2022年3月17日木曜日

断想: 能力分布の経験則と1流、2流、3流の人物について

100人、200人の、時には500人程度のレポートを毎年定期的に読んでは評価する仕事を続ければ、どんな論題について考察する文章であっても、その出来栄えには一定の分布法則があることには、誰でもやがて気が付くものである。

『この問題が解けた人は学年に2人しかいませんでした』などと言う風なことを、数学担当の教師が口にするのを聞いたことがない人は、ほぼいないのではないだろうか?

数学と言うのは正答、誤答が明瞭に識別されるので誰でもイメージしやすいが、もっと一般の色々な問題についても考察能力の分布というのは同じではないかと思っている。

つまりどんな主題に関するレポートでも

10人のうち3流が6人、2流は3人、1流は1人のみ。

大体こんな経験則になっていると小生はずっと思ってきた。

面白いことに、この分布法則はどれほど細かく専門的分野に分け入っても、どれほどレベルの高いとされる機関の中に視野を限定しても、やはりその中で能力分布があることを観察できる。超トップクラスであるオリンピックにおいても選手の運動能力には大きな違いが視られるのを目の当たりにするが、これも一つの例である。

つまり、視野をどう定めるとしても、その範囲の中で1流の人は極めて少数である。問題によっては、その本質をとらえて正しく推論できる人は、100人に1人という出現率にしかならない。そしてまた、2流グループより、3流グループの方がずっと厚みがある。人数的に多いのだ、な。全体の能力分布は、中位に山がある左右対称型ではなく、平均未満の低位に山があり、ピークから高位の方へ長く右側に裾を引く歪みの大きい分布型をしているのが能力分布の特徴だ。こんな風に思っている。

但し、こんな分布が当てはまらないケースもある。例えば、一定の範囲から出題されることが決まっている入試問題に向かって、誰もが長期間の反復練習を続ける場合には、試験得点の分布はホボホボ左右対称の正規分布、もっと厳密に言えば、ある自由度のT分布に落ち着くことが確認されている。が、現実の社会に登場する様々の問題は、その都度、新しく、長期間の準備期間をかけて事前に解答を準備できるわけでもない。入試問題の得点分布は、一定の環境下でみられる特殊例と言えるだろう。

3流の考察と一口に言っても、その内容を細かく見ると千差万別で、人によって異なったことを書いたり言ったりする。2流、1流であってもそうである。

ただ、(数学の場合)正答は唯一であるから、最終解だけをみれば1流の人物は全て同じことを言う。違うのは正答に至る方法、プロセスにおいてである。3流の人物たちは考えるプロセス、到達する解答双方において、一致しない、「ヒトは色々」の状態にある。ただ本筋を洞察できないが故に間違った、あるいは混乱した筋道に沿って考えている点では共通している。

こんな事を書くのは余りにもシニカルだが、ブログとは<WebLog≒航海日誌>だからメモしておくと、

「表現の自由」は「間違える自由」もその中に含んでいる。

マア、「間違っている」というと言い過ぎかもしれない。「間違い」ではないが、「未完成で不十分」、「評価は良ないし可」というニュアンスなのだが、どんなテーマであれ、1流の考察を行える人は全体の中では少数である。この感覚は、実際に採点や審査を一定期間担当した人であれば、わりあいピンと来るのではないかナアと小生は勝手に思っている。つまり、真に耳を傾けるべき見事な考察は少数意見の中にこそ含まれているはずなのだ。

ま、アカラサマにまとめてしまえば、どんなテーマについて考える際にも、こんな客観的状況が成立している。常にこの事だけは言える、というのが小生の社会観、というか経験則である。

そして、この事は現在進行中のウクライナ動乱についても当てはまっているのだと思う ― もちろん、コロナ禍の中の「感染対策理論?」でも上のような能力分布が当てはまっていたに違いない。

いまウクライナ動乱についてメディアで様々なコメントを加えている人たちの見解の半分以上は、多分、間違っている、というより(多分)「3流」のレベルなのだと思う。明瞭な「間違い」とは言えないまでも、他人の意見の受け売り、自転車操業的なニワカ勉強の成果等々、内容においては3流の出来栄えなのだと、客観的にはそうなっているに違いないのだ、な。

1流の人を見出すことが最も大切である理由はここにある。

しかし、芸術作品であっても、目の前の作品が真の1流の作品であるか分かる人は、これまた少ないものである。それは多くの人は審美感に不足するためである。料理についてもそうだ。1流のシェフが調理しても、それを賞味して、素晴らしい料理であることを認識する人は意外と少ないものだ。味覚能力が不十分であるからだ。

優れた考察を含んでいるレポートに採点中に出会うのは、四葉のクローバーを探すのと似たところがある。クローバーは葉の数を数えれば分かる。しかし、日常の様々な問題に取り組むとき、いずれが1流であるか、どれが3流であるか、見解の良否を識別できる人は少ない。おそらく半分以上を占める3流の見解がまるで正解であるように人は考えてしまうだろう。

こんな風に考えてくると、ウクライナ紛争の進展について甚だ悲観的になる。というのは、前稿でも述べたように、今回の紛争の本質は

要するに

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

  この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

これに尽きていると「俯瞰」するようになった。

難問を解決できるのは1流の人物のみである。3流の人物は色々な事を口先で語るが、語る内容は正答に至る本筋では(おそらく)ないのである。その結果、最悪の社会的選択をしてしまう結果となる。文字通り「最悪」とは言えないまでも、せいぜいが平凡な「凡手」を選ぶに違いない。3流の打ち手が偶然に「好手」、「妙手」を打つなどと言う可能性は低い。

では、1流の人物が為すべき仕事を為す機会は訪れるのだろうか? 

優れた君主が一人いれば、1流の人材を抜擢できる理屈だ。しかし、選挙の結果が任期(任期がないのは非民主主義的だ)の間はつづく民主主義社会において、肝心なときに3流の人物が重要な地位を占めていると、あとの進展は悲惨になろう。

世界には民主主義を採用しているにも拘わらず、まるで《盲腸》のように王制を残している国がある。それは、民主主義の根本的弱点を暗黙の裡に認識しているからだと・・・ン? これは前にも書いたことがあったナア。

いずれにしても、今回のウクライナ紛争、役者のレベルが低く、どこか「底が割れている」感覚を覚える。その狭間で死ななくともよい多くの人が犠牲になっている、というのが今の現実であろう。3流の政治家は世界に悲劇をもたらすのである。

惨なり、惨なり・・・


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