2019年9月27日金曜日

暴行と修行の境界は?

前回投稿は暴行と折檻との違いについてであった。と思っていたら、今度は十両・貴ノ富士が付人に振るった暴力を理由に自主引退処分を受けたというので、この処分が重すぎるのか、二度目の事件であるから当然なのか、相撲協会はそもそも「暴力」をどう定義しているのかという馬鹿々々しい疑問やらも出てきて、世間では大騒動になっている。

小生は最近時間も出来てきたので相撲への関心が再び高まり、最近では「貴乃花騒動」の出入りなど何度か本ブログに投稿してきている。

***

相撲協会はそもそも「暴力」をどう考えているのか?
確かに公式見解を聞いたことはない。

思うに相撲という競技自体が半ば以上「暴行」である。というか、「喧嘩」そのものである。立ち合いで頭からぶちかますのも、張り手で相手を眩ませるのも相撲の内だ。力士の押し、突きを普通の人がまともに受ければ骨折するだろう。あれを「暴力」と言わずして何という?もし相撲自体が「暴力」と無縁なのであれば、なぜ力士はあれほど頻繁に鼻血を出したり、筋肉断裂などの大怪我をするのか教えてほしいものだ。

しかし、相撲協会は相撲の取り組みを暴力とは言わない。当たり前である。取り組みが実質的には暴行である以上、稽古もまた暴行の予行演習となるのは必然であろう。しかし、これらも決して暴行ではない。一言でいえば、相撲の場は非日常的空間である。これが相撲を考えるときの基本的な理屈だ。

では力士の日常生活はどうか。「行住坐臥これ修行なり」。以前にもこの心構えは書いたことがある。

本当はこれが正論なのだと小生は思っている。相撲に関しては……。

***

そんな相撲を生業として生きている力士が付人の怠慢を拳骨で叱るなどは何という事もない……。これが相撲界の日常感覚ではあるまいか?上に述べたように理屈にもかなっている。

ただ理屈と常識で割り切れるなら、人間関係でトラブルなどは起こりえない。人は強者に対して「仁愛」を求める。弱者への「惻隠の情」を求める。

貴ノ富士が所属する千賀ノ浦部屋は、先代親方が同居しているうえに、弟子たちも生え抜き組と旧貴乃花部屋勢が溶け込まず、稽古の環境としては最悪に近いと耳にしている。何という事もない叱責も相手側のとりようでは暴力となる。「被害者」の主観的な感情から「暴力」を告発されれば、それ以降は相撲の世界を離れて世間並みの尺度から「暴力」を論じる。そんなダブル・スタンダードでは相撲という格闘技が風化していくばかりだ。問題の本質は「暴力」ではないはずである。こんな状況ではケレン味のない勝負が魅力であった相撲が最後には俗化の限りを尽くすようになり、八百長という言葉すら意味を失い、ついにはシナリオに沿った演武に収束していくことになるだろう。『何事もシナリオって奴があれば安心でござんしょう……水戸黄門もそうであったと思いやす』という思想には現代日本の多数の人が賛成(?)するはずだ。この段階で相撲を所管するのはスポーツ庁ではなく、文化庁がよりふさわしくなるだろう。

ありていに言えば、現代日本の大相撲は仇討ちによる果し合いや武士による切り捨て御免が許された江戸の文化を色濃く残している伝統闘技である。そこに21世紀の日常感覚をそのまま持ち込めば、守りたい残したいと願う人々の心情を根本から否定する結果に至るのは自然の成り行きである。例えるのは悪いが闘牛や闘犬を観たいと願う人と動物虐待を嫌悪する人は全く感性が異なる。二種の人たちは水と油なのである。マア、『お前さん、それを言っちゃあおしめえだヨ』と言われるのは分かっているが。

「暴力」を本心から追放したいと願う人々は、心の本音の部分で「土俵の充実」などは求めていないのではないかと小生は邪推している。ロジカルに考えるとそんな推測が成り立つ。

2019年9月24日火曜日

暴行と折檻の違いとは

児童の暴行死が後をたたない。というより、ずっと昔から捨て子や人身売買という悪習が続いてきた歴史の中で、現代に至って初めて児童への暴力が「犯罪」であると考えられるようになった。こうも言えるような気がする。つまり、子供ができたのはいいが、育てる自信がない親にとっては、一種の受難の時代であると。あとになってから、歴史家はこんな風に総括するかもしれない。

これまでにも小生の立場は(暗黙のうちに)記してきたが、自分としては躾の中で子を叩くことはありうると考えてきた。今でも考えは変わらない。

ただ子を叩くことによって何を理解させようとするのかという折檻の目的は何よりも重要であると確信している。これはもう自明であって、小生の場合は
痛みを知る
という一点であったと記憶している。記憶というより、理屈なしの直観で行動していたので、いま思い返すと「そうであったのかな」という位の意味合いである。

別に自慢で書いているわけではなく、思い出話に書いているにすぎないが、小生が好きだった言葉は
鬼手仏心
であった。

「仏心」を持たず子を叩くなら100パーセントの暴行であり「虐待」に該当する。これは確かだ。

児童虐待の連絡を受けて児童相談所の職員が駆け付けた時、その折檻が暴行ではなく、親として果たすべき折檻であると識別するのは難しかろう。その親の心の中に「仏心」が宿っていることなど、いかなる検知センサーをもってしても測定しようがない。故に、「行政手続き」としては子を叩いたという外的要件に則して、子を叩いた親は法的な意味で暴行罪ということになるのだろう。

小生は昔の時代を愛する偏屈者であるからこんな風潮は嫌いである。日本社会が全体として改良されているとも感じない。

***

いま起きている多くの事件は、ヒトの子の親になるのに十分な人格的成熟に達しないまま、幼稚なままで親になってしまった人たちを、年嵩の親戚たちの応援もなく、「子育て」を他人事として管理しようとする社会システムに原因があるとも思っている。実際、大学という場で25年余を過ごすと、今の20代は昔の10代で実質"Teen Ager"、今の30代は昔の20代で大学生並みの精神年齢、今の40台が昔の30台で「而立」の齢で1人前、50歳を迎えて昔でいう40、「不惑」の齢か…と、ザっとこんな印象をもってきた。成熟度だけではなく、時間尺度からみても平均寿命に対する相対的位置づけはこんな対応関係になるかと思う。現代社会において20代で夫婦になるというのは、その昔の『奥様は18才』と同じ世界なのだと何年か前に気がついた。世間、というより成熟した大人たちが行政サービスとは別に身近で見守り、助け、相談に乗る雰囲気が欠かせない。分かっている大人が身近にいれば暴行と折檻を識別できるはずだ。そこに職業資格や専門性は要らない。小生はレベルの低い後発科学を修得した「専門家」の言うことを信じてはいない。

2019年9月23日月曜日

一言メモ: 隣国でありながら発想は本質的に異なる

日韓関係に改善の兆しは見えない。

最近、こんなこともあるのかと気がついた点:

韓国、というか韓国人全般に共通している傾向かもしれないが、問題解決の方針を考察する時、『何が正しいか』という大前提から思考を進めるような印象を小生は持っている。

日本人、といっても全員に当てはまる訳では勿論ないのだが、「これが本筋でオーソドックスな理論です」という説明をすると、常に『ピンときません。他の考え方では駄目なのはなぜですか?』と反発する人が多い、とにかく上から目線で解説している人には往々にして反抗的である。疑いをもつ人物が多い。小生の職業的偏見かもしれないが……(^^;;)。日本人は大なり小なり経験主義者である。

日本的懐疑が極端になると、<正しい原理>がそもそもなくなってしまい、常に<現実>を前提として何をすればよいかを決定する、つまりは<風を読む>姿勢に至る。

韓国的信念には善いところが多々あることを日本人としては理解しておきたいものだ。

とはいえ、現実から遊離した理念論には日本人は<ついていけない>と思うことが多い。こんな経験は、同じ日本人同士でも人様々で性格が違う以上、頻繁にあることだ。そもそも誰かにとって正しく自明である大前提はアプリオリな理念であることが多く他者が共有できないことが多い。集団で共有しにくい。他方、現実を優先して「背に腹はかえられない」方式で結論を出していると、認識は全員で共有できるものの、上に述べたように欲の赴くままの機会主義になりがちだ。

こういう違いが国民単位であるのだとすれば、問題解決に向けた議論がすれ違いに終わることがママ起きるに違いない。

2019年9月21日土曜日

東電裁判無罪について

東電の旧経営者3人に行われた強制起訴裁判においてやはり無罪が言い渡されて世間では「納得できない」、「現行法においては仕方がない」、「企業犯罪について法整備をするべし」等々、色々な意見が沸騰している。

まあ、無罪になったとしても旧経営者の名誉ある人生は失われたまま戻っては来ない、それだけは確かなことだろう。

人生というのは、思い通りにはいかないものだ……、先日、小生の三鷹に棲む叔父が話していたが、全く同感だ。しかし「思い通りにはいかない」と嘆く資格があるのは、人に出来ることは全てやり尽くしたと言える人間だけである。「運がなかった」と軽々にいうべきではないというのが亡くなった父と同じく小生の見方である。

★ ★ ★

有罪・無罪の焦点になったのは『15メートル超の津波が襲来する可能性が指摘されていたにもかかわらず安全対策に注力しなかった』、この点に関して経営責任を認めるか否かであった。判決の要点は<津波の予測可能性>にあった。

判決文では政府が公表している長期地震予測に基づいて計算した津波予測は信頼に値しないという立場が示されている。これに対して「政府が公表していた長期地震予測そのものが信頼できない」ということであれば、その認識は極めて不適切であると、そんな意見を述べる識者もいる。この点では小生もまったく同感だ。

司法府の裁判官が行政府の公式見解を「信頼に値しない」と断言したとすれば「極めて不適切」で「不見識」だと思う。

が、裁判所が指摘したのは「長期地震予測に基づいて予測した津波の高さ」が信頼に値しないという趣旨であったと思われる。

★ ★ ★

思うのだが、長期地震予測そのものが信頼できるのなら、それに基づいて一定の方法で計算された津波予測もまた予測計算の巧拙はあるにしても、「この計算方法の下ではこうなる」という程度の信頼性はあると認めるのが科学である。

「予測計算の巧拙」というのが問題の本質である。

判決では<予測可能性>という点が司法の立場から吟味されているのだが、15メートル超の津波が「中位予測」、つまり<ありうべき未来>として予測されているのなら最初から安全対策を講じる義務が経営トップにあったのは当然の理屈である。

小生は不勉強というか、そこまで強い関心はもっていないと言うべきなのだが、津波予測は統計科学的に常道を踏んで行われたもので、たとえば<95パーセント予測区間>という方式で導出されたものであったのだろうか?95パーセントの確率で予測される事象の中に15メートル超の津波が含まれていたということなのだろうか?ここを確認したいところだ。

<ありうべき未来>として予測されたのではなく、<可能性ある事象の範囲>として15メートル超の津波も指摘されていたということであれば、現在の対策では対応できないほどの津波が襲来する確率はどの程度であると計算されていたのか。予測計算では予測する事象が発生する確率を数値として示さなければならないわけである。その計算方法には、一定の予測モデルが採用され、モデル推定では多数の選択肢があり、精度のうえで優劣が分かれてくるのが要点である。

★ ★ ★

その確率が予測計算のワークシートでは計算されていたとする。

とすれば、次に問題になるのは大津波が襲来する確率が何パーセント以上であれば、無視できない可能性として受けとめるべきであったのかという点になる。

確率を扱うには熟練を要する。判決文にも同趣旨のことが書かれているが、確率が1000万分の1であるリスクにも対応しなければならないとすれば、理屈の上では隕石が落下するリスクにも企業は対応しなければならないというロジックになり、膨大な安全投資コストをカバーできるだけの電力価格は現行の数倍に達するであろう。製造業は全滅する理屈である。失業者は溢れることになる。それが社会が歩むべき道なのかという疑問が呈されるのは確実である。

このロジックは統計的品質管理と類似している。どの程度の確率であれば、無視できない危険としてアクションをとる必要があるのかという問題だ。そうなると、理論的な正解はないわけであり、現状を維持するリスクとシステムを停止する際の損失との比較、仮説検定の用語で言えば「第1種の過誤」と「第2種の過誤」とタイプの異なった二つの判断ミスによる損失の比較になる。故に、無視できるリスクは安全管理の上の経験に基づく慣行によることになる。無視できない確率として大学の統計学の授業でよく用いられるのは<確率5パーセント>であるが、品質管理の現場では<確率1パーセント>でも検出漏れの危険があるなら安全管理の上から問題ありと判断して再検証するか、生産ラインを止めて一斉点検を行なっているものと憶測する。では確率1万分の1であれば「無視できる確率」と判断してよいのだろうか。これも「ありうる確率」とするのであれば、では確率1千万分の1では、確率1兆分の1なら……、キリがないわけであり、およそ災害の危険がある事業はすべて十分な安全投資整備が完了するまでは実行不能になってしまう。

電力であれば、原発はダメ、火力発電は地球温暖化を招くかもしれないから今のままではダメ、太陽光は森林伐採、土砂災害の要因になるかもしれないから今のままではダメ、風力発電は音響災害の可能性があるから今のままではダメ、水力発電は放水時の災害を招くかもしれないから今のままではダメ、と。こんな過激な意見が説得力を持ってしまうであろう。こうなると困るのは実際に暮らしている日本人自身になるのではないか。何かがおかしい。何かの屁理屈がここには混ざっているのだ。

たとえば20年以内に大津波の危険があるとしてもそれは確実ではない。不確実な危険を防止するための安全コストをいま負担しても20年以内に大津波は生じないかもしれない。これは損失である。他にできたことは多い。安全投資は20年後でもよかったわけだ。これは損だと思い「20年間は心配ない」と判断してもよい。安全コストは避けられる。ところが実際に20年が経過する前に大津波が襲来するかもしれない。これも損失である。一方の損失だけを認識するのは一面的なのである。両方のバランスが何よりも重要だ。

一体、東日本大震災よりも以前に15メートル超の大津波が襲来する指摘が社内にあったというが、どの程度の確率でそんな事象の発生が予測されていたのか?ここが明らかにならなければ、具体的な議論には進めない。これが予測レポートを評価するうえでの基本である。

★ ★ ★

多分、小生の勝手な推測だが、東電社内の予測レポートはそれほど緻密な計算方法から得られた結果ではなかったのではないだろうか。長期地震予測が公表されていたにしても、震源地点、地震規模、海岸部の地形等々、様々な要因から個別の地点を襲う津波の高さは変動する。予測を計算するに利用したデータ量とデータの品質も鍵であったろう。もしも予測レポートに専門的立場からみた色々な問題点があったのなら、計算結果として尊重されなかったという実際の成り行きはそれほど経営トップの不誠実とは言えない。そんな結論もありうる。データでメシをくってきた立場からはそう感じられるのだ。

ただ一つ、「小生なら」と上から目線で言うつもりは全くない、単に偏屈でへそ曲がりであるからだけなのだが、小生なら「15メートル超の津波を予測した奴がいる」と耳にすれば、「最先端の知識のある専門家にきちんと再計算してもらえ」と指示するだろう。その作業が間に合ったか、間に合わなかったかは分からないが、もしもこの種の検証作業がされていなかったとすれば、旧経営陣にはモラル的な責任がある。何よりも経営にあたったトップ達がそれは体感しているはずであり、人生の最後まで心の中の痛みとなって自分自身を苛むに違いない。

人事を尽くして天命をまつ

亡くなった父が好きだったこの格言の要旨は「人事をつくす」、つまり「出来ることはすべてせよ」というところにあるのだ。

2019年9月19日木曜日

来そうで来ない「景気後退」

18日のFOMC(米・連邦公開市場委員会)でまた利下げが決定した。0.25パーセントの政策金利引き下げである。

前回7月末の同幅利下げの際はパウエルFRB議長が『これで利下げサイクルに入ったわけではない』と付言していた。しかし、今回また利下げに踏み切った。やはり景気の先行き不安があるからだろうと誰にでも分かる。

とはいえ、今日の日経報道だが
パウエル議長は「景気が減速すれば追加利下げが適切だ」と主張したが、年末までに追加緩和を見込む会合参加者は現時点で過半数に達していない。
こんな感じであるから、経済専門家に共有された景気先行き感はない、と言ってもよい状況だ。このこと自体が緊張感がまったくなく、むしろ不安をあおるというものだ。

★ ★ ★

実は、こんなコラム記事もFinancial Timesにはあった。これも日経経由の日本語訳なのだが、投稿者のほうで適宜抜粋しながら引用すると:

世界が景気後退と戦う武器をこれほど持たなかった時代は、過去にあまり例がない。だが、戦うべき景気後退がこれほど少ない時代もかつてなかった。

ゆえに、次の世界的不況がどんなものになるか想像するのは難しい。ただ、思わぬ悲惨な状況になる可能性は高く、いつ起きるかもわからない。毎年流行するインフルエンザというより、新種の感染症が突然まん延する事態に近いだろう。 
この夏、米国の債券市場では長期金利が短期金利を下回る「逆イールド」が発生したため、景気後退を警戒する声が高まった。同時に、米国の景気拡大が過去最長となる一方で、製造業の景況感は世界的に悪化した。

(しかしながら)景気後退を予測する人たちの見通しは過去、まず評価されることはなかった。予測が正しかったと証明するのに2~3年かかっていたからだ。だが、最近は予測を証明するにはもっと年数がかかる。米景気は8月に拡大が122カ月目を迎え、1991~2001年の過去最長記録を更新した。

(近年の特徴として目立つのは)各国の中央銀行がインフレ率を安定させることで、経済の過熱とそれに伴うバブルの発生とその崩壊の回避に成功していることだ。戦後の米国の景気後退の多くは経済の過熱とともに始まった。インフレが進むとFRBが金利を引き上げ需要を抑えた。そうした景気後退が最後に起きて既に数十年。最近の各中央銀行は、インフレの行き過ぎよりむしろ、インフレ目標を達成できずに苦慮している。
(出所)日経2019年9月5日「FT:次の不況は予測不能」

上の引用の中で『…既に数十年』というのは「十数年」の間違いではないかと最初は思った。アメリカと日本の違いかとも思った。が、日米経済はそれほど独立して変動してきたわけではない。「新聞で書き間違いか??」とも疑った。しかし、そういえばインフレ抑制を目的に金利引き上げを実施して景気後退を招いたのはいつのことだったかを思い出してみると、もう遠く1979年の第二次石油危機発生時にまで遡ってしまう事に気がついた。それから、日本(及び世界)では資産価格バブルが発生したが、財貨サービス価格にインフレ問題は発生していない。う~ん、「あれから40年」ですか……昭和は遠くなりにけり、である。

いま、鉄鋼、非金属、原油など国際商品市況は歴史的高値にさしかかっているどころか、むしろ弱含んでいる。とてもじゃないが景気が下方転換するという物価状況ではない。心配なのはアメリカの株価くらいのものだ。

これには世界経済のサービス化で製造業の在庫調整サイクルが経済全体の中に埋没してきたことも大きいだろう。

そもそも総需要の半分を占める家計最終消費は時間軸に沿って一定レベルの消費を続けたいという動機が動学的最適化を行う(代表的個人である)消費者の側にはある。少なくともシステマティックな変動要因は消費者側には内蔵されていない。景気がモデレートされることは決して不思議ではないのである。

それでも不安なのは世界的な債務残高累増と金融機関の健全性が気になるからだ。本当に大丈夫なのだろうか?突発的な世界経済崩壊はやはり国際金融面から来襲するのではないか?2016年初を底にする低迷は石油、鉄鉱石など国際商品市場の動きだった。アメリカ、中国経済が主たるプレイヤーだった。実物経済からゆっくりと進行し回復も緩やかなものだった。次に来るのは金融現象なのだろうか?主導するのはやはり中国なのだろうか?中国経済をよく伝えるマクロ経済データはあまりない。よく分からない。中国以外のどこかの国がデフォールトを出すのかもしれない。

FTではないが、来そうで来ない景気後退。それでも不安な景気崩壊の予兆、というところだ。

2019年9月15日日曜日

一言メモ: 「天下の東電」、実は力量ゼロなのでは?

小生が10代の頃には『ご主人様はどちらにお勤めなんですの?』と子供の父兄会で聞かれて、『東京電力のほうに……』と応える奥さん達は随分と誇らしい気持ちであったという。小役人として勤務していた役所にも電力会社から出向して来ていた人がいたが、東京電力から来た人(特に総合計画局の社会資本だったか、産業・エネルギーだったかの担当班には定席を持っていたと記憶している)には一目も二目も置かれていたことをよく覚えている。「天下の東電」は電力業界の盟主、日本経済の大黒柱の一つであるとも自認し、当時の通産省をも超える力を日本では発揮していたものである。

東日本大震災で福一原発事故が起きたのは想定外の津波であったというのが「公式見解」とされている。が、この理解の仕方には色々と批判もあるようだ。

今回、また台風による被害を蒙り特に千葉県では長期停電が続いている。今月9日に上陸した台風で停電が発生してから既に一週間が経過している。

復旧までの見通しは当初見通しから二転三転し、とうとう千葉市の一部区域、市原市、袖ケ浦などは今月27日までずれ込むことになった。

これほど被害状況が甚大なのなら、そもそも災害発生直後の段階で『1、2日の間には復旧の見通し、当面の間は何とかしのいでください』というような、「じきに治るから」と受け取られるような会社判断をなぜ公表できたのだろうかという疑問がわいてくる。

JRで事故が発生する際には、まず最初に「復旧の見通しは立っておりません」とアナウンスがある。そのうちに、損壊状況を技術者が精査した結果を踏まえ「復旧は午後1時以降になる見込み」などと次第に具体的な内容に変わってくるのが通例だ。

東京電力は、いかなる具体的根拠に基づいて「明日中の復旧をめざす」などと目標設定できたのだろうか?うちのカミさんなどは、翌朝になって刻々とテレビで中継される倒木、倒れた電柱の様子などを目にして、「これ、とても1、2日で何とかなるもんじゃないよね・・・電力会社だからサアっとやってしまえるのかなあ?」と話していた。

当初の見通しは、各地区の現場が被災状況を目視し、それを本社で集計した結果であったのだろうか?本社内に復旧工事管理本部などを臨時的に設置して人員を配置したうえで、各区域から報告されてくる被災現状を確認するという業務をスタートさせるにはそれなりの時間がかかるはずであるが、なぜあれほど速やかに「明日中の復旧を目指す」などと会社として言えたのか?早すぎないか?「本当に出来るのか?」と社内の誰も念押しをしなかったのか?……、次々に疑問がわいてくる。

ま、一段落してからこの辺りの事は検証されるものと予想する。

しかし、これもカミさんと話しているのだが、『本社の中枢にこの程度の能力しかないなら、福島第一原発の事故も起こるべくして起きたとしか言えないよナア、ほんとに』と、改めて考えさせられてしまうのは小生だけだろうか?

2019年9月14日土曜日

メディア報道も世論も特有のバランスの悪さがある

児童虐待に対して日本ではあまりにも刑罰が軽きに過ぎるという指摘がママある。

高齢者ドライバーの運転ミスに対する処罰が甘すぎるとテレビ電波に乗せて語る人もいる。いわゆる「あおり運転」に対する非難もそうだ。

一昔もたっていない2,3年前には、暴言、侮辱といったパワハラに対して厳罰を求める声が世間で沸騰したものである。

これらを思うと、つくづく『世間の怒りというのは、ホント、一過性で冷めやすいものだネエ』と改めて感じることしきりなのだ。

***

「児童虐待を厳罰に」というが、「児童」を虐待した時には「厳罰」という意見なのか?だとすると、小生はまったく理解できない。

家庭内で介護されている老人や共稼ぎをしていて疲れ果てている配偶者に対して、暴行をしたり、物を投げつけたりするのも、同じように「家庭内虐待行為」であると小生は確信する。児童を虐待する者を厳罰に処するなら、その他すべての虐待行為も同列に厳しく処罰するのが本筋であろう。

ハラスメント騒動のときもそうだった。パワハラ、セクハラをとりあげて非難をする。しかし、そうではない一切の「その他ハラスメント行為」はニュースにもならない。

マスメディアは常にアンバランスだ。そのためかどうか分からないが、世間の噂もほとんど常にバランスがとれていない。

ハラスメントについては随分前に投稿している。虐待行為についても同じ意味で投稿をするべきなのだろう。しかし、「虐待行為」は既に「暴行障害行為」として法では定義されている。

故に、暴行障害行為は現行法制で必然的に処罰される。それを厳罰化するなら、刑罰のバランス上、全ての刑罰を厳罰化するロジックになるのではないか?

世間の激昂ぶりをそのまま延長していくと最後には「躾」と称して自分の子供を暴行して死に至らしめた親は死罪に処するべきだという意見も語られてしまうのではないか。そんな世の中になれば、(通常の?)計画的な殺人行為は江戸時代のように、「市中引き回しのうえナントカ、カントカ」に処すべしという過激な意見すら出てくるのではないか。小生はどちらも完全な間違いであると思うし、文明開化とは正反対の文明退化であると思う。これをもたらすのが「衆愚」であるのは言うまでもない。「衆愚」、即ち民主主義の最大のウィークポイントである。

***

これから色々な側面で憲法改正論議が進むのだろうが、小生が最も懸念しているのは「国防軍」の復活でもないし、「徴兵制」の復活でもない ― 実際、兵役の義務も帝国陸海軍もあった明治~大正時代、日本は国際法に忠実な国家であり、政府は国際協調を重視していた。

憲法第36条が緩和されることを最も怖れる。

 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

日本社会のバランスを崩すような主体があるとすれば、それはやはり戦前期と同じく、新聞・放送局・出版社といったマスメディアの行動振りなのだろう。現代社会ではSNSも含まれるのだろうか。

要注意だと思う。

2019年9月12日木曜日

これらは次の時代への「予行演習」なのか?

韓国が来年のパラリンピックで予定されているメダルのデザインに苦情を呈しているらしい。イメージは「扇」で末広がりの瑞兆であるはずなのだが、韓国人は「旭日旗」を連想するらしいのである。これは感性を疑うの一言になる(はず)と思うが、IOCに五輪の場で「旭日旗」を使用禁止するべきであると公式に書簡を送ったという。自国の法制を他国で開催される国際行事に強要する行為でもあるのだが、平和主義=軍国主義批判を旗印にしている分、それなりの論拠はあると考えているようだ。選手団代表の会合で中国も韓国の主張に同調しているというから、どう転んでいくかは分からない。

中韓が連合して日本にプレッシャをかけるのは、即ち第二次世界大戦後のパックス・アメリカーナ(Pax Americana)に中国が挑戦しているから起きることである。そもそも帝国陸海軍を解体した後、日本で警察予備隊を発足させ、旧軍を実質的に復活させる方向に舵を切ったのはGHQであり、独立後に自衛隊となり「旭日旗」を軍旗として再使用するのを容認したのはアメリカである。国交を回復し、戦後処理も一段落したずっと後になって、現時点の軍旗に戦前のイメージを重ねて非難を加えるのは、理屈が通らない。もちろん中韓もそれは分かっている。つまり、それだけ国際環境とパワーバランスが変化したからである。だからこれまでになかった現象が政治力学的に発生する。

要するに、時代は「第二次世界大戦後」から文字通りの「21世紀」に入りつつあるわけだ。ということは、日本もそろそろ「旧敗戦国」として肩身の狭い気持ちを持ち続けなくともよい……というロジックになるが、それを中韓も分かっているので、「歴史」を外交ツールとして使っている。つまり、第二次世界大戦はもはや「歴史」なのである。だからこそ、日本も出来上がった「歴史」の力を甘く見ることなく、「歴史」には「歴史」で対抗する眼力も大事になってくる。

ま、どちらにしても「もはや戦後ではない」と改めて言うべき時代だ。

今後ずっと朝鮮半島の反日姿勢を中国が利用する構図が続くだろう。とすれば、メダルデザイン非難、旭日旗非難、原発汚染水の海洋放出非難、更には元徴用工判決、レーダー照射等々への様々な対応は、すべて次の時代の対アジア外交を進めるための「予行演習」になるのかもしれない。

そういえば法律でメシを食っている息子夫婦が先日帰省したときに話題になったのだが、ゴーン裁判も今後将来に頻発するだろう国際的事案に日本が対応していくための「予行演習」である、と。もしゴーン元会長が生粋のアメリカ人なら今度のような手法で逮捕するなどという度胸は日本政府にはない、中国人社長をいきなり逮捕すればどうなるか。フランスなら丁度練習相手にイイんだよ、と。うまい具合に、ゴーンさん、フランス人か、レバノン人か、ブラジル人か、そこがハッキリしない。だからイイんだ。つまりゴーン裁判は「予行演習」さ。「司法取引」のトレーニングにもなったし、な。そんな話をした。

次の時代に向けて今から予行演習をしておいた方がいいテーマはまだあるかもしれない。いやでも想像しなければならないのは「偶発的な軍事衝突」をどう冷静にさばくか。これも一つの可能性だろう。そろそろ政府内部でも行動プログラムは出来つつあるのではないかと想像している。予行演習はどんな形でやろうとしているのか分からないが。

2019年9月9日月曜日

一言メモ: 「返り忠」、いわゆる「公益」につきまとう曖昧さ

日産の前会長・ゴーン氏が突然に逮捕されたとき、それも一部幹部との司法取引を通して証拠が当局に提供されたという報道があったとき、小生が連想したのは森鴎外が引き合いに出した「返り忠」という言葉だった。この「返り忠」については、日本で最近になって流行している内部告発に関連して小生も感じる所を投稿している。

どうやらゴーン氏を「裏切った」と目される西川現社長が辞任するらしい。自らもまた内規に違反する報酬を得ていた事実が露見したのが直接的な理由であると見える。

今後、同人が不正を追及されて検察によって起訴されるのかどうかは分からないが、何年かたって振り返れば、日産の不祥事に関連して処罰されたのは外国人だけであり、日本人幹部はすべて外国人トップを当局に売り渡して罪を免れた、と……、もし万が一そんな結末になれば日本人の道徳感覚に照らしてこれ以上の恥はないだろう。


2019年9月5日木曜日

福一原発汚染水の件

標記の汚染水海洋放出については以前の投稿でも考えたことがあって、その時は海流の方向からしてアリューシャン列島を領土とするロシアから法外な損害賠償を求められるリスクがあるのではないかと憶測したものである。

あるいはアラスカとの関係から米国がデータ共有を求めてくる事態もありうると予想した。

ところが、最近になって最も強硬に汚染水放出データの共有を求め始めているのは太平洋岸からは離れている韓国である。正直なところ、この線は予想外であった。無論、こうなった背景は周知の事であろう。

来年の東京五輪を人質にとる韓国の手口は陰湿でまるで朝鮮王朝時代の両班が政敵に対して因縁をつけているようであるが、日本側に問題のリアリティが現存していることだけは認識するべきだろう。問題の本質は日本の側にある。いまでもロシアや米国が福一原発処理に関連してにわかに厳格な対応をしてくるリスクは消え去ったわけではあるまい。解決に向けた日本の努力について、日本国内はもちろんとして、周辺各国の十分な理解が必要なことは当然である。

今回の韓国の豹変を「怪しからん」と反発するような姿勢をとるとすれば極めて愚かである。

そもそも日本は原発をどうするつもりなのか?急増する再エネ電源という現実があるにもかかわらず、やはり将来的には一定レベルの原発施設をベースロード電源として常時稼働させる予定なのか。それまでに増加しているはずの再エネ電源設備をどうするのか。投資家は十分なリターンを得られるのか。電力需要の見通しを含めた信頼あるエネルギー基本計画を経産省がいまなお示していない、というよりエネルギー問題から現・安倍政権は逃げ続けている。これもまた厳しい現実である ― 「逃げて来た」のはエネルギー問題だけではなく社会保障問題からも、財政・税制政策からも逃げてきたと言ってよいが。

2019年9月4日水曜日

一言メモ: これも師弟関係という人間関係を伝える情景か

今日は朝から夜まで先日亡くなった最大手芸能事務所の創業社長J.K.氏を偲ぶ会で持ちきりである。

一言メモ:
亡くなった師匠を偲ぶ会に集まるのは成功した弟子たちである。落伍した愚かな弟子、破門された弟子は、おそらく招待もされず、来ることもなかっただろう。
芥川龍之介の『枯野抄』で描かれている芭蕉の弟子達が師に寄せる奥深い心の襞はおそらく芭蕉にも見えていたに違いない。とはいえ、つまるところ師匠と弟子は年齢が違い、生きる世界が違い、求めるものも違う。先生にとって弟子の心の中はどうでもよいことである。

師匠の葬儀に姿を見せなかった元・弟子たちも彼ら自身の人生を生きている。成功した弟子達ばかりではなく、道を外れた元・弟子達にも目線を向けるくらいのことは日本の放送局もやってよいのではないか、と。大手芸能事務所の子会社ではないのだから。そんな風に感じました。

2019年9月2日月曜日

思い出話: 中一の臨海学校欠席のこと

小学校から中学校へ進むとき、父の転勤に伴って伊豆の三島市から川崎市に引っ越した。日吉の隣の元住吉にあった社宅で4階建てのアパートであった。小生を入れた5人家族はそこの3階にある302号室に入居した。4DKの部屋の配置は住宅公団方式というかスタンダードなものだった。地方の小都市から首都圏に移ると人の数や建物の高さばかりではない、物言いまでも速すぎてついていけないと感じるものだ。思春期で人に打ち解けにくい年齢にさしかかり、まして人見知りをする小生は中々友人ができず、一人孤立した淋しい学校生活を送ったものである。

引っ越した年の夏、学校では臨海学校の予定があった。細かなことは忘れたが木更津に2泊か3泊かするのであったろう。木更津には川崎港からフェリーボートに乗って行くのであったが、それを母が聞くとひどく心配した。多分「フェリーボート」という言葉の語感が激しく母の気持ちを刺激したのだと今では憶測しているが、本当に安全なのだろうか、何かあったら沈むのではないだろうかと心配し、担任の教師にも詰め寄り、結局、小生はその臨海学校には参加しなかった。母に馴染みのある瀬戸内海周辺では「連絡船」という言葉が普通であり、「▲▲ボート」というのは余程小さな舟艇だと思い込んだのだ。学校の職員室では多分笑い話になっていたのだろうと推測する。

今日、その話を思い出してカミさんにすると『△△のうち、そういうところあるヨネエ、心配し過ぎるでしょ』と応じる。確かにそうだが、それで連想ゲームのように思い出したのだが、夏休みが終わって新学期が始まり間もなくの頃だったと思うが、学校から帰宅して家にいると同じ社宅の奥さんが訪ねてきて『お母さんは入院したのヨ』と伝えた。その時の奥さんの顔の表情や声は明確に記憶していて今でも蘇るようだ。ただ、小生はどう応じていいのかわからず特にどうという反応も示さずボーッとしていた。後できくと『△△クンは本当に冷静に聞いていたのヨ』などと噂をしていたというから印象と言うのは分からないものである。

母が入院したのは神経性胃炎であり、通院していた診療所で倒れたため救急車で搬送されたということだった。『救急車ってこんなものかと思ったわよ』と話していたから呑気なものである。母は1か月程度は入院していただろうか。退院してからは父方、母方の祖母が交代で家に来てくれて食事や洗濯の面倒をみてくれた。

こんな風な経緯はずっと明確に覚えていたのだが、神経性胃炎はストレスや不安が原因である。伊豆の小都市から川崎に転居して慣れないところに3人の子供たちの転校もあり一人で家内を切り盛りするのは母には大変だったのだろうと今になって実感するのは余りにも遅きに過ぎると言わざるを得ない。結局、入院するまでになったのだが、小生の臨海学校を「心配だから」という理由で欠席させた一幕も母の健康が崩れていた中での出来事だったと解すれば、いかにも自然であるように改めて感じられた。カミさんにはそんな話をしたのだ。

ただ不思議だったのは、母がかかりつけの病院で倒れて自宅にはいないはずであるのに何故小生は家に入れたのか、カギはかかっていなかったのか、それより小生よりも早く帰ってきていたはずの妹や弟はそのときどこに居たのか?すべて記憶に残っていないのだ。「冷静」などではなく「動転」した心理状態にあったためだろうと今さらながら分かる。多分、その夕刻に帰宅した父が病院まで連れて行ってくれたのではないだろうか。病院は元住吉駅の近くにある「秋庭診療所」といったが、数年前に再び近くを歩いてみた時には見つからなかった。既に閉鎖されたのかもしれない。しかしその当時小生は遊ぶ友人もほとんどいなかったので下校時に毎日病院に寄っては母と話をしたものである。

すっかり忘れていると思っていた事でも何かをきっかけにして前後の事をアリアリと思い出すことがある。上に述べたことは、これとは反対でハッキリ覚えていると思い込んでいたことでも前後の事がどうであったかを思い出そうとすると全く思い出せない、忘れてしまっている。こちらの方である。

2019年9月1日日曜日

一言メモ: 「加害者責任」の自覚で日独はそれほど大きく違うのか

反日傾向の強いアジア3国家(=中国・北朝鮮・韓国)が用いる常套句はドイツの誠実な反省と日本の無反省とを比較する言い回しだ。何度も目にし耳にするのでもう慣れてしまったといえば、それでまた批判されるのだろうと予測できる程である。

ところが、そのドイツの賠償責任をポーランド首相が改めて言明したというので報道されている:

【ベルリン時事】第2次世界大戦の火ぶたを切ったドイツのポーランド侵攻から、1日で80年。この節目の年に、両国間で戦争賠償をめぐる論争が表面化している。くすぶる戦後処理の問題に、ポーランドのドイツや欧州連合(EU)との距離感の変化が重なり、外交問題として噴出した形だ。
「今日までドイツから大戦中の残虐行為への適切な賠償を受けていない」。ポーランドのモラウィエツキ首相は8月、独紙のインタビューで断言した。正式な請求はしていないが、議会の委員会が1日にも被害額の試算を公表する。地元メディアによると、8500億ドル(約90兆円)との試算が出る可能性もあるという。
 独の戦後処理はホロコーストなどナチスの犯罪への個人賠償が中心。各種試算があるが、総額は700億ユーロ(約8兆2000億円)を超えるとみられる。一方、対国家での賠償は不十分との指摘も多い。

(出所)JIJI.COM、2019年9月1日配信

ドイツに対する戦争賠償請求はギリシアも行うことになっている:

【ローマ=共同】ギリシャ議会は17日、第2次大戦中のナチス・ドイツによる占領に伴う損害賠償を、ドイツ政府に正式に要求する方針を可決した。ロイター通信が伝えた。
ギリシャではこれまでにも賠償問題が提起されてきた。ドイツ政府のザイベルト報道官は17日、賠償問題は「法的にも政治的にも解決済み」とする従来の立場を改めて示した。
ロイターによると、今回の決議は具体的な請求額を示していないが、ギリシャ議会の委員会は2016年、被害額は3千億ユーロ(約38兆円)超とする試算を示していた。

(出所)日本経済新聞、2019年4月19日

どちらも天文学的数字である。そして、どちらも請求権協定は未締結であり、ドイツは賠償責任を否定しているようである。

第2次世界大戦の戦後処理は、第1次大戦後の処理を失敗した反省に立って比較的寛大だった。放棄された請求権もあった。敢えて請求を行わなかった国もあった。細かな事実は一冊の本でも書ききれまい。

いずれにせよ『ドイツは誠実に加害責任を反省しているが、日本は責任意識が乏しい』という日独比較論は、ドイツを美化しすぎているのではないか、と。そんな風に感じることは意外と多い。