2025年9月22日月曜日

前の補足: 人間のありかたをどう見るかは、時代や国を問わず、同じであるようで

前の投稿は前の前の投稿の補足だった。本日の投稿は、そのまた補足になるから、事後的には前の前の前の投稿への補足にもなる・・・ややこしいが、ややこしい事が大好きだ。

日本文化はシンプルを愛し複雑を排するのだが、とすれば純日本風の美意識に小生はどこかで疑問を感じているのかもしれない。いや、また、これは別の機会に書くことにする。



前の投稿の最後でこんな下りを書いた:

間断なく人にささやき続けるのは、実践理性(≒良心?)とみるか、無意識下の煩悩であるとみるか、この人間観の違いは大きい。
前者はカント的、というか西洋的な道徳観だ。後者は、仏教的な人間観。

この両者の違いは大きいと書いているが、よくよく考えれば、実質的には同じだと言ってもよいのである。というのは

人間は、自然の傾向に従えば快を求め、不快を避け、満足を求めるものだ。それが幸福だと誤認しているのだが、真の幸福とは実践理性が己に命ずる道徳法則に従ってはじめて実現するものである。故に、真に幸福でありたいと願うなら実践理性の声に耳を傾けて従うべきであり、そもそも最初から快・不快を問わずそうするべきなのだ。こう考えるのが、西洋流。
これに反して、
人間の心は煩悩に塗れており、快に執着する貪欲(=とん)を常とし、不愉快に怒りをぶちまける瞋恚(=じん)、そして物事の正否善悪を間違えてばかりいる迷妄とそれに気がつかない無知(=)この三毒煩悩に汚れているのが現実の人間である。故に、真の幸福を願うなら、先ずはこれらの煩悩をすべて止滅し、悟りを求める心すなわち菩提心を発しなければならない。最高の智慧を獲得し涅槃に達すれば真の幸福が得られる。従って、菩提心を発する、あるいは浄土系の回向発願心こそが、人が生きる上で最も大事なことである。こう議論するのが仏教流。
自然に任せておくと、人は(自己)満足ばかりを追って、不愉快な対象は満足するまで叩き続けるものなのだ、と指摘されれば、まさに現代社会にも当てはまる認識である。あろうことか、自己からみて不愉快な対象は正義に反していると言い、自分が正しい側にいるとも主張しているから、人間社会は仏教誕生以来、なにも変わってはいないわけでもある。

このような人間理解だけは、洋の東西を問わず、時代を問わず、一貫して同じであるように思われる。もちろん、いま使った「人間」という言葉は、「理性/知性」とは区別された、丸ごとの意味での具体的な「人間存在」のことを指していっている。一言で言えば、

良薬は口に苦し
この一言につきるというものだろう。
善い政治家とは、そもそも、国民には不愉快なことを求めるものなのだ。
そんな示唆にもなるが、とてもじゃないが、そんな余裕は現代社会にはないようだネエ・・・アナ、おそろしや、なさけなや。


省みると、いわゆる《末法》という世が始まったのは、西暦1052年からであると日本では理解されている。藤原道長は既に世を去り、息子・頼通の時代だ。頼通は父・道長の宇治別荘を改修して阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂を遺した。その頃から鎌倉時代にかけて浄土系信仰が非常に高まったのは末法思想が理由である。もし「末法千年」と仮置きすれば、西暦2052年以降は「教え」が完全に消滅する《法滅》の世となる。対して「末法万年」とするのが多くの説であるようだ。この場合は、法滅までにまだ長い時間がある。いずれにしても、現代風にいえば「都市伝説」、「言い伝え」の類である。

現代日本だけではなく、世界では人類を救うのは《科学》であると確信されているが、科学が解決できるのは物質的な、というか「客観世界」を基礎づける物理学で(最終的には)アプローチ可能な問題に限定される  ―  数学ではない。物理学の対象は、その内部で思考することはない。物質は考えることをしないのだ。モノがそれ自体として意志や目的をもつことはあり得ない ― でなければ、宇宙は自ら考え、自らの意志と目的に沿って発展するという過激な(素っ頓狂な?)唯物論を認めなければならない。こんな空想は「科学的社会主義」以外に候補はない―いかなマルクス経済学でもここまでは議論していないはずだ。考えたり、理想を追求しようと意志をもつ人の「意識」、つまり理想や意志そのものは、身体器官の内部には存在しない。それとは違う非物質的存在である。考える「知性」は「知性自らの所在」を確認することはできないのだ。とすれば、「意識」の中で生じる問題は科学によって解くことはできない。こんな理屈になる。(最近の投稿でも述べているように)これが(現時点の)小生の生命観・世界観である。

クラークの名作にして名画でもある「2001年宇宙の旅」。作中の(実質的な)主人公は人工知能"HAL"であった。そのHALは最後に暴走した。しかし、いかに偉大な知能であっても、その知能自らが自己の論理の暴走を認識することは不可能である。真はあくまでも真。偽はあくまでも偽。知能がよって立つ数学的論理では真であり同時に偽である命題は存在しない ― というより、実際上そうあらねば困る。即ち《排中律》である。なので、科学だけではなく、知能がよってたつ論理も大前提のうえに造られている。そんなことも考えたりする今日この頃であります。

0 件のコメント: