2019年11月28日木曜日

一言メモ: 意味がよく分からない言葉から2例

最近になってからというより、3,40年のスパンで聞くことの多い単語でありながら、意味がよく分からない言葉がある。メディア業界用語というより言論業界でずっと愛用されてきた言葉ではないかと推測する。戦前期にも既にあった言葉なのかどうかは確認中である。

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その一つは「反社会的」という言葉。

「それは反社会的です」という人に限って『この問題は社会的に解決する必要があると思うのですよ』という意見を述べたがるものだ。小生、何かが問題になるとすぐに「社会で(国で、政府で)」という表現を愛用する人は、信条の核心部分において「社会主義者」である、そう思うことにしている。少なくとも「集団主義者」であると思う。それで大体は間違いはないと信じている。

社会主義者は個人の自由意志に否定的だ。規律が好きで、勝手を嫌う。関係者によるローカルな問題解決方式には理解をあまり示さず、それよりは中央管理型のルール化された問題解決方式を好む。

最近のメディア情報の言葉の使用をみると、ある行為や言動をとらえて「反社会的」と形容するのは、その人物や企業を社会から抹殺したいとの願望を込めているようなニュアンスがある。不適切を怖れずに引用すれば、韓国社会で「親日的」という言葉を投げつけるのと似たような、何か「裏切者」とか「犯罪者」に通じるような意味合いがあるのじゃあないかと憶断しているのだ。

疑問に思うのだが、いわゆる「反社会的勢力」。反社会的な勢力に属している人も大半は日本国籍を有しているはずで、従って彼らは選挙権を有し、法の前の平等と基本的人権を有しているのだが、この事実をちゃんと現代社会は分かっているのだろうか?法を犯す犯罪は処罰されるが、処罰されないのであれば普通に暮らすことができ、人種が違うかのように抑圧されたり、汚物を見るがごとくに差別されたりすることはないはずである。そんな疑問を感じることがある。

小生が若い時分は「反社会的勢力」などという灰色の言葉はなく、ずばり「非合法組織」という言葉が使われていた。国際的に通用するようになった(と言われる)「ヤクザ(Yakuuza)」も「やあさん (Yahsann)」も「極道モン」も「社会の余計者」を砕けていう時の言葉であった。そのうちに「暴力団」という言葉が浸透してきた。それが今は「反社会的勢力」、いわゆる「反社」になった。

使う言葉を次々に変更してきたことに何か厳密な意味上の違いを再定義して込めているのだろうか?

特にメディア業界の人が「反社会的勢力」という言葉を使うとき、ひょっとして『彼らは非国民ですから』という戦前期の殺し文句と同じ意味合いをこめて使っているなどということはないよネ、と。そんな問いかけをしたくなることもある。いや、メディアではない。現代日本社会の普通の人はそんな風に思っているわけではないよネ、と。

特に政治家など「公職」にある人は一視同仁。罪を憎んで人を憎まず、だ。日本国内で暮らす日本人、ばかりでなく外国人も含めて、差別の心情を排して公平に接することが大事だ。いくら政党に分かれ敵対しても、異分子などとは思うことなく、これだけは忘れてほしくないものだ。

案外、大事な点ではないだろうか。

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次に「前時代的」という言葉。

『そんな家族、前時代的ですよネ……』、こんな表現も最近非常に増えてきている。『今の時代、それはもう駄目ですよ』という言い方も意味合いとしては同じである。

しかし、この論法でいけば『社会は過去、現在、未来と一つの決まった方向に進歩していくものなのだ』と。こんな命題になってくる。

本当に、社会というのは絶えず進歩し続けていくものなのだろうか?

科学や技術は進歩する。前時代の正統派が実は間違っていると指摘されることもある。いわゆる『パラダイムの転換』である。しかし、それが本当に「進歩」であるのか否かはデータに基づく厳格な確証があって初めて学会が公認する結論である。「新しくて何となく進歩した感じ」という言葉に対応する客観的存在はない。これでは単に「新し物好き」であるだけだ。「何となくの感じ」とは違って科学知識は拡大情報系というか、知識の量が単調に増大していくものだと思う ― ま、これすら古代社会の崩壊と継承の断絶があり、「ルネサンス(文芸復興)」などという時代があったりするので確言はできないが。

社会が常に進歩するのであれば10年前の社会よりは今の社会の方が進んでいる。20年先の社会は更に進んでいる。故に、先輩世代は現役世代よりは遅れた社会で活動してきたのだ。そんな理屈になる。技術的にはそう言える。が、技術だけである。信条や理念、人間観、社会観は技術ではない。

「社会は常に進歩している」というこの考え方は日本人の好むところだ。過去を水に流す性向もここに由来するのかもしれない。しかし、これを一般に広げると、それこそ戦前期の日本で「下克上」と「軍律の乱れ」が蔓延し、「革新」を唱える青年将校の跋扈を許してしまった根本的原因になる。

日本の社会は常に進歩し続けて来たわけではなかったのだ。その時、その時の社会の通念が正しいとは限らない。「時代の風を読む」ことが正しいとは限らない。何が真理なのか、何が正しいのか、何が善なのか。これらの価値を求める努力は「時代を読む」という視点とはまったく関係がない。

アメリカや中国、ロシアに『1930年代の日本社会はその時はその時で正しい行動をしていたんですヨ』と。正面から言ってごらんなさい。その時点では前の時代よりは進んでいたはずだから、その時の考え方が一番正しいんですヨ、と。

『おのれ信じて直ければ敵百万人ありとても我ゆかん』である。

さすがにそれは怖いと感じるとすれば、「正しい」という自信がないからである。

社会は常に進歩し続けるわけではない。慰めは退化し続けるわけでもないことだ。

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以下は付け足し。

真のメディアがあれば、いま社会は進歩しつつあるのか、退化しつつあるのか、普通の人にとっても有用な情報が提供されるだろう。しかし、こんな事は実は期待できないのだ。耐久性のある良質な道路を費用をかけて建設すれば利用者には有難いが、破損個所がなくなるので道路補修の仕事がなくなってしまう。同じ理由で、メディア企業は情報に飢えた視聴者が絶えることなく大量に存在する社会をつくりたい。であるので、本当の意味で有用な情報を提供する動機はマスメディア企業の側にはないと考えられる。情報に渇いた大衆に提供するべき情報は「一滴の水」にしておく。いつの時代でも、それを持っている側がそれに渇いた側から多くを奪うものである。

「前時代的」という言葉には「俺たちが正しいから俺たちの言うことをきけ」という主張がニュアンスとしては込められている。と同時に、議論は時間の無駄だと言い切る不遜な姿勢も込められている。この分だけ悪質な表現になっている。正しい社会的理解が多くの人に共有されていれば、こんな表現は必要ないのではないだろうか。




2019年11月24日日曜日

覚え書: ローマ教皇と「平和な世界」について

ローマ教皇・フランシスコが教皇としては38年ぶりに来日し、広島、長崎を訪問する、天皇陛下、首相とも会見するというので、マスメディアもやはり注目している。

教皇が発言している言葉を報道で聴くと、特に「戦争」の災禍をどうにかして避ける手立てを考えなければならない、と。それと関連して、原爆投下直後に死亡した弟をおんぶして火葬の順番を待っている少年の写真。これに感銘を受けたということでもある。

確かに、現代社会において宗教指導者(の多く)は平和の使徒としての役割を果たしているように見える。また、そう期待されてもいる。


とはいえ、ヨーロッパにキリスト教世界が形成された紀元1千年以降をみても、ローマ教皇の督励の下で十字軍が東方に向かって発進した。宗教的理念に反する自然科学は抑圧された。ガリレオ・ガリレイは抑圧下で天寿を全うできたが、ジョルダノ・ブルノは宗教指導者の意に従わなかったゆえに火刑に処せられた。その果てには、宗教戦争が頻発してドイツ30年戦争まで引き起こしてしまった。スペインでは「魔女狩り」が横行した。すべてキリスト教を信仰する動機から発した行動である。

宗教が戦争を主導した例は枚挙にいとまがないのである。この事実自体は、それはそうだろうと多くの人は思うだろうが、やはり逆説的であり奇妙なことだと小生は考える。日本国内をみても、中世を通して宗教組織は戦争をおこないうる一つの権力であった。

ヨーロッパの世俗化、つまりキリスト教からの解放と世俗的利益の追求、商工業への専念は人々の相互理解、平和な世界の構築に有益であるという認識が広まったが、そうなるべき時代背景があったわけだ。

ところが、経済発展の果てに植民地獲得競争、帝国主義の時代がやがてやってくる。複数の「国家」が経済的利権を争って「戦争」になるケースが増えた。植民地をめぐり英仏の対立が激化したり、英独の対立がやがて第一次世界大戦につながっていったのは好例だ。


本来、キリスト教は『汝の敵を愛せよ』という博愛主義に立っている。経済的な利益は誰もが理解できることであり、豊かな生活を戦争によって破壊するという行為をするはずがないというのは確かに合理的な見方である。

しかし、宗教によっても、経済的動機付けによっても、人間は戦争を繰り返してきた。

これが世界の現実である。

愛を重視する宗教によっても、利益機会を約束する平和な世界の魅力をもってしても、戦争をして世界を破壊しようとする人間性を抑えることはできなかった。これが歴史によって証明されている事実ではないか。


ひょっとして一つの成功例になるのは、豊臣政権から徳川政権への交代を区切りとして日本国内で長く続いた「戦争の時代」が終わったことだ。大阪の陣は文字通りの「最後の戦争」となったわけだ ― 鎖国の停止と開国をきっかけに「国内平和のシステム」が崩れ、歴史的因縁から再び内戦を招いてしまったのではあるが。

その「徳川の平和」がなぜ250年も続くことが出来たのか。いま「世界平和」を考えるなら最も参考になるケーススタディになりうるのじゃあないかと小生は思う。

少なくとも、徳川政権は博愛をとく宗教指導者ではなかったし、また経済的利益や経済発展を広く庶民たち(≒国民)に約束したわけでもなかった。それでも日本人は戦争によって問題を解決する冒険をあえて選ばなくなった。

そのカギは何だろう?

平和を願う宗教の広まりでも、儲けを自由に追求できる世の中がやって来たからでもなかった、という理屈になる。

その当時、日本人は『もう戦争はイヤだ』という気持ちになっていたからなのか……。いま生きている小生には分からない。

「平和」を唱える人が即ち平和な世界を構築できる人、実際に構築する人ではないのだ。「…ではない」とすれば、平和を唱えているわけではない人が平和な世界を構築することを希望するとしても一理あるだろう。

これを「平和のパラドックス」とひそかに(かつ勝手に)名前をつくっているのだ。




2019年11月21日木曜日

「政党」も「趣味」ではなく「ビジネス」なのだと思うが

政党は国内の支持者の多寡を争う競争関係にある。典型的なシェア競争である。なので、自民党・公明党、その他野党連合という風に「結託」することに戦略的利益を見出すプレーヤーが出てくるのは必然だ。

政党をいかなる産業に分類するかといえばモノづくりではない以上、やはりサービス業に分類されることになるのだろう……。

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互いに競合関係にある企業では、いかに自社製品(サービス)を他社と差別化するかがポイントになる。差別化に失敗して、自社製品(サービス)がコモディティ化すれば安ければよいという競争圧力にさらされ利益は消失してしまう。組織の成長機会は失われるわけだ。

★ ★ ★

ただ、政党と民間企業で最も異なるのは、サービスを提供するとは言っても価格を伴わない、対価がゼロ。つまり公共サービスである点だ。政党は政党交付金を支給されているが、その支給額は国民によるサービス評価の代理指標であるのだろうか、選挙で当選した議員数にほぼ比例する方式で決定されているようだ ― もちろん専門外であるし、具体的方式にはそれほど興味もないのでこれは憶測である。それと政党に対する政治献金、あるいは共産党の『赤旗』といった出版物の販売利益なども政党を支える基盤になる ― 政党は建前上は非営利組織であるから「販売利益」にも自ずから上限はあるのだろうが、これまた小生は専門外なので詳細は承知していない。

競合関係にある企業にとってプロモーションは極めて重要である。自社製品(サービス)を他社と差別化して顧客(=有権者)に訴求することは、一定のシェアを奪取するうえでは決定的に大事だ。

かつて民主党が賢明に駆使した「マニフェスト」は、民主党が目指す政策サービスと自民党・公明党が目指す政策サービスとを差別化し、その違いを有権者全体にアピールする有効なツールとして機能した。

本当はこうでなければならない。

★ ★ ★

現在、日本国内で政権から外れている野党連合は、プロモーションとは言っても、ネガティブ・キャンペーンを主たる戦略にしている。

民間で競合製品の問題点ばかりを指摘するネガティブ・キャンペーンを展開する企業の製品は決して売り上げが伸びないことは、長い資本主義の歴史の中で確認されてきている事である。

なぜネガティブ・キャンペーンが決して自社を利するプロモーションにならないのかといえば多くの説明があるのでここでは長く記さない。一つだけ挙げれば、競合商品の問題点ばかりを指摘する会社があるとしても、新規購買者はともかく、既存使用者は使っている製品の長所・短所を経験的にわかっている。その製品を非難している企業の製品はよく分からない。ネガティブ・キャンペーンと併せて誠実にアピールしている内容があるとしても過激に展開しているキャンペーンのほうに目が向いてしまう。マスキング効果である。自分の経験とよく分からない会社による非難と、二つの情報を天秤にかければ信用できるのはどちらか、直ぐに結論できることが多くなる理屈だ。例えれば、籠城戦で『お前たちの主人がどれほど酷い人間か分かっているのか』と叫ぶことで敵陣営を調略しようとしても自分もまた観察されているものだ。自らの力量を信用してもらわなければネガティブ・キャンペーンだけでは効果が期待できないものだ。ま、やめておく。書けば書くほど情けない現状がいま展開されている。

一度見事に成功した政党ビジネス戦略をなぜ再び練り上げて自党の発展への機会を狙わないのか?

小生は現時点の野党連合の政治家たちのその「無能さ」というか、インテリジェンスが見事に欠けているという事実に限りない淋しさを感じる。

★ ★ ★

これは全く別の話になるが、中道左派のリベラル勢力がシェアを拡大したいのであれば、戦後日本の体制と両立しない共産党を消滅させることを目標とすればよい。極左の共産党が消滅した後、自民党は保守と中道に分裂する誘因が生まれるから、現在の中道リベラルに成功への機会が訪れる。

しかし、理屈はともかく実行は困難な戦略だろう。自民党よりも左で中道リベラルが自民党と協調するのはリスクが高い。 ぬえ 的である。 自分たちが消える可能性が高い。かといって、共産党の右側にいながら共産党と敵対して単独で戦うのは力量不足だろう。だから中道左派は共産党と協調する動機をもつ。

袋小路である。

日本国民が建前と本音を厳しく洞察する意識をもてば「日本共産党」の虚構性に気がつくロジックだ。気がつかなければ、実行困難な戦略があるのみであり、現状が続く。だとすれば、ネガティブ・キャンペーンを思いつくが、それでもコンテンツがなければどうしようもないのである。

2019年11月19日火曜日

法律と善悪、「ご禁制品」の科学的根拠について

映画『パッチギ!』も『クローズド・ノート』のどちらもずっと前に観たが素晴らしい佳品であった。だから、というわけではないが、今回の逮捕劇は実に残念で、これから営業自粛などという仕儀になる事態は理解できないと語る人達の側に小生はいる。

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本日の投稿は、最近相次いで逮捕されている芸能界の人たちを弁護しようとしているのではない。

この種の摘発劇についてずっと抱いている疑問である。

いま、「薬品」、「薬物」、「ドラッグ」、「嗜好品」、「サプリ」等々、日常的に摂取する穀物、肉類、野菜などとは区別され、栄養以外の例えば気晴らしや疲労解消などを目的に摂る生産物を合併した集合をとってみよう。これらを「非栄養摂取物」と総称してもいいかもしれない。

そうすると、この「非栄養摂取物」の中には風邪薬や消化薬のほかに、睡眠剤、精神安定剤も含まれるし、酒や煙草(食べるわけではないが体内に摂取するという意味で)、清涼飲料水もあり、果ては大麻、コカイン、覚醒剤、MDMA/LSDなどの「ご禁制品」も入ってくる。

この「非栄養摂取物」のどこかに「医療用vs非医療用」、「健康増進vs非健康増進」などの線引きがあり、いずれの線引きにおいてもプラス効果が認められない摂取物は「ご禁制」として使用を禁止するというのは、なるほど合理的であるような一面もある。

しかし、本当に禁止するべきかどうかについては真に厳密な科学的根拠と判別のバランスが必要である。

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なぜこんな事を書くかと言えば、最近になって続々と逮捕されている人達の中には、20年に及ぶ長期間、ドラッグを服用していた人物もいる。ところが、その人物が逮捕されたあと、本人の健康状態については続報がマスメディアからサッパリ出てこないのだ。健康状態を報道しないのは、本人がほぼ健康であるからではないかと。そう小生は邪推しているところだ。

「健康に害悪を与えるが故に禁止する」という取り扱いが本当に不可欠で切迫した判断であるなら、それでは「大麻」という生産物が海外では合法化される例が相次いでいるのは何故なのだろうか?それが疑問の第一である。おそらく小生の理解力が不足しているのだろう。

日本人にとっては健康に害悪があり、アメリカ人にとっては健康に害悪がないということなのか?あるいは、アメリカ人にとっても健康上の害悪はあるが、別の考慮からやむを得ず合法化しつつあるというのだろうか?もしそうであれば、最近になってから一部の電子タバコが健康上の理由からアメリカでは使用禁止になった。日本では電子タバコの健康上の害悪はそれほど議論されていない。思うのだが、日本は健康に非常に関心があり、アメリカは無頓着であるということではないだろう。そのアメリカで大麻を使用禁止にしないのは科学的観点にたてば奇妙であると思う。

本当に健康上の害悪がある非栄養摂取物であれば、長年それを摂ってきた来た人には必ず何らかの健康障害が認められるはずである。もし認められないのであれば、その摂取物には深刻な負の作用はないということではないのか?

要するに、法律上の「ご禁制品」であるからという議論ではなく、「科学的に」議論をすることが最も大事であると小生には思われるのだ、な。

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毎年、飲酒運転や泥酔の上の暴行など、酒をきっかけにしたトラブルは多数発生している。先日も泥酔の果てに路上で眠りこんだところ轢き逃げにあって公務員が死亡するという事件が北海道であった。過度な飲酒が肝硬変や肝臓癌を誘発することは誰もが知っているし、認知症などの健康障害を招く可能性もあると小生は聞いたことがある。酒類には明らかにマイナスの作用があると言うべきである。しかし、現在の日本で成人ならば誰でも酒を買える。飲酒は禁止されていない。

法律上の「ご禁制品」、例えば「大麻」や「コカイン」、今回の「MDMA」を摂取した作用が原因になって、どんな傷害事件がどの程度発生してきているのだろうか?現代はオープンデータ化の潮流にある。行政当局は犯罪統計の一環としてこの辺のデータを提供しなければなるまい。

「ご禁制品」として指定されれば売買は闇取引になる。闇取引を行政機関が摘発するのは当然である。しかし、ブラック・マーケットで営利活動をしている「ブラック企業」を摘発せずして、それを購入した消費者を摘発し逮捕するのはバランスを欠いている。まして、摂取した人物に健康上の被害が出てはおらず、かつ摂取の副作用で不当な行動をとっているなどの履歴がないのであれば、法律上の制裁を加えるべきかどうかすら小生には疑われる。

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禁止されているドラッグであると知りながらそれを買う買い手も法を犯しているという意見もあるだろう。しかし、本来、消費者は消費者主権を持つことが現代社会の原理・原則である。買うか・買わないかは本来消費者の側が決めるべき事柄である。「健康に害悪があるご禁制品」を所持・使用すること自体が犯罪になるのであれば、毒物を服用して自殺する事すら犯罪になってしまう理屈だ。無茶苦茶であろう。

また、禁止ドラッグを販売している人物を当局に「通報・密告」せずして購入すること自体が犯罪を幇助しているという一見正当な議論も予想される。しかし、これもまた自由社会の原理・原則を侵害している。自らが必要性を感じ、欲し、健康上の害悪はなく、かつそれを使用することによって他者に損害を与える意志がなく、その対価を支払う意志があるのであれば、売り手から購入できる機会を提供するのが現代社会の原理・原則ではないのだろうか。売り手に対して「これは売買が法律上禁止されている」と通告するのは当然だ。しかし、消費者の側に向かって「買うな」と命じるのであれば、戦争直後の東京の闇市で「ヤミ米を買うな」と国民を指導した政府と同じである。そもそもブラック・マーケットで闇商品を購入する買い手には価格交渉力がある理屈はなく、不当な対価を支払わされているに違いない被害者である。本当に健康障害があるなら猶更のこと被害者である。「保護」なら分かるが、なぜ「逮捕」という手続きになるのだろうか。

サッパリ分からねえってのは、ここでござんす。

いま政府が禁止している「ご禁制の品」を国民が求めていないのは必要性を感じていない人が多いからに過ぎない。しかし、特定の職業の一部の人物たちは求めている。「買うな」と法的に命令するのであれば科学的根拠がやはり必要だろう。いかなる条件下においても消費不可と規定するなら、海外では可とする取り扱いとは矛盾する規定を何故あえて置くのか、その理由を示すのは立法側、行政側の責任であろう。説明もなく法を犯した「犯罪者」をつくるのは非条理だ。

「一定の条件下で消費するべし」と規定するのであれば、消費者が利用できる情報の不完全性から了解できる。が、いかなる条件下においても消費を禁じるなら、その理由は取引の形態ではなく、その商品の属性自体にある理屈だ。それは何か。科学的根拠は明白なものでなければならない。

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データに基づく行政が叫ばれてからもう何年もたっている。『法律で禁止している以上それは悪いことだ』と言われて、『それはそうだ』と思うとすれば、その思考回路はまるで江戸時代の「隠れキリシタン狩り」と同じだ。戦前期日本で吹き荒れた「赤狩り」とまったく同一の論理である。

実際には、キリスト教そのものに社会を破壊する要素はない。社会主義・共産主義思想そのものから破壊活動を予測できる見方は成立しない。根拠もなく単なる恐怖の心理から特定の思想なり表現、趣味、嗜好を禁止するような政治は不適切であったことは歴史の証明することであり、このことは現在に生きている私たちは理解しているはずである。

前回の投稿でも述べた事だが、法律に適合しているが故に正しい、法律に違反しているが故に間違いという修辞は論理としては実は通らないのだ。もしこの論法でいけば、優生保護法の下で実行された不妊化手術は法律の命じる所であったが故に正しかったという理屈になる。法律に従うのは善であると考える人すらいるだろう。明らかに誤った理屈だ。善は善であるのであって、いつの間にか善は悪となると考えだせば、そもそもモラルや倫理そのものの意味がなくなってしまう。法律はソーシャル・マネジメントである。管理のためのツールである。企業組織を管理するための内規と本質は同じだ。規則自体に真、善などという価値はない。目的を追求するうえでそのツールは最適化されているのかどうかという視点が何よりも重要だ。優生保護法という法律に則した判断であっても、それは戦後日本社会のマネジメントとしては誤りであった、と。そう現在では結論を出しているのである。

仮に近年の世界的潮流を日本も考慮して、「比較的害悪の少ない一部の」摂取物については「合法化」するとの法律改正をするとしよう。そうすれば、合法化以前に「不法所持」を理由に職業生命を奪われた人にはどう賠償すればよいのだろう。おそらく非常に多数の行政訴訟が為されることは必至であろう。優生保護法の二の舞にならないことを祈るばかりだ。

議論をするときに『法に適合しているか、違反しているかによって善悪は定まる』という単細胞的思考を反復していると、前回にも書いたことだが、それは社会全体がバカになる近道である。法律ではなく、科学的な視点から事実だけを追うことが大事だ。

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まったく話は違うが、何事にも手っ取り早く正しいか、間違いかの答えを得たいと望む心理があって、「ここで法律を…」という議論になるのだろうと小生は個人的に推測している。

現実にはこの世に答えのある問題は実は少ない。しかし、ルールさえ決めておけば、法律さえ作っておけば、本来は答えのない問題でも正解を決めておくことができる ― 要するに、ルールをつくっておけば勝敗の決まるゲームを自由につくることができる。

このような<正解願望症候群>は社会心理上の病気であると小生は思う。その遠因として、客観評価法(=クイズ式)に基づく現行の「大学入試センター試験」が挙げられるとすれば、なるべく早期のうちに改善するべきだ、というのは実際に大学で仕事をしてきた身にとっては本音なのである。

2019年11月17日日曜日

「絶対いやだ」という人々と討論を交わすのは不可能である

数学の問題に対する解答には〇か☓かの判定がロジカルに下せる。正しいか、間違っているかがハッキリと言える、誰もがその判定に従わざるをえないのは気持ちのよいことである。

しかし、こんなことが出来るのは限られた分野である。

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問題が数学から離れて自然科学になってくると、正しいか、間違っているかの区別はそれほど厳密ではなくなる。ニュートンの万有引力の法則は19世紀までは「絶対的真理」であったが、視野を宇宙に広げたり、速度を光速度に近づけた時にはアインシュタインの相対論で計算しなければ誤差が大きくなる(と専門外の小生は理解している)。まして自然科学から経済学や政治学などの社会科学に領域を移すと、ある結論が正しいか、間違っているかなどは異論が複数現れてきて、決め難くなる。討論しているうちに社会そのものが変容してしまう。回答するべき問題そのものが時と共に変化してしまうものだ。

土台、正しいか否かという問題は、回答不能であることの方が多い。

正しいか否かで答えが出せない時には、それこそ「民主主義的に」結論を出せばよいのだろうが、むしろ人は往々にして好きか嫌いかで答えを出すものだ。『ピンとくるよね』とか、『それ、まずいんじゃない?』といった目安も要するに「好悪」という評価尺度に過ぎないと言える。

とはいえ、ただ「好き嫌い」で答えを出すばかりでは社会はマネージできない。社会の諸問題の中にはその対策が正しいか否かなどはそもそも回答不能であるのだが ― 回答不能であるのは自然・社会の科学知識が足りないからである ― それでも正しいか否かを決定しないと困る、そんな状況もある ― 昔から病人がいれば医者と呼ばれる人物がどんな奇妙なことであれ何かをしてきたわけだ。

そんなとき社会は色々なルールを作りだす。法もその一つだ。憲法もそうかもしれない。法律を当てはめると、あらゆる人間の行為が適法か違法か、あたかも「正しいか否か」をその場で決定できるような状況をつくりだす。(その国の)法律をもってくると法に違反しているか違反していないかの答えが(その国では)出せるようになる。

法律とは、答えの出ないことが多い現実の社会において合法か違法か、〇か☓か、あたかも正しいか否かが決定できるような外観を創り出すことに存在意義があり、目的がある。法の基礎にモラルや公益へのリスペクトを置くことが多いのは法の重みを強調するためである。

以上を考えると、なんでも事柄によらず法律の話をして答えを確かめたいと願うのは人間がバカになる近道であることがわかる。というか、現在の日本社会はその近道を真面目に歩いているのかもしれない。

社会問題によらず多くの問題は、問題そのものを深く考えて、その本質を理解することが何よりも大事である。『咳がひどいようですから咳止めを出しておきましょう』という医者なら次は『熱が高いですから熱を下げましょう、それが医者の「責任」ですから……』と言い出す。これでは困るわけである。

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内閣恒例の桜の花見で総理大臣が法を犯しているのではないかとテレビなどは多くの人とカネを使って一生懸命に番組を作っているが、いかにも無駄であるこの種の番組も「アベ嫌い」の人たちには極めて重要な事柄であるようだ。

「要するに嫌いなんです」という感情からスタートさせている人と議論するのは不可能である。

議論をして対立状況を解消するには、一方が他方を論理的に屈服させるか、主要な点で妥協するか、二つの内の一つである。嫌いな人に屈服するのは耐えがたい、妥協するなど「虫唾が走る」と言うならば、もはや言葉による問題解決はこの社会において不可能になる。
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根っこの部分には「好き嫌い」があり、目的と手段との整合性を問う学問的姿勢がないと、関心があるのは「法律」を当てはめて「間違いの証明」をすることだけになる。

しかし、上述したように法律はそもそも正しい回答がないところで正しいか否かを決定するためのツールである。

もし現時点で「違法」という結論が出せるからと言って、20年前に同じ結論が出せたか、20年後に同じ結論が出せるかと問えば、それはまったく分からない。どうにでも変わりうる。変わりうるのは法律的な結論は「真理」というものではないからだ。そもそも「正しい」ことがコロコロと変わるのはおかしいと考えるべきだ。「真理」とかけ離れたものを知りたいと願うのは馬鹿である。上で何にせよ法律の議論をするのは馬鹿になる近道だと言ったのはこういうことである。

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日本で「武断主義」という言葉がある時代のある世相の中で時に登場するのは、言葉による解決を不可能にする状況を日本人自らがつくってしまうからに他ならない。

ある問題をどうしても先延ばしすることができなければ答えを出す必要がある。議論に負けても嫌いな相手に服従するのは嫌、相手も立てて妥協するのはもっと嫌となれば、あとは数の力か、でなければ武力によって決着をつけるしか残された道はない。

軍事力の誇示やテロリズムは言葉を拒否する感情に支配されている状況が背景にある。言葉による問題解決を原理とする民主主義社会で時に非民主的な暴力が横行するのは、誰が始めるのかしらないが、結局は対立している双方ともに責任があるのだろうが、意味ある言葉の応酬を拒否する心情に由来する。

2019年11月14日木曜日

一言メモ: 「いじめ」をどう考える

既に言い古されたことだが「いじめ」という現象は小生の幼少時代からあった。というか、ずっと昔からあったことであるには違いない。「いじめ」が社会化され、固定化されると、即ち「差別」となる。

「差別」は改善されるべき前近代的悪習だと思うが、一過性の「いじめ」くらいは自分に与えられた試練だと思って『乗り越えんといかんだろう』と、そんな感覚が正直小生にはあった。

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茨木市消防署で起きた消防士同士の「いじめ」事件がまたワイドショーをにぎわせている。この種の話題はテレビ局の大好物である。これからどんな展開を見せるか分からないが、加害者である上司3名は既に懲戒解雇されたようである。被害者の20代の消防士がこれからどんな職業生活を送ることになるかはまったく想像がつかない。

30代から40台にかけての中堅が若手を「鍛える」と称して、実質的には「いじめ」を繰り返していたとなると、先日神戸市内の某小学校内で起きた教師同士の「いじめ」事件を思い出す。こちらもまた加害者が「じゃれあった」と語っているそうだから、今回の消防士同士の「いじめ」事件と共通した側面をもっているようである。

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前にも書いたのだが、小生が大学に戻った平成初めの時代に比べると、この20余年間で大学生の幼稚化はものすごい程のスピードで進んだ。その幼稚化の進行が逆転したとか、進行が緩やかになったということは聞いていないので、今もなお大学生の幼稚化は進行中なのだと憶測する ― もちろん急増しつつある留学生は除いた話である。キャンパス全体の雰囲気とは別であることを付言しておく。

どう「幼稚化」しているのかと聞かれると困る。実地に体験するのが一番だが、多分、ほとんどの人はビジネスマンとして若手同僚とコミュニケーションをとったり、あるいはアルバイトに採用した若者と話し合ったりしているに違いない。同様の感想をもっている人は、40代、50代のかなりの割合を占めるのではないかと、小生、想像しているのである。

やはり現在の20台は20年まえの10代、現在の30代は昔の20代である。いまの大学生は昔の高校生か中学生、そろそろ中堅のはずの30代は昔の20代ルーキーに近い雰囲気を漂わしている。マ、あくまで小生の主観ではあるが……。

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幼稚化現象の本質的要因が何であるかは実は小生にも分からない。人生80年どころか人生百年の時代が到来して、ゆっくりと成長するように人類が変容しつつあるのかもしれない。あるいは、21世紀に入って普及したインターネットとIT化の流れが人間全般の幼稚化と何らかの関連性をもっているのかもしれない。「鍛えてやる」が「いじめ」になっているという想像力が失われつつあるのかもしれない。相手に共感する能力、相手の表情を読み取るデリカシーがいま弱体化しつつあるのかもしれない。更には、一人っ子の増加、親戚づきあいの減少、近所づきあいのない核家族の増加、地域社会のつながりの喪失などなど、現在の社会状況のあらゆる特徴が「幼稚化」の背景として挙げられるのかもしれない。

幼稚化とは「未成熟」であることなので、社会的交際の機会が減るとともに人は未熟になり、幼稚化するというロジックは一般的にはある。とはいえ、大都市出身の人が人口の希薄な田舎出身の若者よりは成熟していたか、地方出身の若者は大都市の青年より幼稚であったかと言われると、ものの見方にもよるが、そんなことはなかったと言いたくなる。

要するに、幼稚化の本質的原因は小生には分からない。

いずれにせよ、そんな事情がまず先にあって継承されてきた組織内ディシプリンが機能しなくなるとき、そこで経験を重ねてきた人は怒り、焦り、過激な行動をとる。そんな一面も現在の社会にはあるのかもしれない。そういえば、先ごろ、大相撲の巡業中に観客席で笑い興じていた若い呼び出しを拳骨で叱り、それが「暴力」だと判定されて退職したベテランがいた。あれもまた類似したケースではないかと感じられる。

法的に言えば、加害者は悪く、被害者は悪くない。しかし、すべての社会現象には原因があるものだ。組織内の「いじめ現象」を社会問題として把握するのであれば、何がこの現象をもたらしているのか。まず問題を把握しなければ問題は解決されない。

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そもそも同種の不祥事は一定の頻度で実は発生していたのであるが、被害者による告発やマスコミの興味の高まりなどによって、あたかもこの種のトラブルが増えてきているという印象だけが高まっている可能性すらある。だとすれば、なぜこれまでは表面化しなかったのか、どのように解決されてきたのか等々の疑問がわいてくるのだ、な。しかし、小生にはやはり発生頻度として高まっている。何か社会的な要因があって組織内状態が変容し始めている。そんな気がする。とはいえ、意識調査などのデータを視ているわけではない。

特定のタイプの犯罪は毎年ほぼ一定の頻度で発生するものである。個別のケースは関係法令を適用して裁けばよい。しかし、年を追って発生頻度が上昇するなら、上昇をもたらしている原因を探るべきである。個々のケースを法律的に裁いているだけでは問題は解決されない。

2019年11月13日水曜日

一言メモ: 「逆イールド解消に安心」はないでしょう

米国・ミネアポリス連銀総裁がリセッションの兆しと言われる逆イールド現象(短期金利>長期金利)がごく最近になって解消したことに安心していると報道されている。

[12日 ロイター] - 米ミネアポリス地区連銀のカシュカリ総裁は12日、リセッション(景気後退)の前兆とされる米国債利回りの逆転(逆イールド)が解消されたことに安心感を示した。

総裁はまた、設備投資が弱い一方で、消費支出や雇用市場は力強く、米経済見通しは「若干まだら模様だが、おそらく数カ月前と比べるとやや楽観度が増している」と語った。
(後略) 
(出所)ロイター、2019年11月12日

 この景気判断はないだろう。

経験則によれば、逆イールド現象が一度発生したあと、それが解消してから間もなくの時点で実体経済はピークアウトしてきた。

つまり、ピークアウトは間近いと予想しておくべきである。


セントルイス連銀が運用しているFREDから作成したグラフをみても逆イールドと景気循環の下方転換点との関連性は経験上明らかである。

2019年11月12日火曜日

一言メモ: 単純な疑問

最近近年のテレビでは政治の話題が非常に増えた。小生が若かった時分は、あまり政治をテレビで議論するなどはされなかった記憶がある。中には細川隆元の『時事放談』(であったか?)、それから竹中労氏あたりが時たま過激な政治的発言をしては世間を面白がらせたことがあったか……。大部分はドラマとスポーツ中継、それから歌番組、毒のないお笑いとバラエティであった。政治を世間の井戸端会議に持ち込んだきっかけになったのは、やはり久米正雄の『ニュースステーション』ではなかったろうか……、いまでは番組タイトルもメンバーの雰囲気も一変してしまったが。

日本人は政治問題を話してそれほど愉快になるのだろうか?もし聴いていて不愉快になるならそれを我慢すれば何かが解決できるのだろうか?どこのテレビ局も毎日同じような話題で番組を編集している。同じようなCMを放送している。放送業界は過当競争にあるのではないか?合併統合をすれば成長産業に資源を振り向けることができるのではないか?

そのほかにも色々な疑問を感じる今日この頃だ。

ココ何日かの疑問:

  • なぜ立憲民主党と野党連は「内閣主催の桜の花見」の招待客などという、マア「些事」と言ってもよい問題にエネルギーを費やするのだろうか?何か出ては来るだろうが、それほど大事な問題なのだろうか?

  • なぜ香港の状況、更に言うなら中国の人権問題について何も主張しないのか?問題視しないのか?まったく口を挟まないのは何故か?首相や外相がそれを言えば日中問題に直結するだろうが、野党なら言えるはずだ。言うべきことは野党の立場から言う方が日本の国益にもなる。野党の党益にもなると思うのだが、なぜ黙っているのだろうか?

  • なぜトランプ大統領のパリ協定離脱をもっと口を極めて非難しないのだろうか?なぜ日本政府の姿勢を問わないのだろうか?

  • なぜ電力エネルギー問題と電気自動車普及促進との兼ね合いを追求しないのだろうか?CO2排出と地球温暖化、異常気象との因果関係は科学的には未確定の部分が大きい。しかし、CO2排出量を抑制することは世界の未来にとってはプラスになる。こう考える立場はいま政治的に合意されていることである。にもかかわらず、だ。なぜ日本国内で火力発電所を増設することに疑問を表明しないのだろうか?

  • なぜ新センター入試で導入予定である記述式問題についてもっと激しく詳細を追求しないのだろうか?焦点を当てれば色々な問題が表面化してくるはずである。大きな政治問題になる可能性がある。にもかかわらず、である。

  • なぜ消費税の軽減税率の分かり難さを問題にしないのだろうか?「もって三年、早くて二年」と小生は個人的に予想しているが、本当に野党は納得しているのだろうか?

2019年11月8日金曜日

実行可能な「大学入試改善」とはどんな方向になるのか?

英語民間試験の実施延期で騒動が起きている。政治責任を問う声も世間にはあるようだ。野党の一部には『現行の入試センター試験でよい』などと、大学入試のあり方を改善したいという問題意識そのものを否定する(無責任な?)声すらある、と伝えられている。

そして、英語民間試験の次は国語、数学の記述式試験である。50万人受験者の答案を1万人の採点担当者が評価する。しかも採点は民間委託する。それで公平性が保たれるのか。そんな疑問である。

(いつもながら)ヤレヤレ、である。ラグビーの「にわかファン」なら「にわか」であっても有難いだろうが、入試に関する「にわか評論家」には問題が多い。電気自動車の普及をどう考えるかを民主主義で決定しようとするのに相通じるところがある。地球温暖化への対応を民主主義で決めてどうなるのか?甚だ不安であるのが理屈である。

***

記述式問題に対する答案を1万人の採点者で採点するのは適切かという問いかけがある。

小生はずっと昔になるが1000人程度の数学受験者の答案を1週間程度で採点したことがある。数名から10名程度の出題委員が共同で採点するのである。ただ、その時は(どこの大学でもそうだと思うが)採点担当者全員が全受験者の答案を採点し、最後に採点者の平均点を出していたと記憶している。

個々の採点担当者が全受験者の答案を(一応)みているので「公平」といえば公平だが、それでも採点担当者の主観が入るので数名の平均点を評点とするわけだ。ついでに言うと、同じ採点者が全受験者を採点すれば「公平」だと世間では言うだろうが、そんな事は現実にはない。日によって採点者の心持ちは変わる。その日が寒いか、晴れているかで違うかもしれない。最初の方で採点したか、最後の方で採点したかによっても、採点姿勢というのは無意識に違いが出てしまうものである。まして1週間もかけて採点するのであればそうだ。理想通りに客観的かつ公平に採点したかどうかなどは検証のしようもなく、内容としても厳密に言えば無理な仕事なのである。それでも全受験生の答案を見ることは公平性には欠かせない要件である。

センター試験でそんな方式をとるのは不可能だ。だから1万人が50人を採点する。要するにそんな考え方だ。とすれば、採点担当者ごとの平均点には違いが出てくる。その違いが、その担当者が担当した受験者の学力差なのか、その担当者の採点方針が厳しいのか緩いのかという違いなのか、この二つは識別できないので、素点を使うにも得点調整をするにも問題は残ることになる。故に、記述式解答を多くの採点担当者が分担して評価するのは不適切である。ロジックはこうなる。1点の違いで合否が分かれるような大学入試にこんな雑駁な方式を採るべきではない。

同じ問題は英語民間試験にも当てはまる。異なった機関が実施する英語能力検定試験をどう共通の尺度に変換して得点化するのか?誰もが合意できるような得点調整方式などは絶対に出てはこないわけである。

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現行の入試センター試験の問題点を改善するための新入試制度には決定的な問題がある。しかし、現行の入試センター試験は主観に対立する意味での「客観評価」を目的に問題が作成されている。つまり穴埋め式のクイズになっているわけである。このことが日本の大学生の思考力を衰えさせているという指摘はずいぶん以前からある。また、中高併せて6年間も英語を勉強しているにもかかわらず、英語によって自己表現できる日本人がいかに少ないかという点はこれもずっと昔から指摘されている問題だ。

現在の入試センター試験制度のままでは駄目だという危機感には確かにリアリティがある。これを否定すると『それを言っちゃあ話しが出来ねえ』になるわけで、日本人の人的能力への危機感を共有してくれなければ困る。これが問題の本質である。

マア、事の本質は学校教育の再建にあり、入試を改善すれば学校教育が自動的に良くなるというものではない。とはいえ、底の浅い入試が底の浅い授業へと学校教育を退廃させる因果関係は確かにあると思われる。暗記でしのぐ、解法を覚えてしのぐ、難問は避けてしのぐ等々、「当場しのぎの教育法」が現在の受験勉強に蔓延しているとなると極めて問題であろう。故に、入試制度の改善を議論しているわけである。

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実際の入試に携わってみればすぐに分かることだが、複数の採点担当者の採点結果は常に同じパターンになる。

受験生は三つのグループに分けられる。先ず「全ての採点者が高く評価した受験者」が第一だ。次に、「全ての採点者が低い得点を与えた受験生」、これも明白にグループ化される。最後に採点者によって評価が分かれる受験生である。そして、ごく少数の優れた受験生を除けば、中間グループの受験生にはそれ程の得点差が結果として出て来ない。個々の採点担当者では中間層の受験生にもそれなりの差が出ているのだが、その差は他の採点担当者の結果とあわされることによって平均化されて、評点としてはごく狭い範囲に入ってしまうのである。そして、最下層には誰がみても評価の低い受験生が「底だまり」をする。どこの試験会場でも似たようなものだろう。

大体、1回限りの受験で分かることと言えば、『誰が誰よりも客観的に力がある』などという事ではない。そもそもそんな事が分かるはずがないだろうと小生は思う。分かるのは『この受験生は大学に入学するには力不足である』という受験生である。最底辺に入る受験生を識別するのは、少数の採点者が多数の受験生を担当しても、相当の客観性をもって可能な仕事である。

こうした点を考えれば、国が実施する共通入学試験は名称を変更して『大学入学資格試験』とするのが適切だろう。そして、その試験で6割未満の「不可」となれば、その資格試験制度に加入している日本国内の大学には入学できない。つまり、大学が独自に出題する二次試験は出願できない。

こんな制度であれば実施可能であろう。

これは「足切り」そのものではないかと批判する向きもあるだろう。しかし、入試に合格するというのはその大学への入学資格を認められるということだ。不合格とは「認められない」、つまり学内教育の中で競争する機会を奪う。要するに不合格判定とは「足切り」に他ならない。理想は志願者には入学を許可し、学内教育の中で成績評価を受ける機会を与えることにある。が、これは現実には物理的制約から困難である。日本国内の大学を志願するための学力要件を満たしているかどうかを検定する試験は「足切り」ではない。

もちろん、大学入学資格を識別するこの種の共通試験制度に参加しない私立大学が少なからず出てくることは予想できる。それはそれで問題はないと小生には思われる。

まあ、大学にも三ツ星、二つ星、一つ星、星なし、と。こんな時代がやって来たといえばそうなのだが、層別化、視える化が世界的潮流であるいま、こういう試みをするのは避けて通れないことだろう。

2019年11月7日木曜日

晩秋断想:2019年11月

君主制の国家には皇帝なり国王がいる。しかし、王様が社会の全てを知ることは出来ない。そこで賢臣や佞臣が政治を左右する。そして王様は「はだかの王様」になる。

民主制の国家なら主権は国民にある。しかし、「国民」という名の人物がいるわけではない。一人一人の住民が社会の全てを知ることは出来ない。そこでマスメディアが生まれ、良質なジャーナリストや悪質なジャーナリストが政治を左右する。そして「国民」は「はだかの国民」になる。民主主義は「はだかの民主主義」になる。

★ ★ ★

向上しようとする人間の心には瞋恚、倦怠、嫉妬などの煩悩が生まれる。煩悩の炎に焼かれるとき、その炎が実はいかに美しく昇華されるかを知るとき、人は癒される。モーツアルトの音楽の魅惑の本質はここにある。

★ ★ ★

幼いころ、嬉しいこと、悲しい事、全ての事には親がいる。親がいなければ誰か大人がいるものだ。嬉しかったことは自分が大人になってから子供たちにして上げればいい。悲しかったことは真似しない方がいい。

そうすると世の中はだんだん進歩すると思う。逆のことをすると、世の中はだんだん悪くなる。

ついでに言うと、小生が一番悲しかったことは、自分が叩かれたことではない。父と母が諍いをすることだった。小生がカミさんと諍いをすることを嫌うのはそのためだ。他方、子が嘘をついたときには体罰を課した。父も同じように小生を厳しく叱ってくれたからである。

本当に大切なことは言葉や説教で分かるのではない。分かるから分かる。経験によって分かるのである。

★ ★ ★

ルールがあればいちいち考えなくても結論を出せる。機械学習に頼ればデータを見なくとも結論が出せる。人工知能に頼れば考えなくとも結論が出せる。そして人類は次第に馬鹿になる。もう馬鹿になっているかもしれない。何でも法律にしたがるのはそのためである。

2019年11月4日月曜日

「炎上商法」の合理性と害悪

本日の標題には矛盾がある。少なくとも逆説的である。なぜなら「合理性」に「害悪」がありうるという表現に正当性を認めると、あらゆる科学的思考を信頼する根拠が揺らいでくるからだ。

とはいえ、「暴虐な政府」というのは例えばレーニンのボルシェビキやヒトラーのナチスを引き合いに出すまでもなく、科学的合理性を少なくとも表面的には打ち出す(打ち出したがる)ものである。そもそも現代世界の最大の脅威である核兵器を生み出したのは自然科学の理論的進歩にほかならない。「合理性」という言葉の印象が悪いとしてもそれは仕方がない面もある。

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自然科学ですら人間社会でその進化が社会的害悪をもたらすことがあるとすれば、経済政策や経営管理において合理性を貫徹することがそれ自体として善いのかどうか、甚だ疑問であるという人が出てきても何もおかしくはない。

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オリンピックのマラソン開催場所変更の話題は、それ自体としてはバカバカしくて小さな話題である。バカバカしい話題は無視するに限る。しかしこれがもたらす社会的リパークッションが現実にマイナス効果を与え始めるとなると、変更の提案をした人物が悪いのか、マイナス効果をもたらすような反応をしている人物が悪いのか、ハッキリとはしなくなる。

世間では「ミヤネヤ」という低俗なワイドショーがあり、そこでメインキャスターが東京都民の心理を忖度したのか札幌市や北海道に対してネガティブな「妄言」を繰り返していたというので騒動を引き起こしている。ネットでも論争が起こり始めている。ヤレヤレ……というところだ。というか、やっぱりネ、かもしれない。

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大体、IOCが今回このような変更案を突然に提出しなければ、何事もなかったわけである。しかし、IOCが今回提出した変更案には前稿のとおり科学的根拠があり、それ自体としては一考に値する価値があると小生はみた。

東京都が拒絶し、場合によっては五輪開催自体を返上すればよかったのだという人たちもいる。仮に五輪開催返上となれば五輪中止の責任が東京都に帰せられることは火を見るよりも明白である。IOCはマラソンと競歩の開催場所変更を提案しているに過ぎないわけだ。仮にマラソンの東京開催を貫き、もしも来夏のマラソンでドーハの混乱が再現されれば、IOCはその責任を東京都に求めるだろう。これも明白だ ― もちろん何もなければ幸いである。

あるいは札幌が東京都に忖度し『東京都から依頼がない限り受けられない』と返答したとする。この場合、東京都は札幌市に開催依頼はしないだろうから、その場合も東京都に責任が帰着する。

他方、札幌市が変更受け入れを当初から拒絶するとする。その場合、マラソンは東京で開催されるだろう。真夏に公認のマラソン大会を毎年開催している都市は他に思いつかない。札幌が断れば当初プランに戻ると予想される。仮に来夏の酷暑でドーハの再現があったとすれば東京都は受け入れを拒絶した札幌市にも責任はあったと発言するだろう ― 特に現在の都庁なら。IOCは混乱の責任を回避する。

つまり東京都あるいは札幌市がIOCの変更提案を拒絶すれば、IOCは来年夏の気温にかかわりなく自らの責任を回避できる。この時期になって無理な変更をしてでもIOCは猛暑に配慮した。これが基本である。

次に、札幌市には提案を拒絶する誘因がない。なぜなら拒絶をすればマラソン大会混乱の責任の一部を負担する可能性があり、逆に受け入れるとして、もし来年夏の札幌が結果的に暑くドーハ程ではないにしても棄権率が上がったとしても、それは札幌の責任にはならない。IOCの提案を受け入れたに過ぎないからだ。それだけではなく、さらに訪問観光客数の増加などプラスの効果も見込める。何よりIOCに恩を売れるという一面もある。故に、札幌市がIOCの変更提案を受け入れる意志をまず表明したのは合理的な判断だ。

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となると、東京都の意思決定が合理的であるなら、今回の開催場所変更は全体として合理的な意思決定であった、ということになる。

小生が東京都の職員であれば『札幌市が受け入れ可能であると判断するなら、東京都はIOCの決定に従う』と最初から言明した。政治家は別の事を言うかもしれないが、放っておけばいい。

オリンピックは東京都が実施主体なのだから ― マア、正確に言えば実施主体はIOCで東京都は開催都市ということなのだろうが、少なくとも東京都民は東京都が都民のカネで実施すると意識しているのではないだろうか。

しかし……

東京都は『合意なき決定である』という立場をとった。今回提案には反対する姿勢を最後まで貫いた。多分それはカネを出すのが嫌だったからだろう。しかし、メンツは立ち、カネは節約できたが、失ったものもある。

それは「近代オリンピック運動」に占めているIOCという組織のポジションに合意しない開催都市も現れうるという前例になったことである。オリンピック運動は一言で言えば「国際平和」、つまりは「反戦運動」として発足し、必然的に国家からの独立、政治家からの独立を大原則として世界中に広がった。今日ではビジネス五輪の色彩を強めているが、政治家から嘴を出されるよりは民間ビジネスから支援を受ける方がまだマシである。ビジネスは政治よりは遥かにマシである。オリンピックの理念に合致する。これがIOCのホンネ、高尚にいえば思想であることは、行動を観ていれば分かり切ったことである。

今回の東京五輪の開催場所変更は、結局のところ、日本の政治家である森、橋本(それから首相官邸?)が進めた根回しと都知事の座にいる政治家小池との政治的格闘に訴えることで、IOCの意思を通すことができた。繰り返すが、開催都市がIOCに従わず、国家の政治家による介入によって問題を解決した。これはIOCの立場から見れば不祥事であったという受け取り方につながっていくのではないかと小生はみているところだ。

その意味では、五輪開催都市・東京都の今回の意思決定は合理性をやや欠いている。しかし、これも世間のオーディエンスを意識した「炎上商法」とみなすなら、政治的合理性はやはりあるのだ。

しかし、五輪開催都市の首長がなぜ政治的合理性を追求するのだろう。それは都知事が五輪を招致した開催都市の責任者というよりも自分自身が一人の政治家だ(と思っている)からだ。つまり五輪の理念(≒IOC、としよう)への共感よりも自分を選出した有権者の思惑をより重視する立場の人物であるからだ、と考えるのがロジカルである。

開催都市の責任者である小池氏は本当に終始一貫、いささかも「政治的炎上戦略」を採らなかったと言えるのだろうか?それを報道するテレビ放送局は視聴率上昇を目的にした「炎上商法」を採らなかったと言えるのだろうか?うちのカミさんですら『森さんや橋本さん、なんで黙っていたの?あんなにIOCにペコペコしないといけないの?』と話しているくらいだ。世界のどこでも避戦派よりは主戦派のほうが人気が出る。たとえ泥をかぶって解決に努めようとする避戦派に内心では同調しているとしても口先ではその格好悪さを罵倒するものだ。

以上のように見てくると、IOC、日本国、東京都、北海道、札幌市、マスメディア各社それぞれ、個別的な意味では合理的な意思決定をしてきたように見える。リスク回避は常に合理的行動である。しかし、全てのプレーヤーが私的な意味で合理的に行動するとしても全体最適がもたらされない可能性はある。「囚人のジレンマ」はその好例である。

***

札幌はIOCの変更提案を受け入れてマラソンと競歩を開催することにした。もしも来年夏の札幌が酷暑となりドーハが再現されるとしてもIOCが招いた事態である。その意味では、IOCはリスクを負担して自身の意志を押し通したとも言える。何にせよオリンピックの開催都市を決め、準備状況をモニターし、開催の責任を引き受けているのはIOCなのである。この点に疑いをはさむ余地はないと小生は思う。大体、その年に五輪を開催する巡りあわせになった一国のたかが一つの都市が大規模な国際的イベントを平穏に開催するだけの責任を世界に対して負担できるのかと問えば、そんな世界規模の信頼がその都市にあるわけではないだろう。IOCが選び、IOCがモニターし、IOCの名で開催するが故に世界から信頼されている。これが現実ではないか。たとえカネはなくともIOCが唱える理念と意義を否定する国はそうそうはない。その意味ではIOCという非民主的な機関が有している一定の「権威」は認めざるを得ないだろう。数ある大都市の中の一つである東京都にIOCと同レベルの「国際的権威」があるとは言えないだろう。いや、いや、そんな「権威」などニューヨーク市もロンドン市もパリ市も持ち合わせてはおるまい。都市は結局のところ一つの場所であるにすぎない。故に、IOCはオリンピック開催の権限を握っている ― それは時代遅れだという人もいるが、また別の話題なので改めて。そのIOCがドーハの惨状と欧州メディアの集中砲火をみて慌てた……。今回のことはこれに尽きる。

IOCと国際陸連が揺らいだとき、東京都は先手を打って『日本は大丈夫だ』と。科学的データと併せて特集記事を海外メディアに寄稿するなど、適切に反応すればよかったのだ。少しのアクションとコミュニケーションでまったく違った状況に導けただろう。後悔先ニ立タズ。この格言を東京都は噛みしめているはずであるし、噛みしめていないとすればノー天気であると小生は思う。

***

確かにIOCはリスクを負担したが、しかし真夏のマラソン大会である北海道マラソンで猛暑のあまり棄権率が異常に高まって選手など関係者から非難されたことはない。この点ではIOCは今回の変更に自信があるのだろう。

今後日本に出来ることがあるとすれば良い終わり方を目指すということ以外にあるだろうか。とにもかくにも招致運動中の贈賄容疑でJOC委員長が辞任する事態が発生するほどにまで熱意をもってオリンピックを招致したのは外ならぬ東京都なのである。招致にあれほど熱意をこめたのであれば、その実施にも同じ熱意がこもっているはずだ。

しかしながら、当然に目指すべき全体最適が本当に確実に実現できるのかと問われれば、やはり『私的合理性と全体合理性とは必ずしも一致しない』という命題を再掲しておくしかない。特に今回の日本側の混乱を観た以上、そう思わざるを得ない。

2019年11月3日日曜日

技術革新とモーツアルト

少し前の投稿でモーツアルトのことを書いた。小生は自分で演奏することはしないが音楽を聴きながら仕事をするのは好きである。なんでも聴く。その中のクラシック音楽に馴染みが出来たのは母の影響である。

母は娘時代からクラシック音楽が好きだったそうだ。父との縁談があったとき、母はショパンの『前奏曲雨だれ』を話題にしたそうである。父は偶々『雨だれ』だけは知っていた。ショパンで唯一知っていた曲名がその『雨だれ』であったのだ。この話は面白おかしく何度も母から聞かされたものだ。そんな母は結婚する時にベートーベンの『皇帝』を持ってきていた。何枚かが1セットになっているSP盤でまだ小生宅に残っている。コルトーの名盤である。それからLP盤の『運命』とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲もあった。指揮はどちらもオーマンディ、ヴァイオリニストはフランチェスカッティだったと記憶している。この2枚のLPがまだ残っているかは宅のクローゼット奥のそのまた奥に積み重ねているのを1枚ずつ確かめてみないと分からない。いずれにしてももう傷だらけである。

残念ながら母が持ってきたレコードを再生する蓄音機はずっと家にはなかった。父はクラシック音楽には本来無関心であったのだ。家に小型のラジオ兼プレーヤーがやってきたのは小生が小学校何年生になった頃だったろうか。よく覚えていない。小生は母が買ってくれるドーナツ盤の童謡に飽きると、LP盤を何度もかけて段々とオーケストラの響きやクラシックの旋律に慣れていった。そんな小生の姿をみるのは母には結構嬉しかったようだ。『この曲、いいと思うの?』と意外そうに聞かれたことがある。それからヨハン・シュトラウスのワルツや自分が好きだったというメンデルスゾーンのV.C.を買ってきたりするようになった。

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そんなわけで小生が最初に親しんだクラシック音楽はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だった。それからずっと好きである。調査出張でフランクフルト経由でウズベキスタンのタシケントに行った時も飛行機の中でずっとその曲を何度もリピートして聴いていたものだ。が、母と一緒に暮らしていた時分、一番頻繁に聴いたのは回数を数えたわけではないがメンデルスゾーンの方だったかもしれない。

母は小生が小学校に入学した頃に、まだ田舎に住んでいた頃であったが、近所に訪問指導で来ていた先生につかせてヴァイオリンを習わせたのだが、子供心にはまったく面白くない。直ぐにさぼるようになった。それをみて母も諦めたようだ。小生に楽器演奏の才能はない。

そんな小生が高校生になってからモーツアルトに興味を持ったのは天才というのはどんな楽曲を創ったのか聴いてみたいという単純な好奇心があったからだと思う。それに当時人気のある音楽評論家に宇野功芳という人がいたのだが、その人物が音楽雑誌でえらくモーツアルトをほめている。その影響もある。それで、母に頼んではピアノソナタやピアノ協奏曲のLP盤を近くのレコード店に注文してもらうようになった。学校生活に適応できずろくに部活にも参加しなかった小生は買ってもらうLPに耳を傾けるのが何よりのリフレッシュの手段になった。しかしLP盤は安い買い物ではない。その当時、1枚で大体2500円ないし3000円はしただろうか。アルバイトもしない小生のオネダリを母はよく何度も聞き入れてくれたと思う。あれで家計を圧迫することはなかったのだろうか、と。今さらながら自分の身勝手が情けなくなってしまう。

LPレコードの事情がそんな風であったので、モーツアルトと言ってもそれほど多くのLP盤を聴いたわけではない。自ずから経済的制約があった。好きだったピアノ協奏曲でも実際に手に入れて聴いたのは20番、21番、それから23番と27番。その位である。

YouTubeもAmazon Prime Musicもなかった。LPレコードを自分で買うことが出来ないなら、友人に借りるか、たまにある演奏会で聴くか、そうでなければ聴かずに諦めるか、選択肢はこれだけである。モーツアルトは日本に洋楽が紹介されてからあまり評価されては来なかったようである。日本では大正から昭和、戦前から戦後にかけてずっとバッハ、ベートーベン、ブラームスの”三大B”が本流であり続けた流れがあるのではないか。モーツアルトには「思想」がないと、思想好きの日本の知識人には考えられていたのかもしれない。母もモーツアルトはあまり聴いたことはなかったらしい。それでもモーツアルトの楽曲にはベートーベンやブラームスとは全く違った美しさがあると話していたから気に入ったのだろう。いつの間にか、小生の弟もモーツアルト好きになっていたのは、ずっと後になって知ったことである。

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今では高額のLP盤を多数購入する必要はない。

年に1回だけAmazon.comにPrime会費4900円を支払っておけば、すべてのプライムサービスを受けることが出来る。その中にプライムミュージックやプライムビデオがある ― 現在はMusic Unlimitedに進化しているが、小生はWalkman ZX2で動作する旧版のAmazon MusicがMusic Unlimitedには対応していないようなのでPrime Musicの利用を続けている。このプライムミュージックで小生はモーツアルトのピアノ協奏曲の全曲、ピアノソナタ全曲、交響曲全曲、ヴァイオリン協奏曲全曲、ヴァイオリンソナタ全曲、弦楽四重奏全曲、ディベルティメントとセレナード全曲をフリーでWalkmanにダウンロードした。奏者はバレンボイムやブレンデル、パールマン等々、誰もが知っている名盤である。ベートーベンのピアノソナタ全曲、ピアノ協奏曲全曲も一昨日無料で入手した。ブレンデルである。演奏するには楽器がいるが愛聴するだけならプライム会費を払うだけでよい。これも一つの文明進化、技術革新の現れであることは間違いない。

いまはモーツアルトのピアノ協奏曲全曲を聴き終わったところだ。それで分かったのは、多くの人がいう『モーツアルトのピアノ協奏曲を聴くなら先ずは20番以降である』という通説、お薦めがまったく正しくはないことだ。間違いだというつもりはないが、助言としては不適切だ。19番は26番『戴冠式』と同じ日に演奏された『第2戴冠式』である。その19番よりも小生は18番が好きである。というより17番は傑作である。14番はいま小生が愛してやまない曲の一つに加わった。15番も佳品だ。とりわけモーツアルトが21歳の年に創った9番『ジュノーム』は最高傑作の高さに達しており、と同時にミステリアスである。初期の習作を除いた実質上の第1作である5番が既に陰影のある魅力をもっている。

モーツアルトの楽曲の魅力は意表をつくような突然の転調と奇想天外の展開にある。哀傷の心をたった1音で表現するところがある。よく評論家はモーツアルトは天国的な晴朗さを感じさせるというが、小生にとってモーツアルトの音楽は極めて人間的で、煩悩にあふれている。煩悩に苦しむ人間の生の現実をそのまま音で表現している。だから理想は感じないし、思想も感じない。しかし、弱い人間の煩悩を感じさせるその人間臭さがモーツアルトの手によって表現されると実に美しいのである。そんな音楽は30分も聴けば休みたくなる。1時間も連続してモーツアルトを聴き続けると心が疲労する。

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ごく最近になって知ったピアノ協奏曲は世評では決して有名ではない。なのでずっと昔に聴くことはなかった。モーツアルトのヴァイオリンソナタも聴くことはなかった。しかし今は聴いている。ヴァイオリンソナタの35番が非常に感動的であることも最近になって知ったことだ。どれも母は知らなかった音楽である。以前なら人々は我慢をして諦めなければならなかった楽しみである。

科学の進歩、技術の進歩によって、出来ることが増えた。生活水準が上がった。

確かに社会は豊かになっている。これだけは間違いがない。たとえ実質GDPにこういう事実が数字として反映されていなくとも、だ。