2018年7月6日金曜日

覚え書: オウム真理教上層部の死刑執行に関連して

大阪から北海道に移住してから間もなくして阪神大震災が起こり、東京・霞が関界隈の地下鉄駅構内でサリン事件が発生した。どちらも小生の生活範囲であったかもしれず、それを思うと、文字通り『人生、一寸先は闇』であると感じる。

その一世を騒がせた宗教組織指導者13名のうち7名に対して本日2018年7月6日に刑が執行された。覚え書きとして記載する。

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中には『死刑の廃止は、国際的な流れだ。国内でも、死刑制度をどうするべきか、議論を深めるべきだ』との意見も提出されているようだ。TVのワイドショーでも『国家が人の命を奪ってもよいという点はもう一度議論するべきだ』というコメンテーターが多い。

しかしながら、欧州で死刑廃止が世の流れになったのは、加害者の人権を守るという思想に基づくものではなく、多分に政党間の対立から採られた政治的な結果であるという見方がある。

アメリカでも死刑が廃止される流れであったが、Wikipediaからも分かるように、犯した犯罪に照らして過剰ではない場合には死刑は合憲であるとの連邦最高裁判決が1976年に示されるに及び死刑が復活した。昨年7月末時点で2817人の死刑囚が米国内で収監されているようである。

死刑は国家による殺人であって認めがたいという哲学的指摘を認めるとすれば、そもそも殺人という罪において人が殺害されているという事実をどう考えるのか?人は人を殺すことがありうると認めながら、国家は人を殺してはならない、と。そう考えるべきなのか?テロリストがテロ行為に及びつつあるときに、警察官はテロ犯を射殺できないのか?殺人に及ぼうとする犯人を射殺してもよいのであれば、なぜ人を殺害した犯人を死刑に処することは不可なのか?国家は国民を殺すことができないが、人は人を殺すことがありうると考えるなら、復讐のために加害者を殺すことはありうる、正当防衛のために人を殺すことはありうる、決闘で命をかけて黒白を決着させる行為はありうる、と。そう考える社会へ変わっていくのではないか?

"MAY"の認識から"CAN"の認識まではほんの一歩である。

死刑の存否についてその是非を哲学的に決定したいなら、上のような諸問題に対して論理的な回答を引き出すことが必要であり、かつ社会的な合意を形成する必要がある・・・が、多分、それは不可能だろう。

とすれば、死刑の存否は世論、つまり多数の国民の意志による。そう考えて、民主主義を信頼し、死刑もまた善いか悪いかではなく、「法治国家」の在り方の一つであるとして受容する。これ以外にどんな道があるだろうか。


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