2024年5月27日月曜日

断想: 社会で子育てを行う。本当に出来ることなのか?

自然淘汰(=Natural Selection)という言葉を嫌う日本人は多いと思う。

そもそも"Natural Selection"の"Natural"だが、キリスト教(イスラム教、ユダヤ教でも同じだろうが)を基盤とする西洋文明が心身に浸み込んだ人にとっては、人間社会には図りがたい成り行きが"Natural"であるわけで、人為ではなく神の意図に委ねる、それが「自然」に任せるという意味である。中国・老荘哲学の「無為」にも親和性の高い思想だと思っている。

日本では、自然淘汰というと「自己責任」などと言って「政府が為すべき事を為さない無責任」を指摘する向きが強いのだが、そもそも政府に出来もしないことを政府に求める思想こそ、小生には無責任だと思われるのだ、な。


なお、自然淘汰は「自然選択」とも言うが、倫理や価値観に関する主張ではなく、自然が備えている進化メカニズムをそう客観的に理解しているという事で、この理解自体は広く科学界で承認されている(はずだ)。

理性を信頼する啓蒙思想がヨーロッパで一世を風靡したあと、晩年のゲーテや英国の詩人バイロン、ワーズワースなどが生きた19世紀は、人為よりも自然をというのがトレンドになり、汚れている人間の行為と神の営みたる自然の姿。そんな風にとらえる感覚が主流になった。しかし、社会主義思想が次第に浸透し、ロシア革命も発生した。再び人間理性を信頼する国家思想が復活し経済計画の策定に政府は努力した。二度の世界大戦があり、最後にはソ連による社会主義実験が見事な失敗に終わった。そんな経験を経て、今もまだ人間の知恵で社会を良い方向へと変革しよう、というか変革可能とする思想が、この日本社会で(世界でも?)説得力をもっていること自体が、小生には大変奇妙に思えるのだ、な。

もっとマシな、というか生産的で解答可能な問題に、人間精神を集中するべきだと思っている。何より、不毛な論点で激論を続けるのは損だろう。

アメリカでは、ニュービジネスが成功して巨額の創業者利得が享受された時点で、今度は正常な市場競争が確保されているかに注意が向き、寡占化が進んだ新市場にFTC(=連邦取引委員会)のメスが入るのが常である。巨大になり過ぎた成功企業の分割が議論の俎上にのぼる。日本人にはとても受け入れられない行政の介入だろう。

Amazon、FacebookやInstagramを有するMeta、Googleを有するAlphabetは、FTCによる調査対象の常連である。FTC調査の報道がある度に株価は上下する。

アメリカ人は、こんな状態には慣れっこで、むしろ競争制限行為こそ唾棄するべき企業悪であるというのが常識なようだが、ここ日本では強権的な独占禁止行政には国民感情がついていかない所がある。

競争をさせて、劣った者には退場してもらうという理念は、日本的な和の精神とは調和しない側面があるのだ。

それでも「世間」という広い場においては、失敗することがある。全て失うこともある。「一から出直しや」という台詞に哀れさを覚えるよりは、「人間、七転び八起きや」と笑い飛ばすのが、古来から継承してきた日本人の心意気だろう。これ即ち、自然淘汰の発露であり、成功も失敗も運に任せるということである。『人事を尽くして天命を待つ』という気構えは、兵役の義務を負っていた戦前世代なら、感覚として分かっていた当たり前のことであった ― 実際、小生の亡くなった父も何かといえばこう言っていたもので、だからといって、決して「投げやり」というのではないのだ、な。

このように世間は生き馬の目を抜く競争社会であっても、家族はそうではない。成功や失敗で失われることのない血の絆がある。それが家族だと。親族だと。故に、日本社会においては「家族」と「血縁」が最後の拠り所になってきた。

実は、この感覚は西洋でも根底ではそうであるわけで、だからこそ英国・サッチャー改革も論理として可能であったわけだ。少し前の投稿でも引用したが、

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ... (出所はここ

確かに「社会」という存在は極論すれば一つの「虚構」。実在するのは「個人」と「家族」である。いわゆる保守派が、家族を社会基盤として強調するのは、確かな論拠がある。小生は、かなり偏屈な保守派だから、この社会観には賛成しているのだ。

即ち、家族が機能していてこその「市場経済」、「自由主義」、「グローバリズム」である。

経済は活性化したい。ところが「家族」、「血縁」が、健全な世代交代を維持する上で、機能不全を呈している。だから「社会」に頼る、というか頼りたい。社会が「拡大家族」になって家族の代替機能を果たそうとしている。果たさせるしかない。

現在時点の日本社会の実態は、要するにこういうことだろう。なるほど日本人の感性には合致した方向だ。

しかし、国や社会は崩壊する家族の代替物になりえるのだろうか?

そもそも「社会」とは、一つの抽象概念であって虚構である、というのが小生の「社会観」である。「国会」で法律を作れば、子育てを担う社会、つまり「拡大家族」なる存在がヒョコンと生まれるのであろうか?メディアが放送すれば、子育てに協力する社会が目玉焼きのように出来上がるのだろうか?法律を作って問題が解決できるなら、なぜ「失われた30年」という問題を解決できずに来たのか?

世代交代は家族や親族で行われるもので、苦楽、子育て、助け合い、すべて血縁どうしで相談しながら、行うものであった。

そんな暮らしぶりが基礎であり、それを支える気風(=エートス)も共有されていた。

ところが、マア最近では、こんな保守的慣行に対して「本来なら政府が為すべき活動を、血縁や家族に丸投げしている」と、そんな批判が寄せられる。

が、それは特定の社会観に立ってこそ初めて口にできる見解なのである。そして、こんな意見が立派に(?)通る時代は、日本という国が成立してから「現代」が初めてである。いまは

子は社会が育てる

という理念が広がりつつある。その理由は、煎じ詰めれば

家族が子育てを担える社会環境ではなくなった

いずれにせよ、気風(=エートス)も倫理も、結局は、生産のあり方、暮らしのあり方によって、決まるものである。日本社会の根底にあった意識や家族観、美意識、絆のあり方等々日本社会を構成していた精神的な要素すべてが、いま変化しつつある。こう認識するべきなのだろう。

だとすれば、アメリカ社会は別の路線を歩むとして、日本社会が《拡大家族》として機能する。というか、そんな機能を担いうるような制度、システムを新たに構築していく。

これが現代日本が直面している課題というものだろう。


とはいえ、そもそも家族という集団は、効率性基準には馴染まないものである。知識、体力に優れた子供は家族の中でも評価、優遇され、劣った者は家族の中で冷遇されるなら、家族の絆は直ちに崩壊するであろう。「問題児」には暖かく寄り添って保護し、優秀だからと言って報酬や待遇改善を求めたりはしない、そんなモラルが必要になってくるはずだ。

何より、家族の中では全ての成員は《平等》でなければならず、多く稼ぐ人は弱い立場の人のために分け与え、その分け与える行為に自ら喜びを感じることが出来なければならないだろう。法を犯して悪行を行った者を排除するなど、警察を代行するのと同じだ。笑止極まりない。社会が拡大家族として機能するとすれば、善悪の裁きを一体どうするのだろう……

もしこうした方向へ、日本社会が収束していくならば、小生には《共産主義社会・日本》にしか見えないのだが、しかし日本人にとっては実に暮らしやすい社会になるだろうと考える。「縮退」ではなく「収束」の名に値するような状態になるなら、そうなってほしいとすら思う。

しかし、現時点の世界環境の中で、競争原理ではなく、拡大家族としての日本社会を目指すのが、本当に最良の選択なのだろうか?・・・と。本当にそんなことが出来るのか?

深い疑問を感じます。


古代ギリシアのアテネでは、子育てに窮した親は「余った子供たち」を特定の場所に立たせて、「奴隷」(と言っても近世の奴隷とは質が異なり、専門の仕事を保障される代わりに移動の自由を失う階層というほどの意味合いであったが)、他人の子を労働力として扶養できるほどの富裕層に引き取ってもらう慣習があったそうだ。

行為としては(エクスプリシットな金銭授受がないとしても)人身取引に該当するので、現代民主主義社会では違法であるが、システムとしては機能していたに違いない。が、これは明らかに、民主主義の源であったアテネも一つの都市として「拡大家族」ではなかったという証拠である。他人の子を譲渡され私有できる都市国家が全体として家族であるわけがない。


今後、イノベーションと経済成長を追い求め、スタートアップ企業を支援し、豊かな社会を目指しながら、日本としては拡大家族となり分配を平等化して子育てを担っていく、そんな日本社会を本当に構築できるのだろうか?

日本の庶民は、今でも家族が最後の拠り所だと思ってますゼ。ここを崩れるがまま放っておいて、社会が面倒をみるから、と。

何だか違うネエ・・・小生は深い疑問を感じます。

何だか20世紀に破綻した「ソ連」を別の意匠とシナリオで再演するようである。


それより経済の「日本病」を直すことが先でござんしょう・・・診断と治療方針なら経済専門家がほぼほぼ一致した見方をとっているはずだ。誰も嫌われたくないのでメディアの場で率直に語らないだけである。ズバリ極論しよう。資本、経済活動とも《聖域を設けず》自由化を徹底し、《既得権益》を解消し(これだけでもプラスである)、「マーケット」に委ねるのが(日本社会だけではなく世界にとっても)特効薬である。市場支配力の不当な行使に対して公取が摘発を強化するのは勿論だ。このブログでも何度も書いてきた ― 自民党政権には、というか自民党の支持基盤をソックリ(?)頂こうとしている他政党も同じだが、チョット無理かもしれませんが。

ここで話は最初の自然淘汰に戻る。

品質管理のQCでは「重点志向の原理」があるが、問題の8割を解決するには2割の要素に着目すれば十分である。8割を解決できれば、明るい将来をイメージできる。政府はそこまでやればもう十分だ。政府がすべての問題に解を出そうとはしないことだ。

【加筆修正:2024-05-28、05-29、05-30】

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