2019年3月30日土曜日

一言メモ: 『言うは易く、行うは難し』の一例

戦略ならば誰でも語れる。しかし、与えられた戦略の下で目的を達成するための戦術を、たとえば「いま何をするか?」というレベルまで具体的に提案できる人は少ない。

要するに、当たり前の事(=目的)や基本方針(=戦略)は普通の頭さえ持っていれば、いっぱしの話はできるが、具体的に今月の内に何を決めればいいか、この四半期で誰と協議し、一年内を目安に何から進めればよいか、来年あたりに停滞するとすればどこで停滞しそうか。これらの処理が出来る人材は少ない。「やっぱり専門家に任せるしかないでしょう」というのも、これまた誰でも言える戦略で提案価値はなにもない。

統計畑では、何の知識もスキルもなくともこの位のやり方で憶測はできるという程度の達成可能レベルを"NULL MODEL"と呼んでいる。例えば、あらゆるメールの中に占めるスパムメールの比率が1パーセントであるとき、「いま届いたメールがスパムメールである確率は1パーセントですよね」という判定の仕方などはそうである。

メールの中身を見もせずに、スパムである確率が1パーセント(=スパムでない確率は99パーセント)なんて、よく分かるネエ、どうやったんだい?……、シャーロック・ホームズだね、まるで。アレッ、メールのタイトルがネ、「あなたと知り合いになりたいの!」って、これスパムなんじゃないの!!君ねえ、やっぱり当てずっぽはいけないヨ。

世の中、昔から何の助けにもならない知ったかぶりはあるものだ。何もいま流行の「フェイクニュース」や「自称・専門家」などという言葉を使う必要はない。鎌倉時代のエッセー『徒然草』にも『少しのことにも、先達はあらまほしき事なり』と書かれてある。

***

少し以前になるがこんな報道が日刊工業新聞に載っていた。

厚生労働省の毎月勤労統計の不適切調査問題に関する不信が払拭(ふっしょく)できない。新たな第三者委員会をつくって、真相を解明し、膿(うみ)を出しきることが第一歩だ。それが国民の信頼回復につながる。合わせて、政策の精度を高めるため、民間が持つビッグデータ(大量データ)などを政府や公的機関が利用する議論を深めていくべきだ。
「何のために税金を使い調査したのか。さっぱり意味がない」。第三者委員会報告書格付け委員会で委員長を務める久保利英明弁護士は8日、日本記者クラブで会見し、特別監察委員会を強く批判した。毎月勤労統計の不適切調査をめぐり、厚労省が第三者委員会として設けた特別監察委がまとめた再調査の報告書について、報告書格付け委員会は5段階で評価し、久保利委員長ら委員9人全員が最低評価の「F」をつけた。これまで20回の格付けで、全員がFをつけたのは、今回が2回目だ。
格付け委がこうした低評価をつけたのは、監察委が独立性や中立性を欠いたことによる。特別監察委の樋口美雄委員長は厚労省の外郭団体のトップを務める。「それだけでも第三者委員会の適格に欠ける」(久保利氏)とし、身内による調査に懸念を表明する。
(後略)


確かに「戦略」は正しい。ビッグデータの時代にマッチした統計システム戦略を構築しなければならないことは、その分野の人は誰もが意識している。

しかしネエ・・・

昔はビッグデータはなかったんでしょ?これからやり方を変えようってのは、まあ、いいんですけどネ…。専門家の人に使ってもらえるようなデータはどんな風にすればいいんでしょうかネ?なんかGDPデータってえのは、20年くらい前に遡ってそろえる必要があるって言いますからネエ。その基礎データになるなら、それも同じことでしょ?やり方を急に変えたら、全然、違う数字になっちまうってこともあるんじゃないんですかい?

戦略は誰でもがそれなりに語れるものだ。要は、具体的にどうすればそれが出来るのか、である。『そりゃあ、つかさつかさの専門家ってやつがいるんじゃないんですか?』と問われれば、『いまの日本にどの位それができる専門家がいるって思ってます?』。小生ばかりでなく、ここを一番聞きたいのではあるまいか。

戦略を提案するなら、戦術も考えるべきであろう。それには、詳細な具体的事情に精通することが求められる。勝負はそこからである。

そうでなければ、中身のない"NULL MODEL"ならぬ聞くだけ野暮な"NULL PROPOSAL"と言われても仕方があるまい。

***

それにしても特別監査委員会を格付けするための格付け委員会があったのか…寡聞にして知らなんだ。

この格付け委員会はどの程度まで信用してよいのだろうか?ちょっと、格付け委員会を格付けするための格付け・格付け委員会をつくってほしいねえ。いや、そうなると、その内それを格付けするための「格付け・格付け・格付け委員会」が欲しくなるか。

まあ、需要あるところに供給アリ。これまた経済原理の発現形態の一つである。

2019年3月28日木曜日

一言メモ: 「制裁」するにしても「粗暴」は最低である

日韓関係の悪化が進み、韓国に対する「経済制裁」が大っぴらに議論されるようになってきている。

ところが、それを一瞥すると、「国交断絶」、「大使召還」などと極端な言葉から始まり、更には「重要素材・部品禁輸」、韓国製品の「関税率引き上げ」、「ビザ免除停止」等々、どれもこれも「ハード」で大衆受けのする可視的手段ばかりである。

極めて幼稚であり、愚かである。

野球で言えば、相手投手がビーンボールを投げてきたから、今度は一塁走者が二塁手に危険なスチールをするようなものである。

***

思うのだが、「禁輸」などをする必要性はない。「値上げ」をするだけで十分なはずである。あるいは契約交渉に時間をかけるだけでもよい。交渉上の優位があればそれを行使すればよい。相手国が提訴してくれば、事態が長引き、かつ複雑化され、交渉材料が一つ追加される。交渉材料の増加は、日本側にとってプラスだろう。

「関税率引き上げ」も必要ではない。税関手続きに時間をかけるだけでよい。

観光訪問先として注意事項を増やすだけでもよい。旅行会社にとってリスクが高まれば、ツアー料金が上がる。それで十分な効果がある。

***

日韓関係のリスクの高まりを価格に反映させるだけでよい、というのが基本的な理屈である。非合理な選択をしている側の競争優位が脆弱になるのである ― 韓国側だけではなく、日本側にもまた奇妙な手はあると思っているが。

つまり何事も「当たり前の事」をするだけで経済的には(=経済制裁手段としては)十分な効果をもつ。併せて、競合国に"Favor"を与えるとすれば、一層の効果があろう。

実際に対立している相手国・韓国に可視的な損失を与えたいと望むとしても(本当に日本はそう考えるのか、これ自体が国際関係を考えると不思議であるが)、自らが直接的行為に及ぶ必然性はない。むしろ復仇感情を刺激するのでマイナスである。関係のないオーディエンス(=他の周辺国)にとって好ましい利他的な行為を積み重ねることが、特定の相手国に対する間接的攻撃になる。

間接アプローチが戦略的には最適であると思われる。

2019年3月24日日曜日

一言メモ: これも社会のPDCAサイクルの一環か?

経済学界にも性差別があるというのでAEA(American Economic Association)、つまり「米国経済学会」が揺れているそうだ。

こんな報道が日経にある:
 調査を行ったのは米国経済学会(AEA)。9000人以上の回答者のうち約3分の2は、自分たちの仕事が男性の同僚に比べて真剣に扱われず、学会のイベントでは社会的に排除されていると感じているほか、同僚エコノミストから敬意を払われていないと感じていることも明らかになった。
 暴行を受けたことがあると答えたのは2%。暴行未遂の被害者になったことがあるとの回答は6%、体を触られ不快な気持ちになったことがあるとの回答は12%だった。
 さらに、女性エコノミストの42%は、過去10年に別のエコノミストや学生による不適切、性的、あるいは性的に思わせぶりな発言を直接聞いたり耳にしたりしたことがあるという。
 経済学の世界では女性との接し方を巡る議論が高まっている。経済学関連の求人サイトで女性を蔑視するような言葉が使われていることが調査で発覚するなど、女性への敵対心が問題になっている。
(出所)WSJ、2019年3月19日

最近は、ニュージーランドで起きた白人至上主義者によるイスラム教モスク襲撃といい、アメリカで勢力を取り戻しつつあるといわれるKKK( Ku Klux Klan) といい、人種、宗教、更には民族、出自、学閥、身分等々、人間のあらゆる属性の差異に基づいた差別主義が拡大進行中であるという批判的報道が増えている。

そういえば、数日前になるか、個人的差異に着目したコマーシャル・メッセージを自粛しようというFacebookの方針を報道で知った。個人間で違いを設ける広告・宣伝を流すのは、一部の人から購買チャンスを奪う差別に当たるというのだ……。そんなことを言うなら、そもそも販売価格を設定する行為自体が、「顧客評価<販売価格」なるセグメントを一律に排除(=プライスアウト)する差別的な行為となる理屈になる……。民間企業はコストを上回る超過利潤を得てはまかりならぬ、という「封建的妄言」になるのだが、そこまで言いたいのだろうか。まあ、なにかの理念から発する「●●イズム」というのは合理主義でもなく、限定合理主義でもなく、超合理主義であろうから、論理的な矛盾の指摘などは意味ある批判にはならないのだろう。

★ ★ ★

見識のある人物であるなら、こうした「〇〇差別主義」には真っ向から反対する姿勢が求められている。

多様性のある世界に価値を認めるなら一切の差別主義に反対をするのは当然だ。

とはいえ、自分や周囲の人たちとは根本的に異なった価値観、倫理観、行動パターンをもっている人間集団に対して何がしかの警戒感を抱くのは、これまた当然の心理であり、だからこそ日本では『知らない大人の人に声を掛けられても相手にするのじゃありません』などという注意を自分の子にはしたりするわけである。

こんな警戒的行為は差別主義に与しているのか。

違いを否定して共通化したいというのは何もウズベク社会に向き合う中国政府の特許ではない。

たった一つの共通の「帝国」が政治的にもたらされれば、その世界は「一視同仁」。原理的に、かつ法的にある種の人間集団が区別されることはない。参政権は平等にもち、基本的人権も平等にもつ。法の前に人は平等となる。アメリカは既にそういう状態のはずだ。

そうなれば、民族、言語、宗教などにおける何かの違いがもたらす実生活での違いは、違いをもたらしうる真の要因との相関にすぎないことを人間は理解するだろう(はずである)。実質的な格差は目に見える外見上の差異によるものではない。そんな真理を人間は理解できるだろう(はずである)。そんな理解に達するまでは、人は他との差異を捨てて多数に同調する圧力を感じる。圧力に負けたくない人たちは属性を同じくする人間と団結して、国をつくったり、団体をつくったりして、自己保存のための活動をする。そうすることを通じて、自分たちは差別されているという認識が生じるのだ、と。確かに現象とはマッチしているからだ。どうしても小生にはそう思われるのだ、な。

多様化を認められる世界は、外見において多様であること自体は実生活上の違いとは何の関係もないという真理を理解するまでは実現が難しいと思う。

ちょっと抽象的になりすぎた。

+++

「労働は下賤である」という哲理から出発する宗教を信じれば、その信者たちは清貧に甘んずるが、それは宗教のせいではなく、活動を忌避することによる低生産性がもたらす結果である。そういうことである。宗教上の違いに執着すれば、その違いが処遇格差の原因であると(誤って)解釈され、しばしば地域紛争や内戦に発展するものだ。『僕たちはあなた達と確かに違っていますよね、僕たちの方が貧しいのはその違いによるものです』という指摘は現象にはマッチしているが、この指摘が本当に正しいかどうかは詳細に分析してみないと分からないのである。

イスラム圏は現時点において相対的に貧しいという現象は、実はイスラム教の信徒であること自体とは何の関連もない、ということは歴史を振り返ってみても自ずから明らかだろうと思う。

小生は偏屈で、かつ夢想家であるから、「世界連邦政府」が形成される日を待ち焦がれている ― もちろん生きてそんな日を迎えられるなどとは思っていないが。

もしも共通の世界が地球上で形成され、人々がそれを認め、そこで全ての人が自由に行動できるなら、あとはいかなる違いが実生活で生まれてくるとしても、それは趣味や才能、技量、個性の違いに基づくナチュラルな結果であり、人為的な差別には当たらないというのが理屈だ。

これはかなり小生のホンネに近い。何を考えるにも、この視点が小生のスタート地点である。

・・・いや、本筋から外れてしまった。

★ ★ ★

さて、上では「違い」といったが、男女の違いは宗教や言語とは異なり、消すことのできない本質的違いに見える。

上に引用した女性エコノミストに対する「差別」だが、それは男女を問わず均一に共通尺度によって評価され位置づけられるべきであるというユニバーサリズムから発している問題指摘なのか? つまり同じ実績を示しても、女性であるという理由で低い評価が下されている。そういう指摘なのだろうか?

それとも男性エコノミストと女性エコノミストとで自ずから関心領域や志向するアプローチに違いがあるが、現在は男女間に評価の違いや影響力の違いがある。それは不当であるという問題指摘なのだろうか?

どのような目的があっても、その目的を達成しようと努力を続ける中で問題は発生するものだ。PDCAサイクルにおいて問題発見は進歩への一里塚である。とはいえ、『これって問題ですよね』というだけでは、ダメであって、PDCAのPと照合して、「だから問題です」と指摘するのでなければ、ターゲットが定まらず解決のしようがないわけだ。

+++

男女の違いが経済学研究における本質的差異であってはならず(この点に疑問の余地はない)、男女差のみに基づく評価の格差があるというのであれば、極端な提案をすれば男女の性が特定されない形式で(たとえばペンネームや匿名で)論文が審査されるのがよいだろう。そして、それは既に採られているはずである。

『ジェーン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテはカラー・ベルという男性のペンネームで作品を発表したことはよく知られている。ほぼ同時代の作家ジョージ・エリオットは『サイラス・マーナ―』で有名だが、本名はメアリー・アン・エヴァンズであった。もっと前の時代にはメアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を匿名で発表している。女性であることを秘匿して作品を公表したのは、女性であるが故の様々のマイナス要因を避けるためであったことは明白だ。しかし、どんなマイナス要因があったのだろう?この点については、国によって、時代によって、もっとデータを調べてみないと何とも言えないことである。

まあ、論文や文学作品ではペンネームを使ったり匿名で発表することも可能である。しかし、エコノミストともなればコンファレンスや学会発表にも出席しなければならない。

「女性」であることが主たる原因となって純学問的な評価における負の作用を蒙っているケースが本当にあるのだろうか?分野は違うがキュリー夫人は女性であるがために修学上の、また雇用上の不利を経験した。しかし、これは100年以上も昔の社会状況である。それに同夫人はノーベル賞を受賞している。

いずれにしても、実力や実績の割には不遇の人は色々な世界にいるものである。他人の成果を剽窃したり、剽窃されたりする運・不運もあることは、男性だけの社会でもずっと昔から頻繁に起こってきた周知の事実である。素晴らしい内容の提案をしているにも関わらず、周囲から注目されなかったり、影響力を行使できなかったり、自らの孤立感、無力感を感じることは何も女性に限ったことではなく、男性にも一般に起こりうるし、また起こっている現象である。トップをめざす競争世界とはそんなものである。

故に、AEAにあるという問題もまずは因果関係を分析し、問題をもたらしうる要因を洗い出し、重点主義に基づいてターゲットをしぼり、解決に向けた実行に着手するというのが道筋になるだろう。原理はこうなるのだろうが、今回のケースは何をもってゴールとするのかが不明である。つまり解決行動の終結点が定義されていない。なので、このままでは『感じ悪いよね』というボヤキだけに終わりそうな気もしているのだ、な。

2019年3月23日土曜日

メモ: 児童への体罰禁止について(先日の続き)

児童虐待防止法に子に対する親の体罰が禁止される方向で閣議決定され、法改正される方向になった。民法上の「懲戒権」を削除するかどうかも今後検討が進む予定ということのようだ。

この件については小生の個人的な感想を本ブログにも投稿している。

その要点は、たとえ親による体罰を禁止したり、懲戒権を削除したとしても、日本社会は法に違反した人物に対して「懲罰権」をもち続け、懲役という「体罰」を加えることができ、かつ究極的には死刑をも課して被告人の生命を奪うことも可能である、そんな状況には変わりがない。公権力に認める「懲罰権」と子に対する親の「懲戒権」とはどう関連するのか?それで日本人は本当に納得できるのか?世間から処罰されて前科者になるより、そうならないように親に折檻される方がまだマシではないか?まあ、この問いかけは現時点の議論では別の論点であって、たぶん検討されることはない。これは不思議な事だ。前稿の主旨はこんな所であった。

★ ★ ★

小生自身の経験を先日の投稿では書き綴っておいたのだが、あれから何回か思い返す中で、考え方が次第に変わってきたのである。

小林よしのり氏というと、小生がまだ高校生の時分であったか、氏の『東大一直線』に(今は福島・いわき市で暮らしている)弟がはまってしまって、小生も愛読していたものだ。その後、保守的論客として一勢力を築くなどとは予想もしなかったが、先日、以下のような文章をアップしている:
親の体罰を禁止する法律を作るようだが、罰則ありで作って欲しい。もう今の日本人は劣化が激しくて、子供の命を守れない。民法の「懲戒権」も削除するべきだ。体罰=暴力であり、「しつけ」という美名のもとに子供への暴力を容認してはならない。わしが体罰で育った最後の日本人でいい。体罰が教育に必要だと、自己肯定で思っていたことは間違いだった。
URL:https://blogos.com/article/365365/

まったくこのところ報道されるニュースは、もはや「体罰」ではなく、「暴行」であるにすぎない ― 親による鉄拳の痛みを通して正邪善悪や、慎重と臆病との違い、勇気と蛮勇との違い、ウソと保身との違い等々、言葉では説明し難い人生の要諦を「体得」できた世代にとっては、『殴る以上は暴行に変わりないでしょうが!』と反論されるほど、情けなくなることはないのだ。

この違いが分からないのであれば、すべて「体罰」は禁止するべきである。小生も小林氏に同感だ。

小生は、親の良かった点は採り、悪かったところは廃する。単純にそう考えて、誰もが同じようなものだろうと思い込んでいたが、(実は)体罰は使いこなすのが難しいのかもしれない。

そもそも「叱り方」というのは、家庭のあり方、両親の仕事、親戚との関係等々、親の周りのコミュニティ全体によるところが大きい。というか、コミュニティから外れ、孤立し、かつ色々な点で「未熟」な両親が、成り行きから人の親になったとしても、子を育てるのは無理である。

もはや日本社会から体罰による躾が効果的である環境は消え去りつつある、というのが事の本質だと思うようになった。

故に、「体罰禁止」が妥当だと小生も考える。

★ ★ ★

が、「体罰禁止」によって好ましい結果が得られるかどうかは小生には分からない。その結果は社会的なものであり、おそらく最終的には3~40年も経過して判明してくるものであろう。小生に見届けられるはずもない。

とはいえ、基礎的な理論くらいは語れる。

真に考察するべき論点は、
子が成長する過程において、どのような経験が必要か?
これに尽きると思うのだ、な。人間はゼロの状態で生まれ、経験を積み重ね、大人になり、子をもって育てる以上、当たり前の理屈である。

つまり親と一緒に暮らしている幼少期における経験と学習のいかんが本質的論点である。

+++

幼少期にある子にとって、最も大事な要素は<躾>ではなく、<愛情>である。この点に疑いをはさむ余地はない。

しかしながら、人間が生きていく中で経験するものは、愛情ばかりではない。憎悪や敵意、嫉妬、欺瞞なども世界には満ちている。これらは全て人間の心から生まれる。子はいずれこれらの人間の負の部分をも知るのである。知ったときに周りの大人がどう行動するかが大事だ。負の部分を学習することは望ましくないからだ。生命の尊さもまた幼少期のうちに吸収するべき事だ。これらは言葉ではなく経験を通して習得するところが大きい ― まあ、よほど教育があり、言語表現力のある人であれば、言葉で適切に諭すことができるだろう。

とはいえ、すべて経験が何より大事である。

敢えて書くとすると、殴られた時の痛みも(本当は)知っておくべきである。その理由はもう自明のはずである。そして、そんな痛みを知る機会は、その子供が殴られる十分な理由をもっている時でなければならない。彼は真剣にその痛みの必然性について考えるからだ ― これもまた幼少期に経験しておくべき要素の一つであると思う。この世界に暴力は確かに存在し、暴力(=力の行使)を通して平和と秩序が守られていることは事実だからだ。

本当は、殴られる痛みは親による体罰ではないほうがよいのだと思う。リアルな経験の中で暴力による痛みを学習する方がよいからだ。本当は、親は子に対して、愛情を注ぐだけで十分なのだと思う。しかし、それでは十分な経験をさせえないところに現代社会の問題の本質があるのだと思う。

小生は、家庭や親族づきあい、地域コミュニティは社会の縮図であると思っていた。そして、小生自身の幼少期の経験を思い出しても、ずいぶん多くの大切な事を身近な人たちから学んできたと、今は感謝しているのだ。

躾とは、教育の中の一つであり、経験の中に占める一要素である。

+++

「大学生の幼稚化」が世間で指摘されるようになってからもう10年以上が過ぎただろうか。小生が勤務する大学でも、ずっと昔に比べると、確かに同感を感じるようになってきたものだ。

最近は、30歳を迎えた愚息の幼稚さに絶句することが多い。今風のオフィスは、ひょっとすると幼稚な30代の若手ビジネスマンをどう統御すればよいのか途方に暮れている企業も多いのではないだろうか。

幼稚=経験の薄さ、であるのが普遍的真理である。そして、子の養育には何よりも大人の成熟が必要だ。加えて、子を育てる気力を持てるのは若い時である。自然に混合された要素を以前の親族コミュニティは乳幼児に与えることができていたのだと、今は思う。

この世代重層的な社会的養育メカニズムが失われつつある。

+++

経験の浅薄化と未熟化の進行は暴力禁止で止めることはできない。

幼少期にどんな経験をさせれば、成熟した大人に成長することができるか?これが真の問題である。必要な議論は、躾のあり方でも体罰の可否でもなく、いま現実の社会で求められている生きた知識、というより生きる力だろう。その力をどう身に着けるか?それには体罰は有害である……、う~ん、体罰はその子を人見知りにさせる副作用があるという。自己肯定的で明朗な人は幼少期に叩かれた経験がない人に多いとも聞いている。話がこれで終わるのならば幸いである。

育児は綺麗ごとではないのだ。人間の生死も綺麗ごとではすまない。同様に、子を育てるのも人生そのものであり、ビジネスではない。綺麗ごとではない。生き延びるために、苦労を承知で新世界に移住した家族たちは、いかにして子供に体罰を加え、叱ったのか、そんな問題はむしろ細かい枝葉末節だろう。

枝葉末節の観点から論じても体罰の可否に結論はでない。それだけは明らかなことだ。

ただ我が家の育児を思い返すと、小生が毎日勤務先に往復し、夜6時には帰宅する。カミさんは専業でずっと子供たちと一緒に過ごす。学校から帰れば必ずカミさんがいる。カミさんは子供に注意はするが、きかなければ「お父さんが帰った言いつけるよ」の一言を切り札のように口にする……、小生の両親もそうであったような文字通りの「昭和モデル」である。最低限、こんな状況でなければ小生の体罰は有効ではなく、寧ろ有害であっただろう、と。その位のことは容易に想像がつく。

★ ★ ★

実は、小生、楽観はしているのだ。

最近よく目にする10代の少年、少女たちには、実に社会性があり、幼稚さのかけらもない成熟した人物が多くみられる。

特に、一芸に集中し、自己研鑽にたゆまない努力を続けている人はそうだ。経験を重ねる中で人は急速に成長するものであると知る。

両親は機会を提供し、子が選択したにせよ、家族の幸福がそこから伝わってくる。

惨憺たる児童虐待は、広がりのある現代日本の社会では特異的、かつ粒子状の質量しか占めていない悲しい少数例なのではないだろうか。お上による「体罰禁止」の大号令は、禁止するべき対象に対して主に作用し、本当は実質的に問題解決されつつあるのが真相なのかもしれない、とは思っている。


2019年3月20日水曜日

TVドラマもたまには有益だ: 守道有天知

TVドラマもたまには有益な場面がある。

NHKハイビジョンで再放送されている『大岡越前』(リメーク版)。町奉行が出座するお白州の場の正面に額がかけられており、そこには「守道有天知」の5文字が墨書されている。

ずっと昔に加藤剛主演のオリジナル版が放送されていた時には小生も好んで観ていたが、その時には奥にかかっている額を考えてみるなどはしなかった。

ネットでこの句の解釈を調べてみると、どうやら『道を守れば、天の知るあり』ということで、要するに「行うべき事を行い、あるべき人としてあれば、天の知るところとなる」。そういう解釈が主流であるらしい。いわば「守るべき道がまず先にあり、それを守れば、天もそれを知ってよい事(?)がある」と言ったところだ。思うのだが、この解釈は倫理の実践に関する功利主義的な立場ではあるまいか。ちょうど『情けは人のためならず』という格言と似ているような気がする。

TV画面の中で上の語句に改めて気がついた時、小生は「道を守らんとするは天の知ること有るべし」という意味であると考えた。

「何か大事なことを守りたい」と、そう考えるなら、現実を直視して、世界が進んでいく方向を洞察することが不可欠である。それが天意であり、「天意」即ち「歩くべき道」になる。つまり、何が正しい道であるか、その区別は人間が下すのではなく、天意が下すことである。天意はこの世界の表層から本質を観る努力さえすれば人間にも洞察できるので、まずは自己の独善を捨てて、天意を洞察できる者だけが正しい道を進みうる。ま、要するにこう考えたわけだ。

つまり功利主義ではなく、超越主義に、小生自身は実証主義とすら思うのだが、そんな部類に属する解釈である。道を志せば天もこれを知る、ではなくて、道を歩みたいなら天に則るのっとることが大事だ、と。そんな違いがある。夏目漱石の座右の銘「則天去私」とも通じるかもしれない。

裁かれる罪人にとっては功利主義の方が有難いであろうし、この5文字を背に負って裁く町奉行の立場にたてば、日ごろ拳拳服膺するべき心構えがこの句であるのかもしれない。

時代が時代なら古典をどう解釈するかで派閥が形成されているはずで、小生もまたいずれかの派閥に共感をして属していたに違いない。そして激烈な権力闘争を繰り広げていただろう。権謀術策も敢えてしていたかもしれない。それはそれなりに面白い人生であったかもしれない。

人間の世界はどこであれ、いつであれ、同じようなところがある。

ただ、調べてみると上の「守道有天知」の文字。ドラマ「大岡越前」の何番目かのシリーズから導入されたともWikipediaでは紹介されており、一貫性はないらしい(リアルタイムでは全く無関心だったが)。とすれば、歴史的事実とはまた違っているのかもしれない。

ま、本日は標題がすべてだ。歴史考証はまたにしよう。

★ ★ ★

そういえば、儒学には「格物致知」という名句もある。元々は孔子以前の中国の古典『礼記』の一節からとられた語句だが、この意味解釈は学派によって区々様々に分かれたことでも有名だ。

近世に至って最も有力な解釈は朱熹(=朱子学の祖)によるもので、『格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を広く含めたため、後に格物や格致という言葉は今でいう博物学を意味するようになった』との説明がWikipediaにはある。

福沢諭吉は儒学をこき下ろしていたが、元来、儒学には現実を客観的に観察して知に至ろうとする健全な経験主義も含まれていた。実際、江戸期の荻生徂徠や新井白石の仕事は、頑迷な「〇〇イズム」とは無縁である。

上の「守道有天知」もこの流れの中にあるのかと思われたので、メモっておく次第だ。

2019年3月17日日曜日

覚え書: 人の病気に「行政」はどう関係するのか?なにかを判定するべきなのか?

以下の報道は周知の話題に関連したものだ:
(前略) 
都の検証のカギとなる日本透析医学会の提言では患者が自己決定した方針は「尊重する」としながらも、透析中止の際に「生命維持が極めて困難な」状態などを検討しなければならない。さらに医師が患者や家族と十分に話し合うことを求めている。病院側は、患者本人のほか、家族や病院の複数の関係者が意思決定に立ち会ったとして、「検討は十分に行われた」との立場だ。 
 ただ、中止判断にあたっては、提言では院内の倫理委員会や外部委員会などの助言があることが「望ましい」とされているが、一度も開かれておらず、第三者の客観的意見が反映されていなかった可能性が高い。院長や外科医を含む病院側は都に「学会の提言は厳しすぎる」などと不満を漏らしており、提言逸脱を認識していた疑いもある。 
 人工透析は一般的に週3回で、1回当たり3~5時間。透析中の血圧の急降下により体調不良になることも多く、心身ともに患者への負担が大きい。専門家は「女性への精神的ケアの徹底が行われていたかも重要な検証事項」と語る。 
 ある腎臓病の専門医も「長年の透析治療で精神的に弱り、『透析をやめたい』と訴える患者は多い」と指摘。治療方針決定にあたって、患者の揺れ動く心情を念頭に、精神科医などの専門家を交えた精神的ケアが重要になるという。
(出所)THE SANKEI NEWS、2019年3月12日19:33配信

当該病院に近い関係者の考え方に異論を述べうる人は少ないだろう。どれも本筋だ。

しかし、これを読むと、小生は『日本の医療の理念・原則はヤッパリ延命にあるのであって、患者本人と家族の幸福はその次に置かれている』と思わざるを得ない。

どの意見も理に適っているが、どれも無機的で、かつ官僚的である、と。そう感じる。『命長ければ幸多し』というのは確かに戦後社会では反対できず、立派な信念であるとは認めるが、ある時代には『失楽園』がベストセラーになり、更に昔には近松の心中物が庶民の喝采を博したのである。そもそも自己犠牲を尊重する美意識と長寿を尊しとする価値観は両立できるのだろうか。日本人は歴史を通して永い寿命を常に無条件に価値あるものと観てきたわけではない。前にも投稿したが『徒然草』ではむしろ長寿を嫌悪しているのである。

***

父は、今なら助かったかもしれないが、胃癌で亡くなった。53歳だった。1979年の事である。小生はまだ職業生活を始めたばかりのヒヨッコだった。

末期を迎え父の主治医たちは懸命に治療をしてくれた。意識のないままに、ベッドに横臥して父が繰り返す機械的な呼吸音を聴いていると、生きている父の存在を小生は感じることができた。

家族の生死は綺麗ごとではない。

衰弱していても会話ができたり、表情を観たりすることが出来る容態と、ただ呼吸を機械的に繰り返すだけの容態とは本質的に異なるものである。他にも色々様々な病状がある。病気は「患者ファースト」と断言する気もないし、「家族ファースト」と言う気にもなれない。ただ、そういう現実がそこにあり、自分たちと他人たちの区分があることだけを実感した毎日を忘れることはできない。そして、こういう記憶は普通誰にでもそれなりの年齢になればあるものだ。

そのまま意識が戻ることなく父が亡くなると、今度はたちまち葬儀と埋葬、その他の行政手続きという雑事が押し寄せた。母は病人への付き添いの後にやって来たそんな繁忙の中で泣く時間さえ不十分だった。人の生死の前後、この国では多くの行政手続きと雑用を乗り越える必要があるのだ。一番、ソッとしておいてほしい時に、だ。

母が肺癌で手術も手遅れであると知ったとき、小生は父のような苦痛だけは母に経験させたくはないと思った。週末で休みだった小生と病床で話をした次の週末、小生が友人の結婚披露宴に出席しているさ中に病状が急変し、慌てて戻ってから一晩たっただけで母は亡くなった。母は苦痛から免れたが、ぎりぎりの延命処置を主治医に頼まなかった小生は許されぬ親不孝をおかしたのではないかと、今なお割り切れない気持ちが残っている。

人の生死は綺麗ごとではない。

***

上の記事に出てくる関係者の意見はどれも間違いだとは思わない。だからと言って、患者と家族たちの幸福がそこで尊重されているのだと感じられるわけでもない。今風の「相互監視」を旨とする社会の中で責任を追及されないための体制作りの観点から関係者がそれぞれの立場から口にできる範囲で意見を出しているだけであろう。

人の生死に関しては、本人と家族、そして最後をみとる現場の医師と看護師がどう判断したかがほぼ100パーセントの重みを持つべきだ。これが小生の経験である。

行政機関はあれこれと差し出口をはさまず、それよりも斎場の不足のため死後一月近くも冷凍保存される現状を少しでも解決するために時間をつかうべきだろう。死因不明のまま「急性心不全」と判定されるケースも多いそうだ。死因がよく分からない人の遺族の悲しみが一例でもあれば行政は放置するべきではないはずだ。

良い知恵を出せもしないのに他人事に口をはさみ、努力すれば解決可能な問題を放置するのは愚の骨頂と言うべきだ。

2019年3月16日土曜日

一言メモ: 憲法、天皇と日常感覚

報道で『皇位の象徴である三種の神器』が取りざたされている。これを継承(=相続?贈与?)する新天皇陛下には『贈与税が課税されるのか』という疑問と言うか、問いかけを大真面目にしている人があるという。

★ ★ ★

まあ、「三種の神器」を天皇家の私有財産と考えれば「相続」なり、現天皇が生前退位をするのであれば「贈与」なりに該当するという論理になるわけで、その日常感覚は小生も理解できないわけではない。

そういえば、世を騒がせている(むしろ、今後の一層の騒動の種になりうる)眞子内親王とK家との「婚約」は無事「結婚」にまで至りうるのか。こんな下世話な関心もある中で、TVのワイドショーでは『皇室の方であれ「基本的人権」はあるはずですし、結婚は両性の合意にのみ基づくという憲法上の大原則があるわけですから……』というコメントが多くあり、それはもう聞き飽きたと言えるほどである。

本当に、皇室は、皇族は、天皇陛下は基本的人権を有し、日本国民に適用される日本国憲法の規定下にあるのだろうか?100パーセントあるのだろうか?

★ ★ ★

もちろん憲法の第1章は「天皇」であるから、天皇陛下も憲法があっての存在であるというのが法的理屈だろう。

しかし、
第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第2条では世襲が定められているわけだから、皇位を継承しうる皇族と一般の国民は区別されている。これは法の前の平等に反すると考えることも可能だろう。最近は、男系男子のみが天皇を継承できると定めている皇室典範は両性の平等に反すると意見を述べる人も増えているが、それ以前に、皇位は国民一般に開かれた地位ではなく、皇族のみ、それも世襲によってのみ就ける地位であるという規定の方が遥かに古風な因習であると、そんな疑問を表明する日本人が出てこないことこそ小生には疑問である。

そもそも天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下、そのご家族等々、彼らは憲法に規定した職業選択の自由や移動の自由、思想・信条の自由、表現の自由を享受しうるかといえば、不可能ではなかろうか。皇族はいかなる政治的発言も控えるべきであるというのが、多数の国民の了解事項であろう。このような明々白々たる現実を知りながら、「皇族にも思想の自由、表現の自由、職業選択の自由はあるわけですから…」などと言い出せば、そんなことを言い募る御仁は大変な愚人であり、それを認めればそもそも日本国憲法は穴の開いたザルであると言われてもよい程の<愚法>になる。大体、現天皇陛下が退位を望まれたときに『天皇の生前退位は認められない』と多数の学者が反対したことは記憶に新しい。実に奇妙である。

故に、日本国憲法の文言の100パーセントがそのまま天皇家に適用されると考えられているわけではない、というのが事の本質であると思われる。

★ ★ ★

むしろこの点は当たり前の了解事項であると思う。現天皇も新天皇もその次の天皇も、ご本人の自由な職業選択によって即位するわけではないことは明白である。

誰も、辻褄が合わないことが分かっているので、言い出さないだけである。

憲法に天皇の規定を含めると、どことなく欽定憲法の薫りが残る。なので天皇陛下その人は憲法の外側に立つ。そんな薫りを完全には払拭できない。当たり前である。

憲法に規定されている以上、天皇に関する財貨は理屈上「公有財産」になるが、それが「神道」の宗教的色彩を帯びているとすれば公有財産たりえない。となれば、宗教法人の保有になるのか、であれば天皇家と宗教との関連は…となり、議論は際限なく続く。

現代的な市民社会の憲法の中に古代から継承されてきた天皇制を矛盾なく織り込むのは、実は非常に困難だと思うのだ、な。

★ ★ ★

継承されてきたものだから、その時代の憲法とは関係なく、我々は継承するという割り切り方をするしか議論のしようはないだろう。 天皇制とはそういうものだと思う。

憲法と矛盾が残るというので、天皇制を廃止すれば、むしろ残った憲法よりも廃止された天皇制を日本人は懐かしむに違いない。そう割り切ったうえで、矛盾を抱える度量をもって継承していくのが知恵というものだろう。

この辺に成文憲法の規定で全ての社会的事象を制御できるかどうかという「境界」がひかれそうである。

2019年3月14日木曜日

覚え書: リベラルは滑稽とな!?

韓国の「左翼政権」の事をブログで語ってみても、話題としては登場する必然性がない。とはいうものの、一般に「リベラル」とか「左翼」と呼ばれている政治勢力、思想家、言論人に共通して認められる傾向をよくまとめている記事があるので、抜粋(≠引用)しておこう。

  • 与党系知事の実刑判決に対し司法にあからさまな圧力攻勢
  • ネット遮断による検閲疑惑
  • アイドルの容貌規制
  • 韓国の「歴史」に反する主張には削除要請と謝罪要求
URL:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190314-00010002-fnnprimev-int&p=2


総じていえば、リベラルで進歩的な人は社会の役割を尊重する。しかし、社会という単体の意思決定機関はないので、つまりは中央政府の役割を尊重することになる。つまり「大きくて強い政府」を志向する傾向がどうしても出てくる。

この方向に進むと窮極的には社会主義、共産主義に行き着く。そして個人の思想よりも社会的意義という原理原則になってしまう理屈だ。『あなたのやっているそれは、どんな社会的意義があるのですか?』という指摘には逆らえないのが社会主義国家の厄介なところだ。その代わり、いわゆる「格差」は可能な限りなくなり、平等な社会にはなる。全ての人間は本来平等であるというのが社会主義の源流にある啓蒙思想の出発点であるからだ。

しかし、実際には社会主義になっても、共産主義になっても、全ての人が平等になる事はないのだ。

現在の社会はとても「進歩的な」社会とはいえない。そんな社会にあって、上のような方向を志す以上は、自らを「前衛的」であると位置づける理屈になる。社会を指導するのは有能で前衛的なエリートであり、一般の国民(=庶民)は(進歩的左翼が政権をとった後は)政府の指導に素直に従うべきであるという傾向が副産物として出てくる理屈だ。ま、こんな理屈はその昔には大学の授業にあった「比較経済体制論」でも聴講した(しなくても?)人には常識であるはずだ。

***


しかしながら、いかなる人物集団であっても、彼らが真に進歩的であるかどうかは、こんな時にこそ「第三者」に委ねるべきであって、自らが「進歩的」であると自己評価する権利はない。

よい機会なので書き足しておくと、社会の状態は個人や人間集団のバラバラの意思決定が集計された結果であるので、「結果としての社会」と観るべきだ。「社会の役割」というのは実存しない。実存するのは個人やグループの役割、というかあるのは「個人の役割」のみであるとみるのが理屈だろう。

なので、どことなく滑稽で、ガリ便勉が演じるドタバタ喜劇的なパフォーマンスに見えてしまうのが、いわゆる「リベラル」と呼ばれる人たちである、と言っては失礼になるだろうが、これも極めて偏屈者である小生の個人的感想にすぎない。





2019年3月11日月曜日

山高キガ故ニ貴トカラズ、内閣永キガ故ニ貴カラズ

安倍総理三選の目はないと小生は予測していた。ところが昨年の秋、何事もなく三選された。四選は絶対にないと考えている。しかし、四選で問題なしという発言が与党議員からは既に出ている。

この世の一寸先は闇だということは心得ているが、まさに何が起こるか正確に予測できる人間など一人もいない。結果として予測を的中させる人は偶然の賜物であり、宝くじ、というと可哀想か、競馬で優勝馬をあてるのと似ている。

しかし、安倍内閣の下で何か懸案が解決されたことがあるだろうか?

「共謀罪新設」、「集団的自衛権行使に関する憲法解釈変更」はまだ記憶に鮮明である。アベノミクスの効果については、まだ経済学界で議論があるようだが、あれは首相自らの政策と言うより、日銀の黒田現総裁の見解に基づく側面が大である。総じて、現内閣にマクロの経済安定化政策、成長政策、産業政策等々について精通し、官僚から一目置かれているような御仁は乏しい、というかいないのではあるまいか。TPP11はそれなりの成果である。EUと締結できたEPAも今後プラスの効果を発揮するだろう。要約すれば、自由主義・規制緩和・自由貿易を主たる方向として経済政策は進められている。移民政策もそうである。GAFAに対する公正取引委員会の新たな姿勢もそうである。

★ ★ ★

ただ、どうなのだろうなあ……

経済政策で立案され実行されている政策は、ほとんどが官僚組織から上がってきた原案を首相官邸が調整して、それをトップ段階で了解し、実行している(だけである)ようにも見える。まあ、経済政策なんてそんなものですよ、と言えばその通りなのだが。

沖縄の辺野古埋め立ては、このまま単純に既定路線を押し通せば、色々な問題が後に残るのではあるまいか。韓国の慰安婦、徴用工判決など対韓国外交も理屈は日本に言い分があるが、相手にも言いたいことはあるだろう。相手が敵対行為に出れば断固報復するという原理原則で構わないとは日本人の多くは思ってないのじゃないか。

そもそも消費税率引き上げも2017年4月から予定通り実施しておいて問題はなかったろう。これは決して後知恵ではない。経済データを吟味すれば判断できたことである。

対ロシア外交、対北朝鮮外交(というものがあるならばだが)などもある。何より日本のエネルギー計画をどうするのか。原子力発電のポジショニングはどうするのかも大問題で、これには緊急性がある。大体、太陽光発電で電力供給を増やして、電気自動車(EV)を増やせるのか?

EV化って…電気、ホントに足りるんですかい?それとも水素自動車で電気はもう使わないつもりですかい?

こんな大事な話、全然、話しもしていないのなら、極めて心配である。

総裁任期の残り2年余、ひたすら憲法改正に人生をかけ、後の課題は次世代送りというのでは次の人が迷惑だろう。

大きな変化は起こすのではなく、起きるものである。人間に出来ることは、起きるべき変化を邪魔しないようにするだけである。日本の社会が憲法を改正して、何か新しい社会を目指そうとしているのか、これを察するには尋常ならざる政治的デリカシーが要る。そんなデリカシーを安倍・現首相から感じたことは一度もない。特徴的な固有の鈍感さを感じることはあっても、感性としてのデリカシーを感じることはないのだ。

なので、予測しておきたい。

現首相の任期内に憲法改正原案が発議されることはない。
これから2、3年は政治的レガシーを残せる時代ではなく、巨大ではないが、それなりに重要な緊急性のある問題に解答を出すべき時代だ。そう思うのだ、な。


2019年3月9日土曜日

一言メモ: 政策不効率の原因になりうるマスメディアの理解力不足

官庁統計をめぐる問題は、基本的には単純な技術的、というより初歩的ミスの見落としに主たる原因があったと報道等では伝えられている(多数の関心は首相官邸の指示の有無など別方向を向いてしまったが)ので、これ以上はあまりつけ加える点がなくなった。

***

ただ、この騒動を通してつくづく痛感したのだが、厚労省内の特別監査委員会、総務省に設けられた検証委員会の作業でほぼ明らかにされてきたような、大半の幹部に通有する統計業務への無理解と無関心だ。そして、現場の統計業務担当者にある疎外感と事なかれ主義的体質である。

まあ、小生にも分かるような気はする。あれから30年……、現場も変わっているに違いないから。色々な事があったはずだ。

これでは、幹部を処罰しても『運が悪かった』、担当者を処罰しても『自分に何が出来たのか?』という反応しか期待できず、本当に困ったものだと思う。そして、この辺に問題の核心があるということは、厚労省の特別監査委員会や総務省の検証委員会の認識を丁寧にフォローしていれば、自然に正確な状況認識がそろそろ浸透してきていてもよいはずである、と。そう思われるのだ。

***

ところが、首相官邸の指示の有無や首相官邸への忖度があったのではないかという功名心にも似た先入観に凝り固まったマスメディアは、自分のイメージと事の本質が少々違うという点が(もうさすがに)分かってきたと思うのだが、それでも問題解明の基本的な方向を正しく理解するのに非常に時間がかかっている。

***

東京地検特捜部の常套戦略ではないが、メディアが先入観をもってストーリーを先取りして報道すると、政治や行政に高い関心をもったA層だったか、B層だったか、「▲▲層」もその報道に無批判的に影響される。

時間が経過した後で、マスメディアが最初のイメージと実際の内容が違うと知れば、マスメディアは方向が誤っていたとは言わず、ただ報道をしなくなるだけなのである。

しかし、正しい方向への解決策が当事者によって直ちに実行されるわけではない。正しい対応を実行するには、それが正しい方向だと世間全般が正しく理解していることが必要である。マスメディアは、世間が抱いているイメージが事の本質とはずれていると知りながら、その乖離を指摘することには消極的である。

もし、問題発覚後、規定の行政ルーティンに則して検証なり監察が淡々と進められ、検証結果が確定するまでは一切の対メディア対応を停止するならば、今回のようなケースではもっと遥かに効率的に措置すべきことが可能となっていただろう。そして、1年もたてばいわゆる「統計不正」について行政評価がまとめられ、緻密な検証結果がレポートされているだろう。

***

本当は、そんな道筋について国会議員は質問するべきなのだろう。ま、「べきだ」とここに書いても、まったく意味はないのだが。

以前の投稿でも書いたように、世間で統計が分かる人は少数だ。故に、不祥事が起これば長きにわたって「迷走」する。分かってもらえるまでは改善されない。そんな風になってきている。

色々な瞬間にマスメディアの活動が社会的不効率の原因となっていると批判されることが多いが、今回の統計不正の件においても、メディアの側の理解力不足から先入観報道をやってしまったのではないか。とすれば、またまた無駄な社会的コストを支払ってしまったことになる。これも「民主主義のコスト」などだとすれば、民主主義ってヤツは「べらぼうにカネのかかる仕組みでござんすな」と、そんなことを言う輩が出てくるかもしれない。

2019年3月7日木曜日

一言メモ: 官庁統計業務は『何らかの対応が必要だ』の好例

厚労省の毎月勤労統計は現在もなお炎上中であるが、統計業務の総括を任じる総務省でも類焼が起こりつつあるようだ。

「家計調査」である。少し長いが引用しておこう:
その一方で、総務省の「家計調査」が、昨年は個人消費がやや持ち直した形になっていました。これをとらえて、政府もそれに近いエコノミストも、個人消費が回復を見せ始めたと、前向きに評価しています。
しかし、その家計調査も、途中で調査用の「家計簿」を変えてしまい、データの不連続や分かりにくさが強まったほか、「2人以上世帯」の改善に対して単身世帯を含む「総世帯」の不振が際立ちました。
そして、さらに不自然なデータが出てきました。 
(中略) 
ところが、2018年の世帯構成が突然若返りました。世帯主が60歳以上の世帯割合が52.3%と、前年の53.4%から1%以上も減りました。
また年々増加している「無職世帯」の割合も18年は33.8%と、前年の34.6%から減少。代わって「勤労者世帯」が52.9%と前年の49.6%から大きく増加しています。
無職世帯の消費額は勤労者世帯に比べて2割程度少ないため、消費額の大きい勤労者世帯の比率が高まると、それだけ平均消費水準が高まります。
定年延長で無職世帯に移らず、勤労者世帯に留まる世帯が増えることはある程度理解できますが、この動きはこれまでも徐々に進んでいたわけで、2018年に突然勤労者世帯が大きく増加したのはあまりに不自然です。
まして60歳以上の世帯が減るというのは、さらに不自然です。片方が亡くなって単身世帯が増えているなら、それらを含めた「総世帯」の結果を毎月公表すべきです。
このサンプルの変化が消費水準を高めるために、意図的に行われたとすれば、まさにデータ偽装になります。
URL:https://www.mag2.com/p/money/647458

「家計調査」はGDP統計の基礎統計(というより四半期計数の基礎統計)の一つにもなっているが、水準の推計に使うにはともかく、前年比などの「変化」をみるには余りにもサンプル入れ替えに伴うノイズが大きく、特にリアルタイムの景気判断に重用するには極めて不適切であると小生は考えてきた。かつ、水準推計に使う場合でも費目間でアンバランスな「過小性」が否定できず、大いに問題を含んでいるというのは、小生がずっと昔に学会や専門誌で公表した結果にも現れていることで、これまた「家計調査」を常用している人なら感覚的に分かっているはずである。

それを今さら「信用できない」と批判してみても、同じ畑で仕事をしている人なら「分かっとるワ!」と言うところなのだが、問題は本当に総務省の統計作成業務が問題視されてきたときに、それを行政評価したり監察するための行政組織が同じ総務省内にしかないことだ。

いまでも厚労省内の身内の監察委員会報告は「甘すぎて信用できない」と批判されているくらいだ。

先が思いやられるとはこの事だ。

前にも投稿したが、行政機構の再配置を内々にでも検討し始めたほうがよいのではあるまいか ― もうしているかもしれないが。後手に回ると、もたないのではないかと予想する。司法統計の不正で法務省、ひいては検察庁全体が動揺するようなものだ。犬の尻尾が胴体を振り回すようなものだが、まったくブラックユーモアにもならないだろう。

厚労省の「不正統計」は、それ単体を(伝えられているままに)みると、プログラムコード管理者と推計担当者レベルの不注意と怠慢が原因であると(専門家の間では)おおよそ見当がついている状況だ。要は、再発防止策を技術的観点から立案すればよい。ただ、経緯を踏まえた事後的監察が満足に機能していない点は否定できない。ここでキチンと方をつけなければ、官僚は「不祥事を起こしても、責任を問われるのは総理と大臣と幹部だけで、やりすごしていれば自分には何も起こらない」ということになり、悪い意味での事なかれ主義が今後横行するのは確実だ。

分かっとんのかいな…という点こそ問題の核心になりつつある。単純な話なのだがナア……。これも与党絶対多数がもたらした「国内だけは平和ボケ」なのか?それとも次の選挙までの時間を超えるような問題は、結果がすぐに出ないので、そもそも取り組まないということなのだろうか。

2019年3月6日水曜日

職業倫理の乱れ、性倫理の乱れがそれほど難問か?

こんな報道記事があった:
問題の根本が、職務倫理や性意識といった職員ひとりひとりの内面にある以上、即効性のある有効な改善策も講じにくい。自衛隊も警察も、どちらもただ途方に暮れている状況なのだ。
これで日本の安全と治安は本当に維持されるのか。抜本的な問題解消には、隊員・捜査員教育の見直しにまで踏み込まざるを得ない惨状のようだが……。
URL:http://news.livedoor.com/article/detail/16115771/

典型的な世間話、井戸端会議のネタであるが、最近の世相の一端をよく伝えていて、男女間の乱れ、性倫理の乱れ、職業倫理の乱れを嘆く、一般的な感想が込められている。

とはいうものの、性倫理、職業倫理の乱れを多くの人が嘆いているその世間で、絶句するような不祥事が頻発しているというのだから、今風の社会は口では嘆きながら、いざとなれば口とは別に体が動く。そんな御仁が増えているご時世ということなのだろう。

***

ほんの一言メモなのだが、自衛隊、警察(他分野にも類似の職種はあるだろうが)で余りに男女間不祥事が多く、職務遂行の障害になりつつあるのなら、何百年も継続した伝統的組織原理に戻して、組織構造を男女別建てにするのが宜しかろう。男には男の仕事、女には女の仕事。そんな仕組みが何百年も継承されてきたのは、先祖たちが頑固で馬鹿であったからではなく、そうすれば巧く行くという一面もあったことは認めておかなければなるまい。

前時代はすべて問題が多く、それを改めれば未来は必ず進歩するという…のであれば、共産主義革命でも何でもとにかく革命でも起こして、ちゃぶ台返しをすればよい理屈だが、実際にそうしてみると現実は惨憺たる失敗に終わったのが20世紀の経験であった。

男女雇用均等法の理念に背くということなら、例外規定を設ければよいだけのことである。それほどの難問というわけでもあるまい。

***

この世界にオールマイティの理念も方法も存在しない。生存環境の変化に応じて、最適の選択は変わる。

知恵は現実を洞察する力である。現実をみず人間の小さな頭の中の理想にこだわる姿勢は笑止であろう。無理を押し通せば道理が引っ込む。崩壊を招くだけだ。
知ったかぶりをしちゃあいけねえヨ…分かんねえことは分かんねえと白状すりゃあ、気が楽になるってものヨ。何もかも考えりゃあ分かるってなりゃあ、俺たちゃ神様だって言ってるのと同じじゃねえか…
社会の問題は「解決する」のではなく、時の流れの中で自然に変質し、本当は何が問題かがわかり、落ち着き、陳腐化され、問題としては評価されなくなり、そして忘れられていくことで「解決されてしまう」ことが多いように思っている。「安保」も「米帝」も「構造汚職」も「全共闘」も「東側」も「南北問題」もみなそうであった。すべて変質し、世界は変わり、古い問題の多くは自然に消失してしまっている ― もちろん新しい問題が一方では生まれている。そういえば「学校群」もそうであったなあ・・・あの時は高校受験が混乱した。誰だったか理想主義者がいたはずだが、名前を思い出せない。で、いまは高校統廃合、大学経営危機が時代の課題になった。これまた20年もたてば自然氷解して別の問題と人々が取り組んでいるだろう。

そんな「変化」を「進歩」と呼びたければ呼んでもいいと思うが、本当に進歩しているのは「科学技術」だけであると小生は思う。

2019年3月4日月曜日

これは幼稚化現象なのか?それとも妬みなどの劣情か?

昨年世を騒がせた東京医大ほか私大(国公立も?)医学部の「不透明入試」。

最近とんと耳にしなくなったが、新たにこんな報道があった:

理事長や受験生関係者との間に、優遇を依頼して合格すれば多額の寄付をするという「暗黙の了解」があったと推認している。
URL:https://mainichi.jp/articles/20190304/k00/00m/040/229000c

文章全体から一部を切り取るのはアンフェアなのだが、上の引用に限っては論旨をミスリードすることはないと思う。

★ ★ ★

まあ、いわゆる「裏口入学」である。その手法は実に千差万別なのであるから、具体的内容を新たに縷々と述べるとしても、本質的に新たな真相を解明したことになるわけではない。「やっぱりネ」と言うしかない。

+++

ただ、思うのだが「多額寄付行為者」の子弟を優先合格させることは、学理上のロジックに基づいて否定されることなのだろうか?

ここで「学理」と言っているが、この「学理」に法律上の規定は(当然ながら)含まれない。なぜなら、その時々の法律上の規定などは、その時に生きている有権者と議員の意志と感情の流れの中でどうにでも規定されうるからである。どうにでもなりうる事には学問上の真実性はない。

+++

そもそも特定の日の一回の筆記試験の得点のみに基づいて合否を判定するべきではないという議論は、ずいぶん昔からある。試験万能主義と学歴主義は戦前期の帝国陸海軍、というより日本の官僚組織全体にみられる通弊である。

この件については前にも投稿したが、小生は極端な方式として、60点以上獲得者はすべて基準点充足としておいて、あとはくじ引き抽選方式でもよいと考える。そして抽選方式でよいのであれば、特に私立大学の場合は寄付金額上位者から30位くらいまでは優先入学の権利を与えても、入学者の学力管理上何ら問題は生じない、と。そう確信しているのだ。それ程までに、(上位1パーセント以内の超秀才は別として)1回1回の筆記試験の得点と真の学力の間には偶然性が介在する、ということは一度でも学生を教えた人間であれば当たり前の経験的常識になっていると思うのだ、な。

故に、寄付金の多寡に応じる形で合否を決めること自体が不合理であるとはどうしても感じられない。偶然性が左右する微細な得点差に拘っても実質的な意味は含まれないが、金銭を負担して大学教育に貢献する意志があるかどうかは、それが本人の負債でなく保護者の負担であるとしても、最も重要な入学意欲の真剣さをそこに見てもよいではないか。まさに背水の陣である。

ただ、それを堂々と公開せず、試験の得点調整という方式で陰伏的に行っている点が非常に不透明で<コソコソ>やっている。そこが非常に悪印象を与えている。言うべき点はこの一点である。

★ ★ ★

大学で行うべきことは授業と教育を厳格に行う事である。たとえ多額寄付行為者の子弟であっても、単位認定、進級、卒業の取り扱いにおいては厳格に公平に判定されているならば、何の問題もない理屈である。

仮に、万が一、学内において多額寄付行為者の子弟が他の学生よりも甘い基準で卒業だけができるとしても、国家試験に合格しなければ医師にはなれないのである。大学もそれは分かっている。故に、余りに愚かな不適格者を卒業はさせないだろうし、保護者の圧力に屈して卒業を認めるとしても、大学の評価が下がるだけであって、社会的な害悪にはならない理屈だ。

もちろんこう述べれば、この件に執着する人は多額寄付によって医学部に入学をした者の国家試験合格率を公表せよと主張するに違いない。公表をするまでは延々とこの件に執着することも予想できる。そうした人たちの個人名を公表せよとも言うだろう。それは個人情報であると言えば、ことは医師になるべきではなかった者が医師になっている以上、その人物の氏名を公表することは社会的要請であると議論するだろう。

そうして、実際にはおそらく平凡な医師として職業生活を送りうるはずであった平凡な人物が社会的正義という大義名分によって非難され人生を奪われる結果となる・・・。

これは愚かしい悲劇だ。

愚かしい悲劇が現実に起こるとすれば、多くの場合、善意と悪意が入り混じっているものだが、決定的なのは善意を利用する悪意がまず最初に存在しているということだろう。


2019年3月1日金曜日

これは幼稚化現象なのか?それともマナー確立への一歩なのか?

 先日の投稿の中でこんなことを書いている:

言葉の事を書いてきたが、そういえば『大事なのは言葉です』という言葉も昔はなかった。誰もそんなことは言わなかった。 
CMにもあったくらいだ。「男は黙ってサッポロビール」、そんな時代だ。 
明治生まれの祖父が一番好きだった言葉は「巧言令色スクナイカナ仁」。要するに、言葉上手な人間は信用できない。「剛毅朴訥仁に近し」。ボキャ貧で、マスコミ受けしない人物こそ、徳があつく、力量もあるもので、いざという時に信頼できる人物である。物事を任せるに足る。これはもう経験則であろう。 
大事な事は「知行合一」。口先の言葉に価値はなく、汗をかく行動が価値を創る。この点では古典派経済学の労働価値説は本筋に沿っている。小生はそう思っているのだ、な。「知価革命」などというが、知価の知は苦心の末の賜物であり、いま思いついた言葉とは無縁である。 
口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(マタイによる福音書、第15章、11) 
人物評価の根本も小生の若い時代と今とでは一変してしまったねえ。
★ ★ ★

以下の「報道」(?)を目にして思わず上の投稿を思い出した。
「女性ドライバーの皆様へ質問です。やっぱり、クルマの運転って苦手ですか?」――。そんなメッセージをトヨタ自動車が1日、公式のツイッターで投稿したところ、批判が殺到。トヨタは投稿を取り消し、謝罪した。
 トヨタはツイッターの投票機能を使って、「とても苦手」や「すこし苦手」など回答を募っていた。このメッセージに対し、SNS上では「やっぱりって何? 女性蔑視?」、「普通の運転で男女差ってあるのでしょうか」、「免許取得以来無事故無違反の私でも、車の会社からやっぱり運転下手って思われてるのかと思うと悲しい」、「私の周りには事故を起こした人もいないし、みんな毎日バリバリ運転しています」といった批判的な意見が広がった。

(出所)朝日新聞、2019年3月1日

『やっぱり、車の運転って苦手ですか?』という表現が適切であったかどうか、ということだ。

特に『やっぱり』という副詞にクレームをつけているということのようだ。

ま、『ものいえば唇寒し』などとうそぶくのは月並みだろう。

+++

 トヨタの担当者はシンプルに『やっぱり、クルマの運転って苦手ですか?』とズバリいう言葉にした方が、ずっと訴求力があったと今頃は後悔していることだろう。

つまり余計なものは「やっぱり」ではなく、「女性ドライバーの皆様へ質問です」という前の句である。

推測するしかないのだが、AI(人工知能)を使った先端的な安全制御機能や自動運転機能により高い関心を持っているのは、男性よりもむしろ女性客の方であるという現場の感覚があったのかもしれない。

自動車ではないが、例えばカメラでマニュアル撮影を好むのは男性の方が多いと聞いたことがある(今でもそうであると思う)。同様に、車の世界でもマニュアル操作はずいぶん減ったが、それでもまだギアシフトをガチャガチャやりながら、クラッチメダルを踏んで運転するドライバーはいる。小生の同僚の中にも二人を知っているが、二人とも男性である。

ただ、小生こうも思うのだが、カメラや自動車を面倒くさいマニュアルで操作する男性は、機械が好きだからというのも理由だろうが、もう一つ「人と違ったことをしたい」という動機もあるかもしれない。ときにトンデモナイ行動をするのは、女児よりも男児に多いというのは、これはもう子育てをした経験のある人なら納得するのではないだろうか。

亡くなったエンジニアの父は「女性はメカニズムというのが苦手だからなあ……」と時々こぼすように話していたことを思い出す。

カメラにせよ、自動車にせよ、その他の電気機械や工作機械にせよ、その好みや傾向には男女間性差が歴然とあるように小生も感じる ― 実際、うちのカミさんも<機械音痴>というといい顔はしないが、苦手である。

なので、本当はこの件は実証的な科学的検証に訴えると、面白い法則が得られるかもしれず、その面白い発見が新しいマーケティングにつながっていき、ひいては誰にとってもより良い製品開発に結び付いていく可能性があるように思う。

言葉の片言一句にまで神経質にこだわるのは、あまり生産的な態度ではないというのが、第一印象である。「やっぱり」おおらかな社会の方が結果として着実に進歩すると思うのだ、な。

★ ★ ★

しかし、問題は科学的検証のための問題提起ではなく、単なる言葉遣いの紛争になってしまったようだ。

「ああ言われた」とか「そんな言い方はないでしょう」という言い回しもあるので、日常生活の上で言葉は大事だ。「ものも言いよう」という格言もある。

確かにマナーは平穏に暮らしていくためには不可欠な約束事である。

しかし、やはり小生は言葉の問題はレベルの低い事柄だと考えている。社会の進歩や問題を解決するのは、言葉ではなく行為である。

「どんな風に言ったか」は振り返ってみると、大した事ではないということが分かるものだ。大した事でもないのに執着する人は器が小さいからだと感じられてならない。