2025年11月10日月曜日

断想: ファイル整理をしていると「瓦全」という言葉が見つかって・・・

前稿で書いたPC更新で古いOneNoteファイルを整理していると、偶々、安井息軒の≪瓦全がぜん≫を解説したページを見かけた。

そういえば、現代日本ではこの≪瓦全≫という言葉、学習指導要領ベースの授業内容としても、普通に期待される教養としても、完全に死語になってしまったネエ・・・そんな風に思いつつ「そういえば、この瓦全という言葉、出典は何だったかいナ?」と疑問に思った次第。

それで検索してみると、≪玉砕瓦全≫という四文字熟語の半分であることが分かった。更に調べると、西郷隆盛が作った漢詩に

幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全
我家遺事人知否
不爲兒孫買美田
があることが分かった。読み下すと

幾たびか辛酸を歴て 志始めて堅し
丈夫は玉砕するも 甎全を愧ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず
になる。

第四句の『美田を買わず』は有名だが、作品全体はこれまで知らなんだ。そうか、この中に「玉砕、瓦全」という句があったのか・・・そう思った次第。しかし、安井息軒と西郷隆盛、互いに同じ漢句を使うというのも変だ。そう思って更に調べてみた。すると

「瓦全」の出典は、中国の正史『北斉書・元景安伝』です。この書の中の「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」(立派な男子というものは、玉のまま砕けるべきであって、瓦のまま生きながらえるものではない)という言葉に由来します。
こんな解説がすぐに出てきた。ここがネット普及の素晴らしいところで、以前の世界とは最も大きく違う、というか進んだところだ。

なるほど、元々の「瓦全」は「玉砕」に対立する言葉であったのか。「大丈夫」たるもの「玉砕」を志すべきであって、「瓦全」を願うなどは恥である、と。ふ~~む、なるほど100年少し遡れば、日本社会にも男子の本懐、男子の覚悟というものがあったンだなあ、と。こんな風にも思いました。

しかし、安井息軒は玉砕ではなく、瓦全の人生を全うした、と。そんな風に自己認識をしていたようである。とすれば、これは自虐の思いを込めて「瓦全」と言っていたのか?

宮崎の安井息軒記念館のホームページにはこんな説明文がある:

明治5年(1872)元旦、息軒は書き初めで「瓦全」と書きました。あまり聞き慣れない言葉ですが、さてその意味はいったい何でしょうか?

「瓦全」とは「玉砕」の対義語です。「何もせず、無駄に保身し、生き長らえること。 失敗を恐れ、あえて挑戦せず平凡な結果に満足すること」という意味です。息軒はいったいどういった心境で、この二文字を選んだのでしょうか?

しかし、説明はここで終わっている。文字通り
The question remains open
である。
 

ただ思うのだが、現代日本社会では「玉砕」は否定され、誰しも「瓦全」の人生が良しとされているのではないだろうか?

こう書くと、女性蔑視であると批判されるかもしれないが、特に母親なら我が息子には長生きしてほしい。いくら有意義な仕事があるからといって死んでほしくない。生きてほしい。人間、死ねばそれきりだ。親に先立って死ぬなどあってはならない、と。母親ならそう願うのではないかなあ、と。カミさんに確認したことはないが、上の愚息に毎晩電話している姿をみると、そう思わざるを得ない。ちなみに、小生は男性であるせいか、自分の命は有意義に使いたいと思っている。息子には「玉砕」は寂しいが、「瓦全」を真っ先に志すような、そんな情けない(?)人生観は持ってほしくない。少なくとも、そんな感情に共感する気持ちがある。『山高きを以て貴っとからず。人生長きを以て貴からず』と、確かに共感する自分がいる。女性はどうなンだろう?… … …、残念ながらわかりません。

上の安井息軒にしても、西郷隆盛にしても、元々の人物・元景安にしても、すべて男性である   ―   元景安はむしろ瓦全の方であったが。善悪の基準である倫理・道徳・モラルは、まず例外なく男性が唱え、男性が書き著してきた古典に基づいていると言ってよい。男性同士が異論をぶつけあって、時には形而上学的な激論を交わしながら、モラルは形成されてきた。そこには男性の感情、男性の感覚が色濃く反映されている(と理解するべきだろう)。だから、いまは善しとされている「男女共同参画社会」においては、特に女性の感覚からみれば、

こんなモラルはおかしい。押し付けないで。
いま流行のキャンセル・カルチャーの根底にはこんな潜在的なドロドロとした社会心理があって、男性と女性を隔てる潜在意識上の溝を構成しつつあるのではないか?ほんと、どうなんでしょうネエ?、と。こんな疑問がないわけではない。

しかし、ラディカルなキャンセリズムにも道理があると肯定してしまうと、結局訪れるのは、"anti-moralism"、"anti-religion"となって、何もかもいま生きている人間が決めていってイイんだ、と。生きている間だけに意味があるンだ、と。何だか、こんな風に唯物論的に社会は進んでいくのじゃあないかと≪懸念≫しているわけであります。完璧な唯物論的世界観に立てば、一切の「価値」なるものは、空なる観念、実質的意味を有さない言葉遊びになる理屈である。どんな世の中になるか、目に見えるようではゴザラヌか。「地獄」は空想であると断ずるタイプの人間が現実の地獄をこの世でしばしば経験するのである。

いや、いや、安井息軒の瓦全から、今日は大げさな話になってしまった。これも覚書きということで。

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