朝起きる前にこんな事を考えた:
法律は「守る」ものであり、「守らせる」ものである。
創造は、従来の理解を修正させるものであり、変更させるものである。
起きる直前には、人間、何だかえらく難しい事を考えるものかもしれない。
ずっと以前になるが、コンプライアンスについて投稿したことが何度かある(たとえばこれ)。そこでも書いているが、どんな言葉にも表の意味と裏の意味がある。しばしば徳を表す《勇気》や《大胆》も、裏側から見ると《侮蔑》や《鈍感》と一体になっていることが多い。完全な善というのは、プラトンと同じく思考の世界にのみ存在する観念で、この世において実際に達成するのは人間には不可能だというのが、小生の世界観である。
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明治の文明開化が落ち着いて、憲法制定、法律整備へと向かっていた時代、
民法いでて、忠孝滅ぶ
と訴えたのは、東大法学部で教授をしていた穂積八束である。
確かに戦後日本で価値転換が激しく進んだと同様、明治前半もあらゆる真偽善悪が前時代とは逆転した時代であった。しかし、実際には成人した明治天皇や側近たちの主導で、教育勅語や道徳教育の復活が実現し、文字通りに「忠孝」が滅んでしまう状況にはならなかった。これが日本社会にとってよかったのか、悪かったのか、戦前期民法を含め、戦前期・日本をどう評価すればよいのか、まだ国民的な理解は形成されていないと思う。
話しは別だが、いま思い出しているのは、2004年に起きた《Winny事件》である。最後には、(当時としては)時代の先を行く新たなソフトウェアを開発したエンジニアまでもが警察に逮捕され、強制的家宅捜索と厳しい取り調べを経て、起訴され、最終的に2011年に最高裁で無罪が確定するまで、長い時間を要した。
バブル崩壊からごく最近までに至る日本経済の長期停滞に関しては、バブルの後処理に失敗したとか、1997年のアジア危機が痛かったとか、小泉改革の生煮えさが原因であるとか、東日本大震災によって原発施設が全面停止し、以後、不安定なエネルギー供給が続いてきたためであるとか、多くの原因が指摘されている。
しかし、これほどまで日本経済の活力が奪われた出発点として、最先端ソフトウェアの不適切な使用の事後責任までをソフトウェア開発者に負わせようとした捜査・司法当局の厳しいコンプライアンス重視主義を挙げてもよい。小生は、そう観ております。
科学と技術で生じた問題は、科学と技術の進展によって解決するべきであり、法律で解決してはならない。「ならない」というより、とにかく法律関係に落とし込んでから、関係者を処罰、処罰でもって「解決」とするのは、余りにも単細胞で、かつ後ろ向き。とてもじゃないが、感心できない姿勢である。
《Winny事件》は、日本の研究者、開発者を(というより経営管理層を?)強く委縮させるものとなった。そして日本社会は、捜査当局のそうした抑圧的姿勢が《公益》に寄与するものとして、これを是とした。これが日本経済の停滞の根源的要因(の一つ)として働いた。そう観るわけであります。
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まさに
コンプラいでて、創造ほろぶ
所詮、法は促進させるものではなく、守らせるものである。法律で出来る事には限界がある。それは日銀の金利政策で出来る事には限界がある。それと同じである。
一度、ゼロ金利にまで下げてしまうと、金融政策で成長軌道に戻らせることは極めて困難になるのと同じように、司法で創造への意欲を委縮させてしまえば、再びフロンティア精神を活性化させるのは難しい。
法は安定を守らせるもので、創造は安定を破壊するものだ。
両者のバランスが最も重要だ。火を消せば灰が残るのみ。その灰の中から再び火を起こす義務は火を消した司法当局にはないのである。その責任を免れるところから、過剰なコンプライアンス重視主義が世を跋扈してやまない。
研究開発の火が消えれば、人は人が集まっている都市に集住し、互いに何かをしあって報酬を得る。地方には生産現場が残る。食えることは食える。共生空間、互助経済と言えば気持ちは和むが、「花見酒の経済」である。生産性向上とは縁なく、ただ面白いだけである。大都市への人口移動が進みながら、高度成長時代とは異なり、生産性向上、生活水準向上が伴わないのは、これが背景だと観ている。
「いやはや何とも・・・」としか言う言葉を知らない。
以上、朝起きる前に考えていたことを文字起こししてみたまで。
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