2018年10月16日火曜日

覚え書: 辟易するネットメディアの頻出単語

本日もまた井戸端会議風の雑論。

ネットで国内外の動向を知るのは、もうニュースチャネルとしては主流になっている。とはいえ、無数にある投稿記事には執筆者の主観や思い入れが濃厚ににじみ出すぎていて、辟易するものも多い。

客観的にして高精度、淡々とした事実報道は、大手マスメディアの得意とするところだ。これ、やはり、人海戦術が効果的なビジネスということだろう。その長所を忘れているメディア大手が増えているのは残念なことだ。

***

『・・・善の勝利』云々という文章表現。類似例として『正しい側が苦境に立つなどという事態は理解不能・・・』とか、『不正義を容認する現代社会』云々とか、いろいろなバリエーションがある。

思うのだが、人間社会もまた自然史の一部であるのは自明の事柄である。アリの世界でも闘争はある。同じ巣穴に生息する集団にも内部では働いている個体もいれば、怠けている個体もいる。役割も分担されているそうだ。いじめもあるというし、ひょっとするとパワハラもあるのかもしれない。しかし、アリの社会でどのような「不正義」があろうと、それはアリという生物特有の事柄であり、人間社会にはどうでもよいことだろう。善、正義、価値といっても、所詮はローカルなものだと小生はホンネでは考えている。全地球的な普遍的な価値が客観的に存在するなどと、素朴に考えている人は、なんと幼稚であるのか、と。

辟易してしまう一例だ。

***

本日の道新のコラム記事は医療の世界をとりあげていた。その中に『世の中は男性と女性がほぼ半々だ。医師も半々が普通だろう』という下りがある。

そんな事をいえば、世の中は男性と女性がほぼ半々、だから数学者も男女半々、将棋や碁のプロ棋士も男女半々が自然状態。営業現場はもちろん男女半々、経営企画部も男女半々、建築士・弁護士・公認会計士などの士業も男女半々。そうでないのは性差別を示唆している。警察官・自衛官・消防士もそう・・・というロジックにあいなる。

そう言いたいの??・・・と喫茶店での雑談なら聞き返すところだ。


***

前の投稿でも何度か述べたのだが、特定の職業で成功するには才能も必要だが、それ以上に性格がマッチしていることが決め手になる。

それで、小生の経験則なのだが、男性と女性は才能はともかく ― 概略、才能という次元では差異はないと思うが ― 性格には明らかな性差があると確信している。

正邪善悪とは無関係だ。観察事実として男性と女性は傾向として性格に違いがあるという意味だ。

性格の男女差は、幼少期から遊び方の違い、喧嘩をする時の行動パターンの違い、話し方の違い等々、様々な違いとして観察できる。子供を育てた経験のある親なら、男女両方を育てた親であれば猶更のこと、この明らかな事実は認めるのではないかと思う。

才能の分布に違いがなくとも、性格に違いがあれば、志向する職業の分布に性差が出てくるのは、理屈として当たり前のことであると小生は思う。

どんな人生を歩みたいと考えるか?その選択は、どんな才能を持っているかも大事だが、やはり性格にあった生き方を選ぶ。この要素もあるだろう。さらにいえば、その時代時代の社会の通念。当然であると考える常識。他にも生き方を決めるときに影響を与えうる要素は多々あるに違いない。

社会の通念や文化的習慣には改善を必要とするものもあるだろう。しかし、どんな国、時代であっても、男女の行動パターンには違いがずっとあり続けたのではないだろうか?その違いをもたらす要因として、最後に残るのはやはり「性格」としか言いようがないだろう。

男女は同数、才能は平等。だから、どのような職業、分野でも男女は同数であるはずだ。この仮説は、「仮説」というには余りに思慮浅はかな考察でござんしょう。世の中、もっと複雑ですぜ。

0 件のコメント: