2018年8月24日金曜日

五月蠅い選挙運動に平和なひと時を邪魔されて思ったこと

この春から愛用しているWalkman ZX2にJVC FX1100をつないで、これも最近お気に入りのブラームスのV.C.を聴いていた。亡くなった母はベートーベンのV.C.やメンデルゾーンを好んでいて、その影響を受けたのかブラームスはこれまでどちらかといえば疎遠だった。ところが少し以前に第2楽章を聴いて思わず涙がこぼれそうになった。それで改めて何度も聞きこんだ。何度聴きなおしてもその深さははかりしれない。なぜ今まで分からなかったのかが分からない。

聴いていると、街宣車、いやいや来週末にある市長選挙に立候補している誰かが選挙運動で周っている声がする。何を言っているか分からないが、スピーカーから大声が聞こえてくる。
ヤレヤレ、1分か2分、スピーカーで『この町を変えましょう、この町には問題が山積しています。変えましょう!』などと叫んで回ったからといって、誰が投票するかねえ、あなたに
せっかくの名曲も台無しになった。

まったく、叫んで走り回ったから票をもらえると本当に思っているのだろうか?だとすれば、阿呆である。

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小役人の時には上司を選挙で選ぶなどという風土は無縁だった。しかし大学に戻ってからはトップは選挙で選ばれる ― もちろんこのシステム自体が嫌だと感じる社会人も数多いると想像する。大学で学長選挙ともなれば、候補者は抱負と計画を(少なくとも)A4版4ページ程度の長さの文章にまとめて、配布しなければならない。候補者は学内の誰もが知っている人物であり、普段の考え方や人柄もわかっている。副学長や理事としてどのような仕事をしてきたかも皆わかっている。それでも、トップになればどのようなことをしようと思うか、やはり書いてくれないと分からないものである。だから、立候補者にはビジョンやプランニングの提出・公開を義務付けている(規定で明文化された文字通りの義務であったかどうかは、明確な記憶がないのだが、しかし構想を公表していない候補者はゼロであったと記憶している。もしいたなら負の印象を与えていただろう)。

責任ある立場に立候補する以上は、それくらい自分自身を見せる必要がある。公人としての覚悟の問題だろうと思うのだな。

ところが小生が暮らしている町の市長選挙立候補者4名のうち政策構想を公開している人は市役所の選挙サイトにアクセスしても2名のみである。2人はホームページを開設しているが、あと2人はどんなプランをもっているかさっぱり分からない。一人は現職であるので、今までの仕事ぶりをみてほしいということなのだろうか?

いずれにせよ、立候補者は自分自身のビジョンなりプランニングを示すことが義務とはなっていないということだ。何も語らずに立候補している。

そもそも「職歴」がよくわからない人がいる。職業生活を通してどんな仕事をどのように成し遂げてきたのか、何をどう問題だと考えたのか。公職を目指す人はオープンにするべきだろう。また、家庭生活はどんな風なのか。公職には無関係という人がいるかもしれないが、あまりに破綻した家庭を潜り抜けてきた人は(小生の先入観であるのは認めるが)社会や行政組織、職員に対する視線が歪んでいることがママある。やはり私生活も可能な限りオープンにするのが公人の鉄則だと思う。

ところが、何もわからない立候補者がいる。

これで投票するかどうかを決めてくれというのは無茶な話だ。

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ビジョンやプランニングの提出を義務化すると、構想力や表現力に乏しい人物から立候補する機会を奪ったり(≒参政権の実質的制限)、当選する可能性を制限(≒被選挙権の実質的制限)することになり、差別につながる・・・と。こんな風に考えているわけじゃありませんヨネ。

まさかネ。
賢人と愚人を選挙で差別することは違憲であります。 
賢い人間と馬鹿な人間が市長や知事、議員などの公職に立候補するうえで実質的に差別されることは、不当であり、法の前の平等に違反いたします
・・・と、こんな屁理屈を言う人は絶対いないはずだ、と言い切れないところに現代日本社会の一つの傾向、というか問題点があるような気がする。

みんなで人物の違いを吟味し、最大多数の判断に基づいて人物を選出する。選出された人物が適任者である。これが民主主義の定義といってもよい。「法の前の平等」とか、「弱者へのまなざし」とか、同じ民主主義でも抽象的な日本語を使うとあぶない。適切に使えば切れ味を増すが、頭の悪い人が愛好するのもやはり抽象的日本語である。そういえば幕末の「尊皇攘夷」もそうであった、な。

気をつけないといけない。話しを短く具体的にできる人がスマートである。

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