2025年10月4日土曜日

断想: 夢で見た不思議な四文字熟語

昨年の秋の今頃は寺で相伝を受けるために毎日歩いて通っていた。その最後の日は毎日三百遍の念仏を誓うかと問われ「誓う」と応えるという儀式で終わった。それから、色々と試行錯誤をしてきたが、結局、日常勤行式に従って「香偈」

願我身浄如香炉 (がんがしんじょうにょこうろう) 

願我心如智慧火 (がんがしんにょちえか)

念念焚焼戒定香 (ねんねんぼんじょうかいじょうこう)

供養十方三世仏 (くようじっぽうさんぜぶ)

から始めて、「送仏偈」
請仏随縁還本国 (しょうぶつずいえんげんぽんごく) 
普散香華心送仏 (ふさんこうけしんそうぶつ) 
願仏慈心遙護念 (がんぶつじしんようごねん) 
同生相勧尽須来 (どうしょうそうかんじんしゅらい)
で終わるパターンを、この半年以上は続けてきた。

ところが、最近寝坊をしたことをきっかけに、法然がすすめる「専修念仏」でやってみようとやり方を変えてみた所、これが至極心境にマッチして、いまは月曜は日常勤行式に沿って、それ以外の日は専修念仏で四百遍を称える習慣に変わった。今朝は五百遍の念仏をした   ―   「した」とは言えない程に僅かであるが、「一念十念に足りぬべし」と法然も書簡に書き残している。続けることに意味があるのかもしれないし、三万遍に段々と近付いていくのかもしれない。三万遍となると、15時間ほどはかかる計算だから、起きている時間の大半は念仏をしていることになる。この辺も含めてすべて主体的動機に任されている点が「進んでいる」と小生は感じている。

余計なことは全て阿弥陀仏からみれば「雑業」であると割り切り、念仏こそが浄土三部経に明記されているとおり「本願」であり、大事なことは阿弥陀、というより仏になる前の法蔵の本願を信じ、それに沿う事であると論じた法然は、ある意味で《信》は《宗教的儀式》に勝るとした宗教改革者・ルターと相似形の役割を日本仏教において果たした、と。そう理解してもよい。親鸞は法然が見出した他力本願念仏を精緻化して継承したわけだ。

藤原定家は『明月記』の中で、上司・九条兼実が念仏という新興宗教にのめりこんでいると、非難がましく述べているが、結局、当時の異端が江戸時代には最大の信徒数を抱え、その状態が現代にまで至っている。何か本質的なことが長い時間の中で現れたのだと思う。


専修念仏をしていると心が定まるのは、800年も前に生きた法然や親鸞、鎌倉武士の熊谷次郎直実や宇都宮頼綱、歌人・式子内親王が、なんだか近しく感じられるという事もあるのだが、法然の師・善導も法然よりは550年程も昔に生きた中国僧である。法然が夢の中で師・善導に会う場面は画に描かれている。

同じ道を歩く人が、同じ時代、目に見える場所にいれば、確かに心強くはあるかもしれないが、人というのは無常である。生きた人間同士の人間関係ほど儚いものはない。

師友・知友・心友は時間を超えて成り立ちうるものである。


今朝、夢の中で、ストーリーは忘れたが、
奉事能応
という四文字が紙に書かれていて、それが妙に明瞭に起きた後も記憶に残った。

こんな熟語(?)はこれまでに見たこともないし、考えたこともない。ChatGPTで調べてみても、こんな熟語はないという。

しかし、意味はある。読み下すとすれば
事を奉じて、応え能わん
あるいは
事を奉ずれば、能く応えん
仏教では事理という熟語をよく使うが、「事」は個々の現象や出来事、「理」は普遍的に働く根本法則だ。「奉じる」の「奉」は「奉行」の「奉」でいわば管理する・処理するという意味に近い。

であるから、「奉事能応」という文字は

(色々な)物事を処理して、(期待に)応えましょう

という意味になるだろうし、あるいは第二の読み方をすれば

(小生が)物事に向き合えば、(仏は)応えることが出来るであろう

マ、こんな風にも解釈できるかもしれず、何の前触れもなく、こんな四文字が夢の中に現れて目が覚めるというのは、不思議に感じた。

この点で、本日の投稿は、先日投稿の補足をなすかもしれない。

世界観や、生命観というのは、現代社会では主として科学分野から説明されるものと決まっているが、何度も書いているように、現代科学は《唯物論》という特定の思想を(当然のように)是としている。そう言っても(まず)間違いはない(と最近はみるようになった)。測定可能な対象を考察するというのは、どこかしらで観察可能なモノが実在するという前提に立っている、と。そう思われるのだ、な。

昔、恩師に「効用関数が特定の形をしているかは観察できないと思いますが・・・」と質問したことがある。これに対して「それは分析概念」だよ」と応えられたものである。その時は、ピンと来なかったが、直接的に観察可能でなくとも、観察可能な数値の変動を説明できる抽象概念は実在している(かのように)と理解する。まあ、そんな意味だろうと後になってから(ある程度)分かるようになった。

「効用指標」という形で目には見えないが、数値化はできる因子が、消費者の心の中に実在して、経済行動に影響を与え、これを決定している、と。こういう見方は、効用関数は実在しているという立場と同じである。

自然科学、社会科学を問わず、科学が説明しようする世界は、目には見えなくとも、測定可能で、数値によって表現できる範囲に限られている。つまり、経験されるこの世界以外に、いかなる世界(=色々な要素が存在する空間)も存在しないという大前提にたつのが科学的世界観である。

この世界観は明らかにおかしいよネというのは、最近何度も投稿している通りである。

世界をどう考えるか、人間存在をどう考えるか、生命をどう考えるか等々に関することは、自分自身の経験や思想を科学的思考にぶつけて、両者の衝突の結果として形成される(はずの)ものである。いくら論理を構築しても、つまりは主観である。

鵜のみにしない方がよいのは、何も流言飛語や自己宣伝ばかりではない。客観的真理だと信じられている科学者の言もまた、自分が納得した上で信じるべきものである。

数学と物理学の両面で「大学者」と評価されたワイルは、短編『人間と科学の基礎』の序論に中世の哲学者・クザーヌスの言を引用している:

私たちの知識の中で数学の外に真なものはない

こんな言葉を議論の発端にしている。科学における数学はモデルであって、モデルは真理とは合致しないものである。単に観察した事実は、事実であるかどうかさえ怪しいものである。

なるほど数学的議論そのものに「自我」や「偏見」が混じるはずがない。しかし、モデルには人間の思い込みや価値観が混じる。更に、西田幾多郎ではないが、主客未分の「純粋経験」もまた真理性を有すると言えるだろう。

【加筆修正:2025-10-09】

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