2025年11月22日土曜日

ホンの一言: メディアは黙っていた方がよいのでは・・・という話題

 少し以前の投稿でこんなことを書いている:

世界観、宇宙観が変わってきたことは何度かに分けて投稿してきたが、上のように書いてみると、社会観は相変わらず同じであるとつくづくと思う。社会の在り方は、与えられたものではなく、人が選択して変えていくものであり、その意味では本質的に不確定で、私たちの前に実在するものではないということだ。文字通りに《有為転変》にして《諸行無常》。社会は要するに《空》である。こればかりは、ずっとわかっていたような気がする。

世界観、宇宙観、生命観等々は最近になって考え方が一変したのだが、こと人間のつくる社会観については同じ観方で変わっていないということだ。

そんな風なので今朝のワイドショーは疑問だった。テーマは最近流行の《終活》で、「まったく老いも若きもシュウカツには一生懸命なんだネエ」と思いながら視ていたが、

これまで家庭が担ってきた機能をこれからは社会が果たしていくということですね

MCがこうまとめていたのは、まるで台本通りにしゃべる阿呆な鸚鵡を連想させるものでした。

そもそも「社会」という単語は、明治の文明開化時代、輸入文化が浸透する過程で日本に定着した言葉で、それまで日本で「社会」という言葉は使用されていなかった。「世間」、「浮世」という言葉が普通に使われていた。つまり、「社会」という言葉にはヨーロッパ起源の価値観、イデオロギーが付着していて、人を特定方向に向かわせる、そんな統一志向的ニュアンスが最初から混在していることには注意しなければならない。そして、あらゆるイデオロギーから、本来、人は自由であるはずなのだ。

考えても御覧なせえ。誰でも齢をとる。年寄りと現役と子供たちが生活に困らないために家族はあった。家族で不足する場合は親族が協力した。これが伝統社会的なライフスタイルである。いま「これではいかん。旧すぎる」とキャンセル・カルチャーのターゲットになっているわけだ。

それはそれでよい。

しかし、自分が年老いたあと自ら育てた子供を頼るのは反社会的であると主張するなら、一体どんな夫婦がすすんで子供を育てるだろう?

子供というのはカネはかかるし、面倒はかけられるし、才能がある子供より才能がない子供の方がずっと多いのである。"Child Cost"は経済学の世界でも研究テーマなのだ。 

現代は都市社会、消費文明の時代である。子供は育てず、人生を楽しみ、最後は社会のお世話になろうと行動するほうがずっと合理的ではないか。


老後の終活を社会が支えるなら、その支える側の「未来社会」の柱、つまり未来の現役世代、すなわち子供の誕生、育児、教育、成人もまた社会の責任になるのではないか。当たり前の理屈だ。

親の終活を社会が支える姿をみながら、自分は何もしない現役世代が、自分たちの子供に何かを期待するだろうか?そんなエートス(≒気分)をもつ両親に育てられる子供たちは、自分たちの子供をあえて産み育てようと願うだろうか?カネと手間がかかるだけではないか。経済的には損をするに決まっている。社会ではなく、個人のレベルに降りてくれば、人はこんな風に考えるはずである。


普通の人なら、こんな簡単な理屈、分からないはずはないと思いますがネエ・・・。何だか飛車と角を心配するヘッポコが玉が危なくなっているのに気が付かない、そんな情景が頭に浮かびます。

こんな見当違いが蔓延する主因は、社会をマクロで考えて、ミクロの行動を忘れているからである。Macroの議論をするなら"Micro Foundation"(=ミクロ的基礎付け)が不可欠であるのは、経済学には限らない。

経済政策もマクロ経済政策だけでは良くならない。マクロの議論は「全体としては…」と常に発想する。トップダウンだ。官僚的と言ってもよい。人は同じように行動すると考える。しかし、全体は一人一人の人間、個別の家族/世帯から成り立っているのだ。いくらマクロでこうするべきだと考えても、ミクロのレベルで同じ方向に向かわせる力が働かなければダメだ。

社会で老後を支えよう。家族には頼らないようにしようと考えるなら、老後を支える次世代の育成もまた社会の責任としよう。個々の家族には任せないようにしよう、と。こう思考しなければ、ロジックが通らない。

しかし、こんな提言がメディアに出来ますか?子供を産む・産まないは夫婦の自由であると、誰もが賛同するのではないか?社会のために子供を産んでくださいと連呼しても、それは違うと誰もが言うはずである。出産・育児を社会化する計画は無理なのだ。

本来は出来ないのに、できるかのように仮定したうえ、出来る部分だけを語って「だから出来る」と提案するのは極めて不誠実である。だから日本のメディアは信用されないのだ。

小生自身の「社会観」は、上に引用したとおりであるが、ほぼ同じことは英国のサッチャー元首相も言っている。前に何度か引用したことがあるが、最近の投稿のみ再掲しておこう:

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ...

彼らは社会に問題を押し付けている。社会って何?そんなものは存在しない!男性も女性も個人も存在するし、家族も存在する(しかし)・・・

「家族」が現に機能しているのに、「社会」(=コミューニティ)の方がより重要だから、社会が家族に代わるべきだというなら、まだ良質の提言だ。真の社会主義的正道である。

しかし、現在の日本は、「家族」が機能しなくなっているので、「社会」に頼っているだけだろう。頼れる先を探したら、それは社会しかないと言うなら、実に無責任である。

老後・終活を社会化するなら、出産・育児も社会化しなければ、必ず失敗する。しかし「社会」などという実在はない。実在しないはずの社会が、あるかのように議論をして、ただ財源を調達するために法律をつくって増税するなら、それは《苛斂誅求》という古語に当てはまる。


出産・育児の社会化など、日本のメディア企業は口が裂けても言えないはずだ。であれば、「終活を支える社会」などとソフトなことを言わず、ただ黙っているにこしたことはないのである。

西洋を手本として歩んできた日本社会は追い込まれている。貧すれば鈍す。だから愚論を口にするのだろう。この件については、前に投稿したことがある。これ以上は本稿で記すまでもない。

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