな表現も可能かもしれない。

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真の情報には価値がある。価値があれば価格がつくのがロジックだ。

既に新聞各社はデジタルコンテンツに対価を付け始めている。この方式が情報市場の常態になっていくのは理の当然だ。が、先日まで予約購読していた日経を思い出しても、無料情報と有料情報とで識別可能なほどのレベル差を感じなかった。これが正直なところだった ― 保存機能やEvernoteとの連携サービスなど周辺サービスがつくとはいえ、情報コンテンツとは別の事柄で本質的ではない。

良質な情報(=カネと優秀な人材を投入して得られた情報)には価値に見合った価格がつく。当然の経済原理にしたがってネット情報が再編成されていく。今後将来の動きとしてはそう予測されるのだ。なぜなら需要が既に存在するからである。需要に応えていくためのビジネス側の努力が社会の進歩を現実のものにする。この論理だけはいまなお、というより今後もずっと、当てはまる。

信用ある業者が中古車フェアを開催すれば、その分、売値全体がアップする。フェースブック本社で開発中の人工知能(AⅠ)が、あらゆる情報を識別、フィルタリングして、信頼できるニュース情報のみを自分のホーム画面に表示してくれるという、そんなサービスが利用可能になれば、小生は喜んで年会費3千円程度(≒Amazonのプライム会員会費)を支払うだろう。もっと払ってもよい。1万円でも払うだろう。それでも新聞購読料(年間数万円)よりはよほど安い。それでフェイクを読んでミスリードされる無駄を避けられるなら安いものだ。情報の市場化(マーケタイゼーション)は新聞の普及で世界は既に経験済みである。今後はインターネット上でこの動きが格段に進むだろう。20年もたてば情報メディア産業の均衡状態がどのようなものかが分かるだろう。

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高い価格を支払う人たちがより良質の情報にアクセスできるような社会がいずれ到来するだろう。そうなった時に、現在の民放が放送しているような無料のワイドショーをみる人たちは、観ているというだけで恥ずかしい、と。無料イコール劣悪という経済的な常識が改めて確認されているだろう。どうやらそんな世相になっていくのではあるまいか(現在もすでにCS有料放送があるわけで、そんな世相になりかかっているとも言えるが)。最近2,3年の民放の「ワイドショー」はその劣化と限界感が露わである。

メディア産業において、民放キー局に限れば、リ・ブランディング(Re-Blanding)戦略が生き残りのためには不可欠だろう。小売市場において、デパートという業態に限れば、Re-Positioning戦略が生き残りのためには不可欠であるのと、まったく同一の理屈である。

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