2025年7月10日木曜日

断想: カントの道徳哲学から離れたのは

カントの『道徳形而上学原論』は学部時代に履修した「倫理学」の授業のテキストだった。担当教官の名前は忘却した。しかし、当時の小生にとって上のテキストは難物中の難物であり、倫理学なる学問分野はこれほどまでに訳の分からないものなのかと、呆れかえったものだ。試験は、テキストに関する記述式の問題だと記憶しているが、小生はまったく関係のない本について自問自答式のエッセーのような駄文を以て答案とした。実に不真面目な学生であった。にも拘わらず、成績は<C(=可)>で単位を認定してもらったことは今なお感謝している。

しかし、分からないまでも目を通した本というのは、後になってから再読したくなるもので、これは不思議な心理だが、事実だから仕方がない。このテキストの冒頭にある

„Es ist überall nichts in der Welt zu denken möglich, was ohne Einschränkung für gut gehalten werden könnte, als allein ein guter Wille.“

この世の中で、無制限に善いものと見なすことができるものは、ただ善意志のみである。

この書き出しに感動を覚えたのは、かなりの年数がたってから、再読したときである。

なので、道徳的価値については、経済学を専門にした立場からは結果重視の功利主義を是としつつも、カント的な善悪観に深い共感をもって過ごして来たわけで、こんな風だから例えば西田幾多郎の『善の研究』についても「そりゃ、そうだ」といった反応をしたのだと思う。

しかし、最近になってから、カント的な「善意志主義」には深い疑問を感じるようになった。というのは、上のテキストやカントの『実践理性批判』もそうだと理解しているが、いわゆる《煩悩》によって人間理性は常に曇っている点に、考察の光が(ほとんど?)当てられていないからである。というか、カント哲学やドイツ観念論哲学において、人間の《煩悩》を真剣に、深く考察している跡はない。

人間の善意志には常に自己中心的な汚れ(=染汚ぜんま)が煩悩として付着するものだ

考える自己(=自我)と考えられる対象(=外界)とが対立しているという対立構造こそが、人間の心に煩悩が生じる根本的な原因である。この事をエクスプリシットに問題にしている点ではカントの倫理学よりはインド・世親が完成した唯識論が精密である。

ギリシアのプラトンには悪によって人間は最終的な幸福を得ることはできないという思想があった。輪廻と再生を通して行為の倫理的価値が現実化すると考えられていたわけで、この点では、唯識論が想定する阿頼耶識が異熟するのとほぼ同一で、ある意味で理路一貫していたわけである。

カントは最初の『純粋理性批判』において、純粋理性の到達範囲を限定的に規定してしまった。そこで実践理性なるものが出てきたのだと思うが、《人間悪》を《善意志》と同時に議論しなければならなかったと今になって思っている。

浄土系仏教の根本経典である『無量寿経』の下巻では、人間の悪についてこれでもかという程に文章化されている。こういう側面がカント、というか近代西洋哲学を啓いたデカルトと言うべきかもしれないが、乏しい。

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