2018年7月8日日曜日

『これで分からなくなった』という認識の不毛

オウム真理教幹部が処刑され社会は(海外もまた?)衝撃を受けたようだ ― どの部分にショックを受けたかは人によって違いがあると思うが。

色々な意見が公表されている。それは当然だ。その中で『これで永久に不明のままになってしまった』という意見がある。確かに当事者を抹殺してしまえば、それ以後当人の口から聴けなくなることはある。これが理屈だ。

しかし、霞が関界隈で地下鉄サリン事件が発生して23年が経過したいま、『これで永久に不明のままになってしまった』と受け止める立場というのは、「不明の事柄が多く残っているにも関わらず死刑判決を下したのは不当である」という思考と実質は同じだ。

本当に事件の要点で不明のまま残されていることは多いのだろうか?判決は不当だったのだろうか?

たとえば<オウム真理教 書籍>と検索してみるだけで、実に多数の本が出版されていることが分かる。加えて、オウム裁判において記録されている膨大な資料がある。また、捜査・検察当局が作成した調書。これらは情報として公開されなければならないし、実際、公開され、吟味され、また新しく本や論文が執筆されることだろう。

それでも事件の中で100パーセント分からない部分は残るに違いない。これまた当然だ。そもそも〇〇年●●月△△日の***会議において、自分はなぜあんな発言をしてしまったのだろうか、あんな意見を述べさえしなければ、また違った結論になったかもしれない。小生だって、そんな記憶は幾つかある。自分にだって動機が分からないのに、他人の言動なぞ100パーセント理解できるはずがない。

それを言っちゃあ、おしめえヨ

まあ、そんな結論になるのだが、だからこそ『勝機がゼロであると知りながら、なぜ日本は日米戦争の引き金を引いたのか?』、『清水の舞台から飛び降りることも必要だとその時の東條首相は言ったらしいが、それはどういう意味だったのか?』とか、今もなお議論百出でいろいろな「事実」が掘り起こされている。そういうものですよ、としか言えないのではないか。

小生の好きな詩人の一人に三好達治がいるが、小品"Enfance finie"の中に次の下りがある:
今日記憶の旗が落ちて、大きな川のように、私は人と訣(ワカ)れよう。床に私の足跡が、足跡に微かな塵が‥‥、ああ哀れな私よ。
「世界」や「存在」は記憶の中でのみ存在することができるものである。とすれば、その存在も、人も、事実も、時間の中における一瞬の出来事でしかない。実に儚い自己意識がここにある。

社会で可能なことはマネジメントである。というか、マネジメント以上の何が可能だろうか?『分からない』と人がいうとき、『分かるべき何ものか』がそこに存在していることを前提しているが、実はそんな実体はない。『自分はいまこう思う』と、人に言えるのはこれだけだ。だとすれば、永遠に人は何かについて語り続けることができるだろう。それでいい、というかこれ以上の何が可能だろうか?

*** ***

ある日の試合で勝った野球チームがある。『これで勝ち方の何たるかを理解したよね、だから明日も勝てるでしょ?』と、このくらい馬鹿々々しいセリフはないのは誰にでも分かるだろう。

でも負けた。負けたのはなぜ?理屈としては勝ち方を知っているのに負けた。あなたの責任だよね。これまた意味のない理屈である。

そのとき何をするかを決めることしか人間には出来ない。それが動機といえば動機になるのだろう。が、動機を知ったところで、なぜそうなったのかを理解することはできないのだ。

論理的思考で人間や社会の核心は理解できない。当人になってみたって自分が自分で理解できないということを知るだけだ。作家モームの言うように『人間は矛盾に満ちた存在なのだ』。

小生はこんな世界観が大いに気にいっている。

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