2025年8月1日金曜日

断想: 同じ楽曲がなぜだか前触れもなく蘇るのだが

少し前の投稿

近代ドイツ哲学では「理性」の働きには強い関心を示したが、仏教でいう「煩悩」を正面から深く議論してはいなかった
と、こんな風な事を述べていた。今日はそこを補足しておきたい。

実際には、カントが「根元的悪(radikales Böse)」を考えていて、ただそれは(シェリングは例外かもしれないが)、「善の欠如」に近い概念で、いわゆる「煩悩具足の凡夫」という人間観とは違うと思っているのだ。
 

なぜこんな話題から書き始めたかといえば、この何日かどういう訳か知らないが、ずっと昔によく好んで聴いていた"Die Alte Kameraden"が頭の中で、というか心の中で鳴るのである。と思うと、ベルリンフィルのWaldbühneでアンコールの定番になっている"Berliner Luft"(ベルリンの風)が何度も耳の奥でリピートされる。思い出そうとしているわけでもなく、何の契機があるわけでもなく、無意識の世界から蘇るように、何度も繰り返して演奏されるのだ、な。こんな経験は誰でもあるのではないかと想像するのだが、自らの意図とはまったく別に、なぜそんな考えが心の中に湧きおこって来たのだろうと、後になって不思議に思うことは他にもよくあることだ。

唯識論の八識説は本ブログにも投稿したが、そのカギとなるのは阿頼耶識あらやしきである。仏教思想の(一方の)基礎となっている《空の思想》(=中観派)では、すべては空であると実在性を否定するところから話が始まる。しかし、これでは空という概念すらも否定されるはずだ。中観派の後に登場した瑜伽行唯識ゆがぎょうゆいしき派では、阿頼耶識が死と転生を繰り返す輪廻的生存の根底に実在して   ―   「実在」というと専門の方に叱られそうだがこれはまた別の機会に  ― 、 過去から現在、未来へと継承される本体だと考える。弥勒、無著、世親を以ていわば古代以来のインド哲学思想は一つの終着点を形成するわけである。

この阿頼耶識は例えば三島由紀夫の『豊饒の海』の第3巻にあたる『暁の寺』でも物語の中心テーマになっているのだが、小生は勝手に

阿頼耶識は、永遠の(とは言えず有限の)過去に誕生した(個体としての)「生命」をずっと継承し続けてきた一本の生命の糸のような存在、というか断絶のない流れに似ている。
と、こんなイメージを(勝手に)もっている。生命体は有性・無性生殖を含めてすべて母体の細胞に遡れる。母親もまたその母に、そのまた母も・・・と生命誕生時にまで遡及して行くことができる。もちろん(父系があれば)父系を遡ってもよい。

生命体(=有情とも衆生ともいうが)の物質的身体が死ぬとき物質的身体を駆動していた阿頼耶識は別の個体と結合し転生する、そう考えるのが唯識論がいう輪廻転生の本質である。「輪廻的生存」とは永遠に死と生をこの世において繰り返す生命現象のあり方を指している。生けるものなら持っているはずの「生への執着」という煩悩に塗れている限り、阿頼耶識は転生を繰り返し、悪のはびこる濁世の中で煩悩苦を何度も経験する、というのが仏教的な宇宙観である。

阿頼耶識と結合することから物質的身体は生命をもって活動を始める。たとえ人工的生命体を(一時的に)創造するとしても、それはホムンクルスに過ぎない。つまり、物理化学的に進行する物質的プロセスだけでは、持続性ある《生命体》は生まれず、生命を生むのには十分な非物質的要素がいる。それが小生の理解する阿頼耶識であって、その意味では小生はかなり厳格な《二元論者》であることを自覚するようになった。

人類の特質は、考える器官、つまり《大脳》を備えている所だ。人の根底にある阿頼耶識は、自らの物質的身体を把握するが、視覚や聴覚などを可能にする感覚器官とともに、考える器官である大脳をも使う。器官としての眼や器官としての耳などなど眼・耳・鼻・舌、身の五感覚器官が提供する知覚情報を受け取り、表象を形成する《前五識と第六識である意識》と共に、得られた情報について考えたり、判断したり、推論するための器官である大脳を駆動させる第一の主体は阿頼耶識である  ―  なぜ大脳の適切な使い方を知っているのか、それは解決困難な謎だと思う。

しかしながら、《考える》という動作そのものは大脳が行うのであって、故に思考そのものは大脳という物質的器官の物理化学的な反応プロセスである。それは確かにそうなのだが、考えるには考える主体が必要である。この事を唯識論哲学では「みられる対象」と「みる主体」との分離と呼んでいる。「考える我」と「考えられる対象」とはこの段階で分かれる。眼で見ようとし、耳で聞こうとする主体は阿頼耶識である。同じように、考える器官を把握した阿頼耶識は大脳に考えさせようとする。考える対象について人間に考えさせているのは、その人の阿頼耶識である。しかし、考えるためには《我》という仮想的存在を定義しなければならない。これが唯識論で言う第七識としての末那識まなしきであると、勝手に理解している。

「我」が考えるから「我」があるのではない。人間の大脳を駆動させて考えるには「我」が仮想的に必要なのである。

デカルトとは逆にそう思うようになった。阿頼耶識は過去生から現在生、更に未来生へとつながる糸であり、いま生きている身体に宿る「魂」ではない。故に「我」ではありえない。しかし身体器官としての大脳を駆動させて考えるには、「この身に宿っている我」を仮想的に設定する必要がある(と今はイメージしているわけだ)。つまり、人の根底にある阿頼耶識は、「我」として自覚する末那識に考えさせるのであるが、実際に考える動作をするのは物質的器官である大脳である。

末那識(=我)は阿頼耶識が求めることを考えるのである。そして、阿頼耶識を常に見つめる末那識は、永遠の過去からずっと継承されてきた《業》の余習(≒潜在記憶)、即ち《種子しゅうじ》の中の、たまたまその時点で燃えている部分、つまり活性化され《現勢》となっている種子に応じる内容を「考える対象」として大脳に伝え、大脳はそれに応えて考察したり、意図したり、想像したり、あるいはまた思い出したり、回想したりする・・・その結果が"Die Alte Kameraden"であったり、"Berliner Luft"であったりする。

こういうことか・・・??

とすると、わが身の根底に実在する阿頼耶識は、一体、どんな因縁で、どんな種子が熱を帯びているのだろう?

いずれにせよ、煩悩の炎に小生の思惟は焦がされているものと推測される。

阿頼耶識も末那識もすべて無意識下において活動している。人が自覚している第六識である「意識」は、大脳内部の化学的状態をイメージや論理として解釈しているだけである。ちょうど半導体の物理的プロセスの結果を人間の目に可視化するPCのモニターと同じ役割を果たしている。


最近になって私たちは、AI(=人工知能)によって色々な問いかけに答えさせている。問うのは端末の前にいる我々であり、考えているのはネットの彼方にあるサーバー群であると使っている側はそう考えている。しかし、実は「考えている」のはサーバー群ではなく、またサーバーを構成している半導体でもない。物質的存在である半導体は「考える」ことはできない。もし半導体が考えられるなら、自動運転で動いている自動車も考えていることになる。半導体の中で進行する物理化学的な反応プロセスを解釈して、「考える」という動作に対応付けている人間の側の《設計》、即ち《知識》が、実は半導体に考えさせている本体である。人間と大脳の関係もまた同じである。

AI(人工知能)に対して考えることを要求しているのは、AIサーバーとは別に遠く離れた所にいる人間たちである。そして、考えている真の実在はサーバーという機械でも、それを構成する半導体でもなく、それらを設計した人間であって、更にいえば人間がそれらを創造できる基礎となっている《知の体系》である。《知》という実在があれば、別に人類という生物がおらずとも、同じ現象が自然界に生じ得るわけだ。過去から生命をつないできた糸として考えられる阿頼耶識はここに関係している。


とマア、以上、最近になって考えている事を覚え書きにしたまで。

【加筆修正:2025-08-02】

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