2025年9月3日水曜日

補足一言: 「国益」と「私益」の区別についてだが

前稿でこんなことを書いた:

国益の計算としては、微細な違法性でつまらぬ家宅捜索を警察がしでかしたと感じるものの、グローバル企業・サントリーを代表する会長としてみると、不道徳な買い物をしていたと受け取られるのはやむを得ない。

この箇所、見る人がみれば、こんな見方自体に厳しいクレームがあるに違いない。いわく・・・

  • 地位を失うのは私益。違法薬物取締は国益。この二つを天秤にかけることは許されない。警察は国益に随って行動するべきだ。
  • サ社の元(!)会長が地位を辞したのは当然。そもそも高い地位にあって利益を会社から得るばかりで、社員、日本社会に何も還元してこなかった。今回の責任の取り方は当然。

他にもあるだろうが、まあ、まあ、こんな反応は当然予想される。

小生の立場は本ブログで何度も投稿しているが、また繰り返しておくと、

誰の私益とも関係しない、純粋な意味での《国益》という概念を小生は認めない。

共同利益という意味での公益はある。が、日本全体の国益は私益を合計したものである。故に、ある人の私益が増えることは、(略奪のようなゼロサムゲームでない限り)日本の国益が増えることを意味する。

逆に言えば、国益を増したと主張するには、私益の増減が差し引きプラスであると言えなければならない。誰の私益も増えないのに、国益だけが増えるという可能性は認めない。 

なので、小生の目には、警察にとっての益は警察にとっての個別利益、捜査される人の損はその人の個人的な損。この二つを合計したものが、日本全体の公益の増減である  ―  さらにサントリー社の個別的損失、経済同友会の個別的損失、内閣府経済財政諮問会議の個別的損失も計上するべきかもしれない。

ずっと以前からこう考えているし、今も変わらない。

なぜこんな風に考えるかって?

純粋な意味での国益を主張すると、その延長線上で

国益は私益に勝る

こう主張してやまなくなる。この思想から

日本国のために、人間一人の命を捧げるのは当たり前

という極右の国家主義が現われるのは、あと一歩である。仮構を実在と思い込む典型的な煩悩のなせる所で、極めて愚かな思想だ。

純粋な意味での国益の存在を認めないのは、そのためである。

しばしば、警察にとっての個別利益が、イコール公益であると、こう認識され、あろうことか社会全体で公益は私益に勝ると大合唱になることがある。

戦前期・日本の最大の軍律違反である「満州事変」も、(理屈としては)陸軍の(というより一部数名の軍人の?)私益であったのが、何ということか国益とされ、国益はあらゆる私益に勝ると強引に主張されたところから、日本の統治機構は崩壊し、その後の孤立・破滅へと至って行ったのである。

国の危機は「国益」を大義として僭称する一部勢力の「私益追及」によってもたらされるのだ、という歴史的な経験を日本社会は忘れるべきではないだろう。


純粋な意味での「国益」なるものを最初からキッパリと否定すれば、その心配はない。江戸時代以前の日本では、天皇をお上とする朝廷が弱いながらも「公」であり、幕府は形式上は「私」であった。しかるに明治維新を境目に、強い公が復活し、この国で猛威を振るった。敗戦を機にその感覚は一時消失したが、長期の停滞の果てに、また「公私の公」と「国益」が肩で風を切って世間を支配し始めるかもしれない。

いつの時も、「公」を僭称する勢力の目的が「私益」にあったことを忘れるべきではない。金銭欲、物欲、出世欲、歴史に名を残したいという欲、自己を正当化したいという欲、すべて自己愛と我執に由来する欲で、私益を欲しているのである。

純粋の「公」や純粋の「国益」なるものは、仮構であって実在はしない。「ある」と思いこむのは、「ある」と思い込んで執着するからであって、虚妄である。実在しているのは「私益」あるいは「共同私益」のみである。経済学から入ったせいか、この社会観は変わらない。

まとめると、私益に動機づけられるべきではない公的機関が自ら純粋の「公」や「国益」を意識するとすれば、それは虚妄であるというロジックだ。

何というパラドックス! 何という矛盾だろう!!


政府の公的機関に出来ることがあるとすれば、結局のところ(これも困難な課題だが)貧困を減らし、豊かさを向上させること位である。少なくとも経済面の不安は少なくなる。国益は確実に増すに違いない。しかしながら、仮にこの課題を解決できたとしても、人々の心の中に残る(はずの)「生きる不安」、「老後の不安」、「死ぬ不安」を解消することは、政府には無理である。そもそも公務員の仕事ではないでしょう。

人生は《苦》であります・・・そこから出発するしかありませヌ。生きるための「不安と悩み」は、《我執、我愛》から生まれる。即ち、煩悩がある限り不安はなくならない。人々の幸福を実現することこそ究極的な《公益》であるなどと語る人もいる。その人は夢をみている。語っていることは妄言である。こんな仕事は役所には無理である。無理なことを引き受ける体裁はつくらないほうが良い。予算要求の理由になるだけだ。

苦悩は人の心の煩悩に由来する。菩提心を発して煩悩を止滅し、涅槃に至るのは自利、つまりは私益に属する。一切衆生を度するのは公益そのものだ。しかし、公務員には無理である。(仏教においては)菩薩の仕事となる  ―  「度する」(=救済)が具体的に何を意味するかは、それなりの知識がいるが。キリスト教社会、イスラム教社会のロジックはよく知らない。


・・・以上、昨日稿の補足までと思っていたが、内容がどうにも拡散してしまった。本日はこの辺で。


【加筆修正:2025-09-06、    09-07

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