2025年9月19日金曜日

覚え書き: 中島義道『カントの「悪」論』を読んで

この数日は中島義道の『カントの「悪」論』を読んでいた。ドイツ発祥の観念論哲学は、気にはなれども、専攻も違うので、研究する暇もなく、言い訳代わりに「実証科学の精神に逆行して古ぼけた屁理屈を並べているだけサ」と。そんな目線でほおって来た。それにカントにしろ、ヘーゲルにしろ、長い。文章も(日本語訳で読むと)極めて難解かつ錯綜しており、丸ごと読んで理解するだけで相当の時間資源を投入しなければならない。一方で、最新のマクロ経済理論を理解するには、変分法やポントリャーギンが確立した最適制御理論が必要になるが、その基礎にある「最大値原理」を理解するには偏微分方程式論まで勉強しないといけない。どちらも「いきたしと思えども」そんな時間はない。小生にとってドイツ観念論哲学と最大値原理は(方向は南北正反対だが)同じような位置、同じような距離に立っていた的であったわけだ。

人間存在を理解する上で唯識論という世界に馴染んでしまったいま、カントは倫理や道徳、善と悪について、そもそもどう考えていたのかを展望してみたくなった。

というのは、唯物論的な科学主義を信じている間は、善と悪の判断基準はどうしても結果を重視しがちであり、イギリス流の功利主義に共感をもつものである。実際、アダム・スミスは一人一人が自己利益を追求して自由に行動する結果として、社会的には善い結果がもたらされる道筋を示した。これが《経済学》の始まりである。

しかし、自己利益の追求から社会的善が生まれるというのは、よく考えてみればやはり奇妙であるわけだ。この辺は、日本の哲学者・西田幾多郎『善の研究』でも力説しているが、小生自身の最近の《転向》については本ブログでも時系列順に投稿してきているところだ。

上にあげた『カントの「悪」論』は、特に『道徳形而上学原論』と「実践理性批判」を対象にしてカントの哲学を概説しているが、特に面白いのは(やはり)第4章である。Kindle本に(ページ丸ごと)ブックマークを付けている個所も第4章に集まっている。

例によって、引用しながら書き入れたコメントを並べて書評としたい。

まず

自然因果性を攪乱することなく、「みずから何ごとかを始める能力」としての超越論的自由を認めることができるか否かが問われているのである。
こんな下りに黄色く色をつけて保存している。「自然因果性」というのは、人間を自然科学的にみれば物理化学的プロセスそのものであるから、ある状態から次の状態へ遷移するのは因果必然的である、という意味合いだ。しかるに、人間には意志の自由がある。これは因果必然的な物質的人間存在に矛盾していないか、というのがカントが考察した問題である。

これに対して、こんなコメントを付けている:

意志の自由を議論するのであれば、あらゆる生命体に共通する「意志」と「目的」とをまず議論するべきだ。物理化学的プロセスである生命現象が他の現象とどう区分されるのかが重要である。
このあとカントは(というよりこの本の筆者が?)
・・・私が(椅子に腰掛け続けるのではなく)椅子から立ち上がることを、そのとき私は「自由に選んだ」ということになる。
とあるのだが、ここでも
因果束縛性と目的束縛性の両面から議論を整理するべきだ。椅子から立ち上がるとき、その人は立ち上がる動機に従って行為したのであって、ただランダムに何の意味もなく、立ち上がろうと意志したわけではないはずだ。
こうコメントしている。カント倫理学においては「自由」が主題になっているのは知っているが、「意志」の前には「目的」があり、「目的」の前には「欲求」がある。そして「欲」には善なる欲もあり、悪なる欲もある。自由を主題にすると、この辺に焦点が定まらなくなる。

次のブックマークに行こう。こんな下りだ。

もしわれわれが自然因果性によって文字通り未来永劫にわたるまで完全に決定されているのだとすれば、実践的自由は成立しないように思われる。
カントがいう《実践的自由》とは《実践理性》が「・・・するべきである」とその人に道徳的な命令を下す自由のことだと理解している。要するに、人は誰かに命令される「他律」にあるのではなく、自分の道徳的価値に従う「自律」にある、そんな意味合いで述べられている。

これに対して、

唯識論でいう阿頼耶識あらやしきが蔵する種子しゅうじ業縁ごうえんに束縛される凡夫に実践的自由はないと言える。親鸞が唯円に語ったように、一人の人も決して殺すまいと意識では決意していても、因と縁によって人は人を殺すことがある。ひとえに業縁ごうえんによって「煩悩具足の凡夫」は支配されている。浄土信仰が前提する人間像とカントが考える人間存在には大きな違いがある様だ。
こんなコメントを付けているのだが、統計分析が万能であると考えていた以前の小生なら、科学主義者でもあったからカントが考えるように実践的自由について考えていたものと想像する。

次はこんな文章だ。

もし人間が実践的意味で自由でないとすると、どういうことになるか考えてみよう。・・・すると人間はからくり機械の最高の親方によって組み立てられ、ゼンマイを巻かれたマリオネットかヴォカンソンの自動機械となるであろう。・・・自発性の意識はそれが自由とみなされるならば、ただの錯覚に過ぎないであろう。
非常に面白い思考実験ではないか。このカントの(物質的ないし精神的な)「人間機械論」について、小生はこんな風にコメントしている。
人間機械論に限定するのは一面的だ。国家が定めた目標を達成するための最適行動をとり続ける場合も、その人に実践的自由はない。

自由は、目的を設定できる主体にのみあり得る。もし目的を人が自ら設定するのであれば、その後にその人が採るべき行動は制限されてしまうが、その人は自らを自由であると思うはずだ。
こんな風にコメントしている。人は、一面では因果合理的で一つの自然現象であるが、同時に意志をもった目的合理的な存在でもある。目的合理的な存在が辿る軌道は、選択可能な無数の軌跡の中の唯一の最適解であるが故に、それ以外の軌道ではあり得ず、したがって因果合理的な必然的プロセスとしても説明ができるのである。

第4章も次第にクライマックスに向かっている。次にこんな箇所に色を付けている:

われわれ人間が自由であるとは、善へ向かう自由に悪に向かう自由がぴったり張り付いているということである。われわれは悪への自由があるからこそ、善への自由がある。われわれは、悪を自由に選びうるからこそ、善を自由に選びうるのだ。
なかなか深い。カントは、選ぼうと思えば悪を選べたにもかかわらず、それでも善を選ぶからこそ、その人の行為には道徳的価値があるのだと断言している。善行を行うことが、その人の名声を高め、人から尊敬され、その人の自己利益になるなら、放っておいてもその人は善行をなすであろう。しかし、そんな善行には自己利益の動機が混ざっているはずで、道徳的価値はないのだと、カントは一刀の下に切り捨てている。この辺は極めてラディカルというか、気持ちがいい。

小生はこんなコメントをつけている。
繰り返しコメントするが、人間は過去からの因果と自らが意識する目的に束縛されており、決して自由ではない。・・・

「自由ではない」・・・カントの論理に従えば、故に善を為すことは不可能である、という帰結になる。と同時に、悪を為しうるとも言えない。

実践的自由がないならば、その行為の、法的はともかく、実質的な責任がない、という理屈になる。

さすがにこれはおかしい・・・と感じる人は多いはずだ。ということは、目的束縛性という条件から外すか   ―   理性、即ち「考える我」にあらゆる目的や動機から解放された「自由」を認める・・・最近になって何度か投稿している唯識論的人間理解においては、「我」は仮構であり、色々に条件づけられた依他起性を本質とする。カント的思考とは相当な違いがある。

自己に対してある目的を課すことには実践的自由がある。こう考えなければ責任を問えない。一連の行為に先立つ目的、言い換えれば最初の動機において、理性が求める道徳法則に耳を傾けていたかが問われる。こういう解釈になるであろう。国家が(あるいは組織が)定めた目的を拒否する自由はあったはずだ。こういう議論にもなる。いま何度きいている言葉だろう?

カントの倫理学は時に残酷である。

最後にこの箇所である。

・・・こうしてカントは道徳法則の背後に神を「認識する」という構図を峻拒しながらも、ここで感性的(肉体を有する)理性的存在者である人間の「自然」がみずからのあり方にみあった道徳的善さを実現するように、自然の創造者(すなわち神)が、人間を(その精神もその肉体も)創造した、という物語を導入するのである。
多くの人は、この辺でカント(あるいは上の本の著者が理解するカント?)にはついていけなくなるのかナア、とも思われる。が、小生はこの箇所を読みつつ、
結局、ソクラテスの口を借りてプラトンが展開した《道徳》と《幸福》との統一にカントも戻ったか・・・
そう解釈した次第。

カントが一貫して述べているのは、人間が自らの幸福を求めるのは当たり前である。つまり、そこに道徳的な価値はない。誰でも従うはずの「幸福の原理」よりも優先して実践理性の命ずる道徳法則を心から尊重して誠実に守るという「誠実の原理」を貫く。それ以外に、善が善である根拠はない、と。これがカント倫理学の主軸である。

とすれば、人が善く生きるには自らの幸福を犠牲にしなければならないという意味になるが、決してそうではない、と。人が真の意味で幸福になるためにこそ道徳が法則としてあるのであって、実践理性は常に「・・・こうするべきである」と人間にささやく。その道徳法則に逆らうことも出来るのであるが、多分それは自己の利益、自己の幸福を目指してのことだろう。しかし、そのような行動から人は幸福に至ることはできないのだ、と。

概略、こういうことだが、まったく同じことをプラトンは『ゴルギアス』(だけではなく一貫して)ソクラテスに語らせている。

いずれにせよ、人間が《悪》を為すのは、善を命令する理性の声に耳を傾けず、自己の「幸福」というか「満足」を優先する時である。言い換えると、その人の内部に《善》はあるのだが、利益や満足を優先して善を欠如させてしまう状況。それが《悪》である、と。こうした人間理解がカント倫理学の底にはあるようだ。

他方、仏教的理解では、人は自らがどれほど善人であろうと意識しようとも、心の最深部に潜在する業が、不図した偶然の縁から現勢化して、自分も驚くような悪行を為してしまう。それをもたらすのは、煩悩と言えば煩悩であるが、貪欲(=貪)と怒り(=瞋)、無知ゆえの迷い(=痴)という三毒に苦しむのが、現実の人間存在であると理解する。

間断なく人にささやき続けるのは、実践理性(≒良心?)とみるか、無意識下の煩悩であるとみるか、この人間観の違いは大きい。
 

本日は先日の投稿の補足にあたる。

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