2018年8月27日月曜日

メモ: 「上意下達」と「パワハラ」、「民主主義」

シュンペーターの著作に『資本主義・社会主義・民主主義』という大著がある。小生も若い自分に読んだのだが、完読はせず、つまみ食い、すべて精読したのは最近になって時間が出来てからだ。

上のタイトルに比べると、本日の標題は実に矮小、そういえば最近の社会科学(特に経済学、マーケティングが念頭にあるが)の論文テーマは非常にピースミール化していて、よくいえば専門化、技術化が進んではいるが、悪く言えば「重箱の隅をつつくようなヒット狙い」の論文も目立つような印象をもっている。

昔は違っていたねえ・・・一般均衡の存在問題、動学的安定性、マクロ消費関数の存在の必要条件などなど、学問的重要性が否定できないような論点ばかりだった。それが何だい・・・と言い始めると、既に老害である。具体的な問題に実証的結論を出すのが社会科学である。ピースミールでもいいではないか。

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極端なケース(extreme case)で基本概念はどのように機能するかをチェックすることは、新しい概念を適切に定義するには不可欠のステップだ。種類によらず「ハラスメント」という用語が登場してまだそれほどの年数がたっていない。1世代が過ぎるまでは言葉に込める問題意識も変化していくであろう。

では極端な思考実験:

PKOに派遣された自衛隊、あるいはもっと極端にして、戦闘現場に直面した部隊をとってみよう。敵を制圧するべく前進命令を下す将校はパワハラを犯しているのだろうか?たとえば銃撃を繰り返す凶悪犯を包囲して相手は何を所持しているか不明の段階で、強硬突撃を命令する警察幹部はどうなのか?

『敵軍より味方の上官に恐怖を感じる部隊であれ』というのは、古来、軍律維持の鉄則だったという。上官がより怖いので兵士は敵に向かって突撃しより高い確率で生きようとする。これが攻撃へのモチベーションである ― 勝利で英雄になろうとする自発的動機もある(この辺はツキディデス『戦史』を参照)。

「上意下達」という概念と「パワハラ」という概念はどう関係し、対立するのか?

「民主主義」は近代社会で重要性が確認されている価値である。「民主性」といってもよい。これは特に「政治」という次元においてのみ測定される価値なのか?たとえば、会社組織においては「民主性」という価値は無関係なのか?もし「民主性」という価値と無縁であるなら、「人権」という価値とはどう関連するのか?「人権」という価値は、「民主性」という概念に包含されているのではないか?「民主的」でなくともよいのだという局面があるなら、「人権」という価値とも無縁になるのか?それとも「人権」と「民主性」とは別の価値であるのか?とすれば、民主主義ではないが、人権は尊重されるという社会システムもありうるのか?

社会の中にサブシステムともいえる会社や政府、団体などの組織を設けるのは何故なのか?

経済発展におけるイノベーションの重要性を指摘したシュンペーターは、資本主義・社会主義・民主主義の関連性について真剣に考察した。これに比べると、ずいぶん細かく、どうでもいいような印象はあるかもしれないが、社会組織の運営における上意下達・パワハラ・民主主義の関連も真面目に考えてみてもいいかもしれない。

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