2018年8月30日木曜日

そもそも「結婚」の目的は

そもそも「結婚」という制度はなぜ存在するか?「結婚」の目的は何かについては、本ブログでも小生の個人的かつかなり保守的な意見を投稿したことがある。最近でも一つアップしている。たとえばこんな事を書いている。
なぜ結婚をしようと人は決めるのか? それは、新たな生命を創り、子とともに新たな家族を築いていこうと(その時点では、少なくとも)当人たちが決意するからである。
・・・ 
こう考えていたことが確認できる。これ以外に「結婚」をどう考えればいいのかという意味では、基本的に小生の考え方は変わらない。 
なので、そもそも最初から「子供は要らない」と決めているのであれば、「ではなぜ結婚するのですか?」と。同棲がより純粋である。(後略)
今年の8月5日の投稿だ。

ロジカルに考えると、いま読み返しても、その通りだと思ってしまう。

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今週の月曜から火曜にかけて下の愚息と入籍したばかりの嫁が二人で拙宅にやってきた。何度か会ったことはあるが、今回は入籍(=結婚)のあと初めて拙宅に一泊する予定であり、「お泊り」は初めてだったのだ。

愉快な話ができた。

結婚式や披露宴は来年のことになりそうだし、入籍だけでしかも同じ勤務先とはいえ配属先が異なるため、当分は「別居婚」である。嫁と言っても、いわば「パートタイム・ワイフ」であり、フルタイムの嫁ではまだない。それでも立派な息子夫婦である。

カミさんとは『あれで子供はどうなるのかねえ?』とか、『育てられるのかねえ?』とか、まあ子供が結婚をすれば、親は普通こんな話をするだろうという話をしてきた。

ところが現実に夫婦となって拙宅を訪れ、帰って行った二人をみていると、「お世継ぎ」がいつ出来るかどうかはともかくとして、それより以前に『あいつも仕事ばかりの人生にならずにすんだなあ』、『家に帰ると心が温まるようになって、これは何よりの前進だな』、『世継ぎがいつできるか分からんけど、アイツが枯れ果てたような毎日を世の中こんなものとサ、思いながらネ、我慢して送ってるわけじゃないと思うだけでもサ、ホントに一安心だねえ・・・』と、こんな話をカミさんとしているから驚きだ。

「結婚」の目的は、(古代ギリシア以来)この世界の最高善である「幸福」を実現することにある。その蓋然的な帰結として子供の誕生と世代継承がある。まずそもそもの初めに幸福を求める意志がある。

「結婚」という制度は子供の養育にあるという考え方は、人生の実質をみない、あまりに形式論理的な言い方である。

そんな気がしてきた。小生はすぐに意見を変える。今回もその一例である。



2018年8月27日月曜日

メモ: 「上意下達」と「パワハラ」、「民主主義」

シュンペーターの著作に『資本主義・社会主義・民主主義』という大著がある。小生も若い自分に読んだのだが、完読はせず、つまみ食い、すべて精読したのは最近になって時間が出来てからだ。

上のタイトルに比べると、本日の標題は実に矮小、そういえば最近の社会科学(特に経済学、マーケティングが念頭にあるが)の論文テーマは非常にピースミール化していて、よくいえば専門化、技術化が進んではいるが、悪く言えば「重箱の隅をつつくようなヒット狙い」の論文も目立つような印象をもっている。

昔は違っていたねえ・・・一般均衡の存在問題、動学的安定性、マクロ消費関数の存在の必要条件などなど、学問的重要性が否定できないような論点ばかりだった。それが何だい・・・と言い始めると、既に老害である。具体的な問題に実証的結論を出すのが社会科学である。ピースミールでもいいではないか。

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極端なケース(extreme case)で基本概念はどのように機能するかをチェックすることは、新しい概念を適切に定義するには不可欠のステップだ。種類によらず「ハラスメント」という用語が登場してまだそれほどの年数がたっていない。1世代が過ぎるまでは言葉に込める問題意識も変化していくであろう。

では極端な思考実験:

PKOに派遣された自衛隊、あるいはもっと極端にして、戦闘現場に直面した部隊をとってみよう。敵を制圧するべく前進命令を下す将校はパワハラを犯しているのだろうか?たとえば銃撃を繰り返す凶悪犯を包囲して相手は何を所持しているか不明の段階で、強硬突撃を命令する警察幹部はどうなのか?

『敵軍より味方の上官に恐怖を感じる部隊であれ』というのは、古来、軍律維持の鉄則だったという。上官がより怖いので兵士は敵に向かって突撃しより高い確率で生きようとする。これが攻撃へのモチベーションである ― 勝利で英雄になろうとする自発的動機もある(この辺はツキディデス『戦史』を参照)。

「上意下達」という概念と「パワハラ」という概念はどう関係し、対立するのか?

「民主主義」は近代社会で重要性が確認されている価値である。「民主性」といってもよい。これは特に「政治」という次元においてのみ測定される価値なのか?たとえば、会社組織においては「民主性」という価値は無関係なのか?もし「民主性」という価値と無縁であるなら、「人権」という価値とはどう関連するのか?「人権」という価値は、「民主性」という概念に包含されているのではないか?「民主的」でなくともよいのだという局面があるなら、「人権」という価値とも無縁になるのか?それとも「人権」と「民主性」とは別の価値であるのか?とすれば、民主主義ではないが、人権は尊重されるという社会システムもありうるのか?

社会の中にサブシステムともいえる会社や政府、団体などの組織を設けるのは何故なのか?

経済発展におけるイノベーションの重要性を指摘したシュンペーターは、資本主義・社会主義・民主主義の関連性について真剣に考察した。これに比べると、ずいぶん細かく、どうでもいいような印象はあるかもしれないが、社会組織の運営における上意下達・パワハラ・民主主義の関連も真面目に考えてみてもいいかもしれない。

2018年8月25日土曜日

メモ: 勝負の世界、競争の世界の人材評価は実に単純だ

またまたスポーツの話になるが、それもスポーツ話題で世間がどんな議論をしているのかで、いまの世相の特徴が浮かび上がってくるような気がするためだ。

ジャカルタで開催中のアジア大会で女子レスリングの金メダルがゼロに終わり「惨敗」と称されている。女子レスリングという種目が日本のアマチュアスポーツ界の華であり「ドル箱」ならぬ「金メダル・ゲッター」であったことは、小生だって知っている。それが突然に金メダル・ゼロになった。それでニュースになっているようなのだな。金メダルをとれなかったからニュースになるなど大したものだ。

巷では、女子レスリング会の指導陣に責任があるという。具体的にはパワハラの責任をとって解任された前監督の後継体制が確立されていないのだ、と。そんな指摘なり、批判が大勢を占めている。

しかしなあ・・・

金メダルを獲得すれば、それは監督やコーチではなく、選手の功績。負ければ、それは選手ではなく、監督やコーチの責任になるのだろうか?

非対称の議論ではないかと、直感的に感じる。

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小生はビジネススクールで授業を担当してきた。

本場のアメリカでもそうだが、ビジネススクールの目的はトップ・マネジメント能力の底上げである。つまり、企業というのはトップの力量によって、成長もするし、没落もする。そういう経験則にたっているからこそ、経営戦略やマーケティングの基本戦術について勉強機会を提供しているわけである。

人材育成で重要なのは、現場を鍛えることも大事ではあるが、何より司令官・将校クラスになれる人材を育成することである。ヨーロッパもアメリカも明治維新後の日本でもそうやってきた。企業なら社長は当然として、部課長クラスに有能な人材がひしめいていることが大事だ。

小生も、この基本認識には賛成だ。若くてヒラのころは「現場で頑張っているのは自分たちだ」と、そう思っていたこともあったが、それは最も陥りやすい間違いだ。頑張り甲斐のあるやり方を決めてくれるのは指導陣だからだ。

企業や軍隊ばかりではない。たとえば高校野球、大学野球、アマチュアスポーツ、プロスポーツを含め、勝負や競争の場において、指導者の力量は実際にプレーする選手よりも、勝利を決めるうえでの決定的要因であると思っている。

リーダーこそ勝敗を決めるというのは、無数の経験で裏打ちされるとも思っている。

★ ★ ★

ナポレオンの名言にこういうのがある:

リーダーとは「希望を配る人」のことだ。
一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れに勝る。
悪い連隊はない。悪い大佐がいるだけだ。ただちに大佐のクビを切れ。
「悪い連隊」とは「勝てない連隊」であり、「良い企業」とは「成長できる企業」である。「強いチーム」とは「勝てるチーム」であり、「よい監督」とは「勝てるチーム」を育てた監督。「悪い監督」とは「勝てないチーム」を編成した監督。「悪い大佐」と同じである。

ま、このくらい書いておけば、メモになるか・・・

どうも小生には、こう思われるのだ、な。

2018年8月24日金曜日

五月蠅い選挙運動に平和なひと時を邪魔されて思ったこと

この春から愛用しているWalkman ZX2にJVC FX1100をつないで、これも最近お気に入りのブラームスのV.C.を聴いていた。亡くなった母はベートーベンのV.C.やメンデルゾーンを好んでいて、その影響を受けたのかブラームスはこれまでどちらかといえば疎遠だった。ところが少し以前に第2楽章を聴いて思わず涙がこぼれそうになった。それで改めて何度も聞きこんだ。何度聴きなおしてもその深さははかりしれない。なぜ今まで分からなかったのかが分からない。

聴いていると、街宣車、いやいや来週末にある市長選挙に立候補している誰かが選挙運動で周っている声がする。何を言っているか分からないが、スピーカーから大声が聞こえてくる。
ヤレヤレ、1分か2分、スピーカーで『この町を変えましょう、この町には問題が山積しています。変えましょう!』などと叫んで回ったからといって、誰が投票するかねえ、あなたに
せっかくの名曲も台無しになった。

まったく、叫んで走り回ったから票をもらえると本当に思っているのだろうか?だとすれば、阿呆である。

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小役人の時には上司を選挙で選ぶなどという風土は無縁だった。しかし大学に戻ってからはトップは選挙で選ばれる ― もちろんこのシステム自体が嫌だと感じる社会人も数多いると想像する。大学で学長選挙ともなれば、候補者は抱負と計画を(少なくとも)A4版4ページ程度の長さの文章にまとめて、配布しなければならない。候補者は学内の誰もが知っている人物であり、普段の考え方や人柄もわかっている。副学長や理事としてどのような仕事をしてきたかも皆わかっている。それでも、トップになればどのようなことをしようと思うか、やはり書いてくれないと分からないものである。だから、立候補者にはビジョンやプランニングの提出・公開を義務付けている(規定で明文化された文字通りの義務であったかどうかは、明確な記憶がないのだが、しかし構想を公表していない候補者はゼロであったと記憶している。もしいたなら負の印象を与えていただろう)。

責任ある立場に立候補する以上は、それくらい自分自身を見せる必要がある。公人としての覚悟の問題だろうと思うのだな。

ところが小生が暮らしている町の市長選挙立候補者4名のうち政策構想を公開している人は市役所の選挙サイトにアクセスしても2名のみである。2人はホームページを開設しているが、あと2人はどんなプランをもっているかさっぱり分からない。一人は現職であるので、今までの仕事ぶりをみてほしいということなのだろうか?

いずれにせよ、立候補者は自分自身のビジョンなりプランニングを示すことが義務とはなっていないということだ。何も語らずに立候補している。

そもそも「職歴」がよくわからない人がいる。職業生活を通してどんな仕事をどのように成し遂げてきたのか、何をどう問題だと考えたのか。公職を目指す人はオープンにするべきだろう。また、家庭生活はどんな風なのか。公職には無関係という人がいるかもしれないが、あまりに破綻した家庭を潜り抜けてきた人は(小生の先入観であるのは認めるが)社会や行政組織、職員に対する視線が歪んでいることがママある。やはり私生活も可能な限りオープンにするのが公人の鉄則だと思う。

ところが、何もわからない立候補者がいる。

これで投票するかどうかを決めてくれというのは無茶な話だ。

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ビジョンやプランニングの提出を義務化すると、構想力や表現力に乏しい人物から立候補する機会を奪ったり(≒参政権の実質的制限)、当選する可能性を制限(≒被選挙権の実質的制限)することになり、差別につながる・・・と。こんな風に考えているわけじゃありませんヨネ。

まさかネ。
賢人と愚人を選挙で差別することは違憲であります。 
賢い人間と馬鹿な人間が市長や知事、議員などの公職に立候補するうえで実質的に差別されることは、不当であり、法の前の平等に違反いたします
・・・と、こんな屁理屈を言う人は絶対いないはずだ、と言い切れないところに現代日本社会の一つの傾向、というか問題点があるような気がする。

みんなで人物の違いを吟味し、最大多数の判断に基づいて人物を選出する。選出された人物が適任者である。これが民主主義の定義といってもよい。「法の前の平等」とか、「弱者へのまなざし」とか、同じ民主主義でも抽象的な日本語を使うとあぶない。適切に使えば切れ味を増すが、頭の悪い人が愛好するのもやはり抽象的日本語である。そういえば幕末の「尊皇攘夷」もそうであった、な。

気をつけないといけない。話しを短く具体的にできる人がスマートである。

2018年8月22日水曜日

高校野球: 地方予選の平等とは?

甲子園の高校野球については、ずっと前にも投稿したことがある。

この夏は大阪代表の大阪桐蔭と秋田代表の金足農業との決勝となり大いに盛り上がった。100回記念大会でもあった。

最近はタイブレークの導入、さらに球数制限が検討中ということで、選手の健康管理上の長年の課題も解決に向かっているようで、合理的で健康的、安心のできるスポーツになってくれるという期待も出てきたところだ。

それに伴って、戦前期の中京商業・明石中学延長25回、小生も観た松山商業・三沢高校延長18回引き分け再試合など、10代の若者が体力の限界に挑んだこれらの情景は、軍事教練が正課であった戦前日本の残り香とともに、夕闇の彼方に消えていく影絵の如くいずれは過去のものになっていくに違いない。

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自分の愚息が30歳を超えてくるともう「高校野球はこうあるべし」と言った風な考えはなくなる。

ただ、地方予選の平等という点が結構大事な事らしい。

その一方で、山陰地方(島根県だったか?)の代表チームは登録されている選手全員が近畿地方の出身ということだ。大阪府出身者が大半を占め、監督も関西出身だそうだ。地元はおろか、中国地方出身者もいない。これを世間では「外人部隊」と呼んでいるのは周知のとおりだ。

「外人部隊」、というより選手全員ともなると「傭兵」と言うべきだが、こういう言葉の表現自体に非難のニュアンスがつきまとっている。

この件と地方予選の平等とは意外と関連しているように思うのでメモにすることにした。

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たとえばサッカーのワールドカップは国と国との対決であり、故にチームはナショナル・チームであり、選手は海外でプレーしている場合でも母国に戻って母国の選手として出場する。だからこそ、サムライ・ジャパンは日本の代表となる。

以前の投稿でも述べたが、箱根駅伝もただ勝つのであれば全員をケニアからの留学生でチームを編成すれば限りなく勝利に近づく。それが留学生枠の制限からできないだけである。

大学野球でも選手権大会があるが、そこでは地域代表制はとらず、地域ごとで行われている大学リーグ戦の優勝校が本大会に出場している。個々の大学には全国から選手が集まっているが、そもそも大会が地域代表制ではないので、「外人部隊」などという批判はあまり聞かない。東京6大学が人気ではトップかもしれないが、東北福祉大学が大学日本一になったりすれば、やはり東北地方の人には嬉しい出来事だ。

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ネットの記事をみると、「進学の自由」や「学校経営の自由」が指摘されている。たとえ地元の高校生が一人もいなくとも、県外出身者のみで編成されたチームがその県の代表となること自体は問題がない、と。そんな意見が大勢を占めているようだ。

ただ(ケチをつけるわけではないが)今回優勝校の大阪桐蔭のエース・柿木選手は佐賀県出身というし、打線の中心でもある根尾選手は岐阜県出身という ― それでも大勢は大阪府出身者だろうとは想像する。誰がどこに進学しても本人の自由であるが、地元の高校に進学していれば、他の地元高校生とともに本大会に出場していたかもしれない。これは地元にとっては喜びであろう。県外出身者を集めることで強化策をとれば、県内出身者の出場機会は制限されるのだが、これはまったく問題ではないのだろうか?全員が県外出身者であっても地域代表制の理念と矛盾はしていないと主催者側は考えているのだろうか?

この点を一度直接聞いてみたいような気持はある。
が、まあ、一度、書いたことだ。

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思うのだが、春夏に甲子園で開催される高校野球は、形式的には「高校」が出場資格者なのだが、実質的には<18歳以下-野球クラブ-朝日カップ>とか、<毎日カップ>とか、そんな風な名称の全国大会に変質してきている、と。そう言ってもよいのではないだろうか。

実質的にやっていることが"U18-Baseball-Championship"であるなら、どこにクラブの本部所在地を置いてもよく、各地域で予選の平等をはかる必要はない。本大会に出場するまでの地方予選が楽な地域にクラブ本部を移転し、全国から有望な選手を集めればよいだけである。

甲子園出場をブランド戦略にしたい学校経営者なら最も有利な立地戦略を採用するであろう。経営戦略が異なれば甲子園大会に取り組む姿勢もまた違うだろう。予選の試合数に不平等があるなら、シード制をとればよい。そもそも有望な高校生は予選突破が楽なクラブ(≒私立高校)に所属する誘因をもつ。大都市圏の私立高校に野球をするために移住する高校生は出場機会とは別の動機からその学校を選んだわけである。大都市の地方予選が激戦であるから平等にしてあげようという配慮はどこかおかしい。どこかでそんな感じがするのだ、な。大都市を二つに分割しても、もともと全国ベースで出場機会を確保していた野球先進県出身者がますますチャンスに恵まれるだけではないだろうか。これを格差拡大と言わずして何とよべばよいだろう?

それでもよいという立場もある。サッカーのワールドカップ、オリンピックのチーム競技などでは、最近年の実績に基づいて欧州や南米、アジアなど区域ごとの出場枠が決められている。人口比、チーム数比ではない。

今夏は大阪桐蔭高校が優勝したが、最近10年間は以下のようになっている。
2008年 大阪桐蔭
2009年 中京大中京
2010年 沖縄興南
2011年 日大三
2012年 大阪桐蔭
2013年 前橋育英
2014年 大阪桐蔭
2015年 東海大相模
2016年 作新学院
2017年 花咲徳栄
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2018年 大阪桐蔭

昨年までの最近5年間に限れば東日本が4回、西日本が1回の優勝だった。10年間に広げれば、東日本が5回、西日本が5回とイーブンになる(愛知県は西日本に含めた)。

東日本が優勝するときは色々な学校に散らばっているが、西日本が優勝するときは大阪桐蔭の優勝が目立っている(特に最近年は)。

この夏の大阪桐蔭高校の復活は、最近劣勢であった関西勢が西日本の総力をあげて反撃に転じたという見方も可能かもしれず、そんな強化戦略が採れるのは、もはや地域代表制が空洞化して、移動の自由な「野球クラブ制」に時代が移りつつあるが故である。そんな気もするのだな。

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都道府県別の代表制を採用したのはなぜなのか?何を期待しているのか?目的は何か?その根本理念に戻って、21世紀の野球選手権大会の姿を早く見せてほしいものだ。

甲子園大会が始まったときの根本理念は、野球の全国的普及を通した心身の育成鍛錬、地方それぞれで共有される一体感の醸成、地方(=本籍地)ごとに召集される陸軍連隊の絆の形成。これらに最大の動機があったことは明らかで、指摘される機会も多い。全国の男子国民にひとしく兵士としての鍛錬が求められていた、そんな時代の精神が大前提として意識されていた。この点は否定できないのではないか。一口に言えば、富国強兵。日清・日露戦争を経てまだ植民地帝国としての路を歩み始める前の大日本帝国で、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発した二年目という1915年(大正4年)という時期に、朝日新聞社が「第1回全国中等学校優勝野球大会」を企画した目的は、スポーツを通して全国津々浦々で「強い兵士」を育て、向上のためにはスパルタ主義を好しとし、国防に貢献することにあったのであり、「ハイレベルな野球選手」を養成することにはなかった。プロ野球もまだ結成されていない時代、このことは戦前という時代をリアルタイムで生きた父の世代には自明の事実であったろうと、生前の父との会話を思い出してもそう推測しているのだ、な。そう考えれば、夏の甲子園・延長25回が美談となったのも実に必然である。

上の両極端の目的の中間あたりで大会の目的が漂流している。高校野球はあくまでも学校教育の一環である(べし?)、と同時に世界に通用する野球選手が甲子園から出てくることも期待されている(はず)。だから、肩を壊してしまっては元も子もない・・・と世間は感じている。

100年もたてば社会状況は大きく変わるものだ。タイブレークのようにルールを見直すのと同時に、新しい時代の中で春夏の甲子園大会をどんな理念で継続するのか?猛暑の中で連投をいとわず、それでも継続するに値する理念とは何なのか?そこを一度聞いてみたい気がする。

まあ、有力野球クラブ(=私立高校大手)が優勝を目指して切磋琢磨する「18歳以下・野球チャンピオンシップ」のような行事は、もはやエンターテインメントであって、朝日新聞社に主催を継続するモチベーションはないとは思うが・・・。

2018年8月21日火曜日

マスコミの暴走、ネットの無法、which is better?

全国的な影響力のあるマスコミ大手が偏見や先入観をもって報道すると、残酷な「社会的制裁」が発生する。いまだ無抵抗の社会的制裁被害者に日本の裁判所が数億円規模の損害賠償をメディア各社に命じた事例はない。小生の不勉強かもしれないが、そのはずである。

が、インターネットのほうも決して言論の理想郷などではない。誰も管理していないということは、誰が何を言っても(=書いても)許されるのが基本だ ― もちろん余りに世間を憤慨させることを書けば「炎上」する。本人にはね返ってくる。とはいえ、極論、愚論がそのまま流通している状況は「フェークニュース」ではないにしても、民主主義にとって危険であるかもしれない。

たとえば・・・

富田林署から逃亡した窃盗犯。まだ捕らえられていない。どこに潜んでいるかというので、連日、TV報道をにぎわせている。昨日だったか、一昨日だったか、大阪府警本部長が報道陣を前に公式に謝罪した。この先の猶予はせいぜい10日ないし2週間程度ではあるまいか。このまま逃亡犯を確保できないままに、次の9月の俸給支給日が来るとして、大阪府警の最高責任者が何事もないかのように椅子に座っているという事態はちょっと想像できない。

留置管理を怠った警察の責任であることは自明である。

ただネットの投稿をみていると、人は色々だと思う。前の(いや、その前かもしれない)府知事だったH氏は『接見して何も言わずに帰った弁護士が悪い!その弁護士を処分しない弁連が一番悪い!!』と、そんな風に語っている。

確かに、小生、ニュースを最初に聞いたとき「これは弁護士と共謀した逃走劇ではないか」とすら感じたものだ。しかし、弁護士にはそんなことをする動機はないし、下手をすれば自分が逮捕される。弁護士は刑事犯の利益を代弁する本来の業務を遂行しただけだろう。入口扉のブザーが鳴らないように電池を抜いていたのは警察の勝手であり、そんな怠慢をオープンにするはずもなく、弁護士はブザーが(どこかで)鳴ると思って帰宅したのだろう。逃亡犯が「自分が署員に言うから」とも言っていたそうだ。そもそも弁護士は警察と「協力」する関係ではなく、むしろ「敵」であると言ってもよい。

もちろんこの弁護士と逃亡犯の間に信頼関係などはなかった。これは確かだ。逃亡計画のダシに利用されたくらいだ。世間の弁護士と依頼者との関係など、ほとんどがルーティンワークであり、形式的かつ機械的。TVドラマ化できるような人間劇など、実際には極めて例外的事象なのだろうとは思う。利用された弁護士は、決して逃亡犯の利益を真剣に守ろうとする有能な弁護士ではない。これだけは言えるだろう。

プッと失笑してしまったのは『警察も悪いが、一番悪いのは逃げた犯人だ!』。いやいや、笑ってしまいました・・・まるで上方漫才である。さすが大阪・・・

犯人は自首したわけではない。犯罪をおかし、もっと逃げたいと思っているのを、逮捕され留置されていた。そもそも「逃げたい」と考えている人物を国家権力である警察が拘束していたのだ、な。自由にどこかに行きたいと考えている人間を警察が拘束できるのは、それが警察の職務であり、権力を有しているからであり、刑事裁判が開かれ判決が下るまで身柄を管理するのは、検察・警察の業務である。

接見が終わったと言ってくれなかった弁護士が悪い!
俺たちも悪いが、逃げたあいつが一番悪いやろ!!

<責任逃れ>としては典型的だ。小学生もここまで頭の悪い言い訳はしないだろう。ところがインターネットでは堂々と書かれている。ここが編集長のいるマスコミとの違いだ。

ネットは「まずい」と思えば自ら「削除」できるが、新聞は一度配達した新聞を「撤回」できない。せいぜいが誤報を謝罪できるだけだ。ネットの書き手も時に謝罪することがある。しかし炎上したネティズンが自分の暴論を謝罪して、その後復帰したという例はあまり見たことはない。

やはり無責任を基本とするのがインターネットという場ではあるまいか。

どちらもどちら。Which is better? である。が、この二つには共通点がある。「自分はこう考える」というのが「意見」であるのだが、マスコミは既に「何を語れば多数の満足を得られるか」を基準に自分のいう事を決めている節がある。インターネットはこんな営業バイアスからは自由であると思っていたが変わってきた。最近のネット投稿もまた閲覧(視聴)者数の増加が書き手の利益につながるケースが多い。故に「意見」ではなく、多数者の話題になりそうなことを書いているのではないか。そう思わせるような記事が増えてきた。

すべてはビジネス化する。呑気な暮らしにもいつかカネが狙いのビジネス動機が入り込む。自分が欲しいかではなく、世間が欲しがっているかどうかで買っておくかを決めるようになる。"Time is money"を超えて"Money is all". これが資本主義社会の鉄則とはいえ、真の「言論の場」を形成することがいかに困難であるかを改めて感じる。自分の損になる種類の「意見」はそもそも言論の場に出てこないのだ。というか、文字通りの「意見」を文字通りの意味で戦わせている場は、現代の日本社会にはない・・・と、気がついてきたのが近ごろの気分である。

「意見」とは本来パーソナルで嘘もてらいもないはずだ。そのパーソナルな意見を表明できるとすれば、いまはマア「選挙」でしょうナア~~~。他にはありゃあしませんぜ。言論?新聞?テレビ?ありゃビジネスでござんすヨ。支持者や読者を増やすための言論ビジネスってえやつで、意見の表明なんてもんじゃござんせん、受けるかどうかが狙いにちげえねえって。こんな風に思う昨今であるのだ、な。

Which is better? である。

ただ、富田林署逃亡事件で救われるのは、世間の圧倒的多数の反応は警察の怠慢を非難するものであり、責任を逃れる屁理屈に肩入れするような風潮はないという点だ。この点ばかりは、日本の社会がまだ健康さを保っている証拠である。

2018年8月20日月曜日

この話は「無思慮」か、「無意味」か 

巷で漢文は役に立つのか立たないのかという話があるそうな・・・

本気で受験勉強して、大学も結構勉強して、大学院でも勉強して、社会人になっても仕事でそれなりに成果出しているという認識を持っていますが古文漢文が役に立った経験は少なくともありませんね。他の学問は役に立ってますが、漢文については眠いときに「春はあけぼの」というくらいしか使ってない

上のツイッター投稿に対して真正面から反論している内容に関心を覚えたのだ。反論であるから主旨は『それでも漢文は現代社会において役に立つ。例えば・・・』というものだ(URLはこちら) 。

反論で展開されている点は、そのとおり、だと思った。そもそも上のツイッター投稿だが、「春はあけぼの」は漢文ではなくて、日本の『枕草子』じゃあないですか?「春眠不覺曉」の勘違いだろう。とまあ、そんな問いかけは一切超越して、「漢文・古文は役に立たんヨ」という人が多くいることは想像できる。

客観的に言えば、漢文の教養、古文の教養がなくとも、ビジネスマンとして有能であることは可能である。また、西洋史のフランク王国やビザンチン帝国のことを知らなくとも、日常業務に支障はないだろう。更にいえば、力学の3法則、アルキメデスの原理もいらないし、一定の初速と角度で投げたボールが落ちる地点を予想する計算も知っておく必要は全然ない(はずだ、エンジニアは別として)。化学反応式も知る必要はない。生物においてATP(アデノシン三リン酸)が果たす役割も知っておく必要はない。数学も数学Ⅰだけでいいでしょう。微積は工学部卒にやってもらえばいい。というか、中学校の簡単な方程式を解ければそれで十分かも・・・という風に議論を詰めていけば、有能な営業マンや経営企画担当者になるために必要な知識はごくごく僅かですむはずだ。まあ、四則演算、常用漢字、いわば読み書き算盤である、な。

英語能力はいずれにしても分野を問わず必要であるから、必要|不必要の議論の対象外とする。それも、マア、ビジネス英語で十分だろう。

大事な事は、ほぼすべて、OJT。現場で覚えればよい・・・。ずっと役立つ。学校がつらいと思っている人は、なにも「学校」にこだわる必要は全くない。教科書にも、本にもこだわる必要はない。この意味で漢文が役に立つ機会はまれだ(というか、小生の経験でもなかった)。知識や技術は、社会という学校で経験を通して身につくものだ・・・と、本筋から離れてしまったが、小生はいまこのように振り返っているところだ。

がしかし、こうなると、ビジネスエリートとして能力を発揮するために必要な知識・技術がこれほどまでに(本当は)僅かである、という議論になるが、この見方はおかしくないか?

この問いかけが出てくるのではないだろうか?この点が実は最も重要だ。

★ ★ ★

「自分にとって役に立たない」イコール「社会には不要である」というわけではない。「自分にとって役に立たない」イコール「自分には不必要」だと思う人は、無理して勉強する必要はないのではないだろうか。多くの人は中学校のあと職業高校か、専門学校に進めば十分な「実用知識」が得られるはずだ。得にもなる。

役に立つと思うか、思わないか。意義があると感じるか、感じないか、それはその人の志による。どういう風に生きたいと思っているかによることだ。

確かに
知は力なり
ではあるが、求める知識をどの辺におくかは人によるのである。

2018年8月19日日曜日

メモ:安倍首相三選後の予測

安倍現首相に三選はないと断言的予測をたてたのは、昨年6月29日の投稿においてであった。

そこではこんなことを書いている:
まず①だけを先行的に。
安倍首相は自民党総裁選挙で三選されない。
ブログでそんなことは書けないが、賭けてもよい位の自信がある。
今や現首相の三選がホボホボ確実になってきた情勢のようだ。

安保法制可決、共謀罪可決、モリカケ問題と文書改竄、etc.、色々な障害を乗り越えてきて、それでも支持率が40パーセント前後で高止まり(?)していて総崩れにならないのは、「安倍政治」に賛同する固い支持基盤があるとしか解釈できない。日本社会の「右傾化」は、マスメディアの語り口というのにとどまらず、相当程度、日本社会の現在のトレンドを反映しているのだろう。

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そもそも対外的緊張がある。これ自体、現政権には追い風になる、というのが経験則だ。

国内をみると、まず雇用状況が空前の人出不足だ。この状況が続けば、賃金はこれまでの下落から上昇へと基調が転換するのは必然だ。もしAI(人工知能)がなければ、とっくに賃金上昇が始まっていただろう。東証株価指数は首相就任直後の2013年1月4日から現在まで900.0弱から1700.0前後まで概ね2倍の上昇になった ― 昨年末には1800を超えていたので2倍を超える高値となっていた。実質賃金指数は在職期間を通してマイナスになっているが、国民一人当たりの実質GDPは2013年から17年までの期間中、5%の増加、1年では1%程度の平均上昇率である。ピケティのベストセラー『21世紀の資本』では
年率1パーセントの経済成長は大規模な社会変革をもたらす
というサブタイトルがあるほどだ(もちろんこの成長率は一人当たり産出高である)。決して未来創造的なイノバティブな政策に着手しているわけではないが、かといって脱原発を急進的に唱えてマクロ経済の崩壊を招いたりすることはしていない。理論的に「正しい」金融政策を固守しながら株価崩壊を招くということもない。閉塞感のある日本経済とよく言われるが、失業問題、不良債権、狂乱物価に悩まされている状況とは程遠い。デフレというが、そもそも株価が上がり続けるデフレ問題は大した経済問題ではない。

更に、国際収支は黒字基調が続いている。対米、対中、対ロ、対欧、対ASEAN等々、外交関係も困難はなく、TPPはUSが抜けたものの残り11カ国でまとまった。 EUとも先ごろ『日EU経済連携協定』に署名まで至り、今後時間をかけて関税が撤廃されていく方向になった。

「経済面でかなり得点を重ねている」という評価に対して説得力ある反対意見を展開できる人はまずいないはずだ ― もちろん未解決の構造問題も多々残っているので更なる努力が必要だ。

こんな社会経済状況の中で現職が負けるはずはない。これが基本だろう。

★ ★ ★

それでも、昨年は「首相三選はない」と予想していた。その主たる理由は、昨年夏の段階までに森友事案、加計学園問題について内容とはバランスが全然とれていないほどの非難が首相個人に浴びせられたからである。モリカケ程度でこうなるのだから、首相が本懐とする憲法改正を持ち出せば、その数倍を超えるほどのスケールで反対運動が展開されるはずだ。

加えて、来年は参議院選挙がある。憲法改正を公式に持ち出して、社会不安を招くほどのデモが多発すればどれほど劣悪弱体な野党勢力であれ、与党が自滅する可能性はゼロではない。

さらに(おそらくではあるが)2019年に入ってから(早々かもっと早いと思うが)株価は循環的な下落局面に入っていくはずである。政府の経済政策の失敗であるわけではなく、景気循環的にそう予測されるわけだが、マスコミは政権の失敗であると主張するだろう。そんな中で10月には消費税率の引き上げが予定されている。次は引上げ延期は無理だろう。万が一延期すれば「財政無責任論」がまきおこる可能性が高い。これがまた実にリスキーである。

三選は可能かもしれないが、あえて暴風雨が予想されるなか身をさらすような無謀は避けるはずである、と。そう思われた。政治的寿命をすべて使い果たして無念の退陣をするよりは、任期を満了して禅譲し、後々の政治的影響力を保持するほうが得に決まっている。そう思われたのだ、な。

しかし、上のような発想はド素人の戦略であり、「やりたいことはやれるときにやる」。どうやら日本の政界の鉄則はこういうものであるらしい。




2018年8月18日土曜日

断想: 「正義」には品格がない

人間の怒りは正義の感情の発露だという説がある。

と同時に、怒りに震える人は人を罵倒し、ののしり、時に人を突き飛ばし、人を殴りつけることもあるので、周りにいる人はその人に下品さを感じることが多い。

電車の中で(理由はわからないが)他人に怒りをぶつけて大声でののしる人、教室の中で生徒の一人を大声で叱責する教師、グラウンドで失敗をして顔を伏せている選手に対して怒り、罵倒する監督・・・、いろいろな場面はあるだろうが、怒りの感情をそのまま他人にぶつける人に尊敬を感じる人はいないはずだ。「まあ、気持ちは分かるけどネエ・・・」という人はいるかもしれないが。

利益ではなく、怒りによる暴力は、多くの場合、(少なくとも当人にとっては)正しいのだ。

二つを総合すると、「正義」とは人をののしるものである。「正義」とは人を罵倒しても許されると思い込むものだ。「正義」とは他人を傷つけても分かってくれるものだと甘えたりするものだ。

「正義」には品格がない。
「正義」とは下品なものである。

「正義」を唱えるジャーナリズムに時々ゲンナリした気持ちになるのはそのためである。

小生は下品よりは上品のほうが好きだ。『バカヤロー!』と罵倒されるよりは、『あなた大したお人だ・・・』と皮肉られると、会話が面白くなるし、と同時に身の置き場がなくなる思いをしたりする。

2018年8月14日火曜日

読み終わるまで40年近くたった小説(ネタばれ)

先日の投稿では『スタンブール特急』ではなく『ヒューマン・ファクター』を買ったということを書いた。

なるほど当時のベストセラーになっただけあって悪くはなかった。

Amazonから『スタンブール特急』が届いたので読んでみた。若くて、まだ小役人をやっていた時に読もうとした以来のことだから、手に取るのは40年・・・は、まだ経っていないか。が、まあ過ぎた時間を考えると、最初の部分をどんな気持ちで読んでいたかはもう思い出すことができない。多分、オリエント急行を舞台にしたグリーンの小説ということでワクワクしていたのだろうということは想像がつく。


この小説は"Entertainment"であると著者自らが分類した作品であるので、「純文学的」には評価対象になることはない(なかった)。

ここで「純文学的」と言ったのは、登場人物の造形にリアリティがあり、プロットに自然さなり独自性があり、人間存在や社会の深遠さが伝えられていて「思想」があるということを言うのだろう(と勝手に思っている)。

その意味では「純文学的」ではない。

しかし、評判の『ヒューマンファクター』よりは、小生、よほど面白かったネエ・・・これだけは書いておこう。小説の評価なんて、当てにはならない一例だ。

グリーンは巻頭に気の利いた名句を挿入する癖があるのだが、ここにもあった:
この世にあるものはすべて、
その理想的な本質において抒情的であり、
その運命において悲劇的であり、
その実存において喜劇的である。
脇役というより主人公に近い役割を担っている教師リチャード・ジョン(=医師・革命家リヒャルト・ツィンナー)についてだけは内面に立ち入って造形されている。

その両親と当人との人間関係が実にいい。

銃で撃たれ逃げ込んだ倉庫の中で死を迎える老いた革命家が夢をみる。夢の中にいる両親は「偉く」なりすぎた息子との疎隔を隠さない。それでも親らしく
おまえはやれるだけのことはしたのだ、まじめだったヨ
こう伝えるときもそうだが、そこで死をみとる娘が
ほんとに割があわないことだわ
こう思うとき、これは"entertainment"ではあるが、小生自身にも語られた文章表現であると感じるほどだ。その意味で実に普遍的である。

革命家と娘をおいて先に逃げた盗賊が娘を探しに来た青年の乗っていた自動車に乗りこむ。そのままコンスタンティノープルまで無事逃亡できた事がわかる終幕もわさびがきいている。

ただ面白いだけの作品ではない。上の巻頭言に内容は凝縮されている。

確かに多くの人物は霧の向こうにいるようにボンヤリとしている。そこが「純文学的」ではない。が、雪で前が見えないオリエント急行で起こった話であることを思えば、どの人物も影絵のような輪郭として登場したのは必然であった。



2018年8月10日金曜日

「道徳」ではなく、経済学と哲学の意義を感じるこの頃

日本ボクシング連盟、東京医科大学の「不正入試」(?)、日大で相次いで発覚しているパワハラ問題もそうだが、いま世間の雰囲気は「怪しからん!」という感じであり、一口に言えば、関係者は「バッシング」の嵐の中にいる。「解決策」というタイトルの投稿記事もネットには見受けられる。

(当事者になってみると小生にも多分わからないと思うのだが)「怪しからん」という道徳的非難にはどう対応すればよいのだろうか?

怪しからぬ問題点を手段を選ぶことなく最優先で消失させればよいのだろうか? 関係者の「粛清」をすればよいのだろうか? これまでの関係者は邪悪であり、周辺で傍観していた人たちは正義の側にあるということなのだろうか? 要するに、世間は(にわか勉強を繰り返しているマスメディアのことだが)、現在の問題について大事な事をほとんど知らないのではないか? いわゆる「第三者」にまかせて経営再建ができた企業はどれほどあるのだろうか?

またしてもモームの名言を思い出す。
他人の間違いには厳しいが自分の間違いには甘いのは、そのときの事情を自分が一番よく知っているからである。
原文をみずに書いているので文章は少々違っているかもしれない。『サミングアップ』の中に出てくる一句なのだが、小生、この名言が非常に気に入っている。

***

あらゆるトラブルは、問題となる病理的症状の確認、その症状をもたらす原因の特定(=診断)、原因の除去、抑制をはかって解決(=治療)する。こんなプロセスを経るのだが、最近の報道記事やネットで流布している投稿を読む限り、「診断」の段階において学問的未発達を感じることが多い。知的な未成熟を感じるのだ。

たとえば、ここに急病で苦しむ患者がいる。高熱があり、腹痛、頭痛、背中痛、咳の症状が認められる。観察されるこれらの症状を確認した医師が、
これで現在の状態は整理できましたから、「重点志向の原理」にしたがって、まずは最も苦痛を与えている「腹痛」を解決することにしましょう。苦痛の8割は2割の原因からもたらされているのです。これを解決できれば、あとは順次、解消されるはずです。
こんなザレ言を口にする「医師」はいない。問題領域には領域ごとの専門的学理がある。学理は経験と観察から帰納的に蓄積された知の体系である。「パレートの法則」があるからといって、それを病気治療に当てはめるのは、単なる無知に他ならない。

普通の医師なら、複数の症状をもたらしている主因がインフルエンザではないかと推測し、まず検査をするはずだ。

そして病名の特定に全力をあげるはずだ。病名が特定できれば治療の方針が明確になるからである。

***

戦後世界経済のある期間、『いまや世界は失業問題から解放されたのだ』と、夢のような見通しを口にする経済学者が続々と登場した。ケインズのマクロ経済学を発展させた「新古典派総合」に立脚する経済学者たちである。

しかし、ベトナム戦争が激化する中でアメリカ財政は悪化し、インフレが高進した。物価上昇は景気後退に入ってもむしろ加速する「理解できない状況」となり、新種の経済問題として「スタグフレーション」という新しい名称が与えられた。その解決策として戦後の伝統となっていた需要管理政策ではなく、賃金上昇を抑制する所得政策が提案されたのはその頃だったと記憶している。また、1972年から73年にかけてオイルショックが発生する前から日本では「狂乱物価」の状況となっていたが、その現象に対して恩師が所属していたK大研究所は"Polypoly"という名を与えた。あまり発生しない経済問題であるとして対処策を議論する様子をみるのが、当時大学院生であった小生には大変刺激的だった。

***

東京医科大学で行われていた差別的得点調整に対して、世間の議論は「問題点は〇〇と△△であり、これは医療の現場で***という現実があるためだ。だから、まず第一にこれをする、第二にあれをする・・・」と、こんな風なパターンの投稿が多い。ひょっとすると「重点志向の原理」が有効である問題領域かもしれないが、このケースはやはり医療サービスのサプライサイドで生じた問題が、入学者選抜にしわ寄せされたと認識するのが本筋だと思う。医療サービス市場の経済学的分析から議論をスタートさせなければ入学試験の問題は解決できない理屈だ。

とはいうものの、「選別的・差別的に扱われる」女子受験生の怒りを何とする?これは経済問題ではない。とはいえ、そこには「集団的怒り」がある。これもまた社会的な病理現象ととらえるべきではないだろうか。

これも含めて、小生思うのだが、セクハラ、パワハラ、マタハラ、差別的取り扱い、差別的ブラック行為等々、このところ数えきれないほど観察され報道されている社会的現象。つまり不当な扱いに対する「広範囲に高まっている集団的怒り」のことだが、入試の場に限らず、またスポーツにとどまらず、企業・官公庁、小学校以上のすべての教育現場、スポーツクラブ、LINEなどのSNSの場においても、日常的に頻発している病理現象である、と。そう思われるのだな。

「やる方」と「やられる方」がいるわけだが、その発生パターンは様々である。と同時に、類似性もある。

類似の症状は、少数の潜在因子によって引き起こされていると解釈するのが、通常のアプローチである。トラブルが報道されるとき、「モラルの欠如」と簡単に言い切ってしまうと、犯罪多発もモラルの欠如、DVもモラル、いじめもモラル、高齢者の孤独死は家族のモラル崩壊、子供の虐待死は親のモラル崩壊、果ては交通事故もドライバーのモラル崩壊といった議論になりがちで、メディアには扱いやすいだろうが、実に不毛である。

同じタイプの(困った)現象が(また火事のように)発生したとして、
またか!怪しからん!!許せん!!!
などと怒ってみても、有効性はほとんどなく、同じ問題はまた起こるし、火事もまた発生するのである。余りに愚かだ。問題を解決するには、病理的だと思われる現象が発生するメカニズムについて科学的に理解する真面目な努力が第一歩である。そのためには十分発達した学問的基礎が要る。

***

繰り返し観察される病理的現象を少数のティピカルな因子の作用であると解釈し、仮説を提案し、データに基づいて実証するという科学的手法が最も求められている方向だろう。新たな社会現象が望ましくはない病理的症状だとしても、それがもたらされている原因は少数に分類できるはずである ― というか、発生する新たな病理的現象がすべて独自のものであり、それらが少数の因子によってもたらされているとは思えない、と。もしそう考えるなら、あらゆる社会的病理は発生するたびに独自の新型であるわけで、科学的な解決は不可能である。

少数の潜在因子には名称を付けるべきであるし、それら因子の作用の仕方に対して幾つかの「***症候群」という名前を与えるべきだろう。

実際、病気の治療においても内科、外科がまず発展したずっと後から、精神クリニックの技術が検査・診断・治療各面において進歩してきた。

問題を解決する科学的技術を発展させることが社会を暮らしやすく、豊かにする。この経験的命題はいまも有効であるはずだ。

世間が憤慨する何かが続発したときに
怒るより他に何が可能でしょうか?
正しくあれかし、と。そう祈るより他に何が可能でしょうか? 
私たちが怒ることで、社会に正義がもたらされるとすれば、私たちの怒りこそ最も美しいものではありませぬか?
時代劇ではあるまいし、そんなことしか言えない社会は、あまりに情けないではないか。まあ、怒りは正義の発露であるという人もいるくらいだから、馬鹿々々しいとまでは言うつもりはない。それにしても・・・である。

***

問題を解決するには科学的に考察するのが最も早道である。まずは「検査」、いやいや「データの収集とデータベースの構築」がまず取り組むべき課題だろう。

「社会的真理」というのは、モラル的非難を通して得られることはなく、正義や公平と言った社会的正義論や法律的議論によっても獲得はできず、ただ観察と実証から帰納的に得られるものである。正確な認識に至る道筋は自然科学と同じだ。「道徳」ではなく、有効性が確認されている科学哲学が基礎であるべきで、やるべきことにエネルギーを使わずして、慨嘆や怒号を繰り返すのはただ空しいだけである。

そろそろ景気の先行きについて覚書を記しておこうと思っていたが、その前に表題の件をテーマに(忘れないうちに)書いておこうと思った次第。

2018年8月7日火曜日

「面白い本を読もう」という方針にはワナがある

ニーアル・ファーガソンの『大英帝国の歴史(上下』(中央公論新社)を読んでみた。それなりに面白い本だ。同じ著者の『マネーの進化史』(ハヤカワ)もそれなりに面白い本だが、同じ程度に面白い ― マネー史であれば相田洋『マネー革命(1・2・3)』(NHKライブラリー)の方がずっと刺激的だったが。

それにしても、いつも思うのだが歴史書は全て共通しているところがある。まず人の名前が非常に多く登場する。年月日もそう。映画であれば数シーン、本であれば一つの節に主題があり、たとえば具体的な事件であったり戦争であったりする。ファーガソンもそうであるし、その本の中で悪玉国家を演じている大日本帝国について書かれた(例えば)別宮暖郎の『帝国陸軍の栄光と転落』、『帝国海軍の勝利と滅亡』を読んでも同じだ。人名、年月日、事件、騒動、決定等々、これらが数多登場する。歴史を書く以上、仕方がないのだろう。

***

帝国主義が植民地拡大をもたらす。大英帝国は七つの海を制覇する。なぜ制覇できたのかが興味ある研究課題となる。偶々、ダーウィンの進化論が有力な仮説として提案されていた。生物界の生存競争が国家や民族に適用された。競争の社会的意義が着目され、人種間優劣が科学的に研究された。やがて似非科学である「骨相学」が登場し、次にピアソンが統計的手法を発展させ真正の科学(と思われた)「優生学」が発展した。この辺の叙述はメリハリがあって、よくさばいている ― ひょっとして著者のホンネではあるまいかとすら感じるほどだ。優生学が登場しなければ、それを根拠とした劣性遺伝子の排除、それを目的とした不妊化手術も行われることはなかったろう。つまり歴史は現在の状況と常につながっているものだ。『ああ、そうだったのか!』という発見をするのは誰でも面白いはずだ。

優生学といえば現代統計学の元祖ロナルド・フィッシャーもまた賛同者であったと聞く。最近では「誤り」と判定されているが、100年も前には「最先端の学理」だと受け止められていたわけだ。とすれば、あと100年もすれば又々正反対の方向に社会が流れていくかもしれない。

***

第一次世界大戦に至る過程はコンパクトである。

やはり英国にとっては20世紀初頭のボーア戦争が時代の分岐点として記憶に残るのだろう。帝国主義戦争の典型とされたボーア戦争の惨状をウィンストン・チャーチルをはじめ従軍記者が報道するにつれ、イギリス国内でその非人間性に嫌悪の感情が増し、やがて「帝国主義」という言葉自体にネガティブな感情を覚えるようになったことが触れられている。より残忍な行動を繰り返しながら、なぜその時になって英国社会は自らの非人間性に突然として目覚めたのか。本書を読む限りでは、さっぱり分からない。

戦争の非人間性への嫌悪感が高まっていたにもかかわらず、なぜ第一次世界大戦を戦ったのか。ニーアル・ファーガソンは、その当時の判断を英国の犯した戦略的ミスであると遠慮がちに指摘している。しかし、そんな簡単なミスを一国の国民が集団的に犯すとは思えない。わかったうえでの選択だろう。それが分からない。おそらく当の英国人にもピンとこないのだろう。丁度、なぜ対米戦争を決意できたのか、当の日本人すらピンと来ないのと同じように。何しろ「鬼畜米英」と旗を振った張本人であった元・陸軍軍人が進駐してきた米軍にすすんで協力したのだから。

「思い通りにはいかないよね」とか、「この世は分からんものですヨ」とか、何か一言付け加えておけば、ファーガソンもより説得的であったろう。

多くの人が語るように第一次世界大戦で欧州は崩壊したというトーンではなく、ボーア戦争が一つの時代の到達点となり、第一次世界大戦で必要のない戦争を戦わざるをえなくなり、第二次世界大戦で大英帝国はドイツ帝国・大日本帝国という悪の帝国と刺し違えた、と。そんな立場にたっているようだ。

***

歴史は必ず戦争や事件を人の名前と年月日と併せて記述する。なぜその人はそんな判断をしたのか、行動をしたのか、一応それらも記述する。しかし、動機が書かれているとしても、なぜそんな動機を持ったのかという疑問が出てくる。歴史というのは、読んでいるうちは面白いが、川の河口から水を遡り、最後は水が流れてもいない源流をたどって水源地を探そうという空しい努力に似ていないでもない。

すべて歴史を語る人は『私はこう思うのですよ』という一面があるのはこのためだ。

「優生学」を真正の科学として信頼したピアソンやフィッシャーは、21世紀初めの現在になって、なぜそれが「間違った思想」であると断罪されているのか、理解できないだろう(と想像される)。彼らは、100年先の未来を見ることができたとしても、自分たちが間違っているとは考えない(と想像される)。なぜなら優生学は当時の人にとって、モラルや規範などではなく、確認された科学的結論であったからだ。疑いようもなかったわけだ。

この「疑いようもない」という点に「時代」というものを感じる。

過去と現在とはどこか大事なところが違っているのだ。そして、現在と未来も大事なところが変わっていくはずだ。時代が変われば、誰であっても、考え方を変える。小生もそうだ。過去は現在とつながっているが、やはり過去は過去、現在は現在である。子供に自分のDNAは半分しか含まれていないし、孫は4分の1だけが自分でしかない。だんだんと他人になるのだ。現在は過去の延長ではあるが、過去とは違うところの方が多い。

現在の人間が歴史の彼方を記述するのは自由だが、過去が現在であった時代に生きていた人たちがそれを読めば、あまりの脚色ぶりに吃驚するだろう。

そんな面白いものではなかったよ

時間軸に沿ってリアルタイムで人に可能なことは「将来予測」だけだ。予測をせずにただ歴史を語ると、どうにでも語れるものだ。枝分かれする川の上流を遡るようなものだ。水なき上流にそって山を登っていくようなものだ。そのうち水源に気がつかないまま尾根に出てしまうだろう。そうなればやり直しだ。リアルタイムで生きた人が回想すれば少しはましになる。水流の予測がいかに外れたかを語ることができる。それでも『過ぎたあとから思うこと』である。過ぎる前の自分(達)と過ぎてからの自分(達)は別の人間になっているに違いない。

***

結局、歴史を読んで感じる印象の全体はいつも同じだ。
成功したのは賢明であったからであり、失敗したのは愚かであったためだ。
歴史を読む側の人間には、ただ、それだけの印象が残る。歴史家は色々な事実を探してくる。歴史を語る側の意図はいろいろとあるが、歴史を読む側の人間は上の公式に当てはめて本を解釈する。解釈できれば面白いし、できなければ変な本だと思う。

サマセット・モームの『サミングアップ』にこんな下りがある:
この30年間に本を読む人の人数は急激に増加し、あまり労せずに知識を仕入れたいと望む多数の無知な人が存在する。作中人物が今日の焦眉の諸問題について意見を述べるような小説を読むと、何かを学んでいると思うのだ。小説だから、あちこちに惚れた腫れたの話も書かれているため、楽しみながら勉強ができるというわけである。・・・だが彼らの書いた小説は文学作品というよりジャーナリズムであった。それは新しい考え方を伝える役目を果たした。欠点としては、しばらくすると昨日の新聞と同じく誰も読まなくなるということだ。
歴史と文学は違う。確かに違うのだが、ファーガソンも別宮さんも、モームなら『これはジャーナリズムだねえ』と。こんな風にバッサリやってくれるかもしれない。

本を読むと、何か賢くなったような気がするのも危険なことである。何かが出来るようになるわけでもなく、本に書いていることをどこかで話題にできるとしても、それは著者が書いていることを伝えているだけのことであり、それも真っ赤な嘘であるかもしれないのだ。まして「面白かった本」を読んで、自分が賢くなるなど、そんなわけがない。面白く感じるということと、知識を獲得するということと、関係はない。別々のことのはずではないか。真の知識は、面白い本ではなく、自分自身の経験と観察を何度も考察し、失敗・叱責・罵倒を経て、苦労しながら獲得するしかない。大学(院)で演習や実習が単位になっているのはその第1歩だ。

ジャーナリズムが世間の知的レベルを向上させるなどは、本当のところ、言うは易く、行うは難し。よくよく検証されなければならないのが偽らざるところだろう。

***

この位の短文を書き残しておくのは、バカにならないための予防策だ。小生、偏屈でへそ曲がりである。これまた、徒然なるままに、ということで。



2018年8月5日日曜日

「結婚」の定義が曖昧になりつつある。これは「混乱」ではないか?

結婚をした二人が世間にその事を知ってもらう時ほど嬉しい瞬間はないだろう。派手婚であろうが、地味婚だろうが、ナシ婚だろうが、結婚する二人の本質に違いはない。これまでは・・・

もし結婚の本質を「愛」と考えるなら、たとえ同性婚であっても、二人が"LGBT"であっても、結婚を可能とするべきだという議論になる。それを「結婚」という言葉の概念範囲に含めるとすれば・・・。

こんな議論もある。
 しかし、法律婚は「子どもを産み育てる」ことを前提に税金での優遇制度がすべて設計されているわけではない。
 例えば、茨城県石岡市にも新婚世帯への家賃補助があるけど、こっちの目的は「新婚世帯の定住化の促進を図るため」である。
 ここでは、子どもを産み育てるかどうかではなく、「夫婦というユニットになることで、生活基盤が安定し、定住性が高まる」という考え方がベースにある。定住することで、そこで働き、何らかの富を生み出すという想定があるのだろう。それが税金を投入するのに値する、というわけである。
URL: http://blogos.com/article/315765/

実は「結婚」というキーワードでこのブログを検索すると、以前にこんなことを書いたことが分かる(だからこそブログは自分自身の思考の旅程であり便利なのだ)。

「家族」とは何のために存在するのか?以前にも投稿したことがあるが、小生の理解はシンプルである。地縁・親族・姻族を柱とする大家族制から核家族制に移った社会においては、「家族」の存在理由は「子の養育」が目的であるとしか考えられない・・・ロジカルに考える時、何がほかに挙げられるだろうか。夫婦の愛を育むことだけが目的であれば、結婚という制度は不必要だ。相続などは遺言をかいておけばよい。
愚息は結婚をして、戸籍を別に作る時点において、小生とは別の「家族」となる。つまり愚息が子の養育を開始する意思決定をして、自らの家族をつくり始める時点が小生の家族から離れる時である。それは「核家族」であり、伝統的な「大家族」ではない。「核家族」という言葉の意味合いを社会学的な観点からつくづくと実感したのは初めてである。
出所:古い慣習の効用?、2017-3-13 

なぜ結婚をしようと人は決めるのか? それは、新たな生命を創り、子とともに新たな家族を築いていこうと(その時点では、少なくとも)当人たちが決意するからである。

こう考えていたことが確認できる。これ以外に「結婚」をどう考えればいいのかという意味では、基本的に小生の考え方は変わらない。

なので、そもそも最初から「子供は要らない」と決めているのであれば、「ではなぜ結婚するのですか?」と。同棲がより純粋である。愛の終わりが二人の別れであると思うのが、より純粋な愛のカタチではないか。「結婚」を制度的なハードルにして、二人の共同生活を長期安定的なものにしようというのは、当人二人を守るためではなく、幼い子供に安定した家庭環境を与え続けるためではないか? 結婚した二人に対する社会的支援が正当化されるロジックは「子の養育」にある、そうではないのか? もし愛する二人を愛しているがゆえに応援するのであれば、同棲して事実婚を続けている二人も同じように守られるべきである。愛という点において一層純粋である理屈だから。

まあ、やめておこう・・・いくらでも書けるのだが。

こんなことも別の投稿で書いている。
もし税とライフスタイルとは独立であるべきだと考えるなら、結婚後に働くか、専業主婦になるかで税負担額に違いを設けない。それは分かる。しかしそれ以前に、二人が働いている状態で、結婚しようが、同棲のままでいようが税負担額には違いはない、と。こうあるべきだと主張しなければならない。小生にはそう思われるのだが、そうなのだろうか?専業主婦であるか共働きをするかどうかがライフスタイルの選択ならば、結婚するか同棲のままでいるかもライフスタイルの選択ではないのか。敢えて結婚をするのは、子どもを育てるという目標を暗黙に前提していると思うのだが、違うのか。子供は育てないと決めているならば、結婚することが望ましいとは、言えないのではないか。
出所:保守的なへそ曲がりの結婚観、2016-4-14 

最初に引用した議論と小生の考え方とは基本的に相いれない。というか、同じ現代日本社会に暮らしていても、人の考え方はこれほどまで違うものである。文字通り、人生いろいろ、人はいろいろ、なのだ。だからこそ、「民主主義」と口で言うのは簡単だが、その運営にはよほどの知恵と練達がいる。社会は本質的にバラバラである。

◆ ◆ ◆

とはいえ、「家族」が先ず存在する。「社会」の前にまず「家族」がある。この点だけは最初に引用した議論と(意識のうえでは)共通しているかもしれない。

つまり、どんな言葉で表現するかという問題にすぎない。家族という共同体を形成するのに「夫婦」でなければならないと断定する必要は(論理的には)ない。同性であっても一つの戸籍をもち、法律上の(≒義理の)兄弟、姉妹となることは可能だ(可能とする)。古すぎて何だが『三国志』に登場する「桃園の誓い」がいい例だ。LGBTである二人が親と子(養子)になることもありうる(ありうると認める)。"T"のステージに進んだ二人であれば、兄と妹、姉と弟、いとこ等々からいずれかの関係を選べばよい(と認める)。そして「家族関係」を結ぶ。そもそも「核家族」が浸透する以前は「大家族」であったのだ。「結婚」したいと望む同性の二人は、自分たちの愛は夫妻愛と本質的に同じであると考えるだろう。しかし、小生、同じであるとは思えない。結局、法律とは制度であり、人の内心に立ち入るものではない。愛の同質性は法律的議論にはそぐわない。

「家族・親族」には色々な「関係」が含まれうると考えるべきだ。そんな柔軟な制度設計がこれから求められているのだと思う。だからといって、「結婚」、「婚礼」という日本語の概念範囲を拡大するメリットはない。

そう思うのだ、な。


2018年8月4日土曜日

気温も政治も旧世代には理解不能になったのか

夏の甲子園大会をどのように続行すればいいのか、議論が盛り上がってきた。何しろ35度超、というより40度に迫る猛暑である。猛暑という言葉より、「酷暑」、いやいや小生は「極暑」、「獄暑」のほうが実感をよく伝えるように思う。「ホントにねえ、北海道で好かったネエ~~~」と、先日病院の待合室で見たお婆さん達の会話を思い出す。

甲子園大会のほうは既に提案が幾つか出てきている。

  • (誰かが資金負担をして)甲子園をドーム化する。阪神電鉄の胸先三寸だ。
  • 京セラドームに場所を変える。高校生たちはガックリするかも。
  • 夏の甲子園大会の開催時期を盆明けにシフトする。

春の選抜も4月に食い込んでいる。9月に食い込むかもしれないが最後の盆明け開催が最も現実的かもしれない。

どちらにしても、『夏の暑さが何だ』という旧世代はこの夏の暑さを知らない。自分たちの経験が通じない現実がいま到来している。お偉方は公用車から降りて自分で炎天下を歩いてみればいい。

新しい現実の下でどうするかという問題は、古い経験をもとに古い原理を主張する旧世代にはかまわず、若い世代で決めてしまう方がよいだろう。

そもそも19世紀から20世紀初めの時期は地球規模で低温化した時期として知られている。この100年で期間を切ってみれば、長期的に気温が上昇しているのは、地球気温変動の循環的要素が否定できない。「獄暑」は傾向として続く、そう前提して対応を決める方が賢明かもしれない。

◇ ◇ ◇

よく似た事例。

安倍政権の支持率が高止まりしている。

財務省の文書改竄、モリカケ騒動では不誠実な隠蔽、更にはカジノ法案や参院定員増を盛り込んだ公職選挙法改正案が強行採決され、それでもなお支持率40パーセント前後。

政治評論家には『こんな状況でも、安倍内閣が、なおも支持率を維持していることが、僕には理解しがたいのである』と述べている人がいる。

理解できない新時代の政治状況が到来している・・・これも一面の事実だろう。

現実が本当に理解できないなら、もう「古い人は潔く引退するべきでしょう」と。専門家なら理解困難な現実と取り組んで分析し説明し、将来の行く先を予測するのが仕事だろうと思うのだが、「ついていけんなあ」という気持ちばかりは小生にもよくわかるのだ、な。"Me Too"である。

旧世代には理解困難な自然現象、社会現象がいろいろと発生している。若い世代は、直ちに自分の経験に織り込んで戦略を構築できるだろうが、古い経験と古い思考にとらわれている世代は絶句するばかりだ。そろそろ引退して、静かに現実の推移を見守るべきかもしれない。

2018年8月3日金曜日

ヤレヤレ、ちょっと書いておくか: 東京医科大学の一律減点の問題点

東京医科大学が行った文科省幹部への贈賄事件を捜査している過程で同大学がずっと続けてきた女子受験生に対する一律減点が露見してしまった。

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確かに男女の性別で入試得点を一律的に減点するなどは耳にしたことがない。というか、入試採点業務を経験した者からみると、そもそも『いま採点している答案は男子受験生のものであるか、女子受験生のものであるか、はたまた受験番号順に並んでいるものであるか…』、これらの点は完全に確認不能状態になっているはずだ。

可能なことは、採点業務終了後にエクセルでも使っているのだろう・・・受験生全体を「性別」という名のコラムでソートし、入試課が「性別=F」に該当する受験生の得点を一律10点、もしくは1割、あるいは$Y = 10 + 0.8 X$などという計算式で得点調整する、そんな作業を行っていたのだろう。

まあ、「得点調整」という作業自体は一般に試験という現場では時に必要になることではある。入試センター試験の理科の試験において、選択科目の間であまりに得点差がつけば、受験生の公平を確保するため統計的手法を活用して得点調整を行うことがある。また、通常の定期試験であっても、出題した問題の難易度が年によってブレるために、たとえば平均点が50点を下回ってしまうと、適当な計算式を設けて素点を評点に変換することがある。

しかし、性別で層別化してから異なった評価をするとはねえ・・・確かに、独特な発想だ。よほど東京医科大学は男女の違いが重要であると認識していたのに違いない。

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北海道には札医大や旭川医大で「地域枠」というのがある。要するに、地元の受験生を優遇する制度であって、最初から募集人数〇〇人と入試要項に記載している。いわば、住所と地元への就職宣誓をもって推薦を得るという意味と同じであり、選抜方式としては<学力試験+地元推薦>というハイブリッド入試方式であると考えられる。

全国の国公立大学、私立大学において、同窓会による推薦、創立者親族枠、家計収入基準による授業料免除(優遇入学の一例)、協定高等学校からの推薦枠、AO入試、一芸入試などなど、一般の学力試験とは別の入学枠、処遇枠は既に広く実施されている。

学力試験一本に画一化すると、画一的な若者ばかりが入学を許可される現象が認められるので、選抜方式を多様化しておくことに小生は基本的には賛成している。過度な学力試験偏重は、高額な進学塾に子弟を通わせることができる大都市圏の中上流以上の家庭を実質的に優遇することと同じになるという指摘もしておかないといけない。

とまあ、大学の入学者選抜を考察し始めると、優に一冊の本になるのが現実である。

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世間の井戸端会議は東京医科大学の「やり口」は「感じワル~~」という雰囲気だ。

なぜ、それほど入学者の男女の別を重要視したのだろう? ここを、小生、聞いてみたいと思っている。

女性は結婚を機に離職する確率が高いという点は、分野を問わず、以前から指摘されている。しかし、だからと言って、多くの大学で男女構成を問題視しているわけではない。不思議だ。あるいは、まだ話題にはなっていないが、女子卒業生は同窓会への加入率が低く、母校への寄付金額も平均的に低いという事も、聞いたことがある。私立大学であれば、こちらのほうが重要であったかもしれない。

上の点は「聞いたことがある」といった程度のものだ。本当に東京医大では男子学生と女子学生とで、有意な行動パターンの違いが確認されているのだろうか?確認された統計的事実に基づく、合理的な行動がとられていたのだろうか? これらの点を議論してほしい。

もし与えられた環境の下で、私立大学として合理的な行動をとっているなら、ただただモラルを振りかざしてみても有意義なサジェスチョンにはならないだろう。どこでも人は、賢く合理的に行動しようと考えるものだから。要は、データはどうなっていたのか、である。

議論はこんな風に進んでほしいと思っているのだが、一つだけ言えることがある。なぜ東京医大は、男女の違いが何らかの現実的な理由から非常に重要だと考えるなら、最初から
入学定員:男子〇〇名、女子△△名
このように記載しておかないのか? 「学力試験」とうたいながら、「学力」とは別の「男女」の別で異なった採点をする。これは明らかにアンフェアである。世間が憤慨するはずである。

その現実的な理由が医療の実態を踏まえた筋道の通った内容のものであれば、個別のケースとして容認されたはずだ。また、均等な機会を性別と関係なく提供するという観点から、医療現場の改善に向けた問題提起ともなっていただろう。

いまどき男子のみを入学許可している大学はないと思うが、女子大学はまだある。このこと自体をモラル的な是非善悪の観点から議論しても、時間の無駄というものだ。色々な形態の大学が選択可能である方が社会的には豊かであるに決まっているからだ。

モラルに基づいて議論するべき問題は多々ある。しかし、すべての問題がモラルの問題ではない。利益の対立構造が背景にあるときは、モラルを棚上げして、まず経済学の観点から論点を整理するほうがよい。灯油の価格、電気料金をモラルから論じても意味がない、どころか社会的には時に有害なのだ。資源配分、市場組織、利益と費用、所得分配などの次元で不均衡がある状態でモラルを強調しても社会の問題は決して解決できない。医科大学の入学者選抜方式は、そのまま職業選択に結び付く話であり、医療サービス市場の現状分析から問題にアプローチしなければならない。

2018年8月1日水曜日

真性「無神論者」と擬陽性「無神論者」の違いはどこにあるか

最近、宗教を起源とする事件が多い。イスラム国(IS)、シャルリー・エブド襲撃事件などなど特に海外はそうだが、日本でもオウム真理教幹部の刑が執行されるなどで、宗教話題が(一時的に?)増えている模様だ。

ところが、ネットやTV画面では『私自身は、まあ無神論者なんですけどネ…』という枕詞がまず初めに置かれることが非常に多く、これが時に聞き苦しく、時に嘘くさく、(個人的に)感じたことを書いておくかナと思った次第。

分野としては、今回もまたこのところ増加中の宗教関連テーマになった。世間の潮流を表しているかもしれない。

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小生は無神論者ではない。

具体的には、他力信仰が土台にあり、自力信仰には疑念を持っている。親は無宗教であった。戦争、空襲を体験した戦前世代は意外とそうだ(と感じている)。そんな風で、小生の立ち位置は戦国末期の一向宗門徒に近いが、実際にはもっと穏健な法然が開いた知恩院派(教義上は鎮西派と称されているらしい)浄土宗に属している。この秋に行われる授戒会の案内が月参りに来る住職からあったのだが、色々な事情があり、やはり前からの予定通り4年後の五重相伝に参加したいと伝えたところだ。どちらにしても、現世の縁である親子、夫婦の縁に一区切りをつけて、これからは仏縁を第一と観る気持ちが根底にある。「子供たちの心配もそろそろイイかな」、「あいつらはあいつらでやって行くべきだ」というのに近い。

多分、若いころから夫婦そろって結婚式よりは葬式のほうに慣れていたせいかもしれない。親不孝を親孝行で埋め合わせる時間がなかったためかもしれない。どちらにしても自力本願では小生にチャンスはない。カミさんもそれは同じだ。

なので「無神論」という言葉に小生は距離を感じる。

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理屈をいうと、無神論者は少なくとも三つに分類される。
  1. 真性無神論者(超越的な世界や存在をすべて否定する真の無神論者)
  2. 意図的無神論者(意識的に無神論者を演じる有神論者)
  3. 無自覚性有神論者(有神論者であることを自覚しない表面的無神論者)
2と3の違いはそれほど本質的ではない。いわば「擬陽性」無神論者である。どちらも実際には有神論者である。まあ、立場2の方が作為性・偽善性(?)が高いことは高いが。

思うにほとんどすべての日本人・無神論者は2か3に該当する。1の立場にいると判定される人に小生は出会ったことがない ― おそらく共産党員は立場1をとるのがロジックのはずだが。あるいは、神ではなく人間が命を決めるべきであると考える哲学者や医学者たちも無神論者としては真性であるかもしれない。余りに過酷で責任の重さに耐えられるとは、小生、思えないが。

言葉の定義から、1の真性無神論者の行動パターンは明確であって、識別は容易である。具体的には以下の特徴的行動が、複数、観察されるはずである。
  1. 初詣や参拝には決して行かない。お御籤や占いなどには無関心である。
  2. 結婚式はしない。神への誓い、三々九度などの儀式にカネは払わないはずだ。披露宴のみとする。入籍など社会制度、行政事務をより信頼する。
  3. 近親者の葬式も宗教色があるので(基本的には)しない。お布施、お花料などはカネの無駄だと意識されるはずであり、埋葬までの行政手続きを重んじる。
  4. 神事に無関心である。車に交通安全のお札をつけるなどはもちろん、学業成就、合格祈願のお守りなどは求めない。他から頂戴しても屑籠に廃棄するはずだ。
  5. 元旦のしめ飾りもしない。クリスマスツリーも飾らない。祭日は何らかの意味で宗教的祭事としての意味を持つ。なので盆踊り、祭りの神輿なども広い意味での神事であり、これらには(面白いから参加する可能性はあるが)基本は不参加を貫く。
  6. 運・不運を考えることはない。これらは幸運を祈る心理から発する言葉である。祈るという行為はしないはずだ。そもそも『人事をつくして天命をまつ』などというセリフとは無縁である。
  7. インシャラー(神の思し召しのままに)、オー・マイ・ゴッド、かみさま~等々、慣習的な表現には超越的存在を意識したものが多いが、これらはすべて口にしないはずだ。手を合わせて祈る動作とは無縁だ。人間世界の事は人間の知性で決定可能であるというのが真性無神論者の基本的立場である。
とまあ、以上のようにチェックポイントを整理してみると、小生の周りには(さすがに)真性無神論者はいないようである。

例えば「公務員は宗教からは独立でなければならない」という理由で日常は「無宗教」を看板にしている人。地鎮祭はしたりするがビジネスに宗教はマイナスである(と感じている)人。御利益があると評判の御守りを上げるとお礼を口にするが、普段は参拝などはせずズボラな人。大体はそんな人たちばかりである。