小生が若かった時分にはそれほど耳にしなかった言い方で、最近になって呆れるほど頻繁に耳に入る言葉に《国民》や《民意》がある。
メディア業界に従事する人のボキャブラリーが貧困化していて、何から何まで「民意」、「国民」と言って済ませてしまう傾向があるのかもしれない。あるいは、真の意味で日本社会が非民主化していて、「言論・表現の自由」や「人権の尊重」が色々な理由で損なわれている、そんなリアリティがTV、新聞、SNSの場に反映して、いま「国民」とか「民意」という観念が大事になっているのかもしれない。
要するに、おしゃべりの短期的流行か、流行ではなく実体的原因のあることなのか、いま一つ識別できないでいる。
*
ただ思うのだが、
国民の意志や民意という意志はそもそも実在しない。民主的社会に「合理的意志」というものは存在しえない。これは既に証明済みの定理である。
これが小生の社会観である。
大体、考えても見なセエ・・・
数名の家族に限定しても
家族の意志というのはありますか?
ないでしょう、そんな「意志」は。お父さんの意志、お母さんの意志、子供の意志、それぞれ別々にある。いや、「子供の意志」と言うのは不可だ。お姉ちゃんの意志、男の子の意志、それぞれが違った意志である。
そもそも
あの家は・・・、男は・・・、女は・・・
という言い方は、ハラスメントに該当する。
ここで集団意思の決定方式に議論を落とし込んで
そんなときは、多数決によるべきですネ
この経路が標準的な手筋なのだと思う。
エッ、多数決!?
経済学者や社会学者は集団意思を決定する方式に何かといえば「多数決」を口にするが、家族ですら多数決で物事を決めてはいけない。そんな当たり前のことは熟知している人が多いはずだが、なぜだか言論や論説になると、当たり前の認識がスッポリと抜け落ちてしまう。
家族ですらそうだ。町全体ならどうか?小生が暮らしている北海道の海辺の小都市ですら「市民の意志」なる意志はありません。まして「北海道民の意志」なる意志があると本気で考えている人は
この人が言っていることが北海道民の意志なンです
と、その存在を指し示すことが出来るのか。現実にはありそうもない情景だろう ― まさか道知事という一人の人物を指す人はおりますまい。もしそんな人がいれば、余りの精神的幼さに絶句するくらいだ。
「日本国民の意志」なる意志が実在しないことは、本当は誰もが知っている事実だ。それでも報道業界に従事する人々は「国民」とか「民意」という言葉を使用している。ないものをあるかのように説明するのは、端的にいって「欺瞞」である。
何が言いたいかといえば
経済学者が「市場に任せるべきです」という時の「市場」と、社会学者や政治学者が「国民の意志によるべきです」というときの「国民」は、学問では不可欠の術語だが、実際には実在しない抽象概念だということだ。
これが本日投稿の主旨である。
報道やニュースの現場では抽象概念は口にしない方がよい
これが最近の感想です。(現実世界には存在しない)抽象概念という点では、「国民」や「民意」と口にする時の認識状態は、浄土系仏教の念仏やキリスト教系の懺悔をするときの思い、つまり《宗教感情》と全く異なる所がない。
社会や人間集団においては、集団の《意志》ではなく、問題解決の筋道、筋道が正しいということのロジック。その普遍性。ギリシア風にいえば《ロゴス》の普遍性に信頼を置くことによって、問題は現実に解決されうるのである。
問題解決への筋道が「国民の意志」に適っているかは実は重要ではない。そんな意志はそもそも存在しない。敢えて言えば、《快・不快》の社会的心理状態くらいは確かにある。ではあるが、というより猶更のこと、普遍的なロジックに従って導かれた結論なのか、重要なのはこの一点だけである。
小生は、世間で共有(?)される心理的な快・不快の感情こそ最も重視するべき政治的要素だ、と。こんな風に指導者層が考え始める時が、民主主義が劣化し、堕落する時である。こう思っております。
・・・なので、「こりゃあ、あかんわ」と感じながら、将来の生活環境を予想しているところだ。
本日投稿で残った論点は、
(唯一か、最適かはさておき)「正しい」、というより最悪ではないベターな解決方法が、現実に選択可能な唯一の決定方法である「多数決」によって選ばれる論理的根拠はあるか?
こんな現実的な疑問だが、これは相当に難しい理論的問題だ(と思う)。宿題にして、おいおい調べることにしよう。既投稿の中では以前のこれと関係があるかもしれない。
以上、覚え書きまで。
【加筆修正:2025-10-15、2025-10-17】
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