2019年5月31日金曜日

「人口政策」は意義のある、必要な政策だと思うのだが

桜田前五輪相が失言をしたというので非難されている。

「結婚しなくていいという女の人が増えている」あるいは「お子さん、お孫さんには子どもを最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」

ネットの報道を読むと、大略、こんな発言をしたという。「発言」とはいえ、不特定多数の聴衆を相手に自分の政策を語ったというより、自民党議員が集まるパーティでそんな話をしたそうであり、まあ仲間内である程度の最大公約数的な見方を面白い言葉にしたという一面ががあるのかもしれない。

とはいえ、相当の反感を世間ではかったらしく、また再びバッシングのターゲットになった感がある。

「ターゲット」になりやすいという点では「日本のトランプ」と言えないこともないが、愛嬌はこちらの方がマシかもしれない。

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非難する人の大半は『子供を産む、産まないはその人の自由である』という意見を述べている。

確かに道理だ。

思うのだが、国が実施する政策に「経済政策」があるということに反対する人はあまりいないのではないかと思う。この中には、財政政策、金融政策、貿易政策、産業政策等々、日本人の生活に大きな影響を与える政策が網羅されている。

国防政策も重要であるし、治安・防犯対策も政策の一分野である。他にも、社会保障政策、福祉政策、教育政策、環境政策、etc.…国の未来を見通すうえでどれも疎かにはできない。

同じ意味合いで、「人口政策」もある。"Demographic Policy"である。中国で推進されてきた「一人っ子政策」は日本人にも有名である。が、少子化の進行に悩んだフランスの人口政策も聞いたことのある人は多いはずだ。同様の政策は北欧諸国も進めてきた(この資料を参照)。出生率が低下した国では必要な人口政策が実施されてきた一方、英米では特段の政策を採っていないが、それは出生率が十分に高いからであると推察できる。そして、日本は既に相当な少子高齢化の状態にあり、出生率もかなり低いのが現実だ。

実際、リンクを張った資料をみると、日本は現物給付率は(確かに平均以下ではあろうが)それほど格段に低いわけではないが、現物給付率では説明できない「その他要因」によって出生率が非常に低くなっている。現物給付状況(並びに現物給付と相関関係にある諸々の要因)とは無相関の「その他要因」で出生率が低い。では、ここでいう「その他要因」とは具体的に何なのか。

現代の日本社会には人口政策を考えるうえで確かに解くべき問題があるわけだ。人口政策に関連する政策分野として移民政策があるが、それと並行して日本の国情に適した人口政策を推進するとしても決して不適切ではない。

桜田前五輪相は自民党の議員であるから、こんな問題意識が頭の片隅にあるとしても不思議ではない。色々な課題の中で「国勢≒人口」のトレンドが非常に気にかかっていたとしても、それは心情としては自然である。そんな風にも小生は感じるのだ、な。ま、使った言葉は「政策」というにはほど遠く、激励というにも言葉遣いが乱暴で、場末の冗句といったレベルではあるが……。

いずれにしても、擁護するとか、共感するとか、反発するとか、そういう次元の詰まらない感情論にしてはならない話題ではある、と。そう思うのだ。

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「子供を産む、産まないを政治家が云々するのは余計な話ヨ」という反発は、感情としては理解できるが、この論理を突き詰めると最後には「人口が減ろうが増えようが、それは自由な選択をした結果なんだから、どうなっても諦めなさい」という理屈になり、「政府が人口政策を決めるなど不必要、すべて認められない」という結論になるのではないか?

ヨーロッパで実行できた政策を日本はしてはいけないのか。人口増加策を検討することは重要ではないのか。たとえば3人以上の子供を育てた両親を表彰することは女性の間に差別を持ち込むことになるのか。もしそうなら、なぜそうなのか小生には理由が思い浮かばない。

人口政策に裏打ちされない社会保障政策は、核燃料サイクルの裏打ちなき原子力発電とどこか似ている。とすれば、終末処理が担保されない原発を否定する人は、人口政策の裏打ちなき社会保障政策を否定しなければならないというロジックになるのではないか。

生きやすい社会を目指しながら、いまよりはもっと多くの子供を育ててほしいという政治家の発言に反発する理屈も(もしこれが理屈になっているなら)奇妙な理屈である。


2019年5月30日木曜日

一言メモ: ▲▲代行業サービスが益々発展するかも……

川崎市登戸駅近くで発生した悲惨な事件で犠牲になった女児のご両親がマスコミ各社(?)宛ての書簡を書いたというのでニュースになっている。そこには世間に対する感謝と併せて、今後は直接の取材活動を控えてほしいという希望が記されていた。

ムベなるかな…という印象である。と同時に、自らがこんなことまで何故しなければならないのか、と。そんな感想もある。

犠牲者の両親の胸中は察するに余りある。A社の報道記者一人に気持ちを伝えるならまだよいだろう。A社の次にB社から人が来訪してもまだいいだろう。

ところが放送局の数だけ、いや最近はワイドショー番組が専属のリポーターを派遣する方式が広まっているようでもあり「放送局」の数だけというより「番組」の数だけと言うべきだろうが、加えて新聞社の数だけ、週刊誌の数だけの取材陣が膨大な数のカメラとともに押し寄せれば、嬉しいお祝いの場ですら辟易とする。同じ話をするにしても疲弊する。まして突然に被害者家族の立場に立っているならその心情は更に深く傷つくというものだろう。

営利活動(←有料CMを放映する以上は定義から営利活動となる)は自粛するべきだと、端的に感じるのだ、な。

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「退職代行業サービス」がサービス拡大をすれば一層の成長につながるはずだ。「過剰な取材を控えてほしい」という「取材自主規制願い」を代行業サービスのメニューに是非含めてはどうだろうか?

図らずも世間のターゲットになってしまい、心無いメディア・スクラムの被害を受けたり、風評被害の後遺症に苦しんでいる人々は、「取材自主規制願い」の作成とメディア各社への配布、警察、市町村など公的機関や日弁連の人権擁護委員会への提出などを代行してもらうのに十分な理由がある。

誠にこの世はリスクに満ちている。悪意によるリスクもあれば、過剰な善意によるリスクもある。無関心によるリスクも当然ある。リスクはリスクに応じた保険サービスでカバーされるべきだ。そしてマスメディアの餌食になることもこの浮世のリスクの一つである。

2019年5月28日火曜日

コメント: 消費税率引き上げに関連して

NewsPicksで消費税率引き上げに関するコメントを書いておいた。

こちらにも転載しておく:

この10月の消費税率引き上げが現在の景気動向の下で適切かという議論が試行中だ。
税率引き上げ後、家計が実質消費を削らなければ貯蓄が減って家計のISバランスは悪化する。ISバランスが悪化すれば、貯蓄の取り崩しや債務の増加が進む。家計の財務状況は悪化する。一方、政府は政府消費が一定なら貯蓄が増える。公共投資が同じならISバランスが改善する。ISバランスが改善すれば、債務の減少が見込まれる。つまり「財政再建」が進むことになる。
日本全体のISバランスは経常収支に見合う。経常収支は消費税率の引き上げによっては変わらない(としよう)。とすれば、消費税率は日本全体のISバランスを家計、企業、政府の3部門でどのように分け合うかという話になる。
財政が再建されても、家計の財務状況が悪化すれば、元も子もないではないかという議論は常にあるわけだ。
しかし、今回の税率引き上げには、増えた消費税収を社会保障給付の拡大を通してそのまま家計部門に戻しましょうという一面も混ざっている。この一面だけをみると、消費税を多く支払った家計から、支払額の少ない家計へ資金を移転するという作用も(多分)出てくるだろう。
家計部門の中で財務状況悪化が進むよりは、日本の公的部門の財務悪化として一元管理されている方が、同じ「悪化」よりはまだマシかもしれない……。とすれば、あえて消費税率引き上げはしない。巷で噂されているように、日銀の量的緩和がついにインフレにつながりはじめたとき、そんな時の特効薬として増税はとっておく、こんな選択もあるのかもしれない。
この問題、最近になって色々な理論が出てきているので中々追いつけない。要勉強。

この20年間の日本経済は慢性デフレ状況に陥った際に「政策実験」を実施した1ケースに該当する(とされている)。

その意味でも、信頼性ある経済統計の整備が世界経済の健全な運営のために欠かせない。

2019年5月26日日曜日

断想: 「生きがい」は死語になりつつある?

ずっと以前の時代、仕事を選ぶ基準としては給料や成長性、残業時間等々、色々な基準があったが先ずは「やりがい」とか「生きがい」があるかどうかをトップに挙げる向きが多かったような気がする。

「生きがい」のある仕事に携わることができれば「これは私の天職です」という言い方にもなった。

「天職」……同じ「テンショク」でも、いまそれを言えば「転職」を指すのだから時代は変わったものだ。

亡くなった父は、家庭で結構仕事のことを話すほうだったが、本社勤務だったころ同僚の噂、批評をしていたのだと思うが、『あの人はカレンド(?)入社だしなあ』とか、『あの人は天下りだから』とか、要するに「途中入社はちょっとなあ…」とでもいう様なことを何度か言っていたものである。

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実は、その会社でしか出来ないことは余りあるものではない。父はエンジニアだったから、どこに転職しても同じ仕事をしようと思えばそれも可能だったのではないだろうか。それができないと信じ込んだのはこの会社に勤めることが自分の天職だと思っていたのだろう。

父を見ていた小生は現勤務先に執着するのは間違いだと思うようになった。が、「移籍」はともかく「転職」を何度も繰り返すのは、父と同じく小生もせずにすんで良かったと思う。

「転職」が当たり前の時代になってから「生きがい」という言葉は次第に死語になってきたように思う。

多分、何のために生きるのかという問いかけに対して、『それは自分のために決まってるでしょ』という回答が最近は非常に増えていると思うのだが、自分のために生きてしまうと自分が死んでしまえば自分の人生は何のためにあったか、自分の死と同時に自分の人生の意味が消え去るという理屈になる。

虎は死して皮を残し、人は死して名を残す

なにも立身出世主義を標榜する必要はないし、英雄や偉人を尊敬しなければならない義理もない。しかし、何かを伝えたいなら、また残したいなら、自分以外の何かのために生きる必要がある。自分の死後に何かを残すことを目的にするのは、自分のために生きる人には無理であろうからである。

つまり自分の人生を超える何かがある。

何かのために生きているなら、その人には「生きがい」があるという理屈になる。自分のために生きている人に「生きがい」はありえるのだろうか?

2019年5月24日金曜日

もつ「時計」が非常に大事である

元々亡くなった父親の影響からか相撲が好きだった。その相撲好きも本場所と関係のない北海道に移住してきて長らく下火になっていた。ところが、どういう拍子か、漱石のように『趣味の遺伝』というものが本当にあるのか、上の愚息が小生をこえる相撲マニアになってしまった。それで、ずっと叱るばかりであったのが不憫になって、令和最初の夏場所の四日目、カミさんと上の愚息を連れて国技館に行ってきた。ちょうど貴景勝が御嶽海との取り組みに勝ったはいいが、靭帯を損傷してしまった日である。

その夏場所も今日で13日目になり、優勝争いが面白くなってきている。

今日は御嶽海が竜電に負け、大関復帰を目指す栃ノ心は優勝を狙える朝乃山を投げたが土俵際で踵が出てしまいこちらも負け。小生の好きな二人とも黒星で全くさえない。


明後日の千秋楽にはトランプ米大統領も観戦に来るというのだから、その日に行く人は尻がムズムズするような感触だろう。自然に良い形になれば令和最初の東京場所も楽しい記憶になるだろうが、庶民の楽しみの場に政治がズカズカと入り込んできて好き勝手をやったなどという演出になれば、不愉快な記憶となり、それから1か月くらいはTVのワイドショーで安倍総理の不定見、いや無定見と鈍感があげつらわれ、散々に叩かれるだろう。そんな可能性も明らかにあるようなので、意外と危ない橋であり、ギャンブルだと小生は思っている。なにしろ7月には参議院選挙である。危ない、危ない……

世論らしきものは突然変わることがある。しかし、社会の現実はそんなに速く変わるものではない。

現実は不変でも、そこで生きている人間の認識、心情、感情などが変われば、世界が進む方向は変わる。そうはいっても社会には社会の変化法則というものがあるはずだ。社会の変動は人間の感情とは関係がないと考える立場もある。

社会はゆっくりと変わる。小生はそう考える立場だが、突然に本質的に変わることもあると観る立場もある。

自分がもっている時計と世界の時計を合わせなければ社会を理解するなど不可能だ。

相撲の社会も世代交代期にあるようだ。この世界もまたゆっくりと変わっている。

カミさんや上の愚息がずっと持ち続ける楽しい記憶もゆっくりと増えていてほしい。思うのだが、楽しい記憶は現在の孤独を埋め合わせるものだ。そのことは小生が10代の頃、父が長らく鬱状態の病気で家の中がずいぶん暗く、だからなのかどうか今でも分からないが、小生も内に閉じこもるようになり、学校内で孤立していたのでよく覚えている。

今日は閑話休題ということで。


2019年5月22日水曜日

これは「根拠ある」ソーシャルネットワークになるか

今年に入ってからNewsPicksを知り、最近特にはまるようになった。コメントをつけてニュースをマイピックスとして保存しておくと、後から振り返るのに重宝だ。

この何日かは以下のようなコメントをつけた。いずれもGDP統計に関連してのことだ。

昨日もコメントしたが、ちょっと吃驚したのは『市場の予想を大きく上回る数字だった、云々』という報道が多かったこと。
最近はどんな方法で四半期別QEの事前予測を計算しているのだろう。小生は一世代前に属するので、ボックス・ジェンキンズ流のARIMAモデルで予測値を計算した。更に、古い世代なら段階別接近法やマクロ計量モデルを使う所だろう。いまはどんな方法が盛んなのだろう?
素直に全データを使ってARIMAモデルを作ってGDPのⅠ期先予測を計算すると、この1~3月期は事前予測値とほぼ一致する。「大きく上回る」などという数字ではない。
ただ一つ計算でウィークポイントがあるとすれば、今回公表されたデータから最後の1~3月期のみを外して一期先予測を計算した点である。厳密には、公表前のデータ、つまり昨年10~12月期の二次速報値を使って、一期先の1~3月期を予測するべきだ ― 結果はほとんど変わらないと思われるが。
次の4~6月期は、公表前に利用可能なデータを使って、文字通りの「事前予測」を計算することにしよう。(5月21日)

「昨日もコメントしたが」というのは、最初にコメントした文章に加筆しようと思ったからだ。まだなじんでいないので、古い文章を上書きしてしまったらしい。


本日は日銀によるGDP推計に関連した以下のコメントをした。

GDP統計も「確報」になれば供給側統計に基づくコモディティフロー推計値がコントロールトータルになるので、家計調査はGDPの基礎データではなくなる。関係があるとすれば、暦年データを四半期分割した四半期系列だ。つまり確報段階でも四半期パターンには家計調査の影響があり、したがって季節調整系列の前期比増減率を左右することになる。
QE(速報値)の季調済み計数の動きが時に不自然になるのは、この推計プロシージャに由来する。
消費推計の基礎データとして「家計調査」を避けたほうが良いという点は、ずっと昔から言われていたことで、日銀による独自の消費推計は信頼性を高くするものだと思う。
とはいえ、GDPも時系列データであるので遡及して10数年程度はあったほうがよい。特に季節調整の計算にはその程度の期間は要る。ザクっといえば、2000年以降は時系列として整備するほうがよい。
そうなると、「家計調査」に依存しない計数が望ましいのは確かにそうだが、代わりになる基礎データは一貫して用意されているのだろうか? 継続されているようでも、細かくみると実は連続していないデータは多い。日銀のDPを(ざっと)読んでも、すぐには判明しない(まあ、大丈夫なのだろうが)。
どちらにしても、支出側(人的推計)と供給側(コモ推計)とのマッチングが必要とされないのなら、日銀による一貫した四半期GDP推計(消費推計が論点になる以上は実はGDE推計と言うべきだが)の方が自然な四半期パターンを示すとしても、それは予想できる結果だ。(5月22日)

コメントに対する「いいね」が「Like」になっていたり、「Like」をもらうと通知があったりと、どこかFacebookに似ている所もある。根拠のあるニュースへの反応を主軸にしてソーシャル・ネットワークを形成するのは、"Fake News"やデマ、流言飛語、ネット・バッシングなどの温床となるSNSよりはヒョッとするとマシかもしれない。本名でアカウントを作成する原則、これも良い。

そんな風に思っていて、これから利用頻度が上がっていくかもしれない。

2019年5月20日月曜日

「いまはこうするのが最善です」という発想が最も危険である

小生は相当に偏屈かつ保守的であり、(既に何度も投稿しているように)理に適わない事も、憲法と明らかに矛盾する事も、継承されてきた価値を守りたいなら理屈や憲法とは関係なく継承していけばよい、と。これが小生の立場ですと、何度も書いている。

そんな小生が、日本共産党に(中国共産党にも)シンパシーを感じるはずはないのだと、先にここで書いておこう。

★ ★ ★

その共産党が「ついに」というべきか、「驚くことに」というべきか、日本の天皇制を容認するとの方針を採った、と。そんな記事がネットにはあるのだ、な。
ところでこの天皇制の扱いですが、どう考えても次の選挙では争点にはなり得ないものです。
 中には、これを共産党の右傾化だという非難があるようですが、そんな声など聞く必要もありません。
 今、何が一番、重要なのかという時の政治課題があるわけで、今、安倍政権による失敗したアベノミクス、弱者に冷たい政治を変えて欲しいという多くの有権者の期待に応えることも共産党の方針です。その実現方法が野党候補の一本化であるならば、それに応じて譲るところは譲るということも必要なことです。
 例えば、今、次の選挙に向けて共産党がこの代替わりのときに天皇制批判を強めることに意味がありますか。
 有権者の中には天皇制に批判的な人もいれば好意的な人もいます。
 そのような中で次回選挙では天皇制は争点ではないのですから、そこは天皇制に好意的な層に譲る、ということも大切なのです。
 今、天皇制の批判をしたりすることは、この野党一本化を水を差すだけにしかなりません。
URL:https://blogos.com/article/378182/

思うのだが、「理に適う」とか「合理的である」という基準は、何らかの「目的設定」が先に定まっていなければ判定のしようがない。

人がどのように行動しようとも、その人の主観に立ってみれば、その人は合理的に行動しているものである。

少なくとも、その人の行動はその人にとって「正しい行動」であるというのが理屈だ。

正しい行動をとるとして、それが合理的な行動であるのかどうか。それはその人が目指している目的をもっと確実に速やかに達成できるはずの選択肢があるのかないのか。それで決まってくるものだ。

要するに、理にかなった議論の土台には、その人が良しとする価値があり、意欲があり、意思があり、目的があるわけだ。自分の土台にたって、その人は自分の議論が理に適っていると考える。

立場が異なる人が聞けば『あなたの言っていることはおかしい』と。そういう反応になる。おかしい=不合理となる場合もあるが、不条理、非条理、非道と言いたいこともあるだろう。

★ ★ ★

共産党の目指す社会は社会主義であり、その先の共産主義社会であることは否定できない。この命題を曖昧にすることは共産党の存在意義を危うくする。

そして、達成される共産主義社会において、その社会の統合を象徴する存在は、天皇ではなく共産党であることも間違いない。共産党は常に「社会の前衛」であり、社会をリードする存在であるからだ(と共産党は自分自身を定義している)。

故に、共産党と天皇制とは論理として矛盾している。

その共産党が現在の日本における天皇制を容認するとすれば、「いまは何も言わず、容認するかのような姿勢をとっておく方が自党にとって得である」からに決まっているのだ、な。

★ ★ ★

もしも他の野党が同じ考え方をもつなら協力すればよい。が、基本姿勢が異なれば協力できないというのが、当たり前の理屈になる。

協力したいが考え方が違っているならば、解決するべき問題として相互に努力しなければならない。それが課題になる。

「野党一本化」は解決するべき課題を回避する「当面の目的」として魅惑的であるのだろう。広大な政治的沃野が眼前に広がるかのような感覚があるのだろう。

問題解決ではなく、問題の自然消滅を狙う戦略である。

何だか閉塞感にみちた戦前期の日本社会を連想する。

戦前期の日本は、第一次世界大戦中の外交戦略の「ミス」もあり、様々の難題に直面することになった。「いまは▲▲は争点になっていません。いまは〇〇を獲得することに意識を集中するべきではありませんか」、「そうすれば現下の問題はすべて解消されます」と、そんな魅惑的な戦略を提案する陸軍参謀は山のようにいた ― 誰にも分からなかったのだろう、百家争鳴状態ではあったが。

★ ★ ★

弱体野党については以前にも投稿したことがある。保守一党体制についても、その時の観方を書いたことがある。

目的を達成するには必ず問題が発生する。問題は解かなければならない。解くためには課題が発生する。課題解決は目的達成のための<必要条件>なのである。

問題を回避すれば背後に隠れて見えなくなるだけである。

現在の日本国憲法は天皇制を前提している。共産党は(論理的に)「改憲勢力」である。「護憲勢力」とは協力の余地は本来はないというものだろう。

2019年5月17日金曜日

失言や暴言はその時代、その時の国民次第である

維新の会に所属する衆議院議員である丸山議員が北方領土に関連して発言した内容が世を騒がしている。

国会議員の失言、方言は今に始まったことではない。しかし、今回の発言は単なる「放言」ともどこかが違っている。

そもそも丸山議員は、東大を出て(出たからどうだというわけではないが)、経済産業省に勤務していた(だからどうだというわけではないが)。まあ、正解のある問題に人よりも速く正確に解答をひき出すという能力は十分以上にあるはずの人物だと推測できる。

その人物が、戦争をするしか北方領土を獲り返す術はないのではないかと、どうやら考えているらしい。「サービス」というより、どうやら本音であるらしい。この点で、「ぢ頭」が悪いが故に言葉の選択を間違えるという放言、失言とはどこか性格が違っている。

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賛否両論、色々と出ているようだ。刺激性のある発言なので当たり前だ。

確かに、ロシアは「第二次世界大戦の結果として日本は現状を認めるべきである」と主張しているのだから、「だとすれば、もう一度戦争をして日本が勝てば、どちらの固有の領土であるかという話はする必要がなくて、北方領土はすぐに取り返せるっていう理屈ですよね」と考えてもそれは純粋論理にはかなっている。

そして、純粋論理にかなうなら、国会議員は発言の自由を保証されるべきであるというのも、一つの理屈である。

公務員である国会議員は現行の日本国憲法を遵守するべきであるという見方もあるかもしれない。しかし、これを文字通り貫くならば、国会は憲法改正を発議することが不可能になってしまうだろう。国会が改憲を発議できないなら、国民は憲法を改正できないという結論になる。これでは現行憲法を神聖視するのと同じになる。民主主義ではないという理屈になるのではないか。

憲法改正を発議できる国会と国会議員は、たとえ現行憲法と矛盾する考え方であっても、自らの信念を表明する権利はもっていると考えるべきだという理屈は確かにある。

何が「正論」として世間に受け入れられるか? それは時代ごとに激しく変わるし、現に変わってきた。歴史を通して、またつい最近に至っても、何が正しいかという見方は変わっている。

国会議員は変化する社会の中で、提案をする自由を与えられているべきだと思うのだ、な。「天皇機関説」が長らく標準学説であったとしても、それを真っ向から否定する「天皇主権説」を述べても学者が仕事をしていることに変わりはなかった。戦前においてすらそうだ。であれば、自由を重んじる戦後日本社会においては、もっと自由であってもよい。国会議員もそうである。これも理屈だろう。

***

ただ戦争をするという場合、ロシアと戦争をするのだろう。そして自衛隊が戦争をするのだろう。負けた時のことについて提案はしたのだろうか。米国が参戦してくれるかどうかについて予想を述べたのだろうか。中国の出方について何か考えはあるのだろうか。

多分、何も構想はないのだろう。

ちょっと聞いてみただけサ…、考えを知りたいだけサ

つまりは「無責任」なのである。無責任な国会議員という存在は論理的にありえない。その意味では、議員辞職を勧告されても仕方がない。

***

もう一つある。

自分にとって正しいことであれば、誰にそれを言うとしても自分の言い分に人は耳を傾けるべきである。ここも間違っていた。

おそらく、自分が何かをいえば、人は尊重してくれていたのだろう。しかし、その状況は偶々の成り行きであった。

平和的手段で「北方領土返還」に人生を費やしてきた人たちに言っても通る話しではなかったのだ。言ってはダメだ、と。この種の事柄を理解する才能には決定的に欠けていた。

今回の発言をもって国会議員の品位を貶めたとは小生は思わない。この種のことを国会議員は一切発言するべきではないとも思わない。ただ、議論ができない人である。理屈がとおれば、人の感情を傷つけても許されると(どうやら)考えているらしい。

つまりは「鈍感」な人物である。こういうタイプの人は政治家には適性がない。

以上を総合すると、丸山某という議員は「論理的」である反面、「無責任」かつ「鈍感」という要約になる。やはり、まずい。この種の人物が権限をもつと、周囲の人たちを不幸にするだけである。戦前期の帝国陸軍には山のようにいた。何故だか知らないが、日本式エリート養成法の下では、こんなタイプが量産される。これだけは間違いがないようだ。

寧ろ「鈍感さ」が長所となる職業、例えば学者や研究者、著述業を志すべきだろう。

2019年5月10日金曜日

景気見通しはより明確に??

本年10月の消費税率引き上げを前に景気判断、というより「景気見通し」が一段と注目されてきている。

景気判断については本ブログでも何度か投稿してきた。たとえば、2014年10月の投稿、2017年7月の投稿、2018年10月の投稿、2019年2月の投稿などはそれだ。

これまでの投稿の流れを見ると
小生なら2017年4月の引き上げを16年春に早々と断念することはしなかったネエ……、せっかくの好機をな…誰だったの、その時のマクロ経済判断の責任者は?
と。担当者ならこれだけは言いたいところだ。

こう考えている経済専門家は多いと思うのだが、いまさら言っても仕方がない。

景気のピークアウトの先触れとなる経済指標としては、経験的に信頼性が確認されている長短金利スプレッド。具体的には、これにもどれを採るか、選択肢は色々あるが、米市場のデータをセントルイス連銀のデータベース"FRED"でみてみると、以下の図が得られる。


もう少しマイナス側に沈み込まないと前兆として見て取れるか不明確である。逆スプレッドが明らかに観察されてから反転し、半年程度で実体経済がピークアウトするというパターンがこれまで繰り返し観察されてきた ― おそらく雇用市場の逼迫、設備投資需要の鈍化をみると今回もそうだろうと思われる。

ひょっとすると、今秋に日本の消費税率が引き上げられて間もなくの時点でマクロ経済はピークアウトするのではないか。米経済がそうなれば日本もそうなる。

株価は先行指標であり、実体経済のピークアウトが現実に予感されて来れば、その時点で急落する理屈である。

ひょっとすると、ピークアウト直前の本年9月か10月の時点で、アメリカ株式市場で"Black **Day"(暗黒の▲曜日)が発生するかもしれない。

米中貿易紛争は政治的ノイズになっているが、その行く末が経済の自律的な変動を増幅するのか、緩和要因として偶々働くのか、そこまでは全く分からない。


2019年5月5日日曜日

一言メモ: 先日投稿「国語力の貧困」に関する一案

「忖度」という言葉だが、元来の意味から乖離してマスコミでは負のイメージが与えられて、現代社会では、というよりもここ数年の世間で通用している。

たとえばTVのワイドショーに出てくるコメンテーターなども、『政策論争ではなく、忖度ばかりが得意な人が評価される、嘆かわしい』などと発言する。

元来、上役、のみならず関係者一同の胸中を忖度することの巧みな人は、得難い人材として高く評価されてきた。歴史を少し勉強すればすぐに分かることだ。いや、歴史というより、身の回りのなんでもよいから紛争が解決に至るまでのプロセスを細かに観察すれば納得するはずだ。

多分、マスコミは妥協を嫌い、トップや上役とも喧嘩できる人材が欲しいのだろう。そんな人は「剛直」と評される。

剛直な人の正反対の位置にいる人間は忖度の上手な人間ではない。「阿諛追従」をむねとする人材。小生の叔父の得意な表現を選ぶと「殿中の小坊主」、より簡単に「小坊主」。王朝時代の中国ならば「あの宦官野郎」というところの人物になる。学者が阿諛追従をこととするようになれば、いわゆる「曲学阿世の徒」という呼び名になる。吉田茂元首相がある東大教授を非難して用いた言葉として有名になった。「曲学」は「学を曲げる」、「阿世」は「世に おもね る」、という意味である。マスメディアが「忖度」という言葉を使う際、この「阿る」という言葉を使う方が正しいことは間違いない。「 へつら う」という言葉も類似語だ。

要するに<士>と<宦官>との対立的な二つのタイプがイメージとしてあるのはすぐに分かるわけだ。
あの「小坊主」がまた社長を喜ばせようと、甘いことばかりをほざきおって…。やっと決定した改革方針が覆されたぞ、何とかせんとナ……まったく売り上げが落ちてからは阿諛追従の輩ばかりが横行して、お先真っ暗だ!
まあ、そういう情景である。どこにでも「▲▲社の柳沢吉保」はいるものなのである ― 歴史的事実として、徳川綱吉の寵臣・柳沢美濃守吉保が阿諛追従をむねとする佞臣であったか、気難しい綱吉将軍の意中を忖度して幕政を調整する達人であったのか、この問題はまた別の話題である。

人材の劣化を問題視して「忖度」という言葉を使っているのは意識としては分かる。しかし、「忖度」がダメだと言い出せば現実の企業組織は活力を失い、より一層衰退するばかりだろう。

忖度と阿諛追従の区別さえも出来ないのは、小中学校、高校を通して、読書を十分にしなかったために決まっている話だ。基礎学力が不十分なまま、メディアと言う社会でも重要な仕事を割り当てられている例が多きに過ぎる点が、現代日本社会では最も懸念するべき問題だと思われる。

『カエルの面に水』かもしれないが、そのマスコミが好きな言葉が最も有効な警句になるかもしれない。
言葉が最も大事なのです
忖度がダメだというその人物こそ、誰かに対して阿諛追従をしているかもしれないのだ。善い行為にせよ、悪い行為にせよ、それぞれ名詞が与えられている。その行為を何と呼ぶべきか、手当たり次第に流行の言葉を使うという耳学問では、世に阿っているだけではなく、世を惑わせることにもなる。


2019年5月4日土曜日

「皇位継承問題」の再論と今後の予測

令和がスタートした直後から唐突に出てきた「皇位継承問題」。人によっては、21世紀の「壬申の乱」が起きるかなどと心配しているらしい。

古代の日本と同タイプの乱などは絶対に起きませんよ…とだけは言える。いまや皇族方にとっても「天皇」の地位は負担ばかりが大きく、自由もカネも発言権もなく、ついてみたい地位だとは到底思えない。もちろん下々の人間の感覚によればだが…。なので、皇位継承争いなどは発生しようがない。争うのは意見や観方を異にした国民の側である。

***

ほんの一言メモ:

女性天皇、女系天皇を議論するのは不毛である。不毛であるばかりではなく、「男系」で継承したり、「女系」で継承したり、その時々の都合で変えるのは文字通りの「その場しのぎ」であり、問題を拡大再生産するだけだろう。

ふと気がつけば、『いまの天皇さんは昔の皇室とはまったく縁のない別の一族になってしまいましたね』などという事態も起きかねないので、よほど慎重にシステムをつくる必要がある。

ロジカルに考えれば、今後の議論の核心になってくるのは「皇族」、「皇籍」、「皇統」のそれぞれの概念をきめ細かく具体的に定義することだろう。

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現在は「皇族=皇籍」であり(不勉強なもので、多分としておく)、皇籍のある皇族には国庫から「皇族にふさわしい生活」が予算措置される。しかし、皇統を把握し、管理するシステムはない。戦後、責任をとる形で皇籍を離脱した旧宮家も天皇家のDNAを継承しているにもかかわらず、国は何もしないまま放置している。放置しておきながら、「いざとなれば皇族に復帰してもらう」などと言い、NHKもまた書面でアンケートを行うなどの行為をする。実に不誠実であると思うのだ、な。不誠実というよりも、無礼であり、不敬である。

「男系」、「女系」を問わず、天皇家の血筋に該当する人々を「皇統」と定義して6代くらいまで遡及すれば、100人程度は把握できるだろう。その昔も親等が離れれば「源」や「平」の姓を与えられて一般人(それでも貴族ではあったが)となった。

最も重要な業務は、「皇統」にある人々を正確に把握しておくことである。

公的地位である「皇族」には国家予算が伴い、かつ公務の必要量も一定の範囲内だろうから、一定の人数以内に管理せざるを得ない。が、それとは別に「皇統」にある人々の中から一定の人数に「皇籍」を付与するとすれば、多くの人数を少額で支えることができるはずだ。現代社会では「門跡」などのポストは与えられないだろうが、「恥ずかしくはない生活」を送るための支援金は支給する理由があり、天皇制を継承したいなら支給するべきだろう。

公務を担う皇族が不足すれば皇籍を有している人々から順位に従い宮家を創設するか、継承するかを要請すればよい。そうすれば公務を担える皇族はほぼ常に一定人数いるはずである。

この筋道で議論すれば、明治以降の「永世皇族制」と「内親王が結婚する際の皇籍離脱の制」も表裏の関係にあるので、再検討されるだろう。

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現在の「皇位継承問題」は解決が極めて難しい難問のように、一見すれば思われる。しかし、ロジカルに考えれば、原理的に難問であるはずはないのであって、難問であると思われるのは、反天皇制思想や世間の嫉視、阿諛追従、マスコミの興味本位の取材などが絡み、政治的な決定が難しいからである。加えて、そもそも古代から続く天皇制と民主主義的な戦後憲法とは当然ながら相性が悪く、何を提案するにしても批判されがちである。要するに、政治家のやる気と能力の問題であろうし、憲法の中に天皇制の伝統を矛盾なく定めておきたいという国民の側の熱意、というか知的成熟が足りていないという点もあるのだとみている。

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側室制度が許容されない限り、女性天皇、女系天皇を認めざるを得ないと言われるが、それはいいかげんで「為にする議論」の好例である。

徳川幕府では無制限に側室が認められていたが、4代家綱から綱吉にかけて直系から傍系に移り、7代家継でついに宗家が絶えて、紀州藩から8代吉宗が継承した。10代家治の次も傍系・家斉が継いだ。そして14代家茂で再び宗家が絶えてしまい、他人同然の水戸家に生まれた慶喜が継ぎ、幕府は実質的に終焉した。それでも徳川一門で継承すること自体は可能だった。

側室制度と継承の安定性はまったく別のことである。

安定した継承には、それとは別のシステムが必要である。

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冷静に考えれば合理的な議論の筋道は簡単にわかる。あとは、論点を整理して、決めるべき事を政治家が決めれば、そもそも現在の皇族の不足、皇位継承問題は難問では決してない。


2019年5月1日水曜日

令和を迎えて

今日のTVは、終日、令和歓迎特番で占められるようだ。

新聞も概ね同じ調子だが、予想通り、『皇室の**の儀式は違憲の疑いがある』、『皇室の▲▲という伝統は憲法に違反している』、あるいは『三種の神器の継承は皇位継承には関係がない、憲法にはそもそも規定されていない』等々、古代から続いてきた天皇制の伝統と戦後の日本国憲法の規定との矛盾がますます明瞭に意識されてきている兆候もある。

大体、世襲による天皇制と民主主義に則した日本国憲法が矛盾するのは当たり前であって、この点については本ブログでもつい先日投稿した。

小生の基本的見方は本日の皇位継承儀式の中継を観てもまったく変わらない。

継承されてきたものだから、その時代の憲法とは関係なく、我々は継承するという割り切り方をするしか議論のしようはないだろう。 天皇制とはそういうものだと思う。 
憲法と矛盾が残るというので、天皇制を廃止すれば、むしろ残った憲法よりも廃止された天皇制を日本人は懐かしむに違いない。そう割り切ったうえで、矛盾を抱える度量をもって継承していくのが知恵というものだろう。

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 たとえ民主主義に則した憲法と矛盾するとしても、日本国民がそうしてほしいと願えば、天皇制の伝統は事実として続くであろう。選挙でえらばれる政治家も国民の多数が望む方向を是とする理屈だ。そもそもは、これが言葉の定義どおりの「民主主義」であるだろう。

民主主義を説く専門家が考えている言葉の上の民主主義と現実に動いている民主主義とが矛盾する…、これは正にパラドックスになるのではないか?

民主主義の法理を専門とする学者が話す民主主義と、国民が現実に選択する民主主義と。いずれが「真の民主主義」に該当するか、議論する必要もなく、結論は明らかだろう。

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民主主義とはデモクラシーを日本語に訳した名詞だ。周知のようにデモクラシーとは"Democracy"、語源的にはギリシア語の"δημοκρατία"から発する概念である。その意味は「多数者(大衆)による支配」になる。ラテン文字で表せば"demos+kratos"となることはWikipediaで解説されているところだ。

「民主主義」という言葉が日本社会、というより全ての社会において、何がしかのプラスの価値をもつとすれば、それは現実に働いているデモクラシーの力に着目しての話になるはずだ。書かれた憲法の語句を解釈して現実の社会が民主主義的であるか否かを論じるという姿勢は、学問的ではあるが、まるで犬のシッポが胴体をふるような話である。「民主主義」という言葉は、憲法の法理を研究する専門家の占有物ではない。

歴史を通して継承されてきた「ありのままの天皇制」を(国民が選ぶ修正をほどこすにせよ)大多数の日本人が許容するなら、結果として、それは「民主的選択」であると思う。憲法の規定と矛盾するなら、矛盾しないよう合理的に一貫する学説を展開しなければならないのは学問の側であると思うのだ。

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以上、民主主義とはこういうものじゃあないかという小生の観方を述べた。

であるが故に、民主主義的なシステムに任せることができない社会的課題もあると小生は思う。全ての経済問題に市場システムが最適であるとは言えないのと同様に、社会政治問題を解決するのに民主主義的アプローチが常に最適であるとはどうしても思えない。

ここまで書いてきて、その昔、勤務先のトップが『たとえ経済専門家がベストだと勧める政策があったとしても、国民がそれを理解せず、拒否すればその政策を実行することはできない。それが民主主義だ』と語っていたのを思い出す。そのトップの胸の内を「忖度」できるだけの洞察力はまだ青臭い小生にはありようもなかったが……。

「民主主義」という言葉を崇拝するべきではない。それは社会のマネジメントの一つの方法である。先日もそんな考えを簡単ながら投稿した。が、その掘り下げはまた別の機会にしたい。

今日は、前半と後半でまったく支離滅裂だ。それは小生の思考が迷走していることを反映している。いつか整理することができるのだろうか。できれば整然とさせたいものだ。