2018年7月28日土曜日

悪を正義にできるのが宗教である

まだ役所で小役人をやっていた時分、グレアム=グリーン全集の中の『スタンブール特急』(最初にイはつかない)を読んでいた。読んでいるうちに夏に向かって仕事が極めて忙しくなり、完読することができなかった。それを思い出して、今度は読んでしまうかと探してみると、Kindle版も用意されていることがわかった。

迷っているうちに『ヒューマン・ファクター』の方を買ってしまった。

巻末の解説が面白い。
シェルデンは右の伝記で、『・・・神の愛と存在に触れたいがために、悪に手をそめる信者は数多い。悪に対する高揚した意識を宗教が作り出すことができることに感じる魅力を、グリーンは決して秘密にしなかった』といい、『神や愛ではなく、堕地獄や憎悪こそが、彼の関心を掻き立て、宗教的な熱意に対して彼が抱く感覚を明確にするものであった』とも言っている。・・・カトリックの作家たちはよりキリスト教の核心にふれるべく悪をテーマにした罪深い物語を作る。それは遠藤周作やグリーンも例外ではない。
グリーンの作品のほとんどはスパイ活動が舞台になっている。そこには宗教的心理が常に絡んでいるのだ。

面白いのは巻末の解説ばかりではない。巻頭の箴言もまた面白い。
きずなを結ぶ者は必ず敗れる。
その者の魂には堕落の病巣が巣くっている。(ジョーゼフ・コンラッド)
巻末と言い、巻頭と言い、現代日本人の反感を集めそうな人間観がここにある。さすがはシニカルなリアリストが多い英国人である。 モームも好きな作家だが、グリーンも命のやり取りをする舞台に身を置いた。さすがは植民地帝国をつくり、苦労してきた国の国民だ。善だ、悪だ、謝罪だ、反省だなどを大真面目に論じることはしない。現実と経験があるのみである。現実と経験を検証し、自分で考える態度だけが意味をもつ。

日本人が狂気にかられた最近の事例は仏教ではなく神道のほうだろう ― 一向宗門徒の勢力は幸いにして徳川政権が二つの派閥に分断してくれた。

神道も二大派閥に分けていれば、幕末の尊王攘夷思想があれほど盛り上がることはなかったかもしれない。明治政府の天皇神格化もうまくは運ばなかったろう。

靖国神社問題で今もなお苦労しているが、これも宗教問題の一種だ。

どれも現在の日本政府、日本人には極めて苦手な科目であるのは間違いない。

オウムの麻原彰晃は公判から服役中にかけて、結局、一言も弁明や自白をしなかった。語らないままに世を去ったが、それは殉教者として神になる意志がそうさせたのだろう。しゃべればしゃべる程、人は人になり、俗物である事実が露見するものだ。それを避けるくらいの思案は誰もが思いつく。沈黙こそ金なのである。人によっては麻原一人だけを処刑して、弟子は処刑するべきではなかったという意見を述べる人もいる。が、もしそうしていれば確実に神格化されることになっていただろう。俗にいえば、教祖の『思うつぼ』であったろう。日本政府は、あくまでもテロリスト集団のドンと定義し、実行犯ともども刑を執行する。そんな議論をしたものと推測されるのだ、な。しかし、吉と出るか凶と出るかは、分からない。

宗教に立ち向かうとき、現代の日本人は極めてナイーブ、というか無自覚的である。対外的にはその危険性に対して知識が乏しく無防備で危うさがある。社会心理的には宗教問題に免疫がなく、日本社会をとりまく環境変化によっては急速な浸透、変動がありうる。大いに危惧される。

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