昨日の彼岸は母の祥月命日でもあるので、いつもの経に加えて、小生の好きな無量寿経「往覲偈」を「四誓偈」の後に追加し、別回向文で戒名を読んだ。そのため起床時間はいつもより早くセットした。その後、午前11時には寺で彼岸会があるので歩いて往復した。疲れたのか、目覚ましを寝る前にかけ直すのを失念し、今朝は予定より30分ほど遅く、カミさんの目覚ましで起きた。
昨日は、拙宅と寺で二度も読経をしたので、今日の読経はもういいかとも思った。が、これを機会に日常勤行式ではなく、専修念仏でやってみようかと思いついた。但し、三万遍とか六万遍などという本式の念仏ではない。毎朝の時間に入れるなら僅かに三百遍でしかない。鴨長明が『方丈記』の最後で書いた「不請の念仏」はこんなのかナア・・・と思いつつも、それでもやってみると、妙に心が定まったので不思議な感じがした。
法然上人の『一枚起請文』は
唐土我朝にもろもろの智者たちのさたし申さるゝ観念のねんにもあらず。又、学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。唯往生極楽の為には、なむあみだ佛と申してうたがひなく往生するぞと思ひ取りて申す外には別の仔細候はず。こんな書き出しで始まっているが、しばらくの間、小生は「智者の観念」や「学問による理解」を踏まえて行う念仏にはなぜ意義が小さいのか、これが不思議だった。学問的基礎は要るだろう、と。そう思われたのだ。それをスキップして、「これをやればイイ」とするのは、物事を単純化する日本文化の特色、というか悪癖がこんな所にも表れているかとも思ったものだ。
しかし、こう思ったのは全くの間違いだった。
最初に思い至ったのは、観念にせよ、学問にせよ、どちらも「私はこう思う」であり、そこには「自己」という存在が前提されている。「自分はこう理解する」というその理解には、必然的に《自我》が根底にあり、従って《我執》、《我愛》が混じっている。しかし、仏道ではすべて「我」という実在は「空」であって虚妄であると考える。だから、そんな「自己の理解」には意味がないのだ、と。
しばらくの間は、こう考えてきたが、今でも全くの間違いではないと思う。とはいえ、もって回った理屈である。これよりは実に単純明快な根拠があることを知った。
それは、極楽浄土を(智のみが捕捉可能な叡智界において)建設した阿弥陀如来は、その「本願」(=誓い)に「念仏」のみを云っており、学問をせよとか、最高の智慧を備えよとか、善い事をしたかどうかとか、男性か女性かとか、民族的な出自とか、往生極楽がかなうかどうかの一点において、一切の条件をつけていない。ただ仏名を称える行為のみを求めている。そう明確に『無量寿経』には(釈迦が弟子に伝える「教え」として)記されている。『浄土三部経』を読めばこの辺は明らかである。
往生極楽を願うなら、人が勉強して色々と考えるよりは、阿弥陀如来の本願に従うことが必須であるのは、当然の理屈である。故に、大事であるのは《学理》ではなく、阿弥陀如来の本願をあくまで信じようとする《信》である。その本願は、サンスクリット語でいう<アミターユス>、つまり漢訳の「阿弥陀」の名を念じることだけだ、と。古代インドで「ナーマス・アミターユス」と発声されていた仏名が漢訳では「南無阿弥陀仏」になった。これが日本に輸入されて今に至るわけだ。この事実そのものが阿弥陀の本願が成就された証拠であるというのが、浄土系仏教の骨子である。
こう考えると、『一枚起請文』の最後が
念仏を信ぜん人はたとひ一代の法を能々学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同うして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。と、こう結ばれているのは、書き出しの内容を改めて反復しているわけで、
余計なことで議論せず、阿弥陀仏の「本願」を信じよ。阿弥陀は念仏だけを求めており、他のことは求めていない。こういうことだろうと勝手に理解している。念仏を観想から称名に具体化したのは唐僧・善導である。法然上人は「偏依善導」の人である。だから法然上人の専修念仏は称名念仏である。故に他の行為は求めず、ただ一つ称名念仏だけが重要であるとした。
現代世界では、何事によらず「真理」(とされているもの)に対して懐疑を表明し、単純明快な真理を覆すことが知的であると喝采する現象がよくみられる。いわゆる「キャンセル・カルチャー」は同じ流れに属するかもしれない。
他方、唯識論で論じる心の作用(=心所)の中には《善》と《煩悩》が含まれている。煩悩が悪であるのは当然なのだが、各種の煩悩がある中に《不信》がある。つまり物事の道理に疑いを抱き、真理を認めない姿勢を指すのだが、実はこんな「不信」の心性は、結果として懈怠の原因になると論じられている。つまり《怠慢》、《さぼり》につながるその原因は真理や道理を疑う「不信」でありがちだ、と。
逆に言うと、一生懸命さやひたむきに努力する生き方は誰がみても美しいものである。この裏側には《信》という心の働きがある。一度信じたことは真理として疑わず自らの柱とする。これが大事だ、と。こうも言われている。
確かに《懐疑》は精神として大切だ。しかし、尊重し、敬意を表するべき真理を、理解できず、疑いをもち、道理に反した言動をとるのは、一口にいえば(大概の場合)「怠け者」である・・・「ひねくれ者」とも言われるだろう。この認識は、現代世界にも結構当てはまるような気がする。実際、そんな人の数例を知らないわけではない ― ただ、小生自身がまた、相当のヒネクレ者であったから、同僚はすべてバランスのとれた優秀な人だと感じていた。そんな小生が本日のような投稿をするのは「何とした事か」と言われる喜劇なのである。
懐疑主義の元祖・デカルトも、全てを疑った後にたった一つだけ疑い得ない存在を見出して、絶対的真理の実在に気づいた。精神的柱が確立される好例である。
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