2019年11月8日金曜日

実行可能な「大学入試改善」とはどんな方向になるのか?

英語民間試験の実施延期で騒動が起きている。政治責任を問う声も世間にはあるようだ。野党の一部には『現行の入試センター試験でよい』などと、大学入試のあり方を改善したいという問題意識そのものを否定する(無責任な?)声すらある、と伝えられている。

そして、英語民間試験の次は国語、数学の記述式試験である。50万人受験者の答案を1万人の採点担当者が評価する。しかも採点は民間委託する。それで公平性が保たれるのか。そんな疑問である。

(いつもながら)ヤレヤレ、である。ラグビーの「にわかファン」なら「にわか」であっても有難いだろうが、入試に関する「にわか評論家」には問題が多い。電気自動車の普及をどう考えるかを民主主義で決定しようとするのに相通じるところがある。地球温暖化への対応を民主主義で決めてどうなるのか?甚だ不安であるのが理屈である。

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記述式問題に対する答案を1万人の採点者で採点するのは適切かという問いかけがある。

小生はずっと昔になるが1000人程度の数学受験者の答案を1週間程度で採点したことがある。数名から10名程度の出題委員が共同で採点するのである。ただ、その時は(どこの大学でもそうだと思うが)採点担当者全員が全受験者の答案を採点し、最後に採点者の平均点を出していたと記憶している。

個々の採点担当者が全受験者の答案を(一応)みているので「公平」といえば公平だが、それでも採点担当者の主観が入るので数名の平均点を評点とするわけだ。ついでに言うと、同じ採点者が全受験者を採点すれば「公平」だと世間では言うだろうが、そんな事は現実にはない。日によって採点者の心持ちは変わる。その日が寒いか、晴れているかで違うかもしれない。最初の方で採点したか、最後の方で採点したかによっても、採点姿勢というのは無意識に違いが出てしまうものである。まして1週間もかけて採点するのであればそうだ。理想通りに客観的かつ公平に採点したかどうかなどは検証のしようもなく、内容としても厳密に言えば無理な仕事なのである。それでも全受験生の答案を見ることは公平性には欠かせない要件である。

センター試験でそんな方式をとるのは不可能だ。だから1万人が50人を採点する。要するにそんな考え方だ。とすれば、採点担当者ごとの平均点には違いが出てくる。その違いが、その担当者が担当した受験者の学力差なのか、その担当者の採点方針が厳しいのか緩いのかという違いなのか、この二つは識別できないので、素点を使うにも得点調整をするにも問題は残ることになる。故に、記述式解答を多くの採点担当者が分担して評価するのは不適切である。ロジックはこうなる。1点の違いで合否が分かれるような大学入試にこんな雑駁な方式を採るべきではない。

同じ問題は英語民間試験にも当てはまる。異なった機関が実施する英語能力検定試験をどう共通の尺度に変換して得点化するのか?誰もが合意できるような得点調整方式などは絶対に出てはこないわけである。

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現行の入試センター試験の問題点を改善するための新入試制度には決定的な問題がある。しかし、現行の入試センター試験は主観に対立する意味での「客観評価」を目的に問題が作成されている。つまり穴埋め式のクイズになっているわけである。このことが日本の大学生の思考力を衰えさせているという指摘はずいぶん以前からある。また、中高併せて6年間も英語を勉強しているにもかかわらず、英語によって自己表現できる日本人がいかに少ないかという点はこれもずっと昔から指摘されている問題だ。

現在の入試センター試験制度のままでは駄目だという危機感には確かにリアリティがある。これを否定すると『それを言っちゃあ話しが出来ねえ』になるわけで、日本人の人的能力への危機感を共有してくれなければ困る。これが問題の本質である。

マア、事の本質は学校教育の再建にあり、入試を改善すれば学校教育が自動的に良くなるというものではない。とはいえ、底の浅い入試が底の浅い授業へと学校教育を退廃させる因果関係は確かにあると思われる。暗記でしのぐ、解法を覚えてしのぐ、難問は避けてしのぐ等々、「当場しのぎの教育法」が現在の受験勉強に蔓延しているとなると極めて問題であろう。故に、入試制度の改善を議論しているわけである。

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実際の入試に携わってみればすぐに分かることだが、複数の採点担当者の採点結果は常に同じパターンになる。

受験生は三つのグループに分けられる。先ず「全ての採点者が高く評価した受験者」が第一だ。次に、「全ての採点者が低い得点を与えた受験生」、これも明白にグループ化される。最後に採点者によって評価が分かれる受験生である。そして、ごく少数の優れた受験生を除けば、中間グループの受験生にはそれ程の得点差が結果として出て来ない。個々の採点担当者では中間層の受験生にもそれなりの差が出ているのだが、その差は他の採点担当者の結果とあわされることによって平均化されて、評点としてはごく狭い範囲に入ってしまうのである。そして、最下層には誰がみても評価の低い受験生が「底だまり」をする。どこの試験会場でも似たようなものだろう。

大体、1回限りの受験で分かることと言えば、『誰が誰よりも客観的に力がある』などという事ではない。そもそもそんな事が分かるはずがないだろうと小生は思う。分かるのは『この受験生は大学に入学するには力不足である』という受験生である。最底辺に入る受験生を識別するのは、少数の採点者が多数の受験生を担当しても、相当の客観性をもって可能な仕事である。

こうした点を考えれば、国が実施する共通入学試験は名称を変更して『大学入学資格試験』とするのが適切だろう。そして、その試験で6割未満の「不可」となれば、その資格試験制度に加入している日本国内の大学には入学できない。つまり、大学が独自に出題する二次試験は出願できない。

こんな制度であれば実施可能であろう。

これは「足切り」そのものではないかと批判する向きもあるだろう。しかし、入試に合格するというのはその大学への入学資格を認められるということだ。不合格とは「認められない」、つまり学内教育の中で競争する機会を奪う。要するに不合格判定とは「足切り」に他ならない。理想は志願者には入学を許可し、学内教育の中で成績評価を受ける機会を与えることにある。が、これは現実には物理的制約から困難である。日本国内の大学を志願するための学力要件を満たしているかどうかを検定する試験は「足切り」ではない。

もちろん、大学入学資格を識別するこの種の共通試験制度に参加しない私立大学が少なからず出てくることは予想できる。それはそれで問題はないと小生には思われる。

まあ、大学にも三ツ星、二つ星、一つ星、星なし、と。こんな時代がやって来たといえばそうなのだが、層別化、視える化が世界的潮流であるいま、こういう試みをするのは避けて通れないことだろう。

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